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「地に足をつけて夢を追う人」をめざして。

30歳を迎える少し前からずっと、「地に足をつける」って結局どういうことなのだろうとよく考えている。
その時々で「きっとこんなんじゃないか?」と、その時の自分にしっくりくる答えを見つけるのだけれど、1年くらいするとまたふと同じように考え出す。ずっとどこかしっくり来ていない言葉の一つだ。


辞書には大抵「落ち着いた考えや行動をしていること。堅実であること」みたいなことが書かれている。まあ、言葉の意味としてはだいたいそんな感じなのはわかっている。


世間一般的に「地に足のついた人」というのはしっかりした信頼感のある人みたいなイメージがあると思う。そんな意味である種の憧れのようなものを持っている。

けれど夢を持っている人にとっては「地に足がつける」というのは、悪意を持って言われる言葉だったりもする。「いい歳なんだから」とか「そんなことしてて、将来のこと考えてる?」みたいな言葉とともに「地に足をつけた方がいい」みたいに言われる。
私はそういうことを言われたり、言われたという話を聞くと「一生地に足なんてつけてたまるか!」みたいな反骨精神が出てきてしまう。我ながらひねくれていると思うけれど、私にとって「 夢を持つ 」ということが大切なのだろう。

そんな経験もあって「夢を持つ」と「地に足をつける」が対局に位置しているような感覚がある。
でも私は「地に足をつける」という堅実さも好きで、それと同時に「夢」も追いかけていたい。2つの言葉に正反対の意味を感じている私は、なんとなく自分がずっと矛盾した感覚を持っているような気がしているのだ。


だから度々、いつもなにかしらの夢を持っている自分に合う「 地に足をつける 」の最適解みたいなものを探しているのだと思う。



そもそも、「地に足がついた人」って具体的にどんな人なのだろう。
「いい歳なんだから…」などという言葉に修飾されたときの「地に足がつく」の場合は、安定した仕事につき、あまり無理はせず、身の丈に合った生活をしていることが「地に足がついた人」なのかなと思う。

でもだとすればアーティストと呼ばれるよう人や、スポーツ選手、私のような物書きを生業とする人はどうなのだろう。なかなか簡単に安定できる職業じゃない。
しかし一生、地に足がつかないかのと言われたら、そんなことも無い気がする。アーティストの方でも地に足をつけて活動している方はいるだろう。


あるドラマの脚本家さんで、ドラマで描いた出来事と似たようなことが数年後に起きるという奇跡のようなことを度々起こしている方がいる。
それは社会問題や世界情勢に関係することで、誰かが安易に模倣して起きているのではない。社会や世の流れを観察できているから起こることで、それは社会から浮くことなく、地に足をついているからできることではないかと思ったりもする。

その方の生活がどれだけ安定しているかや、身の丈に合っているかについてはわからないけれど、収入の安定度や生活が身の丈に合っているからそういうミラクルが起こせている、というのもなんかちょっとしっくりこない論理だ。


スペイン・グエル公園にあるガウディが作ったベンチ。
モザイクの材料に割れたタイルや食器が使われている。
ガウディって実は地に足がついた人だったり…?

地に足をつけると言うともう一つよく出てくるのが、結婚していることや子どもを持つなど、ライフステージが変わる経験をしているかどうかということだ。
結婚しても悩んでいる今の自分を考えると、「結婚」と「地に足がつく」は必ずしもイコールではないのだろう。子どもはいないので、たしかに子どもを持つとまた違う世界があるのかもしれない。まだこれは分からない。

だたこれもまた、子どもがいると「地に足がつく」傾向にはあるけれど、「子どもを持ては地に足がつく」「子どもがいないから地に足がついていない」というわけではない。

子どもを持つことは、あくまでも地に足がつく「きっかけ」なのかなと思っている。結婚していなくても、子どもがいなくても地に足がついている人はたくさんいるはずだ。


ほかにもよく言われるのが、「『現実』を見ることができているか」ということだ。これもまた、定義がとても難しい。

こういう文脈で使われる「現実」は大体、「目の前にある仕事や役目を淡々とまっとうすること」という感じがある。
もちろんそれはそれで素晴らしい。普通にやっているつもりで気づけば道を踏み外していたり、同じことを考えているつもりでも考えが世間一般の流れから外れてしまう人間としては、それができることがすごい、そして羨ましい。
だから私は、「地に足をつける」ということに憧れている気すらしている。



こうやって「地に足をつける」ということを考えすぎてこんがらがってきたので、先日夫にちらっと相談した。するとこんな答えが返ってきた。


「帰ってくる場所がちゃんとあることじゃない?」


夫いわく、野球で言うところのホームベースのような、自分が戻ってくる場所があることが「地に足をつける」ということらしい。
それがパートナーでも子どもでも友人・知人でも、家や部屋などの人ではない場所のようなところでもいい。そういう自分の基軸となる場所がある人は、地に足がついているように見えるのではないかという話だった。
確かにそれは一理あるかもしれない。

結婚したり子どもを持つと、自ずと帰る場所ができてくる。
ライフステージの変化によって地に足がついているように見えるのは、そこが理由にあるのかもしれない。


私はたまに、こういう禅問答みたいなことを夫に仕掛けるのだけれど、9割以上の確率で腑に落ちる回答をしてくれるのですごいと思っている。
夫に感謝だ。

同じくスペインのガウディ建築の屋上の煙突。
やや幻想的なシルエットなのに、使うタイルは同じく割れたもの。
割れたガラスの瓶を使ったモザイクタイルなどもある


一方で、「夢を追う人」と「地に足がつく」の関係についても、先日一つの答えが出た。


それは、ドイツに来るまで一緒に仕事をしていた仲間と、久しぶりに連絡を取ったときのことだった。
その人は私が渡独に向けて仕事を整頓していた頃に、ずっと持っていた夢を叶えるために一歩を踏み出した人だった。近況を報告しつつそのあたりのことを聞かせてもらったところ、もうすでに夢を叶えていた。

もしかしたら本人は、まだまだと思っているのかもしれないけれど、私にはしっかりと夢を叶えているように見えた。羨ましいというより、純粋にすごいと思ったし、眩しかった。


夢を叶えることは難しい。
最近では夢がないと悩む人もいることを考えると、夢を持つことも、持ち続けることも難しい時代なのだろう。
私自身も夢を持つものの、ことあるごとに揺らいでしまう人間なので、叶える以前に持ち続けることすら難しいと身にしみて感じている。


もちろんその人の叶えた夢は、そんな簡単には叶わない。
本人の努力があってこそ実現している。
夢を持って、持ち続けて、努力して、しかも半年ほどで夢を叶えているのにはとても驚いたし、そして以前から夢を持っていると聞いていた人間としては、とても嬉しいことだった。


その人はとても真面目で勤勉だ。
純粋で人の言葉には素直に耳を傾けられる人だ。
そしてなにより、私からはとても地に足がついているように見える。

コツコツと努力を積み重ねることができる人だから、私がドイツに来ててんやわんやしている間にも、淡々と夢に向かって努力していたのだろう。
それ以前からも色々チャレンジはしていたそうなので、この半年で更に努力の積み上げをスピードアップさせたところもあるのだろうか。



そんな夢に向かって一歩一歩確実に歩くその人の姿を想像しながら、私はずっと考えていた「地に足をつける」のことを思い出した。
そして夢を持ち追いかけている人でも「地に足をつける」ことはできるのだと思った。その人がそれができるという証人だ。


夢を持つことも大変だけれど、「夢を持っている」ということで満足している間は何も起きないし、当然、地に足もつかない。
自分のやるべきことや身の置き方、心のあり方すらも定まらなくて、ちょっとしたことでも浮足立ったり沈んだり、ふわふわと漂うような生き方になってしまう。
そういう段階の人は「地に足がついていない」と言われてしまうのだろう。



夢を持ったうえで、「ではどうするとその夢が叶うか」を考えて、具体的な行動に移し始めると、ようやく「地に足がついた」と言える可能性が出てくるのかもしれない。
夢のために動き始めるだけでもすごいことだ。けれどただ動き始めたことや夢の実現のためにやったことの一つや二つで満足していてもいけない。
夢が叶うまで腐らず淡々と、試行錯誤をし続けることが必要なのだと思う。


「夢」はよく、「『夢』をもっているだけではいけない。『目標』として具体的にしなければいけない」と言われる。
それで言うならば、『夢』を具体的な『目標』という形に落とし込んだうえで努力できる人が「地に足をつけて夢を追う人」ということなのだろう。
あえて「目標」と言わず「夢」と言い続けるのは、「夢」という言葉が好きだからだ。
届かないものに手を伸ばしているようなドキドキ感が、今は好きだ。



先ほど話した夢を掴んだその人もまさに、「地に足をつけて夢を追う人」なのだと思っている。地に足を着けつつ、夢に向かってコツコツと前進ができる人。
私もそんな人になりたいと思う。


バルセロナにあるガウディ建築で一番幻想的なのはカサ・バトリョだと思う。
こんな海の中のような家の中で、地に足がついた暮らしなんてできたのだろうか。
どうなの、バトリョさん?


ドイツに来てもう半年が過ぎた。本当にあっという間だった。
スタートから色々あって、未だに終わっていない公的な手続きもあるし(これがドイツタイム。笑)、暮らしに慣れているかと言われると、慣れたような、慣れていないような……という感じだけれど、そろそろやりたいと思っていたことを実行する時が来たのかもしれないと思っている。

ドイツ語(言語学習)、文字のアルバム、そしてもう一つ、大きな夢があるのだ。


その夢も多分、そう簡単には叶わない。
でも今だからこそできることとも言える。
さまざまな価値観や感性に触れられている今だからこそ、見えるものがある。



やっと「地に足をつける」の最適解を見つけた気がする。
もしかしたらまた、1年後くらいにまた悩むのかもしれないのだけれど。



とりあえず、「 今年の最適解 」くらいに考えておこうと思う。

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