見出し画像

書くことについて書かなくなったということについて、書く。 #毎日投稿100日目

100日間。

一年の三分の一。
夏休み三回分。
一日100円貯金したら、百万円。

こうして書いてみると、それなりに長くみえる。

それは僕の中で、ある程度の達成であり、一つの区切りだった。


手帳で100日前まで遡ってみる。

2023年、7月。

僕は応募用の小説を、昼夜問わず書きまくっていた。

その記憶は、いまや遠い過去のものになっている。

もう長編小説なんて書けないのではないか、という気がしていた。


しかしこの頃のメモは、もっぱら『書くことについて』書いてるものが多かった。

書く内容についてではなく、書くということそのものについて。

そして、それが人の目に触れるということについて。

このころの乙川アヤトは、書くことへの不安で頭がいっぱいだったのだ。

僕にとって、書くことは実態のないあやふやな生き物の影みたいなもので、理屈をこね回すことで、なんとかその尻尾を捕まえようとしていたのだった。


メモを大量に書いた。

考えるより先に手を動かしていた。

インプットするより先にメモをしていた。

著者の言葉を読んでいるというより、一旦僕の中で噛み砕いて出力された僕自身の言葉を読んでいた。

それはもう、読書というより写経に近かった。


メモ帳が手元にないと不安に駆られた。

ペンを握っているときだけ、手の震えがおさまった。

トイレに入っているときに、思いついたことを忘れるのが恐ろしくて、壁にアイデアを書きなぐった。僕の部屋は賃貸だった。インクを洗い流すのが大変だった。

そのころに比べれば、いまの僕は落ち着いている。

明日は書けるだろうか、という緊張で眠れなくなることもなくなった。

書くことがなくなりはしないだろうか、というプレッシャーでアルコールの量が増えることももうない。

誰にも読まれないかもという恐怖から、太麺焼きそばとたまごかけごはんと、生姜焼きとオムレツ以外の食べ物が喉を通らなくなることも。


それは実際、なんとかなってきたからだった。

この100日間という、短くないあいだ。

それだけやって、やっと『書けなくはならない』という自覚が芽吹きはじめたような気がする。

理屈で背中を押して、書かなくてもよくなった気がする。

『書く』から『創る』に踏み出しているような気がする。

そんな今日だった。

この記事が参加している募集

#noteのつづけ方

38,488件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?