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雲雀丘花屋敷のみちをゆく #11 消えた「やまんばの墓」
中学1年生の時、教室から見える雲雀丘学園グランドの裏山が燃えはじめたのです。「燃えている山を窓越しに見よう」と先生が言い、技術の授業がなくなったことがありました。
私は小学生のころ、その燃えて無くなる前の裏山へよく遊びに行っていました。バックネットのちょうど裏に人が通れる「入口」があり、そこが探検の出発地点。入っていくと大きな池がありました。
木々に覆われ日が当たらない細道を歩くと、正面に積み
雲雀丘花屋敷のみちをゆく#10 カモから始まる
「雲雀丘花屋敷の歴史って、ちょっと短いよなあ・・・。」
遠慮がちに友達からそういわれたことも。雲雀丘花屋敷は大正時代に開発された100年くらいの街です。その雲雀丘花屋敷から20分くらい歩いていった先に、弥生時代の大都市があったことは、あまり知られていないかもしれません。
駅から南へ下り、JRの線路をくぐり東洋食品工業短期大学の前を歩いていきます。最明寺川を渡り標高40メートルほどの台地に現れた
雲雀丘花屋敷のみちをゆく# 8 ベルのピロシキ
子供のころに食べたあの味をふと思い出す、ということはありませんか?
同級生と雲雀丘トークをしていたときのこと。雲雀丘花屋敷駅前に神戸ベルがあったという話題で盛り上がりました。
駅前のタクシー乗り場から少し行ったビルの1階にあり、いまはアメリカヤほーむクリエイトという不動産屋さんがあります。
昭和50年代から60年代、ベルは西洋の香りのする、モダンでハイカラなパン屋さんでした。パンだけではなく
雲雀丘花屋敷のみちをゆく #7 やまんばと紅葉橋
やまんば、と聞いて、どういう存在なのか理解ができるのは、それなりに年を重ねた人だろうと思います。
雲雀丘花屋敷駅から雲雀丘学園グランドへ向かう途中に「紅葉橋」という橋があります。
小学校低学年の頃だったでしょうか。学園グランドの裏山に遊びに行くとき、友達がこう言いました。
「この橋を渡るときにふりかえったらあかん、やまんばが出てきてかみころされるで。」
「やまんば」がどういうものか、私は知
雲雀丘花屋敷のみちをゆく #5 秀平さんのお庭
宝塚オープンガーデンフェスタというイベント。宝塚市内の個人邸のお庭を見学してもらおうという企画で、かれこれ20年ほど行われているそうです。
そのガーデンフェスタで、秀平和子さんがお庭を公開されているとお聞きしたので伺うことにしました。
抜けるような春の青空、太陽がほどよく照り付けた4月中旬。雲雀丘特有のぐいっと急に迫ってくる坂をあがりきると秀平邸に到着しました。ウッドデッキから視界が開け現れた
雲雀丘花屋敷のみちをゆく #2 花屋敷駅
阪急宝塚線の駅、雲雀丘花屋敷。ひばりがおかはなやしき。雲雀丘花屋敷は2つの駅が合体して出来た駅名なのです。「雲雀ケ丘」駅と「花屋敷」駅です。
明治43年に箕面有馬電気軌道、いまの阪急宝塚線が開通しました。その時作られた箕面有馬電車唱歌、12番から当時の沿線の様子がうかがえます。
♪南に開く山の影 新たに植えし花屋敷 木部(きのべ)平井や山本に 四季ももくさの花畑♪
開通当時には花屋敷のみで、
雲雀丘花屋敷のみちをゆく #1 主役は人
雲雀丘花屋敷は大正初期に開発されたまち。100年以上経過しました。歴史の風雪に耐え、いまも残っている当時の洋館があります。
この洋館のある風景が雲雀丘花屋敷の大きな魅力。洋館のお話は欠かせません。この「みちをゆく」は、雲雀丘の洋館を中心とした話になっていくでしょう。
川柳人の恵陸さんというお友達がいます。愛知県にお住いの恵陸さんは泣く泣く箕面にあった生家の取り壊しを経験されました。「人間の寿命
雲雀丘花屋敷のみちをゆく #0 はじめに
こんにちは。雲雀丘花屋敷のみちをゆくという、とてもちいさくささやかな紀行エッセイを書いていきたいと思います。イメージは司馬遼太郎さんの「街道をゆく」。「街道をゆく」を読まれたことありますか?
雲雀丘花屋敷は大正初期に開発された住宅地です。とても静かなまちです。苦楽園と比較すると地味な印象です。訪れる人も多くないでしょう。しかし実際に歩いてみると、じんわりと良さが感じられるのです。
それを書き残