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『天気の子』と物語の代償

 少年に拳銃が与えられたら、その贈与は償われなければならないというのが物語の掟である。ありそうにない組み合わせは社会の秩序を掻き乱すが、そのことによってもとある秩序の不連続性を浮き彫りにする。都会と田舎の対照は新海誠が好んで活用する二項対立的エレメントのひとつであり、田舎から都会に出てきた少年は社会の交換規則の非対称性のなかで何かを喪失しなくてはならない。それが成熟するということの一般的な意味なのだが、物語はその喪失を補填する贈与によって社会が強いる交換規則に抗おうとするだろう。少年には空から降ってきたような少女が、太陽のように物惜しみなく与える少女が、もっともありそうな接合(ボーイ・ミーツ・ガール)のなかのありそうにないオブジェクト(100パーセントの晴れ女)としてあたえられる。これがセカイ系と呼ばれる物語のコードに従ったものであることに疑いはない。男と女、あるいは少年と少女の組み合わせほどありそうな、社会の象徴秩序に適合的な組み合わせがほかにあるだろうか。メロドラマと姦通小説においては、社会的障壁を乗り超えることの要求が本来の交換を掻き乱す性的関係のなかで表象されるのだが、社会的階層を超えた愛、家族のことを顧みない姦通、それら「侵犯」は物語のなかで償われなければならない。その涙とともに社会の不連続性が浮き彫りにされ、批判に曝されるというのがこのジャンルの特徴である。セカイ系のコードもまたこの意味でメロドラマ的進行に従っていることはあきらかである。しかしそれは社会の不連続性を最大限強調するために、少女という「最高の交換価値」に魔術的な性質を付与する。そのことによって少女は交換の外れ値、すなわち供犠の対象となるだろう。物語の内部における贈与は、少女がみずからの消失によって贖わなければならない魔法である。

(セカイ系の代表作として)高橋しんの『最終兵器彼女』では、最大限にありそうな少年と少女の組み合わせに兵器と少女という最大限にありそうにない組み合わせが対立する。一般的なロマンスの形式において、愛は社会の不連続性(恣意的なコードの織り成す障壁)を乗り超えることが素朴に期待される。メロドラマ的形式においては、愛は乗り越えがたい障壁にぶつかることでそれ自体が崇高な価値へと高まり、世俗の内部での超越としての不可能な愛の領域が(出会い損なうことによって)かたち作られる。メロドラマにおいては、「社会か愛か」という二者択一で社会を選ぶことはいわば公理的に強いられているのであり、その強制力の欺瞞と恣意性が愛を荘厳へと高める物語のなかで批判されているといえる。セカイ系のコードはこの前提から出発する。少年と少女はみずからの喪失を償うことができないまま大人になることが予期されるが、その予期を宙吊りにする贈与が物語のなかであたえられる。それはロボットだったり、超人的な能力だったり、世界のなかで割りあてられた救世主的なポジションだったりする。青年と大人の領域のあいだに広がっている砂漠は、社会権力の淫らな表象とひとつに結びついているだけでなく、贈与の過大さがもたらす苦痛とも結びついている。魔法の贈与はファンタジー(ロマンスの亜種)とはちがって主人公の成熟を助けない。贈与はむしろ成熟を妨げ、成熟によって喪われる有限なエントロピーの代わりに、世界の崩壊か主人公の消失でもってそれに応えさせようとするだろう。この「誇張法」がセカイ系というコードの特徴をなす。社会的権威はそれ自体が淫らで暴力的なものとして表象され、その不実を少年と少女はみずからの犠牲において贖わねばならない。よく言われるようにこれら物語のコードは新自由主義のイデオロギーを支えているというより、社会の隅々まで染み込んだ競争原理の暴力性を前提として用いているにすぎないだろう。青年はしばしば社会の猥雑な権威のもたらす暴力にほとんど比例するかのように、その恣意的な強制力にたいして反発することもできる。「社会か愛か」という古き良き二者択一にたいして、不可能な選択肢を選ぶということがセカイ系の規則であり、この選択をとりわけ少女が消失でもって贖うというのが一般的な事例だ。『最終兵器彼女』において、愛を交わすことと世界の崩壊、およびヒロインの自我の喪失はほぼ同時的に進行する。そこで社会は批判されているのではなくたんに否定され、愛は肯定されているというより世界とともに棄却されている。

 新海誠の作品のなかでセカイ系のコードにもっとも忠実に従っているのは『雲のむこう、約束の場所』である。少女はやはり社会の不連続性を贖うありえない贈与として機能することが期待されているのだが、『最終兵器彼女』とのちがいは、少女の消失それ自体が「愛の喪失」というメロドラマ的モチーフによって補完されているということである。そのことによって、物語には調和がもたらされる。新海誠の特徴的なディテールのきらめき、風景の美しさは、過去形のモノローグの語りとともに最初から「喪失すべきもの」として示唆されており、このスタイルはセカイ系のコードを離れた『秒速5センチメートル』のなかでいっそう純化された表現をみた。セカイ系に特徴的な魔術的エレメントの代わりに、この作品では古典的な愛のすれちがいが描かれている。独特なのは、そこで描かれるすべての光景が喪失の予感を湛えているということである。『言の葉の庭』は一見して『秒速5センチメートル』と同様魔術的エレメントを欠いた作品にみえるが、実際はそうではない。ありそうにない組み合わせ、対照は、この作品では青年と教師の恋というかたちで定式化されており、一見してメロドラマ風の進行に従うかのように推移する光景は例によって「きらめき」を放っているが、この物語の結末は「喪失の拒否」として示されている。この「転向」は深海の近三作を特徴づけるものであり、『言の葉の庭』ではこの作品の全体的に高揚したムードが最終的に「喪失」によって位置づけられるのではなく、「喪失の拒否」によって位置づけられる。犠牲は提供されず、少年は年上の教師の懐に返ってくる。この返却は、しかしどんな代償も払わなかったわけではない。代償を支払っているのはおそらく「物語の規則」である。物語の規則に違反した返却を「魔術的シークエンス」と呼びたくなるのだが、この映画では、一見して理由のない返却へと移行するシークエンスはひたすら風景と連動したポップミュージックによってのみ支えられているように感じられる。物語は形式上あきらかにメロドラマ的進行を予期させるものだが、わずかなシークエンスにおいて「魔術的に」ロマンス的高揚へとコードが移行させられているようにおもわれる。この魔術的シークエンスは『言の葉の庭』ではほとんどミュージックビデオの軽薄さと表裏一体のものである。すでに論じたことがあるように、『君の名は。』における魔術的シークエンス(祠のなかで口神酒を飲むことでタイムリープする)もやはりなんの理由もなく物語の展開の後押しをする。しかしその蝶番は「現実の期待」(東日本大震災にも似た災害が贖われること)によって支えられているので、その魔術は『言の葉の庭』の疑似リアリズムとはちがって作品のなかにしっかりと場所を占めている。

 ところが『天気の子』では、魔術的シークエンスが現実の期待と対応しているようにみえるのは上辺だけのことである。雨が振りやまないという異常気象は人類史の規模でみると自然なサイクルの一部とされ、「祈り」によって晴天を回復することはむしろそれ自体が自然を乱す行為だとされる。異常気象そのものが人間の行為の帰結だという「現実の」気候変動にかんする科学者たちの見解はこの作品では採られていない。作中で占い女が「自然を左右する行為には、かならず代償がともないます」と言っているが、これは晴天を回復しようとする陽菜自身の行為(祈り)を暗示したものである。そしてこの作品のメッセージは、少女の犠牲化という作中物語に対抗的なのであって、この占い女の言葉に反したものではないということを強調しておかなければならない。作中で語られる物語とは「天気の巫女」が犠牲になることでこれまで天候を回復してきたという史的逸話である。陽菜は現代の天気の巫女であるということがあきらかになり、晴天を祈るが、その願いが叶うと同時に彼女は消失することになった。しかし結局、主人公の帆高とともに陽菜は晴天の回復よりも恒久的な雨天の方を選ぶのだった。それは、帆高が陽菜の消失を拒絶したからである。従って記号の交換はもとの鞘に収まり、祈りはまったく空虚な行為であり、何も引き起こさなかったかにみえる──彼女たちの愛の実現という意味のほかには。

 しかしこうした解釈はまだ十分なものとはいえない。自然のサイクルはもとより連続的なものであり、いかなる代償も強いることはないとはいえ、物語を語っている以上、すなわち社会の不連続性をもたらす交換規則のなかで語っている以上、ある種の「喪失」は避けられない。帆高も強調しているように、一見して何も引き起こさなかった象徴的交換が決定的に重要だったのである。物語の表向きのメッセージは、ありえたかもしれない「晴天の世界」にたいして、有限な愛──社会のどんな掟も苛立たせることのないようなありふれた組み合わせ──の肯定である。しかしこのロマンス的選択よりも重要なのは、それがどんな犠牲を払うことも拒絶した決定であるということの方である。というのも帆高と陽菜は、結局のところ自然のサイクルとリズムを再度肯定したにすぎないのだから。自然の不連続性とみえていたものは実は一歩下がってみると、人間の社会的次元の不連続性にひとしかった。天候を左右しようとする行為は自然の連続性を損なうものであり、そのことによって天気の巫女はみずからの消失というかちで犠牲を強いられることになるだろう。社会のもとからあった不連続性はこうして説明される。『天気の子』はこうした作中神話に抗おうとしているのだが、徹底された犠牲の拒否というモチーフはかえって物語そのものに不均衡な印象を付与してしまっている。その結末はどこか不条理な、いってみるならば作品が否定しようとしているコードによってかえって打ち負かされてしまっているような印象を残す。『言の葉の庭』と同様に、犠牲を拒絶したことによってかえって物語そのものが代償を支払うことを余儀なくされたともいえよう。しかしそれは『君の名は。』を経たことによってもう少し洗練されたかたちで示されている。『君の名は。』において、魔術的シークエンスは現実の期待により添うことで物語そのものが代償を支払うことのないぎりぎりの外見が保たれていた。『天気の子』に同様の構造をみるならば、これは気候変動という現実の危機(ないし神話)にたいするメタ神話ということになる。しかしそれはつまらない解釈であろう。この作品はメタ神話的であるとしてもセカイ系という物語のコードにたいするメタ神話である。この作品の真のモチーフは「喪失」を位置づけようとする物語の掟を裏切ること、すなわち「セカイ系の贈与」にたいする「代償」を拒絶することにほかならない。

 象徴交換は何も生じさせない場合にもエントロピーという喪失を生み出す。物語の掟とはこの喪失に場所をあたえることであるとすると、セカイ系のコードは、「成熟の拒否」というモチーフと魔術的贈与を組み合わせることによって耐えがたい緊張(贈与の帰結)を耐え抜こうとすることである。そこにある緊張が本質的なのである。『天気の子』はこの意味でセカイ系に属する作品とはいえないだろう。それはむしろ「反セカイ系」であり、谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』のように境界的なケースとも区別される。『涼宮ハルヒ』シリーズはセカイ系のコードと情緒を前提とした上で、それを回避することを構成的なモチーフとした作品である。『涼宮ハルヒ』シリーズにおいて、本質的な緊張(ヒロインが自分の能力を知ったら、世界が終わってしまうかもしれないという予感)は物語の結末の向こう側で働いている、物語を終わらせることのできない理由である。物語が終わってしまうとセカイ系になってしまうだろうというこの不安において、『涼宮ハルヒ』は境界的な作品なのである。たいして『天気の子』はセカイ系にとって本質的なこうした緊張を真っ向から否定している。それは拍子抜けさせる結末が示していることであり、もくろみ通りセカイ系を免れることに成功しているが、物語としては失敗しているという印象を免れない。要求された代償を物語そのものが支払ったのというのはその意味においてであり、バックグラウンドで流れるミュージックがその償いをすることが期待されている。その上昇のリズムと俯瞰するきらびやかな風景は『天気の子』が『言の葉の庭』と共有するキッチュさであり、それは、ポップミュージックが同様に効果的な役割をはたすことを期待された『秒速5センチメートル』とは、不思議なことに共有していない特徴である。後者において「風景の美しさ」はそもそもその喪失を予感させる場所に収まっており、いうならば映像は過去形のオーラを発揮しているのだ。新海誠の作品の特徴をなすといわれる「美しい風景」は、それほど意外なことではないが、テレビ広告の表現のなかにもぴったりの場所をみつけることができる。しかしそれをプロット上に位置づけるには下降のリズムと喪失の物語が必要だったようである。作家にとってそれは戻ることのできない過去であり、従って否定されなければならないのだが、『天気の子』において感じられるのは、自然のサイクルがもたらす爽快さではなく、プロットが抗おうとしているコードの不条理なまでの強固さである。

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