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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(1)

アダム・トゥーズ「中央銀行のパラダイムシフトが起きるところまで来たのか?」

最近アダム・トゥーズのサブスタックを精力的に紹介している経済学101に、インフレをめぐるECBのの対応についての9月17日の投稿が翻訳されており、これがおもしろい記事だった。

トゥーズの記事はダニエラ・ガボールがフィナンシャル・タイムズに発表した記事を批判的に紹介するもので、さらに論点を拡張し、文脈を補足したものである。記事の内容については翻訳された記事を参照されたい。

こうした議論は英語圏ではTwitterの利用者やブロガーたちのあいだで精力的に展開されている文脈に属するものだが、日本語では滅多に目にすることのないいくつかの重要な論点を含んでいる。それは、(1)中央銀行の独立性をめぐる役割の評価、(2)新自由主義的統治パラダイムの終わりという争点、(3)さらにインフレーションをめぐる階級政治的な観点である。

ガボールはトゥーズが賞賛を惜しまない、マクロ金融(macrofinance)のスペシャリストの一人で、ポスト・ケインズ派から大きな影響を受けた新しい世代の経済学者である。トゥーズは『暴落』で、経済学のマクロ金融革命がなければこの本を書くことはできなかっただろう述べ、『世界はコロナとどう闘ったのか?』では彼女の名前をあげて特別な謝辞を捧げている。この記事はだから、トゥーズの仕事に特別な関心をよせるものにとって、彼のスタンスを理解するための必要な前提を照射してくれるものともいえる。

個人的にこの記事が興味深いのは、トゥーズとガボールのあいだに示唆された距離感である。トゥーズはガボールの卓見を讃えながらも、無条件にコミットしているわけではない。そこには理論的な相違と、政治的な相違が、解釈を要する入り組んだ絡みあいをみせている。

1979年以後形成された、中央銀行の独立性と、民間金融の強さによって定義される現在の経済政策のパラダイム転換を訴えるガボールにたいして、トゥーズはいささか冷ややかな視線をよせる。

中央銀行における差し迫ったパラダイムシフトというビジョンは、緊張と機能不全という診断から解決の兆しを見い出すというフィン・フィクションの傾向の一例であると私は懸念している。実際のところ、私たちはパラダイムの「内部崩壊」に直面しているのだろうか。私たちの現実は、それほど輪郭のはっきりしたものなのだろうか。破綻や内部崩壊というよりも、2008年以来、一連のその場しのぎや中途半端な対策に基づく、現在進行形の保守的な延命工作として続いていく可能性が高いのではないだろうか。

トゥーズとガボールの相違はどこにあるのだろうか。それはガボールが状況を構造的に把握しようとするのにたいして、トゥーズがあくまで状況のなかでイン・メディアス・レスに)記述することにこだわることである。これは二重の意味で興味を惹く。それは、ガボールが戦後のマクロ経済学的動態と金融調整システムのあいだの関係を理解するさいの独特のポジションと、トゥーズの仕事の総体にかかわる方法論的な位置づけという二つの観点からである。


ダニエラ・ガボール「制度的スーパーサイクル」

ガボールのアプローチについては以下の共著論文を参照。

彼女は先進国における戦後の資本主義経済を二つのスーパーサイクル(「産業スーパーサイクル」と「金融グローバル化スーパーサイクル」)に別け、それらを定義するものをハイマン・ミンスキーの概念を借りて「阻止メカニズム(thwarting mechanisms)」であるとしている。阻止メカニズムは、本質的に不安定な資本主義経済の金融調整をつかさどる、制度的・イデオロギー的・マクロ経済学的構成のことで、これがなければ資本主義は持続的な成長レジームを維持することができない。おもしろいのは彼女らがこの阻止メカニズムの発生にかんして階級闘争を重要な因子に数え上げていることである。阻止メカニズムは四つの局面(「発生」「拡大」「成熟」「危機」)を含むもので、それらを通過することで必然的にそれ自身の限界にいたり、マクロ金融・マクロ経済学的変数を安定させるため、新しい協調行動の枠組みを集団的に模索する必要性が生じてくる。

阻止メカニズムの有効性が低下すると、制度的枠組みが基本サイクルのダイナミクスを抑制するのに十分でなくなるため、最終的には危機にいたる。この時点で、基本サイクルの不況は深い経済的・政治的・社会的不安定性、および制度的再構築へ繋がる。 既存の阻止メカニズムが有効でないため、政府の介入によって経済が安定しても、広範囲にわたる回復は不可能となっており、制度的構造はもはやマクロ金融の安定性を保証することができない。続く発生局面には、阻止メカニズムの新しい構成を確立しようとする試みがみられるが、その試みは政治闘争によって形成される。効果的な新しいメカニズムが導入されたとき、もしくはされると、次のスーパーサイクルがはじまる。政治的・社会的・技術的な理由によってそのようなメカニズムが導入されない場合、危機局面が長引くことになり、政治的・社会的動揺をともないがちである。

Yannis Dafermos, Daniela Gabor, and Jo Michell, 'Institutional Supercycles: An Evolutionary Macro-Finance Approach', p. 3.

彼女らの診断では、2008年のグローバル金融危機の対応からは新しいパラダイムは生じてこなかった。しかし「この構造に変化がなければ、つまり、新たな阻害メカニズムがなければ、信用拡大への回帰以外に持続的な需要増加の原因となりそうなものを特定することは困難である」(17)。金融危機以後からコロナウイルスの危機以前に生じた制度的変化でもたらされたのは、「ネオレンティア資本主義の構造的原動力の強化」であり、それが、「新たな成長エンジンをもたらすことなく」生じたのである(18)。

コロナウイルスの危機が生じたとき、金融の安定と同時に経済の拡大を促進するような新しい阻止メカニズムの構成はまだ出現していなかった。次のスーパーサイクルの阻止メカニズムは、少なくとも部分的に、今回の危機の結果として起こった急速な制度変更と、将来のパンデミックの可能性にたいする認識の高まりの結果として生じるだろう。次のスーパーサイクルは、気候変動というさらに大きな危機によっても条件づけられることは避けがたいはずだ。(18)

おもしろいのは彼女らの構造的な戦後経済の動態把握を、ペリー・アンダーソンによるアダム・トゥーズ批判と照らしてみたときの印象である。アンダーソンはトゥーズの仕事がいつも危機的状況からはじまること、そして危機の構造的説明が欠けていること──たとえば『暴落』では、金融危機をもたらした原因の分析が実体経済に遡って遂行されることはない──によって、暗黙のうちにアメリカのヘゲモニーを前提とした戦後のリベラルな経済秩序への無批判なコミットメントがみられるのではないか、というのである。

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