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ケインズ主義の限界──ペリー・アンダーソンのアダム・トゥーズ批判(2)

ペリー・アンダーソン「状況主義の裏側?」

ペリー・アンダーソンが2019年にニューレフト・レビューに発表した「状況主義の裏側?(Situationism à L'envers?)」[1*]は、おそらくアダム・トゥーズの仕事を総体として検討したものとしてはもっとも本格的な論考である。

[1* アンダーソンの記事にはペイウォールがかけられているが、このページからPDFファイルがダウンロードできる。]

アンダーソンはアダム・トゥーズの三つの仕事を一体となったものとして読解した。第一次世界大戦から戦間期にかけて、アメリカを中心とした新しい経済秩序の創成を論じた『大洪水(The Deluge)』(2014)、ナチスのモチベーションを、アメリカのヘゲモニーを中心とした経済秩序にたいする反発として記述した『ナチス 破壊の賃金』(2006)、そして2008年の金融危機を、そうした経済秩序の壊滅的な危機にたいする対応およびその余波として分析した『暴落』(2018)。これらの仕事をアンダーソンは一連のパターンを形成するものとみなし、次のように述べるのである。

いずれも、アメリカの権力のダイナミズムを──20世紀の合鍵として──包括的なテーマとしたものである。いずれも、その政治的な立脚点は、自身も認める通り左翼‐リベラリズム(left-liberalism)のそれである。しかし、ハイフンの両側の用語はさまざまな意味をおびやすく、またこの複合語の(おそらく典型的な)使用例はしばしば不安定で、どちらかの要素がより大きな結合価値をもつことが証明されているのである。(63)

アンダーソンによると、トゥーズの三部作には、戦間期を通じて出現し、第二次世界大戦後に支配的となったアメリカを中心とした経済秩序にたいする称讃という暗黙の前提があるという。つまり彼は自分が記述するものにたいして批判的(左翼の立場)であるというより、しばしばそれを称賛する方向に靡く(リベラルの立場)ということである。

アンダーソンはトゥーズの三部作がどれも状況のなかから、「イン・メディアス・レス」に、つまり物語のまっただなかではじまることを強調する。彼の語り口はひと目を惹くものであり、読者を問題となっている事柄のただなかへと最速で運び去るが、状況を危機的なものとした原因が構造的に説明されることはない。

たとえば『暴落』では、2008年の金融危機のさいに「政策決定者たちが行った決定を彼らがはたらいていた構造から抽象化すること」(80)で、状況の描写が英雄譚に似た構図に仕上がってしまっている。

方法論的に、トゥーズの「状況的かつ戦術的なアプローチ」は読者を出来事の本流に即座に引き込み、構造的な特徴はそれらに対処しようとする行為者の視点からしか浮かび上がらない。従って帝国主義間の戦争、世界恐慌、金融の肥大化は所与として扱われ、同様にウィルソン、ヒトラー、ガイトナーの世界観もさまざまな仕方で所与として扱われる。この方法は説得力のある歴史叙述を可能にするが、構造的な説明の抑圧を前提としたものである。(87)

アンダーソンはいう、「兎と一緒に走りまわり、猟犬と一緒に狩りをすることは、義憤に駆られた共感を兎によせ、畏敬に満ちた称賛を猟犬によせるのと、どうちがうのだろうか」(93)と。


ケインズ主義、政治経済学、革命

アンダーソンのアダム・トゥーズ批判にかんして考えてみる必要があるのは、危機管理をめぐる三者の規範意識の相違である。

危機というカテゴリーは暗黙のうちに、「主体・構造・秩序・システム」のような観念を、どれほど緩やかな漠然とした連合のうちであれ、必要とし、維持している。さらにそこでは、そうした構造や秩序にたいする規範的なまなざしが、分析の暗黙の前提とされるのである。ハーバーマスが述べるように、われわれは「ある経過を危機ととらえることによって、暗黙のうちにその経過に規範的な意味をあたえていることになる。危機を解決することによって危機に巻き込まれている主体を解放する、というのがそれである」(『後期資本主義における正統化の問題』山田正行/金慧訳、岩波文庫、2018年、12頁)。

ダニエラ・ガボールはハイマン・ミンスキーのアプローチを制度学派的に解釈し、資本主義経済の不安定性を調整するマクロ金融構成の必要性を主張する。そして現在はこの構成が欠けた──従って不安定性が特徴的であり、持続的な成長を達成する見込みのない──時期であるとする。従って必要なのは彼女らが「阻止メカニズム」と呼ぶ構成を現在の不安定な動態のなかから出現させることであり、そのための(知的)闘争と協調行動である。

アダム・トゥーズは状況をもっと流動的なものとみる。現在の状況が危機的なものであることは彼も認め、強調するが、この危機的状況がだらだらと解決策のないまま続くのがもっともありそうな方向であるとしている。

アンダーソンはトゥーズの危機診断がアメリカのヘゲモニーにたいして甘すぎ、そのヘゲモニーがなければ存在しないはずのリベラルな経済秩序を称揚するものでないかと疑っている。この規範的姿勢が問題含みなものとなるのは、危機に対処しようとする主体が、危機そのものを推進している場合である。それこそ、2008年の金融危機において生じたことであったというのがアンダーソンの批判の要点である。

アンダーソン(およびマルクス経済学)の観点からすると、2008年の金融危機は、実体経済の(製造業を中心とした)収益性が1970年代に先進国で危機に陥ったとき、資本蓄積を回復するために開拓されたルート、つまりアメリカへの資本還流をともなうグローバルな金融化の構造の必然的な帰結である。危機の本源は、たがらグローバルな金融バランスシートの不均衡にあるのではなく、マクロ金融面の不安定性も、利潤を追求する資本の運動が蓄積を可能にする投資先をみいだすことができず、みずからを投機的に肥大化させたという事実の反映なのである。中期的な成長レジームを決定する最大の要因は、金融システムの安定性ではなく、単純に実体経済の収益性によって制約される資本の利潤率である。この収益性を回復するための努力、つまり新自由主義的再編は、未曽有の問題を先進国と第三世界の双方でもたらした。それは、金融危機の淵源となり、各地で不平等と貧困(場合によっては紛争)をまき散らしたのである。

こうした状況認識の相違にかんして、アンダーソンの批判が向けられたポイントを二つに別けておいた方がよいだろう。アンダーソンは「左翼‐リベラリズム」という結合記号の曖昧さを指摘する。しかし、彼の批判において「ケインズ主義」という記号はどうなっているのだろうか? ケインズ主義とリベラリズムは、異なる記号であり、今日の世界においてきわめて重要な相違を構成する可能性があるものである。アンダーソンの批判は、アダム・トゥーズのマクロな歴史的・状況認識に向けられたものとしては、リベラリズムにたいする批判である。しかし、トゥーズのミクロな状況認識、つまり「状況的かつ戦術的なアプローチ」は、ケインズ的戦略ないしケインズ的理性によって照らされ、理解されなければならないものといえる。それは歴史的にはリベラルなイデオロギーやナラティヴと大いに重なりあうだろうが、それらと必然的に一致するものでもない。トゥーズはいう。

私はリベラルなケインズ主義と左翼ケインズ主義を、資本主義を慢性的に苦しめ、かつ民主主義の観点から資本主義を維持できなくなるよう脅かす、根底的問題を、真剣なものとして考慮する統治の様式であると考える。

Framing Crashed (6): The Politics of Keynesianism

ケインズ主義、それは確かにエリートやテクノクラートの政治であるだろう。しかしケインズ派は、民主的な政治システムがそのままでは処理することのできない民主的な要求を、技術的に処理可能なものへと変形することで、解決策を提供する。それがケインズ的なミクロ政治学ともいうべきものである。

古典的な例はケインズの次のような議論である。賃金がもはや労働組合の力のために完璧に柔軟ではなく、また労働組合を打破することが公然たる階級闘争を意味するなら、より高い雇用を達成するために実質賃金を調整する最適な手段──そして民主主義を危険に曝す可能性がもっとも低い手段──は、雇用主がより多くの労働者を雇用するための実質コストを削減する、インフレ率の適度な上昇によって間接的に行動することかもしれない。それとは反対に、競争力のない水準に為替レートを固定することは、輸出を妨げるだけでなく、賃金カットを強行するよう政治システムに大きな圧力をかけるため危険である。

Adam Tooze, Tempestuous Seasons

こうしてケインズ派は階級闘争の知的な管理者としてふるまおうとしてきた。実際、ケインズ的なマクロ経済学的推論がはたらいていたかどうかはともかく、1970年代までは、国家を媒介とした調整機能はある程度実効的なようにみえた。しかし70年代のスタグフレーションの進展によって、ケインズ主義の権威はしだいに失墜していったのである。しかし重要なことはトゥーズにとって、また一般的にいっても、「ケインズ的理性」が2008年以後ふたたび大きな意義を獲得したということである。アンダーソンが苛立たしそうに引用する箇所でトゥーズは次のように述べている。

2008年のように、資本主義システムの存続が危ういときには、圧倒的大多数は[危機に立ち向かうには]過剰な危険に曝されるのであり、われわれはそうしたとき、危機に立ち向かうファイターを必要とする。さらに最近の経験が示すように、理不尽なマスデモクラシーの熱狂からテクノクラート的な政府を護る相応の理由があるのだ。今日あまりに明白なことは、財政乗数の大きさであれ、麻疹予防接種の有効性であれ、もしくは、気候変動のグローバルな脅威についてであれ、政治を超えた技術的合意のポテンシャル──それが問題を特定することがいかに重要かということである。そのときわれわれはケインズ主義の基盤に立ち返り、「彼らのもの」だからという理由で「彼ら」の理性や「彼ら」の真理を否定する価値観の全面衝突ではなく、政治的なものに固有の境界線を超えた、理にかなった調停に携わるのである。

Tempestuous Seasons

こうした展望がなぜアンダーソンを苛立たせるのかは容易に理解できるだろう。彼の観点からすると、危機をもたらすのにひと役買ったのはエリート自身の「技術的合意」であったからである。

ここで、トゥーズが語っているのはどのような「理性」かを問うことができる。それはリベラリズムか、それともケインズ主義か? はっきりしていることのひとつは、リベラリズムは、テクノクラートを必要とするとしても、彼らが階級調停的である必要はないということ(「権威主義的リベラリズム」)、しかし同時に、ケインズ的なテクノクラートのもとで、反民主的な政策を追求することもできる(今日の中国)ということである。そしてもちろん、古き良き「リベラルなケインズ主義」の立場もあるだろう。これらのあいだにはおそらく、今日の地政学的な政治地図を覆い尽くすほどの揺らぎがある。それはたんにアンダーソンがみる「左翼」と「リベラリズム」という記号のあいだの揺らぎより、はるかに幅広く複雑なものなのである。

今日のケインズ主義の象徴的な意味あいにかんしては、これを定義したジェフ・マンの『長期的にはわれわれは皆死んでいる──ケインズ主義、政治経済学、革命』(2019)を参照することができる。彼にとってケインズ主義は、危機や革命以後の時間性のなかで定義される、動乱にたいして防衛的かつ調整的な統治理性のスタイルである。それは革命の限界的な意義を大いに認めつつ、同時に災厄にいたる手前でその限界を──政治と経済の既存の境界線を引き直すことで──調整し、介入しようとするものである。

われわれの時代にケインズ主義を定義するものは、もはや学生運動や労働者の組織力、あるいは国際的な社会主義勢力の外からの圧力──要するに左からの諸力──ではなく、むしろそれらが欠けていることによってもたらされる不均衡だろう。確かにアンダーソンのいうようにアダム・トゥーズが中央銀行のエリート連に向けるまなざしは、闘争的なものではないし、しばしばナイーヴに見えるところがあるとしても、それでも無批判なものではない。トゥーズやガボールらの認識では、今日階級闘争の現場は、(悲しいかな)連邦準備制度理事会や欧州委員会の、外から遮断されたオフィスのなかに移ってしまったのである。

こうした圧倒的な権力の不均衡──それは階級闘争の古い形態や民主的な要求を回避すべく実体化された制度、諸理論、そして政治的なものの境界を引き直す不断の努力によって可能となった構図である──のもと、グローバルな金融危機が生じ、一連の政治的緊張が喚起された。アンダーソンがトゥーズへと向ける批判は、コロナウイルスのパンデミック以後、また別の意味をもたざるをえない。というのも、内生的な危機は今や外生的な危機と結びつき、それらを区別することはできないからである。

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