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ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズ──明晰に語りえないことへの哲学的推論の侵犯について

ヘーゲルは次のように述べている。

たとい、自由な精神に所属する独特に人間的な内容もまた感覚の形式を受け入れるにしても、感覚の形式そのものはそれにもかかわらず動物的心と人間的心とに共通な形式であり、それゆえにあの独特に人間的な内容にふさわしくない形式である。精神的内容と感覚との間の矛盾は、精神的内容は自己自身において一般的なもの・必然的なもの・真実に客観的なものであり、感覚はそれに反して或る個別化されたもの・或る偶然的なもの・或る一面的に主観的なものであるということのなかに存立している。[159]

『精神哲学(上)』船山信一訳、岩波文庫、強調引用者

一見すると精神的内容にふさわしい形式とは言語表現であるようにおもわれる。ヘーゲルは感覚を表現とみなしていることに注意しなければならない。感覚が精神的内容を表現することができるのでなければ、そこには齟齬が生まれようもないからである。言語表現はまた、感覚内容を表現することもできるということに注意が必要である。ギャップはどこにあるのだろうか。

ウィトゲンシュタイン的なケースを考えてみよう。痛みという感覚をわたしが感じたとする。わたしは「痛い」と言う。他者がそれを見て、わたしが「痛みを感じている」と結論する。そこに奇妙なことは何もないかのようである。しかしウィトゲンシュタインはこの常識を問い質す。わたしが痛みを感じている表情をすると、他者も同様の結論をえるだろう。それと、言語表現のケースでは、何が異なるというのだろう。わたしの痛みの内的な表現としての感覚と、その感情的な表出と、言語的表現と、何が異なるだろうか。

もっと微妙なケースとして、痛みという感覚ではなく、悲しみという(より精神的な内容をそなえているはずの)感情のことを考えることができる。わたしは悲しみを感じているのだが、それを他者に言葉でうまく伝えることはできないとも感じている。もしそうであるとすれば、わたしはそれを、どうして自分にたいしてであれ「悲しみ」と適切に名づけることができるだろうか。それは本当に悲しみなのだろうか。そこでわたしは、自分が何を感じているか知らないまま、その感情を伝えようと、「悲しい」と言う。それを見た他者は、わたしが「悲しみを感じている」と結論づける。しかしそこには何やら齟齬があるようだ。あるいはわたしは悲しんでいたのではなくて、たんにそのひとの気を引きたかっただけなのかもしれない。わたしは自分で何を感じているかわからないまま、涙を流す。わたしは泣いている。それを見た他者は、わたしが「泣いている」という結論を下す。今度は、そこに齟齬はない。泣いているという事実はこの上なく明白なものである。

ここに興味ぶかい捻りが起きていることがわかる。表現の形式として、感情が精神的内容にふさわしくないものであるというのは直感的に理解できる。表現の形式として、ここでは言語の方がその内容の実質(しかしそれは何だろうか?)にふさわしくないということが起きているのである。ウィトゲンシュタインが生涯魅了されたギャップとはこのようなものであったとわたしは思う。

われわれの誰にも増して単純ではなかったヘーゲルは、やはりここでも感情が精神的な内容の表現を含みうるという事実に気づいていた。この表現をヘーゲルは、感覚の内面性(精神的実質)への取り込みとしての「想起=内化(Erinnerung)」と区別して、「身体化(Verleiblichung)」と呼んでいる。そしてこうした身体化のきわ立つ例がまさに涙を流すことであり、ヘーゲルにとってこの移行(感覚的内容から精神的実質への)は興味ぶかい繊細な過程、異なる地層への転化と脱地層化を含むものである。

したがって、涙はただ苦痛の外化[Äußerung]であるばかりではなくて、同時に苦痛の疎外[Entäußerung]である。それ故に涙は、ちょうど涙に溶解しない苦痛が健康に対して有益な作用をおよぼす。涙においては苦痛──すなわち引きさくような対立が心情のなかに入りこんだという感情──が水になる、すなわち中性的なもの・無頓着なものになる。そして、苦痛はこの中性的な物質的なものに転化するのであるが、この中性的な物質的なものは心によって心の肉体性から分離される。[186]

ヘーゲルの魅力の本領はこうした繊細な解釈の技量にあるといってもまちがいではないのであって、彼が語りえないことについて語っているという印象をもつとしても、それは確かにその通りなのである。語りえないことと語りうることをどう区別すべきかということは、後期ウィトゲンシュタインを魅了した先のギャップとかかわる。なぜならこのギャップはまさに語りえないことと語りうることのあいだに位置づけることはできないという特徴をもつからである。

語りうることをどう定義すればよいかという問題にたいしてひとつの批判的な解答を与えたのがドゥルーズの『差異と反復』の第三章、「思考のイメージ」の章である。ドゥルーズにとって「語りうること」は共通感覚の対象として定義できる、というか、デカルト以来の近代哲学のドグマ的前提がそう定義してきたのだった。わたしが泣いているときそのことはとりわけ明白な事実を構成するようにおもわれた。しかしわたしが悲しんでいるとき、それが明白な事実を構成するかどうかは定かではなかった。一見すると、わたしが泣いているという事実について明晰に語りうるかのよう(わたしは泣いているか、泣いていないかのどちらかである)であり、悲しみについても同様(わたしは悲しんでいるか、悲しんでいないかのどちらかである)のようにみえる。しかし実際には、わたしの悲しみは他者には感覚しえないものであり、そしてわたしの感情は、それを悲しみと名づけることでかえって齟齬が生まれるかのようにおもわれるのである。こうしたギャップが涙について生じないのは、わたしが涙を流しているという事実について語りうるだけでなく、見ることができ、触れることができるということ、共通感覚の対象であるという根拠にもとづいている。そして共通感覚の対象であるということは、諸感覚や諸能力の協働の対象であるというだけでなく、他者たちの感覚や諸能力のあいだでの共通性をも構成するのである。わたしが見ることができ、かつ触れることができ、音を聞くこともできる何ものかは、他者にたいしても同一性を構成するものとしてあらわれることが期待できるのであり、このことは「明晰かつ判明に語りうること」の境界をなすのである。

しかしこうして共通感覚の対象である境界を護るかぎりで不可解な事実として侵入してくるのがわたしたちの内面性や歴史性のような、判明に語りうるかもしれないが明晰には語りえない事実性の領域(あるいは明晰に語りうるかもしれないが判明には語りえない領域)である。

哲学的推論はこの領域への侵犯として概念を構成することでなければならない。しかしこの侵犯は、経験の領域を超える侵犯ではなくて、経験の領域を区切る断層、判明に語りうることや理解可能なことの区切られた地層への侵犯であり、この断層そのものをして語らしめることである。それは経験からの超越ではなくて(ヘーゲルとドゥルーズによると)経験そのものの超越へのアプローチなのである。

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