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アダム・トゥーズの政治思想

私見ではアダム・トゥーズは同時代のもっとも興味深い書き手の一人であるが、そうした評価を少なくとも日本語話者のあいだではまだ受けていないようである。彼は翻訳されている2冊の本──『ナチス 破壊の経済』『暴落 金融危機は世界をどう変えたのか』(いずれもみすず書房)──の著者として知られており、ほかに著作としては『The Deluge: The Great War, America and the Remaking of the Global Order, 1916–1931』(2014年)と最近刊行されたばかりの『Shutdown: How Covid Shook the World's Economy』(2021年)がある。彼は歴史家としては異例なほど筆が早く、また質の高い記事を常時ネット上に発表し続けているが、書き手としての彼の特徴のひとつは、自身の問題形成のプロセスをなんら隠す気がないという点にも認められる。彼の Twitter 上での活動も注目にあたいするものである。

トゥーズはほぼ毎日 Twitter を更新しており、それを追っているだけでも彼の現在の関心がわかるのだが、彼はときどきフォロワーへ向けて最近読んだ本や論文にかんする質問を投げかけることがある。その Tweet にたいして、著者本人や専門家からの示唆的なコメントが連なるスレッドが形成されるといった、Twitter 上でよく目にするとはとうてい言えない知的に誠実な光景が生まれる。たとえば I.M. Weber の『How China Escaped Shock Therapy: The Market Reform Debate』(今年刊行された経済書のなかでもとりわけ関心を集めた一冊)を読んでトゥーズが発した Tweet には、著者の Weber 自身をはじめとする複数の専門家がスレッドに参加したし、なかには日本でも比較的名の知れた経済学者であるブランコ・ミラノヴィッチ(グローバルな不平等の研究者で、『大不平等』や『資本主義だけ残った』[いずれもみすず書房]の著者)や、マルクス主義者のアレックス・カリニコス(彼にも複数の翻訳がある)の名前もあった。


こうして彼は、その特権的な知的ネットワークを通じて集めた情報を無料のブログ記事(substack)や、英語圏の主要紙の電子版へそれなりの頻度で寄稿される長文コラムを通して還元しているのである。

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アダム・トゥーズが経済史家として主要な関心を現在・・へ向けるようになったのは『暴落』を執筆してからのことだとおもう。実際、コロナウイルスのパンデミックとその世界経済への影響をその論じた『Shutdown』はまさに混乱した、どこへ向かうか定かでない状況・・のなかで書かれたわけだが、そこに彼の政治性を認めるべきである。彼の広義のケインズ主義とヘーゲル主義の姿勢がそこに窺われるといってもよい。ヘーゲルによると、現在を理解すること以上に政治的なことはほかにないからである。

私は日にひに、理論的な仕事は実践的な仕事よりも世界で多くのことを成し遂げられると確信しています。表象〔Vorstellung〕の領域が革命されれば、現実〔Wirklichkeit〕は持ちこたえられないでしょう。[ヘーゲル、ニートハンマー宛て書簡、1808年10月28日

ヘーゲルの言葉を保守的なレンズを通してつぎのようにパラフレーズすることもできるだろう。つまり、現在を理解しようとする理論的な仕事は、それがなかったら必要とされるはずの革命をなしですませることもついには可能にするだろうと。ところでケインズの政治経済学が目指していたのは、まさにそうした「革命ぬきの革命」であった。

アダム・トゥーズの政治的傾向は一見すると既存の政治的座標のなかでも進歩的な勢力を擁護しようするものにみえるが、その内実はケインズと同様エリート主義的であり、もっぱら政治経済学的な状況理解・・に賭金をおいたものである。ここでトゥーズを、彼よりもっと左と想定されるポジション(たとえばマルクス主義)から簡単に批判できると考えるとしたら、いささか呑気な態度といわなければならない。なぜならマルクス主義の状況理解の(たとえばケインズ主義と区別される)特徴は、危機の時代にはあまりに「長期的」にすぎるということにあるからである。

トゥーズは危機の時代の歴史家であり、そして危機の時代には、われわれはだれしも「短い目でみる」ことを強いられるものだ。ケインズがいうように「長い目でみればわれわれはみな死んでいる」が、この「長い目(the long run)」というのはとりわけ伝統的なマルクス主義者にとって独特の意味をもっている。長い目で見ると、マルクス主義者にとって資本主義は──利潤率の傾向的低下とその社会的な帰結によって──死んでいることが予想される。しかしケインズにとって、この「長期」の経済的帰結は別の意義をもっている。1930年という世界経済が崩壊しつつあるさなかに、彼はむしろつぎのように書いたのだった。

しかしいまは、一時的に調整がうまくいっていないにすぎない。以上の点が意味するのは、長期的にみて[in the long run]、人類が経済的な問題を解決しつつあることだ。百年後の二〇三〇年には、先進国の生活水準は四倍から八倍の間になっていると予想される。たったいま分かっている点から考えても、これは驚くような予想ではまったくない。はるかに大幅な進歩の可能性を予想しても、愚かだとはいえない。[「孫の世代の経済的可能性」『ケインズ説得論集』山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、211ページ]

ケインズは資本主義的発展のますます豊かになる可能性だけを考えていたのではなく、資本がいつかそれ自身の希少性から解放され、また人類が歴史上はじめて労働から解放される可能性におもいを馳せていたのである。だからケインズにとっても資本主義は「長い目でみれば」死んでいるといえるのだが、至福状態における死を迎えるためには、短期的な危機──それを防ぐことができなければ、システムは壊滅的な崩壊を免れないであろう──を乗り超えなければならないと考えられるのである。

この長期的な楽観主義と短期的な危機の危急性がケインジアンがもっとも活動的になる空間である。2008年の金融危機にさいしてケインズが復活したようにおもわれたこと(そして危機のたびにケインズが復活するようにおもわれること)の理由は、Geoff Mann が『In the Long Run We Are All Dead: Keynesianism, Political Economy, and Revolution』(2017年)のなかで提示した魅力的な解釈によると、ケインズが正しかったからではなく、ケインズの政治経済学的な視線が確固たる処方箋をもって危機に対峙してくれるようにみえたからである。Mann によると、ケインズ主義の本質は「革命後にしか形成できなかったリベラルな近代性への批判」にあるのだが、この意味でのケインズ主義はケインズが地球を歩く前から存在していた──その最初の一人はヘーゲルであった──という。ケインズ主義とは、革命が提起した暴力的な動乱のなかでついに解決することのできなかった問題にたいする、リベラルの側からの建設的な対応である。そしてアダム・トゥーズは、彼自身が認めているように Mann の定義する意味でのケインジアンである。

私はリベラル・ケインズ主義と左派ケインズ主義を、慢性的に資本主義を苦しめ、民主主義的には耐えられなくなる恐れのある深刻な問題を真剣に受けとめる政府の様式であると考えている。またそれは紛れもなく特定の社会階級の政治、教育を受けた者の政治である。ケインズは自分を「教育を受けたブルジョワジー」と表現した。今日だと、管理者「階級」やらおそらく学者連を含む階級的派閥とそのとり巻きについて語ることができるだろう。歴史的には、革命の余波のなかに系統を遡る政治であり、かつては革命的伝統とのあいだに深く両義的な関係をもっていた。[Framing Crashed (6): The Politics Of Keynesianism

もちろんトゥーズは、ヘーゲルのタームで「普遍的階級」といわれる知的エリートによる統治を無批判に承認しているわけではない。彼がケインズ的な政府として、今日地上に存在する国家としてあげている例は中国である。ケインジアンであることは政治的にリベラルであることをただちに意味するとはかぎらない。トゥーズのテクノクラートにたいする信頼は、歴史的に形成された「知識」が中立で、中性的なものであるという信念にたいする不信の方から制約されている。トゥーズはいう。「専門家自身がいずれの側につくのかを選ばなければならない」。

Mann がケインズの今日的魅力を説明するさいにマルクスと対比してその限界を強調したように、トゥーズはケインズをおもしろいことに大陸の批判理論、とりわけフランクフルト学派の法理論家との対照の光のもとにおいてみている。トゥーズによると、

フランクフルト学派の法理論家の基本的な洞察は、発展した資本主義と法・政治・社会的秩序とのあいだに自然な調和がなく、現代の資本主義が根本的に破壊的な力であって、それが法の支配そのものに絶えず挑戦するということである。──今日、これ以上ないほど適切な診断である。[Framing Crashed (10): “A New Bretton Woods” And The Problem Of “Economic Order” – Also A Reply To Adler And Varoufakis

資本主義経済がもっとも破壊的な力を解き放った時代を専門とする経済史家として、トゥーズはフランクフルト学派の法理論家とともに、「経済秩序」の自己調節的な・・・・・・自律性をまったく信じてはいない。政治と経済を分離することはケインズにとって複雑な問題を提起していたが、経済は政治の介入なしに至福へいたる路を自然に渡れると、彼が考えていたわけではない。しかしひとたび理想的な条件のもとにおかれると、「古典派」経済学者たちが記述するモデルに適合的な経済秩序が出現するものと彼は考えていたのである。しかしトゥーズは、資本主義そのもの(あるいは少なくとも新自由主義的グローバリズムが解き放った力)が近代国家の基盤である法の支配を彫り崩すものであるという診断を、フランクフルト学派の法理論家とともに共有しているのである。トゥーズにとって「秩序」はある意味では「権力の婉曲表現」にすぎない。

従ってトゥーズにとって信じることのできない政治とは、秩序をトップダウンでデザインすることが現在求められている方策であると示唆するあらゆる提案である。それと同時に、資本主義的経済秩序に必要なことはただ繁栄のための「エクストラ条件」を整え、民主主義の脅威から保護された環境に自由市場を「埋め込む」ことを提起する、広義の新自由主義者の提案もまた拒絶される。前者にヤニス・バルファキスのような進歩的左派──彼は「第二のブレトンウッズ」を提唱している──が含まれているとしても、奇妙なことではないのである。

上述のことを踏まえてアダム・トゥーズのうちに想定される「政治」とは、複合的で地政学的でもある──そしてそのなかで経済が相対的に強固な力と理解可能性を形成するはずの──力学を把握することであり、そこで理解するという行為・・・・・・・・・・は権力の(ミクロ/マクロ)ゲームのなかで抽象的なあり方をしているのではなく、それ自体実効的なあり方をしていると考えられる。そしてケインズとはちがって、経済秩序の相対的に・・・・自律的な力は至福へいたる路として安易に想定されているのではなく、むしろヘーゲルやフランクフルト学派のように近代国家の中心にある破壊的な力としても考慮されている。トゥーズは経済という「第二の自然」が普遍的な祝福をもたらすものとされていた高度経済成長期を、むしろ例外的なものと考えているからである。

2008年や2020年のような経済危機は、たんに国家による介入を必要とするだけではない。世界経済がうまく機能しているとき、あるいは特にうまく機能しているときにこそ、結合された不均等な成長が既存の国家権力の構造に挑戦する。これは18世紀に遡る「貿易の嫉妬」の問題であり、かつては自由主義がその解毒剤になると考えられていた。だが自由主義はいつも暗黙の前提の上に立っていたのである。グローバルな経済成長が普遍的な祝福とみなされていた理由は、グローバルな秩序──まずイギリス、ついでアメリカによって繋留された繊細なグローバルヘゲモニー──をそれが乱さなかったからであった。この10年間のあいだにこの確信が崩壊した。[After Escape: The New Climate Power Politics

しかし危機の時代とは、これまで不可能とされていたことが可能になる時代でもある。トゥーズはこの可能性を積極的に承認し、認識しようとする。その短期的な楽観性とエリート主義、またエリート主義的であるにもかかわらず上からの秩序構想を拒絶しようとするミクロ政治学、それら水と油の混合が、アダム・トゥーズの「政治思想」の特徴である。

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