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「迷い」は尽きない件 東日本大震災から8年

■「大地」の詩

▼〈今、私たちが弔(とむら)うのは、人間だけになった。〉という一文を読んで、「なんのこと?」と思う人は、もしかしたら、多いのかもしれない。

歴史社会学を専門とする山内明美氏が、「世界」2018年4月号に寄せた、「精神の離散と祈り」というエッセイである。東日本大震災をめぐって、去年読んだもののなかで強く印象に残った文章だ。適宜改行。

▼山内氏は〈あの甚大災害からの立ちあがりの過程で、つくづく感じていることは、人間だけで、この世界をつくることはできないということだ。土、海、空気、樹木、鉱物……すべてのうごめき、その一切のバランスを欠けば、世界は壊れる。〉という感覚を持っている。

そして〈あの震災後、私が知る限りでは、たったひとり大地の痛みについて語った人がいた〉として、アイヌの詩人・宇梶静江氏の詩を紹介する。


大地よ

重たかったか

痛かったか

あなたについてもっと深く気づいて

敬って

その重さや痛みを知る術を持つべきであった

多くの民が

あなたの重さや痛みとともに

波に消えて

そして大地にかえっていった

その痛みに

今私たち

残された多くの民がしっかりと気づき

畏敬の念をもって手をあわす


■「生命観」が問われる

▼ちょっと人間の歴史をふりかえってみると、この人生を生きていくなかで得る「知識」の土台を、自分が「知覚できるもの」に限るなら、神も仏も必要なくなる。

神とか仏とか、そんなものは合理的でもないし、科学的でもない、と「考える」人は、まさに「自分」だけを基準に生きていく。そういう人たちの生きる社会では、たとえは「お天道様」という言葉もすっかり死語となる。

宇梶氏の詩は、そんな生命観、人生観、社会観とは遠く離れたところから発せられている。もしかしたらこのメモを読んでいる人のなかにも、「まったく理解できない」という人がいるかもしれない。

▼山内氏はこのエッセイの後半で、政府の「意見」と被災した人々の「生活」との落差を、「精神の離散」という小見出しから論じ始める。

〈避難解除後、原発事故前15960人だった富岡町の(昨年12月現在の)町内在住数は376人で、帰還率は2パーセントほどである。

浪江町21434人だった人口は、(昨年11月現在の)町内在住数で440人となっており、帰還者のほとんどが高齢者である。

政府による帰還政策が布(し)かれたことで、それまで原発強制避難者だった町外在住の町民の位置づけは、実質、自主避難者ということになった。

▼この、「自主避難」という言葉がキーワードだ。

■「本当は嫌だけど」

そして、とみおか子ども未来ネットワーク理事長の市村高志氏の運動を紹介している。

〈日本学術会議では研究会のミーティングを重ね、福島への「戻る」「戻らない」の二つの選択肢に加え、「第三の道」の提言をおこなった。それは、将来にわたって「戻る」「戻らない」それぞれの選択ができるまで、避難者を政府が支えていくという行政の仕組みづくりについてである。

この提言は、原発事故時、小・中学生3人の娘と息子を抱えていた市村さんにとって、原発が「安全」と言い切れない富岡町に「戻る」という選択は見出しにくいもので、しかし、将来は帰りたいという選択肢を残しておくためのものだ。(中略)しかし、政府は「戻るか、戻らないかを早く決めてほしい」「いつまでも待っていられない」という意見だ。

▼市村氏は「本当は嫌だけど、俺は避難者であり続ける」という道を選んでいる。本当は嫌だけど。これほど、今、無視されやすい論理、思考はない。

この論理は、自分が「知覚」するものだけを「知識」の土台にしているような人々にとっては、「知覚できない」から、「知識」「情報」としてインプットできない。

ということは、処理できない「エラー」になる。「戻るか、戻らないかを早く決めてほしい」と苛立っている人間は、こうした論理や思考を「エラー」として認識するだろう。

■容易に想像できる「バッシング」

〈容易に思い浮かぶのは、そうした避難者に対する世間からのバッシングである。帰還政策が布かれたのに「いつまで避難者をやっているんだ」という声だ。

だが、富岡町、浪江町への帰還率が示しているように、住民票を故郷に置いたまま、帰りたくても「迷い」が尽きない避難者は圧倒的に多いということだ。

依然として原発事故のリスクは抱えているのに、事故の事実が霧散し、何事もなかったかのようにやり過ごすわけにはいかないだろう。

▼ここで山内氏が書いていることは、とても自然なことで、当たり前のことだ。自主避難の苦しさをちょっと想像すれば、誰でも思い至ることだ。少なくとも筆者はそう思う。

しかし、こういう「迷い」を、なぜか「不自然」と感じ、自分の人生とは関係ないと思っているはずなのに、なぜか「さっさとハッキリしろ」「苦しいのはお前だけではない」と燃えるようにイラつき、SNSなどで、匿名で、何度も暴力を振るったり、自慰(じい)行為にふけったりして、「スッキリ」と「イライラ」の無限ループを嬉々として続け、自分の心を削ぎ落し続ける人々が少なからずいる。

気の毒なことだと思う。

▼去年は「明治維新から150年」だった。

山内氏は、エッセイをこう締めくくっている。

また〈福島の不条理〉からはじまるのか。150年前、会津の人々の近代が移民生活ではじまったように。

きょうは2019年3月11日。東日本大震災から8年が経った。

(2019年3月11日)

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