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アガンベンのスキャンダル

哲学者のジョルジョ・アガンベンが新型コロナウイルスの流行にかんして最初の発言をしたのは、今からおもうと比較的早い時期、2020年2月26日のことだった。彼は「エピデミックの発明」と題した文章のなかでCovid-19をインフルエンザの亜種と断じ、メディアを通じて醸成されていたパニックの雰囲気に釘を指した。彼の目には新しい感染症の流行はさして新しいものではなく、第一次大戦以来というものその歴史的役割を終えていた近代国家権力が、「テロとの戦い」についで危機を統治パラダイムとする絶好の機会として用いようとしているようにみえていた。まさにアガンベンがこの文章を発表した前後に、イタリアでは感染者数とともに死者数も増加していき、医療制度は崩壊し、西側における新型コロナウイルスのパンデミックの地獄のような中心地と化していったことはひとも知るところである。

アガンベンが感染症にたいする政府とメディアの反応を、生政治的な統治パラダイムの拡張のためのアリバイ工作のようにみなす文章を発表した翌日に、アガンベンの知的盟友であるフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーがただちに彼を批判する文章を公開した。そのなかには辛辣な一節があった。そこでナンシーはかつて医師から心臓移植手術を受けるよう勧告されたこと、そのとき助言を求めた一人がほかならぬアガンベンであったこと、さらに彼からは医師の勧告に耳を貸さないよういわれたことを暴露した。アガンベンの助言を聞き容れていたら、ナンシーは生き延びることができなかったであろうと。ナンシーはこうして、世界がアガンベンの政治的助言に耳を貸すことがないよう促したのである。

アガンベンのスキャンダルは、彼の判断が時期尚早なものであった点にあるのではなく、その後に判断を変えるどころか態度を硬化させていった点にあるといえる。その後もアガンベンは出版社に提供された自身のウェブサイト上で、パンデミックとその反応を批判する文章を次々と発表していった。今年の7月にはアガンベンはワクチン接種を証明する「グリーンパス」の導入に反対して、それをナチスの統治下でユダヤ人が着用することを強制された「黄色い星」に喩えすらした。グリーンパスが市民のあいだに分割を生み、ワクチンを摂取していない者にたいして「二級市民」の烙印を押すことになるというのである。こうした比較はアウシュヴィッツの生存者からも批判されているだけでなく、いっそう衝撃的なことに、この比較がむしろ凡庸な右派のステレオタイプを流用したものにすらみえるという事実がある。アガンベンの比較に少し先立って今年の5月には、アメリカの陰謀論者でトランプの支持者としても有名な共和党議員マージョリー・テイラー・グリーンが、従業員にワクチン接種完了の名札をつけることを課す企業のことを「まるでナチスがユダヤ人に金の星を着けることを強制しているようだ」とツイートして物議を醸していた。

さらに、アガンベンは先日(1月29日)の彼自身が主導した反ワクチン派のカンファレンスで「今日、私の国では1938年の「非アーリア人」にたいするファシスト法よりも10倍も厳しい措置が「反ワクチン派」にたいして適用されている」と発言した(YouTubeのリンク先は「規約違反」により2月6日現在削除されている)。

こうしたことから、今日ではアガンベンの名は以前からの熱心な読者のもとを離れ、反ワクチン派と反マスク派のあいだで象徴的な人物となってしまったのである。

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