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にがうりの人 #30 (カタルシスの夜)

 確かにその通りだった。私の過去などに価値など無い。だが世の中には様々な価値観があり、つまらないものにも価格がつけられる。私の他に同業者が存在するかは分からない。しかしこうして商売として成り立っているのはそれが需要のある証拠である。
「買う方も買う方だけど売る方も売る方だわ」
そう嘆息し私に侮蔑の眼差しを送ってくる。
「私は他人の過去なんて興味ない。そんなものただの思い出でしょ?それをさも悲劇のように語ってさ。気持ち悪いったらありゃしない」
「だから俺はあなたみたいな人間とは取引しない」
「あんたがそうやって一つずつ過去を売ってもあんたという器から過去が無くなる事なんてあり得ない。ずっとつきまとうもんでしょ。それを背負って生きていく事しかできないのよ」
「それは説教のつもりか?」私はつい反論してしまう。
 説教などいくらでもされてきた。私の客は自分本位で相手を見下す傾向がある。彼らは常に上からの物言いで、つまり説教をしたがる。この商売のこともそしてこれからの生き方すらレクチャーしてくる。だがそんな時も私は至って冷静に努め、難なくあしらってきた。だが女の雰囲気とその語り口はまるで全てを見透かされているようで調子が狂う。
「これ見てみなよ」
 女は突然、週刊誌をテーブルの上に投げた。
前田官房長官、大手ゼネコンと癒着。世間を震撼させる邪悪なヒーローの正体。グラビアアイドル相川智子、有名ミュージシャンと熱愛。話題の社長、神崎さんの素顔。神奈川通り魔事件の被害者が語る犯人像。表紙にはこれでもかと有象無象の見出しが並んでいる。
「何が言いたい」
「世の中、他人の事知りたい人間ばっかり。自分の事なんて見てないんじゃないの。それに比べてあんたは知る事を拒んでいる。私にしたらあんたの過去なんかより、そんなあんた自身によっぽど興味があるわ」
 女は再び莞爾と笑った。その底なしの明るさが私には逆に不気味に映り、立ち去りたい気持ちに拍車をかける。しかしそれと共に妙な怒りも感じていた。平然と私の心に入り込むその言動から自らを防御しなければならないと思ったのかもしれない。
「もういいだろ。俺はあなたと話をする気はない」私は語気を荒げ、立ち上がった。
「それが、怒りってやつね。思い出した?」
 冷やかしのようにも取れるその言葉を受け私は女を睨み、そして出口へと歩を進めた。女は「またね」と歌うように私の背中に執拗に言葉を投げてくる。私は苛立つ気持ちを殺して帰路についた。

 どこの馬の骨だか分からない女に私の何が分かるというのか。いつのまにかタクシーの中でぶつぶつと独り言を言っている自分に気づき、私ははっとした。意に介さないと思えば思う程、感情が揺さぶられている。
 今の私にとって余計な感情は邪魔以外の何者でもない。何があろうとも目的を遂行するだけだ。
 その先に待つものが悲劇であろうとも。

続く

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