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社会免疫論 (20230113)

近代の政治神学の根底には、──ホッブズ、ルソー、シュミット、ベンヤミン、ジラール、ルーマンにいたるまで──免疫の隠喩が横断していることをロベルト・エスポジトは指摘している。近代の社会システムや政治的共同体は、ある種の免疫装置として理解できるのであって、たとえば法システムは社会的暴力にたいする免疫装置であり、国家は戦争という脅威にたいする免疫装置なのである。この想像力の限界は、免疫システムに危機をもたらす原因を敵性因子として理解し、排泄し、排除しようとする、システムそのもの実効性のなかにある。免疫の隠喩は、近代的な社会システムや諸制度を理解するために不十分というより、いわば過剰なのである。

だから免疫の隠喩は、認識論的なパラダイムではなく社会システムの機能的なエレメントを表現したものである(だから一定の認識論的な有効性をもつ)と同時に、西洋的近代の政治神学的な前提を構成するものとして理解できる。ジャック・デリダがその民主主義論のなかで「自己免疫性」という隠喩を用いて指示したのもまさにこの側面であった。民主的な政体は、反民主的なエレメントを排除しようと急くあまりに、その要求を徹底することによって(あたかも生体システムが自己免疫疾患に陥るように)その本質に反した硬直性をそなえてしまう。ファシズムはプロレタリアート独裁というブルジョワジーにとっての最大の脅威にたいする免疫装置として歴史に登場し、一時寛容されたが、後にそれはスターリンのソヴィエト以上の脅威として自由民主主義的な連合国の前に立ちはだかることとなった。

今日のポビュリズムの力学も、政治的・経済的・社会的危機にたいする政府の無能力にともなって免疫的な集団的想像力がはたらいた結果として理解できる。しかし免疫の隠喩は、システムの受動性だけでなく人工性も強調することができるのでなければ、認識論的には無価値である。システムが危機の産物であるとしたらそれは多かれ少なかれ人工的なものであって、その産出のプロセスには危機によって定義された主体が必然的に関与する。免疫の隠喩は、こうした主体の位置を見失わせてしまうという問題点があるのだ。さらに今日の危機の複合性はそこに自然的危機を数に入れなければならないという事情も加わる。

危機を敵対的に解釈する近代の政治神学の前提は、コロナウイルスのパンデミックによって顕在化し、気候変動の危機によって持続する自然的──かつ人工的──な危機に対面するものとしては不十分なものとなった。免疫の隠喩は、今や、政治的なものを敵対性によって解釈する近代の政治神学的前提から切り離される必要があるだろう。

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