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雲雀丘花屋敷のみちをゆく#10 カモから始まる

「雲雀丘花屋敷の歴史って、ちょっと短いよなあ・・・。」

遠慮がちに友達からそういわれたことも。雲雀丘花屋敷は大正時代に開発された100年くらいの街です。その雲雀丘花屋敷から20分くらい歩いていった先に、弥生時代の大都市があったことは、あまり知られていないかもしれません。

駅から南へ下り、JRの線路をくぐり東洋食品工業短期大学の前を歩いていきます。最明寺川を渡り標高40メートルほどの台地に現れたのが加茂遺跡です。

最明寺川がささやかでうつくしい

カモは大昔の旧石器時代から人が住んでいて、2,000年前には甲子園球場3つ分、最盛期を迎え500人もの人々が住んでいたと考えられています。

ちなみに「カモ族」なる一族が2,000年前にいたという、ロマンあふれる説もありました。しかし郷土史家の岡野先生いわく「それはまちがい」とのこと。6,7世紀に奈良葛城のカモ氏がこのカモの人々を同じ「カモ」という名に組み込んだというのが正しいようです。

弥生時代のカモの人たちは目を北に向けて、木々が繁る長尾山丘陵をながめ、現在の雲雀丘花屋敷あたりも目にしていたことでしょう。

加茂台地から長尾山丘陵を臨む

時代が下り、古墳時代の4世紀には長尾山に大きな古墳が築かれました。カモの首長がそこに祀られ、雲雀丘を含む長尾山丘陵はカモの人たちの聖地となったのでした。

加茂台地にある鴨神社のすがすがしい境内

カモの首長はなぜ雲雀丘のある長尾山丘陵を聖地にしたのでしょうか。死後はそこに葬られたいと思うような心を打つ美しい風景があったのでしょうか。

加茂台地に立ち目を閉じると2000年前のカモの風景が浮かんできます。カモの都市に暮らした人々の思いが、今の雲雀丘花屋敷の人々の思いと、うっすらとどこかでつながっている・・・。そう思うとわくわくしてきます。

雲雀丘花屋敷の歴史はカモを源流にして脈々とはぐくまれてきたともいえるでしょう。ロマンがあります。


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