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「平成31年」雑感08 オウム報道から欠落した「宗教的動機」

▼刑事司法は、世に言う「真実」を求めるものではない。あくまでも「刑事責任」をはっきりさせるためのものである。

オウム裁判において、刑事司法は己の領分で最善を尽くしたと思う。

法廷は宗教的動機の解明を避けたが、それは日本の刑事司法が不完全だということではない。それは、そもそも、そういうものなのだ。

▼ここのところの機微をわかりやすい言葉で説明している文献を、二つメモしておく。一つは、「中央公論」2018年9月号に載った、池上彰氏と佐藤優氏の対談。適宜改行。

池上 彼らがなぜあんな事件を起こしたのか、結局のところほとんど何もわからないままです。

 佐藤 実際に逮捕され裁判も経験した人間なので、皮膚感覚として分かるのですが、刑事事件の取り調べや裁判が対象にするのは、あくまでも刑事責任の部分なのです。

例えば、今の日本では、三人を殺したら、間違いなく死刑になります。分かりやすく言うと、そのあたりが明白になっていれば、本当に必要最低限の立証しかしないんですよ。これは誤解されがちなのだけれど、検察も裁判所も、「刑事責任を明確にするためのお役所」であって、真相究明の責務を負っているわけではないのです。

 池上 地下鉄サリン事件は、被害者の数が膨大で、全員の調書を取って証拠採用するとなると裁判が長引くからと、調書の対象者を絞り込みました。これだけの被害が出ていれば、もう十分起訴できるということで。

 佐藤 それだから、真相はよく分からない。従ってそこから引き出せる教訓にも限界がある。教団の責任追及とは別に、国土交通省に設置されていた航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)のような組織を作り、国家プロジェクトとして真相究明に当たるべきだった。それをやらずに、教祖らを地上から消して「幕引き」というのは、何とも納得できないのです。

▼筆者も同感である。特別委員会をつくるべきだった。

二つめは、池上、佐藤の両氏が言っていることを、裁判の現場から見た人の証言。フォトジャーナリストの藤田庄市氏のルポだ。2015年2月19日付「仏教タイムス」の〈オウム事件 高橋克也法廷から〉。

この二つの文献を読み比べると、オウム裁判の輪郭(りんかく)が、朧気(おぼろげ)ながら浮かんでくると思う。適宜改行。

〈公判初日、検察側は冒頭陳述で裁判員に向け呼びかけるようにこう述べた。

「なぜ被告が犯行に及んだのかという背景事情や動機に関心が向くのは当然だが、立証には限界がある。それらを立証しなければ犯罪が成立しないわけでもない。客観的証拠からどのような事実が認められるか明らかにしていくことが大切だ」

背景事情や動機の解明に気を奪われず、客観的証拠によって犯罪が成立することを見極めるべきである。そう強調した。これが刑事裁判の常道であり、限界なのだろう。オウム裁判群を取材し続けて強く感じたことを、あらためて検察冒頭陳述によって突きつけられた思いだった。

そうした検察あるいは司法全体の姿勢から導き出されたのは、事件を世俗的解釈の枠内に矮小化する判決だった。

だが法廷で語られた犯人たちの供述や証言は、まぎれもなく宗教的背景や動機から発せられた言辞であった。〉

▼この検察の冒頭陳述によって、「なぜ」や「動機」を「立証しなければ犯罪が成立しないわけでもない」というのが、刑事司法の内在的な論理であることがわかる。

さらに、「事件を世俗的解釈の枠内に矮小化する判決」という指摘が重要だ。藤田氏はこの点を何度も繰り返し強調している。しかし、ほとんどマスメディアには載らない。

藤田氏は2012年6月14日付「仏教タイムス」で、NHKスペシャルの解析を通して、テレビの限界、というよりも日本社会の限界をえぐっている。

〈中川智正判決から菊地直子逮捕に至る各種報道に接して感じるのは、オウム真理教事件が根本において宗教動機によって起こされた事件であるにもかかわらず、マスメディアが依然として司法による世俗的理解の枠組みにほぼ自己同化させ、宗教と事件の有機的結合の独自解明を怠っていることである。〉

▼ここでも藤田氏は、とても重要な指摘をしている。「マスメディアが依然として司法による世俗的理解の枠組みにほぼ自己同化させ、宗教と事件の有機的結合の独自解明を怠っている」という部分がそれだ。

刑事司法が「世俗的理解の枠組み」に終始することは、先に確認した。そのこと自体を責めるのは筋違いであることも、確認した。

しかし、「マスメディア」の目が、司法の目に「自己同化」しなければならない理由などない。司法判断との自己同化は、マスメディアの思考停止であり、怠慢である。

▼と同時に、「社会」の目が、司法の目に「自己同化」しなければならない理由もない。しかし現実には、この社会そのものが、「司法の価値判断に自己同化した社会」になっているのではないか。

そうだとすれば、「宗教と事件の有機的結合」に、ほとんど光が当たらない現状も、説明がつく。社会が弱くなるのも、納得である。

オウム真理教が「平成」を象徴する事件である以上、この「司法的な価値観に自己同化してしまう」問題は、「平成」の世から「令和」の世に持ち越される、とても根が深い問題だ。

▼藤田氏は、NHKスペシャル「未解決事件ファイル」は〈事件から17年目にしておそらく初めて、麻原彰晃と信者の内在的論理を明らかにしようとする姿勢を示した番組だった〉が、内容の具体的な分析を通して、結果的には〈核心である麻原とヴァジラヤーナ部隊信者の信仰・修行の内実と、それによる救済殺人への「情熱」を白日の下に曝(さら)すことはできなかった。麻原や教団の本当の恐ろしさを描き切れなかった〉と評価する。

つまり、藤田氏の目から見れば、NHKだけでなく、すべてのマスメディアは「麻原や教団の本当の恐ろしさを描き切れなかった」ということになる。

▼オウム真理教の「本当の恐ろしさ」とは何なのか。それは、「救済殺人への「情熱」」であり、情熱を支える「殺人が救済になる」という論理にある。この点を論じた藤田氏の論考を、次号で紹介したい。(つづく)

(2019年4月19日)

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