記事一覧

自然の悪意から脳の前成説へ─ドゥルーズとヴィジョン(2)

芸術家と哲学者が共有するもの、ヴィジョン ドゥルーズは哲学者が芸術家とある種の経験を共有していると考えていた。それは圧倒されるという経験、世界の破壊的な威力を…

Iō
2週間前
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ドゥルーズとヴィジョン─破壊の哲学

20世紀後半のフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは哲学を「概念の創造」と定義した。一般的にはそう言えるだろう。偉大な哲学者には偉大な概念が、あたかもそれが一般名詞で…

Iō
2週間前
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アガンベンと歴史の終わり

アガンベンの政治哲学のなかで「歴史の終わり」というモチーフが演じる役割はもっと注目を集めてもよいかもしれない。アガンベンがはじめて歴史の終わりに言及したのはおそ…

Iō
10か月前
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表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

シオランやバタイユのような思想家にとって、涙は奇妙な現象であって、もっとも偉大な聖性やエロスの経験にも通じる、説明不可能な現象であった。シオランなどは、「涙ぐむ…

Iō
1年前
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ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

ヘーゲルは次のように述べている。 一見すると精神的内容にふさわしい形式とは言語表現であるようにおもわれる。ヘーゲルは感覚を表現とみなしていることに注意しなければ…

Iō
1年前
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ポリクライシス──1970年代の危機との比較

危機は終わった、後は安心して経済の話をしよう スイス・アルプスで開かれたダボス会議(世界経済フォーラム)の参加者を包むのは驚くほど楽観的なムードだった。インフレ…

Iō
1年前
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社会免疫論 (20230113)

近代の政治神学の根底には、──ホッブズ、ルソー、シュミット、ベンヤミン、ジラール、ルーマンにいたるまで──免疫の隠喩が横断していることをロベルト・エスポジトは指…

Iō
1年前
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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

ペリー・アンダーソン「状況主義の裏側?」 ペリー・アンダーソンが2019年にニューレフト・レビューに発表した「状況主義の裏側?(Situationism à L'envers?)」[1*]…

Iō
1年前
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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

アダム・トゥーズ「中央銀行のパラダイムシフトが起きるところまで来たのか?」 最近アダム・トゥーズのサブスタックを精力的に紹介している経済学101に、インフレをめぐ…

Iō
2年前
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1968年以後という文脈における暴力──サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』

ジャン=ポール・サルトルとベニー・レヴィの『いまこそ、希望を』は、1970年代を通してフランスの左翼が暴力にたいする知覚を大きく変えざるをえなかったことについての、…

Iō
2年前

絶滅にふさわしく、ドゥルーズ

 ドゥルーズは『意味の論理学』で「出来事の倫理」を語ったがその後この発想を深化させることはなかった。フーコーが『アンチ・オイディプス』を「倫理の書」と評した読み…

Iō
2年前
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アガンベンのスキャンダル

哲学者のジョルジョ・アガンベンが新型コロナウイルスの流行にかんして最初の発言をしたのは、今からおもうと比較的早い時期、2020年2月26日のことだった。彼は「エピデミ…

Iō
2年前
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ジョーカーとニーチェ──生の肯定を教えることはできるのか

最近、ニーチェを読み返しているのだけれど、Twitterで上記のTweetがバズっているのを偶然みかけた。たぶんこのTweetは10月31日に起きた「京王線無差別刺傷事件」にかんし…

Iō
3年前
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アダム・トゥーズの政治思想

私見ではアダム・トゥーズは同時代のもっとも興味深い書き手の一人であるが、そうした評価を少なくとも日本語話者のあいだではまだ受けていないようである。彼は翻訳されて…

Iō
3年前
10

『天気の子』と物語の代償

 少年に拳銃が与えられたら、その贈与は償われなければならないというのが物語の掟である。ありそうにない組み合わせは社会の秩序を掻き乱すが、そのことによってもとある…

Iō
4年前
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愛がわれらをひとつに引き裂く──ラカンを読む(『対象関係』篇)

 ラカンをどう読むか ジャック・ラカンの分析理論は、混乱した経験を分類し整理することをもくろんだ指標からなる一種の「地図」のようなものである。地図に要請されるの…

Iō
4年前
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自然の悪意から脳の前成説へ─ドゥルーズとヴィジョン(2)

自然の悪意から脳の前成説へ─ドゥルーズとヴィジョン(2)


芸術家と哲学者が共有するもの、ヴィジョン

ドゥルーズは哲学者が芸術家とある種の経験を共有していると考えていた。それは圧倒されるという経験、世界の破壊的な威力を被るという経験である。また芸術作品は、そうしたカオスの力を解き放ち、保存し、他者に経験させるための感覚ブロックを創造するいとなみだという。したがって哲学と芸術のあいだには、それらがともに創造行為であるという点のほかに、共有されるヴィジョン

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ドゥルーズとヴィジョン─破壊の哲学

ドゥルーズとヴィジョン─破壊の哲学

20世紀後半のフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは哲学を「概念の創造」と定義した。一般的にはそう言えるだろう。偉大な哲学者には偉大な概念が、あたかもそれが一般名詞ではなく固有名詞であるかのように、プラトンのイデアやライプニッツのモナドのように、ついてまわるものだ。ドゥルーズはおそらく、ヘーゲル以後のもっとも偉大とはいわないまでももっとも野心的な形而上学者の一人であり、彼の名前は「強度」「潜在性」「出

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アガンベンと歴史の終わり

アガンベンと歴史の終わり

アガンベンの政治哲学のなかで「歴史の終わり」というモチーフが演じる役割はもっと注目を集めてもよいかもしれない。アガンベンがはじめて歴史の終わりに言及したのはおそらく『言葉と死』のなかでで、フランシス・フクヤマが1989年の論文でこれを論じて流行させる7年前のことだった。アガンベンはそこでバタイユとコジェーヴのあいだで交わされた書簡に言及しながら、コジェーヴのヘーゲル解釈の試金石である歴史以後の地平

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表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

表現、涙、言語──泣くと悲しみが消えるのはなぜか

シオランやバタイユのような思想家にとって、涙は奇妙な現象であって、もっとも偉大な聖性やエロスの経験にも通じる、説明不可能な現象であった。シオランなどは、「涙ぐむことこそ福音である」と述べているほどである。シオランの『カイエ』を読むと、彼がバッハやハイドンの音楽を聴いて涙ぐむ姿が浮かび上がるのだが、涙がニヒリストの福音であるとすれば、古典派やバッハの音楽を聴いて涙を落とす瞬間は、「彼のためのものでは

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ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

ヘーゲルは次のように述べている。

一見すると精神的内容にふさわしい形式とは言語表現であるようにおもわれる。ヘーゲルは感覚を表現とみなしていることに注意しなければならない。感覚が精神的内容を表現することができるのでなければ、そこには齟齬が生まれようもないからである。言語表現はまた、感覚内容を表現することもできるということに注意が必要である。ギャップはどこにあるのだろうか。

ウィトゲンシュタイン的

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ポリクライシス──1970年代の危機との比較

ポリクライシス──1970年代の危機との比較

危機は終わった、後は安心して経済の話をしよう

スイス・アルプスで開かれたダボス会議(世界経済フォーラム)の参加者を包むのは驚くほど楽観的なムードだった。インフレは頭打ちの兆しをみせ、景気後退の懸念は依然としてあるものの、2023年の経済見通しは比較的明るいものと考えられた。これはウクライナでの長引く戦争やパンデミックの余波、FRBの利上げにともなって生じるさまざまな懸念(深刻な食糧危機を含む)の

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社会免疫論 (20230113)

社会免疫論 (20230113)

近代の政治神学の根底には、──ホッブズ、ルソー、シュミット、ベンヤミン、ジラール、ルーマンにいたるまで──免疫の隠喩が横断していることをロベルト・エスポジトは指摘している。近代の社会システムや政治的共同体は、ある種の免疫装置として理解できるのであって、たとえば法システムは社会的暴力にたいする免疫装置であり、国家は戦争という脅威にたいする免疫装置なのである。この想像力の限界は、免疫システムに危機をも

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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

ペリー・アンダーソン「状況主義の裏側?」

ペリー・アンダーソンが2019年にニューレフト・レビューに発表した「状況主義の裏側?(Situationism à L'envers?)」[1*]は、おそらくアダム・トゥーズの仕事を総体として検討したものとしてはもっとも本格的な論考である。

[1* アンダーソンの記事にはペイウォールがかけられているが、このページからPDFファイルがダウンロードできる。

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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

アダム・トゥーズ「中央銀行のパラダイムシフトが起きるところまで来たのか?」

最近アダム・トゥーズのサブスタックを精力的に紹介している経済学101に、インフレをめぐるECBのの対応についての9月17日の投稿が翻訳されており、これがおもしろい記事だった。

トゥーズの記事はダニエラ・ガボールがフィナンシャル・タイムズに発表した記事を批判的に紹介するもので、さらに論点を拡張し、文脈を補足したものである

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1968年以後という文脈における暴力──サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』

1968年以後という文脈における暴力──サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』

ジャン=ポール・サルトルとベニー・レヴィの『いまこそ、希望を』は、1970年代を通してフランスの左翼が暴力にたいする知覚を大きく変えざるをえなかったことについての、貴重なドキュメントである。

ベニー・レヴィは1968年5月の学生叛乱の闘士の一人で、当時はピエール・ヴィクトールの名を名乗っていた。中国の文化大革命が1966年に毛沢東の扇動のもとに生じたとき、フランスでは毛に共感する学生たちがマオイ

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絶滅にふさわしく、ドゥルーズ

絶滅にふさわしく、ドゥルーズ

 ドゥルーズは『意味の論理学』で「出来事の倫理」を語ったがその後この発想を深化させることはなかった。フーコーが『アンチ・オイディプス』を「倫理の書」と評した読み方が今でも支配的であり、ドゥルーズは奇妙なことに倫理的な哲学者だという風にみられている。しかし彼は生の形式にはほとんど関心を示さず生に生じたことに関心を示した出来事の哲学者であった。彼が信じる道徳の意味はひとつしかなく、それは「出来事にふさ

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アガンベンのスキャンダル

アガンベンのスキャンダル

哲学者のジョルジョ・アガンベンが新型コロナウイルスの流行にかんして最初の発言をしたのは、今からおもうと比較的早い時期、2020年2月26日のことだった。彼は「エピデミックの発明」と題した文章のなかでCovid-19をインフルエンザの亜種と断じ、メディアを通じて醸成されていたパニックの雰囲気に釘を指した。彼の目には新しい感染症の流行はさして新しいものではなく、第一次大戦以来というものその歴史的役割を

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ジョーカーとニーチェ──生の肯定を教えることはできるのか

ジョーカーとニーチェ──生の肯定を教えることはできるのか

最近、ニーチェを読み返しているのだけれど、Twitterで上記のTweetがバズっているのを偶然みかけた。たぶんこのTweetは10月31日に起きた「京王線無差別刺傷事件」にかんしてつぶやかれたものとおもわれるが、最初にこのTweetをみかけたとき、ぼくはこの関連に気づかなかった。後から、この事件の容疑者が映画『ジョーカー』に影響を受けて犯行に及んだということを知ったのだが、ぼくがこのTweetを

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アダム・トゥーズの政治思想

アダム・トゥーズの政治思想

私見ではアダム・トゥーズは同時代のもっとも興味深い書き手の一人であるが、そうした評価を少なくとも日本語話者のあいだではまだ受けていないようである。彼は翻訳されている2冊の本──『ナチス 破壊の経済』『暴落 金融危機は世界をどう変えたのか』(いずれもみすず書房)──の著者として知られており、ほかに著作としては『The Deluge: The Great War, America and the Re

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『天気の子』と物語の代償

『天気の子』と物語の代償

 少年に拳銃が与えられたら、その贈与は償われなければならないというのが物語の掟である。ありそうにない組み合わせは社会の秩序を掻き乱すが、そのことによってもとある秩序の不連続性を浮き彫りにする。都会と田舎の対照は新海誠が好んで活用する二項対立的エレメントのひとつであり、田舎から都会に出てきた少年は社会の交換規則の非対称性のなかで何かを喪失しなくてはならない。それが成熟するということの一般的な意味なの

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愛がわれらをひとつに引き裂く──ラカンを読む(『対象関係』篇)

愛がわれらをひとつに引き裂く──ラカンを読む(『対象関係』篇)

 ラカンをどう読むか ジャック・ラカンの分析理論は、混乱した経験を分類し整理することをもくろんだ指標からなる一種の「地図」のようなものである。地図に要請されるのは惑星の軌道を計算する微分方程式のように「現象を救済する」ことではなく、経験に照らして修正可能な「正確な比例」をふくんでいることだけである。ラカンはそのため、マテーム(数学素)とシェーマ(図表)という抽象的な表現様式を好んで用いた。われわれ

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