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【短編】『ワーク・ライフ・バランス』(後編)

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ワーク・ライフ・バランス(後編)


「谷口です」

若い女性が名札を見せてきた。バイト応募の電話をした時に出た人だった。

「斎藤と言います。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします。じゃあ、一個一個説明していきますね」

「はい」

「そこまで難しくないから軽くメモしておいてもらえば大丈夫です」

「わかりました」

「まず注文が入ったら、こちらのパネルに牛丼のメニューの名前とテーブルの数字が表示されます。その名前ごとにやり方が変わります。簡潔に言うと、牛丼作りは機械の仕事、牛丼以外の料理を作るのが、我々の仕事。だから牛丼は必ず一定の時間でお客様に提供できるけど、それ以外は、人の手で作るから多少時間がかかります。なので、斎藤さんにはまず牛丼の方に慣れていただいて、余裕が出てきたら他のメニューの料理も作っていきましょう」

「はい」

「先ほど牛丼作りは機械に任せると言いましたが、このような過程です」

谷口さんが三つの別々のボタンを素早く押すと機械が動き始め、あっという間に下に用意したどんぶりに肉が落ちてきた。

「はいおしまい。簡単ですよね」

あまりの速さに僕は目を疑った。ここではなく他の店舗の牛丼屋に行った際に、注文後いち早くどんぶりが出てきて驚いたのを思い出した。

「あ、これ企業秘密なので。一応」

と言って唇に右手人差し指を当てた。

「あ、はい」

と言って僕も右手人差し指を唇にもっていった。

「一番安いなんのトッピングもない牛丼であれば、このままトレーニ乗せて出せば大丈夫です。トッピングがあったらその都度手作業で付け足していきます。例えばタラコ増し牛丼の場合は――」

と言って、冷蔵庫の扉を開けた。

「こちらのボックスにタラコが入っているので適量を乗せて、その上から小ネギを振りかけて完成です。どうですか?」

「思ったより、難しくなさそうですね」

「でしょう。私も働くまでは自分でもできるかなって不安だったんですけど、これなら私でなくとも幼稚園生だって作れちゃうじゃないって思ったぐらいです。では今度は、別のメニューの牛丼も作ってみましょうか――」

と谷口さんは優しく牛丼マニュアルの指導を始めた。


 深夜一時になると、僕は使ったもののあまり汚れていない自分のエプロンを専用の洗濯カゴに入れて、白い制服をリュックに入れた。制服だけはスタッフ個人で洗濯してくるというルールがあった。


数ヶ月が経ち、最初は牛丼のボタンを一つ一つ丁寧に確認して押していたのが、特に見ずとも肉をどんぶりに乗せられるまで作業に慣れてきた。三ヶ月に一度、各県ごとに店舗の従業員全員が集まってオンラインミーティングを開くというのを直前になって店長から言われた。開催時間も決まっていて午前十時から十一時までとなっていた。僕は、本業があるため参加できないことを告げると店長は嫌な顔を見せた。

「できれば、一時間だけお休みできないかな」

「そう言われても、仕事があるので――」

「三十分だけでも厳しいかな?」

僕は店長からの依頼を必死に断ろうとしていたが、あとひと突きでもされたらその図々しさに押し負けそうだった。

「わかった。十五分でいい。会社の方針上、従業員第一主義で一人一人の意見を聞かなきゃならないんだ。たいてい皆意見がないまま一時間で終わるんだが、返事だけはしてほしくて」

「わかりました。十五分だけなら」

「本当に?ありがとう。助かるよ」

結局、店長の言うことを聞く羽目になってしまった。それにしても従業員第一主義を掲げるのなら、個人の都合で欠席することは許されるべきだろうと思ったが、すでに快諾してしまったためこれ以上どうこう言っても仕方がないと思い、牛丼作りの仕事に戻った。

バイトを終え、帰り際に時計を確認すると、以前よりもだいぶ時間が進んでいるようだった。夜遅くで走る車の数も少ないためか、肺に入る空気が意外と美味しく感じた。

「では定例会議を終わります。ここからは、従業員皆さんに何か意見がございましたらお聞かせいただければ幸いです。」

結局、僕は会議の初めからオンラインミーティングに参加することにした。幸いこの時間には会社に三上さんと二人きりだし、三上さんは奥の部屋でネットショッピングをしているので、内職がバレる心配はなかった。

「北島さん何かございますでしょうか?」

「特にございません」

「では、宮下さん何かございますでしょうか?」

「特にございません」

この進行から察するに、実際に時間をかけて一人一人意見を聞いていく様子だった。しかし意見を言う者は誰一人いなかった。

「斎藤さん何かございますでしょうか?」

「特にござ」

突然、途中まで出した自分の言葉を遮って、僕の頭に一つの考えが入り込んできた。

「あ、あの一ついいでしょうか?」

「はい。なんでもおっしゃってください」

「○×店に勤めているのですが、実は屋根の上に設置されている時計が遅れていることがずっと気になっていまして、誰も調整する気配がないのでどうにかしたほうが良いかと――」

「時計ですか?」

「はい」

進行役は一瞬、魔を開けてから再び続けた。

「わかりました。上の者と相談させていただきます」

「ありがとうございます」

「その他にございますでしょうか?」

「特にございません」

「では、橋本さんは何かございますでしょうか?」

「特にございません」

オンラインミーティングは20分弱押して終了した。すぐにパソコン画面をエクセルシートに変更してイヤホンを外すと、エレベーターの方で音が鳴った。ちょうど他の社員が出社する前に終わったことで僕はほっと一息ついた。

 それからのこと、一ヶ月に一度交代制で時計の時刻を確認してずれている場合は屋根を登って調整することとなった。決して、時計自体を取り替えるあるいは、撤去するという決断は下されなかった。僕がシフト入りすると、従業員たちはよくも無駄なことをしてくれたなといった様相で僕のことを睨みつけた。案の定、僕が切り出したためか最初の時計の調整の当番は僕となった。そのため、当番の日の前日に牛丼屋を辞めた。

 幸い、それ以来牛丼屋の時計の針は一分たりともずれることはなくなった。僕は今一度、時計の針の指す方向の完璧さを目の前にしながら考えた。自分にとって一番のストレスだったものはなくなった。しかしなぜだろうか、依然として日常における不快感や息苦しさは消えなかった。僕は、やはり今の本業の仕事が重荷になっているのだと思い、退職代行サービスを使って会社を即日退社した。ずっと気になっており、いつか使ってみたいと思っていたためちょうどよかった。もし誰かが退職代行サービスの会社に働いていて、即日退社を使いたいと思った時、会社は承諾するのだろうかとふと思った。僕は次の転職先を探し始めた。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

今後もおもしろいストーリーを投稿していきますので、スキ・コメント・フォローなどを頂けますと、もっと夜更かししていきます✍️🦉

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