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雑考・メモ・日記

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#雑考

哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

哲学・日記・メモ「憑依≠調和≠制作」

憑依≠調和≠制作
私はアートは好きだけれども、創るという行為は「好き」とは必ずしも言えない。「創る」とは、そんな事したくなくても「創らずにはいられない」からである。
アートが好きと言う人と、何か創らずにはいられない人、とは似ているようで全然違うのだろう。アートが好きな人は往々「自分にない何か」を求めて、それをアートに仮託する。その結果アートやアーティストをミューズとしてしまう。そこには偶像がどうし

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雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ

19歳だったか20歳だったかの頃。

今は無き池袋のアート専門書店ARTVIVANTにて、一目ぼれして購入したのが、レオナルド・クレモニーニの画集でした。当時2万5000円くらいしましたが、思い切って買ったのです。

クレモニーニは今ではほとんど忘れられていて、アートシーンでで語られることはないんじゃないかと思うのだけれども、私はもっと語られてもいい

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雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

「怪人ダダ」が好き。
弱っちいのが良い。
弱っちいのに頑張ってる。
上司に反抗できず、腕力では人間にも劣る。
でも頑張って「人間の標本6体を集める」という上司からの命令を遂行しようと、頑張るのである。無理かもしれない・・・そういう困難がわかっていてもやらねばならない、その悲哀を「怪人ダダ」の転倒シーンに見てしまったのは、果たして私だけだろうか。
美術史での「ダダイムズ」も似たようなものだ。一見先鋭

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哲学・日記・メモ「老人とこども」

哲学・日記・メモ「老人とこども」

「老人」と「こども」

「老人」は高齢者ではない。
「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。
また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。
そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。
つまり「老人」は人であり人間てあり

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哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ

しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。

「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるもの

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雑考・日記・メモ「カラオケの事」

雑考・日記・メモ「カラオケの事」

カラオケの事

カラオケとは何か?
近史としては「公的な選曲の自由の象徴としてのジュークボックス」があり(何故ジュークボックスが公的なのかと言えば、レコードと異なる「喫茶とと言う公的場」を想定しているから)、前史として、これに歌う能動性が加味された「歌声喫茶」につながり、さらに「選曲と歌う能動性」がMIXされた「カラオケ」に進化する。
ここまでが90年代。
以降はボッチカラオケや歌唱上達としてのカ

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哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

「ハレとケ 年賀状の事」

年賀状を書かなくなって久しい。しかし年始の挨拶を全くしないわけではなくて、メールで送信してはいる。これでいいのか?と思う事はあっても、それを20年も続けてきていると、それでいいのかもしれないと、開き直りでは決してない省察の結果として、今では受け入れている私がいる。
と言うのも次のように考えるからである。

メールでも心づかいが伝わっていれば良いのではないだろうか?

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雑考・日記・メモ「トレイルランニングの事」

雑考・日記・メモ「トレイルランニングの事」

トレイルランニングの事

トレイルランニングの事登山やハイキングは自然との共生と言う調和の実践である、と考えています。そしてそれはアンビキュアスな共生であると。

対してトレイルランニングはどんなに弁明しようと共生や調和などではなくて、自然の破壊でしかない。しかしそれは、それでも自然との融和を志向してもいる。だからそれは、自然と親しみつつ自然に反し自然を破壊するという、アンビバレンツな在り方である

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哲学・日記・メモ「自分の世界を持つとは一体どう言う事か?」

哲学・日記・メモ「自分の世界を持つとは一体どう言う事か?」

「自分の世界を持つとは一体どう言う事か?」

「宮澤賢治の思想」が好きだからと言って「宮沢賢治の世界」が好きだとは限らないし、逆もまた同じである。

「宮澤賢治の世界」が好きだからと言って、賢治のように、しかし「賢治とは違う自分の世界を持つ事」に注力する者は少ないし、逆もまた同じである。

「宮澤賢治の思想」は本質を抽象する事が出来るから、その終極「宮沢賢治」という名前は不要となるだろう。しかし「

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哲学・日記・メモ「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

哲学・日記・メモ「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

教会において「建築」という「総合性」を保証していたのは壁であった。そして壁は「絵画」においては「枠」となった。

この「枠」を継承しているところが絵画がそもそも総合的であるという事であるだろうし、それは絵画は音楽のように本質的ではないという事でもある。だから真に画家が「絵画的なるもの」を志向するのならば、彼は世界の本質に背を向ける事で、新しい世界を総合的に創

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哲学・日記・メモ「等価交換の事」

哲学・日記・メモ「等価交換の事」

等価交換の事

等価交換って本当に可能なのだろうか?
「等価」なら交換の必要すらないのでは?と思うから。
むしろ、「交換」はそもそも「等価」の関係に生じるのではなく、優劣や不公平の最中に生じるものなのだ、と言う方が腑に落ちる。
強いて言えば、その隠蔽か「等価」を語らせているのだとしたら、つまり貨幣の等価性とは「そういうもの」なのだろう。

哲学・日記・メモ「中間者・媒介者・促進者についての覚書」

哲学・日記・メモ「中間者・媒介者・促進者についての覚書」

中間者・媒介者・促進者についての覚書
中間者(あるいは媒介者・促進者)にはなりたくない。
例えば学術と現場の「乖離」を問題にしたとき、「中間者」や「媒体領域」を新設する事でその乖離に対処しようとする考え方、この考え方に私は懐疑的なのだ。「乖離がある」という問題の真の問題性は、乖離の克服なのではなく、「乖離と言う事実が在ってしまった」という点に尽きる。だから私は乖離の真ん中に「中間者」や「媒体領域」

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詩・散文「二匹のどじょう」

詩・散文「二匹のどじょう」

二匹のどじょう

二匹のどじょうが二匹のどじょうが 
右にくねくね左にくねくね 
とびあがってぴょん
そして再び水の中 

二羽のちようちょが弐羽のちょうちょが
空にのぼらずひらひらふわふわ
地にもおりずにぴたり 
菜の花にとまって菜の花になった

二人の子どもは二人の子どもは  
くるくるくるくる追いかけっこ 
どっちが追いかけてるのかわからなくなってじゃぶじゃぶ 
河を渡って二度と戻って来なか

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雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

Horst Jansen の事

ドライフラワーの魅力が解るなら Jansen の絵も解るかも。生でないものが生と等価に混在している、それは、死との共存を良識的な調和(あるいは弁証法的綜合)に求めずに、どこまでもせめぎ合う際どい対立で顕している。

Jansen の絵を見るとき、その変態性だけを見るのでは、絵を見損なっている。