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少年院卒の問題児が大人に求めていたこと

今になって振り返ると、非行に走っていた頃も母や先生に求めていたことがたくさんあった。

構ってほしいという気持ちに始まり、愛してほしい、けれど放っておいてほしいという、様々な気持ちがぐちゃぐちゃになっていたように思う。

特に中学生、高校生の頃は、「自分が今なにを思っていて、どうしたい」と説明するのが難しかった。

しかし、今なら当時の思いを言葉にできる。

問題児の言葉にならなかった声を、今日言葉に変えてみよう。


言葉も支援も誘導も要らないから、そばにいてほしかった


目に見えるようなことを、大人には求めていなかった。

生まれたての子鹿が懸命に立とうとするあの時間が、反抗期には似ている。

自分の足で立たなければ生きていけないと分かっているのに、反抗したくなる。立てないのは親や周囲のせいで、自分のせいではないと言いたくなる。

そんな気分だった。

当時の私の周りにいた大人は、親や先生を含めて説教しかしなかった。

そりゃそうだろう。

大人たちも皆、大なり小なり反抗期を経てそこへたどり着いている。

自分たちの経験で得た物差しで、私自身の経験を測りたくなる気持ちは十二分に分かる。

応援してると言いながら、説教をした。誘導しながら、抑圧した。

「お前のためだ」と言いながら、多くの大人が私に「普通」を押し付けた。

そんなものはひとつも欲しくなかったのに、だ。

中学生、高校生と言葉にできないほど心はぐちゃぐちゃだったが、唯一、居心地がいいと思える大人がいた。

それが年上の男性だったのだ。

私はセックスをする見返りに、多くの男性にお世話してもらった。

セックスの代わりに、家と食事と彼女というポジションをゲットし、自分の居心地がいい場所を作り上げていった。

彼らは、私になにも言わなかった。

学校に行ってくると言えば「気を付けろよ」といい、行かないと言えば「ゆっくりしてろ」と言った。

私はただ、自分の力で立つときまで温かく見守ってほしかっただけなのである。

しかし、親や先生には責任がある。

彼氏にはその責任がない。

親や先生が彼氏のような対応を取れない理由も分かっているし、彼氏だからできることも理解している。

だが、当時はその気持ちを言葉にすることができなかった。わざとしなかったのかもしれない。

彼氏に言われれば素直に従えることも、親や先生に言われると意味が変わってしまった。

受取手の気持ちに変化があれば、受け取った言葉の解釈も変わってしまうものだ。

そうしてだんだんとズレができ、溝が深くなっていったのだろう。

私の恋愛観は次第に歪んでいき、今では修正不可能となった。


忘れないで、子どもは知っているし分かっているよ


子どもだからとバカにしている大人は多いが、子どもは多くを見ている。

スマホに夢中になっている親のそばで、子どもは周囲を見回し情報収集している光景を見たことがあるだろう。

どんな大人がこの世に存在し、どんな親子関係が他にあり、自分はどんな扱いを受けていて、この状況になにを感じているのか。

そんなことを無意識のうちに情報収集がてら、心で整理している。

だが、大人とは違い、それらの感情を言葉にして伝えることができない。

たとえ小学生になっても高校生になっても、だ。

個人的に感情を言葉にするには、ある程度経験が必要だと思う。

悲しいことを一度経験しても、その悲しみをそっくりそのまま伝えることはできない。怒りや喜びも一度きりでは、相手へ伝えることは難しいものだ。

しかし、何度も経験しているうちに、人は自分の感情を言葉にすることが上手くなってくる。

今どのくらい悲しくて、どのくらい怒りを感じていて、どのくらいストレスになっているのか。

どれくらい嬉しくて、どれくらい幸せで、どれくらい感謝しているか。

そういった感情を何度も経験してようやく、相手へ伝えるための言葉を上手に選択することができるのだ。

まだ経験の少ない子どもは、泣きわめくことでしか感情を伝えられない。

喜びをオーバーリアクションで伝えるのも、それしか経験がないからだ。

だが、だからといって感じていることも同様かといえばそうではない。

表現方法こそ同じでも、感じていることは毎回違う。

深さも広さも異なる感情を、大人の物差しひとつで「決め付けてしまうと」子どもは「なんで分かってくれないの」となる。

重要なのはここだ。

ここで「なんで分かってくれないの!」と声に出せる子どもならいい。

中には、声を出せない子どももいることを忘れないでほしいのだ。

大人なら誰だって、子どもを経験している。

多かれ少なかれ反抗期や思春期があり、子ども心を知らずに育った大人はいないだろう。

しかし、人間は取るに足らない生き物だ。

自分が思っている以上に、不出来だと自覚した方がいい。

どんな大人も子どもを経験しているのに、子どもを忘れていく。

そんなことなかったような顔をして生きている大人ばかりだ。

子どもが知っているのに自分が知らないことを、素直に聞ける大人はどのくらいいるだろうか?

さも知った顔をして上に立とうとする大人は、どのくらいいるだろうか。

無意識のうちに子ども相手に勝とうとし、力を見せつけていることに気付いていない大人はどのくらいいるのだろうか。

目の前の子どもの目を、まっすぐに見てみてほしい。

きっとその子は、あなたよりも多くを知っている。


私が母に完全に背を向けられなかったのは、放っておいてくれなかったから


私の母は、私が反抗期の頃も放ってはおいてくれなかった。

中学時代の担任の先生が、私の母にこんなことを言った。

「お母さん、子どもと同じ土俵で戦ってはダメですよ。」

母はそれでも引き下がらず、私を追い回し続けた。

もちろん私は逃げ回っていたのだが、17歳のある日、レイプをされて妊娠した。

私はレイプされたことを、誰にも話していなかった。彼氏や友達にすら言わず、何事もなかったかのように日々を送っていた。

だが、妊娠した体に気付かないわけもなく、警察に行くことを決めた。

未成年で事件に巻き込まれたとなれば、母に連絡がいかないわけがない。

警察から「知っていますか?」と母に連絡が行き、私は母に電話をかけた。

開口一番、母はこう言った。

「産みたいなら産みなさい、父親が分からなくても半分はあなたの子よ。あなたがどちらを選んでも、ママにできることは全部するから自分の気持ちを大切にしなさい。」

意外だった。

怒鳴られるか、呆れられるか、捨てられるか、ついに絶縁か?と、そんなことを考えて電話をかけた私には意外すぎる言葉だった。

足りない頭で精一杯考えて中絶を選択したが、母は病院選びから手術の日まで全ての調整をしてくれ、そして手術代も負担してくれた。

少年院を出たその日、母はこう言った。

「あなたの子どもに手を合わせに行こう。あの子にあなたが親でよかったと思われる生き方をしなさい。それがあなたにできる、あの子への供養よ。」

そんな母だ、どんなに反抗期でも母へ背中を向けることはできなかった。

今思い出しても、中学高校時代の反抗期は、放っておいてほしかった。

構われることよりも放っておかれる方が助かって、説教されるくらいなら言葉など必要じゃなかった。

だが、そう思えたのはいつもそばに口うるさい母がいたからかもしれない。

口うるさく構ってくれる人がいなければ、そんな風に思うこともなかっただろう。

私はいつも、悩みを抱える親御さんに言うことがある。

我が家はシングルマザーだったから、母がひとりで二役をこなさなければいけなかった。

そのためにこじらせたり時間を要したこともあるが、両親が揃っているなら問題解決はうちより確実に早まるだろう。

どんなに放っておいてほしいと望んでも、子どもは大人よりも寂しさを誤魔化せない。

片方が放っておくなら、片方は口うるさいくらいがちょうどいい。

鬱陶しい、うるさいと思いながらも、なんだかんだ心配している気持ちは伝わっている。

先ほども言ったが、子どもは分かっていないわけじゃないし知らないわけじゃない。

少しでも相手の気持ちを感じ取ろうものなら、その感情を無下にすることは絶対にしない。

だから私が母に背を向けることはできず、できないからこそ更にもがき苦しんだのである。

だが、それでいいのだ。

完全に背を向けてしまえば、失うものは何もなくなる。

そうなった子どもの行く末が、いじめによる殺人だろう。

加害者側の子どもにスポットが当たることはほとんどないが、相当冷え切った家庭で育ったんだろうと思う。

口うるさくて鬱陶しくても、自分を愛してると分かってる存在がこの世にある。

それだけでいい。それ以上に必要なものなどひとつもない。


行き場のない子どもはフリースクールに行きなさい


私は一般的な高校へ進学せず、フリースクールに進学した。

他の高校同様に3年で卒業資格を取得することができ、勉強内容も普通科の高校と全く同じである。

だが、他の高校とは異なる点がいくつかあった。

まず、校則が存在しない。

「法律は守ってください。それ以外に校則はありません。」

そうパンフレットにも書かれており、実際、法律を守ってさえいれば服装も髪型も自由である。

そして、部活、掃除の時間、修学旅行、クラス分け、担任がない。

生徒は各自、学校と決めたスケジュールに沿って通学し、自習と先生の助言を受けてカリキュラムをこなしていく。

そうして3年後には卒業である。

そこまでルールが存在しないと、放置プレイされるんじゃないかと思うかもしれないが、フリースクールはあくまで「フリー(自由)」を売りにしている。

自由には責任が伴う。それを子どもに教える学校が、フリースクールだ。

学校に行かなければ、カリキュラムをこなせない。カリキュラムをこなせなければ、必然的に卒業は先延ばしになる。

そうして卒業が遅れる生徒もいれば、予定通り3年で卒業する生徒もいる。

中には飛び級して先に卒業する生徒もいるし、あくまでもフリー(自由)でいられる学校だ。

私はフリースクールで、自由には責任が伴うことを痛感させられた。

ギャル、ヤンキー、引きこもり、問題児と呼ばれる子どもに共通することはなんだかご存知だろうか。

「やるべきことをやらずに言い訳していること」だ。

冒頭述べたように、子鹿が立つ瞬間を反抗期というのなら、立ち上がるまでの時間に絶対という基準は存在しないだろう。

それぞれの子どもが自分のペースで立ち上がるが、遅いから悪い、早いからいいということにはならない。

だが、立とうとする意思や立つための努力は必要だ。

それらを投げ出して親や周囲のせいにしているのは、ただの言い訳だろう。

言い訳ばかりしていたら、高校を卒業することはできない。

だが、やるべきことをやりさえすれば、高校を卒業することは誰にだってできる。

他の子どもにとっては、そんなことをわざわざ学ぶ必要などないのかもしれない。

しかし、問題を抱えた多くの子どもには時間が必要だ。

そのために改めて、自由な環境の中で自分を律しながら生きていく意味を、フリースクールは教えてくれる。

必要なのは、細かい校則でも決まり切ったスケジュール管理でもない。

フリーだ。

そして、フリーには責任が伴うと子どもに「実体験」させることなのだ。

そこに説教も大人の物差しも必要ない。

時間と余裕、そして時々手を貸すだけでいい。


まとめ


子どもは分かっている。

多くを知っているし、気付いているし、理解もしている。

ただそれらを伝えたり行動に表すだけに十分な経験は、まだしていない。

ただ、それだけだ。

まずは話を相手が(子どもが)話終わるまで、しっかりと聞いてほしい。

その後に返すのは、アドバイスでも説教でもなく「共感」だけでいい。

分かるよ、私にもそんなときあったな、辛いよね、苦しいよね、今は無理しちゃダメだよ。

それ以外の言葉はすべて、彼らの心を傷つけかねない。

なぜなら、言われなくても分かっているからだ。

待つ、というのはとても難しい。

口を挟むな、手を出すなと言われても、やりたくなってしまう大人がほとんどだろう。

反抗期の子どもは、大人に余裕を持つ大切さを教えてくれる。

相手は子どもといえど、自分に何かを教えてくれる先生になる可能性だってある。

いつでも謙虚に、そして子どものように無限のスポンジを持って、接してみよう。そうすれば自ずと、寂しがりやの子どもは大人を頼ってくるから。

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