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ポリクライシス──1970年代の危機との比較

危機は終わった、後は安心して経済の話をしよう

スイス・アルプスで開かれたダボス会議(世界経済フォーラム)の参加者を包むのは驚くほど楽観的なムードだった。インフレは頭打ちの兆しをみせ、景気後退の懸念は依然としてあるものの、2023年の経済見通しは比較的明るいものと考えられた。これはウクライナでの長引く戦争やパンデミックの余波、FRBの利上げにともなって生じるさまざまな懸念(深刻な食糧危機を含む)のことをおもうと驚くべきこと──エリートたちの高山病のようにすらみえる。

他方、アルプスで今年のバズワードとなったのは「ポリクライシス(polycrisis)」という言葉だった。

ポリクライシスは歴史家のアダム・トゥーズによって広められた言葉で、最近のウクライナ危機、コロナウイルスのパンデミック、インフレーション、(特にアメリカの)内政的緊張、(特にアメリカと中国の)地政学的緊張、気候変動といったレーンの異なる危機が相互に重なりあって、互いに増幅しあう様子を指している。複合危機と訳すこともできるだろう。

ポリクライシスの特徴は文字通り危機が複合的で、それぞれの危機因子をリストアップすることはできても、そこから一貫した構造を──従って解決策も──とり出すことができないということにある。危機の複合性は互いに増幅しあって、最悪の場合には人類の存亡を脅かすものともなりうる。

しかし現在の危機がポリクライシスであるという解釈には異論もある。たとえばノア・スミスは、複合危機には(それに対処しようと人類が集団的に努力することで)「複合解決」という側面もあると注意を促している。それに加えて偶発的ではあるが、それぞれの危機因子が互いを抑制するケースもかなりあるので、ポリクライシスを、最終的な破局へ向かう増幅傾向として解釈することには無理があるだろうとしている。

一例をあげると、中国経済の減速は通常ならグローバル経済に相当な打撃を与えるはずだった。つまりプラスの危機因子として、他の因子(たとえばウクライナ戦争)と重なりあって、危機的状況を加速させるはずだった。その代わりに実際に起こったのは、中国の需要の低下がウクライナ戦争による石油価格の高騰を抑え、複合危機の効果を和らげたということである。

トゥーズの定義ではポリクライシス的な危機の総和は「部分の総和よりさらに圧倒的なもの」になるはずである。ところがスミスは、今日の危機は「分散型の金融ポートフォリオにふくまれるお互いの相関が低いあれこれの資産に似ている」としている。「あっちの問題が悪化しつつあるときには、それと別のどれかの問題は改善しつつある場合が多い」。なぜなら複数の危機レーンのあいだには、構造的な連関がないからである。

しかしスミスは奇妙なことに言及していないが、それぞれの危機因子のなかに互いに抑制しあうものもあるという事実には、トゥーズ自身も気づいていた。

危機をもたらす他の力は、互いに相殺しあう傾向がある。中国におけるコロナ・ロックダウンの新しい波は、コモディティ市場の勢いを削ぐのに役立ち、石油や鉄などの価格を下方に押し下げて、インフレ圧力を緩和するとおもわれる。

Adam Tooze, Chartbook #130 Defining polycrisis - from crisis pictures to the crisis matrix.

これはもちろんスミスがあげたのとおなじ例である。さらに下記のマトリクスでは、危機因子が重なりあうことで「Escalate」する影響が赤字で強調されているが、危機を緩和する「Descalate」の項も無視されていないことから、スミスの異論が、「われわれの未来が明るいものかどうか、ポリクライシスは破滅へと向かうか傾向があるか」というレベルのものであることがわかる。

結局、こうした問いへの答えはイデオロギー的に色づけられた予断としてしか可能ではないだろう。問題はむしろ、ポリクライシスという観念の内的な構成とエリートの楽観のあいだに、何らかの関連があるのではないかということの方である。


エリートたちの楽観の理由

JPモルガン・チェースのダニエル・ピント社長は、「世界は戦争や新型コロナのパンデミック、歴史的な金融政策正常化の時期を耐え抜いてきた。そうした困難を考慮すれば、世界は予想よりはるかに良い状況にある」と最近述べた。ノア・スミスも、「世の中を見渡してみても、複合危機は見当たらない。むしろ、複合解決が台頭してきているのが目につく」と述べている。こうした印象はどこから生じてくるのだろうか。

ヒントは、アダム・トゥーズが現代のポリクライシスを1970年代の危機との対比のなかで定義していることのなかに見出せるとおもう。

1970年代には、ユーロコミュニストであろうとエコロジストであろうと、または不安に駆られた保守派であろうと、悩みの種をただ一つの原因に帰すことができた。多すぎる権利(entitlement)と過剰もしくは過少な経済成長に脅かされた後期資本主義である。原因が一つであるということは、社会革命や新自由主義といった全面解決を想像できたということでもある。

過去15年間の危機が混乱したものとなったのは、単一の原因を指摘することがもはや妥当とはおもえず、その結果、単一の解決策を示すことができなくなったからである。1980年代には、「市場」が効率的に経済を動かし、成長をもたらし、論争を引き起こす政治的問題を解消し、冷戦に勝利することができると信じられたかもしれないが、今日だれがおなじ主張をするだろうか。民主主義の崩れやすさがあきらかとなったのだ。

Adam Tooze, Welcome to the world of the polycrisis

トゥーズはこのように現代のポリクライシスが構造的な一貫性を欠いていることを、1970年代の危機との相違のなかで理解しようとする。しかし70年代の危機は、実際には構造的な単一原因に帰すことも、単一の解決策によって解消することのできるものでもなかった。トゥーズの解釈は、彼が別のところで批判している新自由主義的な歴史観に非常に近いものである。すなわち、70年代の危機は何より経済的なものであり、その解決策は統治を市場に任せることによって果たされるという、マネタリスト的な理解のことである。

当時の危機を財政危機と解釈する左派の文献(ジェイムズ・オコンナー『現代国家の財政危機』)もあれば、文化的な危機によって駆動されたものとみる保守派の文献(ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』)もある。資本主義の全般的な危機傾向の複合的な表現とみなすフランクフルト学派の立場(クラウス・オッフェ『後期資本制システム』、ユルゲン・ハーバーマス『後期資本主義の正統性の問題』)は、それらを総合したものといえよう。保守的な支配層にとって同時代の危機は、資本主義の内的な傾向から生育したものというより、民主主義を脅かす民主的な要求の高まりと関係があった(日米欧委員会『民主主義の統治能力』)。彼らに共通していたのは、危機をある程度複合的なものとみなす傾向である。トゥーズの観点に欠けているのは、危機が(特に保守派にとって)文化的な不可逆性をともなう危機であるということ、また(左派にとって)社会闘争と労働闘争によって争われるという側面である。

トゥーズによるポリクライシス理解は、70年代の危機がいわばモノクライシス(単一危機)であったという解釈の上に築かれたものである。しかしそれは回顧的に、「金融化」という解決策が訪れたあとの観点に立ったときにのみ可能な解釈のようにおもわれる。70年代の危機は、当事者にとって社会的・経済的・政治的・文化的な危機が重なりあった複合的な状況を反映するものであった。

たとえば1968年のグローバルな学生叛乱と、1973年のオイルショックのあいだには、必然的な連関は何もなかった。しかしそれらは一体となって、ひとつの危機表象──正統性の危機──を形成しつつあったのである。後期資本主義の問題とは、民主的な要求を考慮しつつ資本主義をコントロールしなければならない、国家の統治能力にまつわる危機でもあった。しかし国家は、社会危機に対処しようとするなかで、経済危機(インフレ、財政危機、収益性の危機)をさらに悪化させることとしかできなかったのである。保守派によって民主主義の統治能力が疑問視され、左派には資本主義の蓄積能力が限界に達しつつあると考えられた。

現代のポリクライシスと1970年代の危機とを比較してみたときの相違は、(今となっては)当時の危機を階層的な悪循環をなすものと解釈できることである。つまり、危機(A)に対処することで、また別の危機(B)がもたらされ、そうした危機の複合性が、危機の緩衝装置にたいする疑義(C)へと行きつくのである。こうした異なる水準を横断する悪循環的構造をもつ危機を、階層危機ないし「ハイクライシス」とでも呼ぶことができるだろう。

現代の危機は確かにこのハイクライシスとは異なる。しかしハイクライシス的な構造を欠いているわけでもない。たとえば、インフレをめぐる中央銀行の攻勢が深刻な景気後退をもたらすことがあきらかとなったとき、次の一手はどうなるのだろうか。そのとき中央銀行は、依然として政治的に中立なふりを続けることができるだろうか。1970年代の危機では、分配闘争の決定権を政治が放棄し、市場に委ねることよって、一見した「解決策」がもたらされたのである。しかし今日では、この決定がいかに政治的かつ経済的に不公平な結果をもたらしたかということがあきらかとなっている。中央銀行は、自分がいかに政治的な機関であるかということを自覚し、それを躍起になって隠そうと努めている最中である。当時と状況はちがうが、似たところがまったくないわけではない。同様のことは、気候変動をめぐる対応のリベラルな制約についてもいえるだろう。

現代のポリクライシスは、ハイクライシス的な構造をそなえていないというより、そうした構造を判別するためのクリティカル・ポイントを超えていないだけという可能性がある。水晶はまだ割れていないのだ。


五百万人の死よりも危険なこと

今日の支配層がもし、コロナウィルスのパンデミックに相対的にうまく対処できたという印象をもっているとしたら、死者数のような相対的な基準はまったく問題ではないという事実に気づくべきである。決定的なことは社会関係危機がもたらされなかったようにみえることである。中国がうまく対処しているというとき、われわれはアメリカやブラジルと較べてそういっているわけではない。われわれは漠然と、中国共産党は対処をまちがったら体制が転覆される可能性があると感じていたのである。これと同様のことはプーチンのウクライナ侵攻についてもいえるはずだ。プーチンの予測は甘かったが、それでも体制が転覆されるような兆候はまったくない。先進国の経済学者や政治家も、インフレの対処だけでなく、気候変動の危機についてもおなじような印象を抱いているのではないか?

ポリクライシスという観念の中心に、社会関係危機というクリティカルな切れ込みを入れ直す必要があるだろう。階層上をなし悪循環をなすハイクライシスと対比したとき、現在のポリクライシスの特徴は、非線形的で分散的な性質にあるというより、その複雑性が、今のところ社会関係危機へと階層的に繋がっていないようにみえることである。しかしその保証はどこにもないだろう。

他方でポリクライシスの特徴を理解するには、事柄を裏側から捉え直す必要があるかもしれない。それは、社会関係危機を追求する勢力が欠けているかきわめて弱いことである。そのため緩衝装置がうまくはたらいているような見かけが生じているのだが、それは、1970年代の危機にたいする政治的な対応の成果でもあった。それは金融化が経済に安定をもたらしたという意味ではなく、資本への労働力の従属関係が強化されたという意味である。国家による財政的な介入は、この関係が危機に曝されないかぎりで許容されるだろう。インフレを社会がどの程度許容するかということも、この限界と関係がある。社会関係危機は、現実的な脅威というより、はるか向こう側にある潜在的な可能性として、支配層が何よりも恐れ、リベラルな危機対応の限界も、この地平線と地続きの現在のなかに書き込まれている、そうした危機である。

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