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【短編】『ワーク・ライフ・バランス』(前編)

ワーク・ライフ・バランス(前編)


 いつも家から駅へと向かう途中、ちょうど車通りの多い道路の前で赤信号を待っていると向かい側にポツンと佇む牛丼屋に目がいく。有名チェーンの一店舗で二十四時間営業だ。外壁はレンガのようなコンクリートで敷き詰められており、屋根は黒い。店の上部には――まるで小学校の算数の問題に出てくるマッチ棒を組み合わせて作った家みたく――鉄骨を数本組み合わせて簡易的な塔が建てられている。そのてっぺんには大きな時計が取り付けられており、いつもその時計は遅れていた。あるいはかなりの時間早まっていた。おおよそ開店時に設置してから店舗の代表が変わるたびに、自然と時刻の調整を引き継がなくなっていったのだろう。もしくは時間がずれていることを知っていても暗黙の了解で誰も口にしないのだろう。誰かが口走った途端、その店舗に勤めるスタッフの仕事が一つ余分に増えることになるのだから。しかしスタッフがいくら無駄な仕事を増やしたくないと言ったところで、僕には関係のないことだった。毎朝駅に向かうたびに赤信号で立ち止まり店の時計の方を向くと、余裕を持って家を出たはずがいつの間にか出勤時間の間近であることに気づいて焦りを覚えるのだ。瞬時にその時計がずれていることを思い出すが、毎日そんな身の縮むような思いをしていては寿命が一ヶ月短くなってもおかしくはない。と思った。

 僕はオフィスに出社すると、自分のデスクにリュックを置いてからパソコンと小さなデータ保管用SSDを取り出して、勤怠管理の「出勤」というボタンを押してから座ったまま椅子を引きずってコーヒーマシンのところまで向かう。僕が会社に着く頃にはまだ誰もいない。ボタンを一つ押してホットコーヒーを紙コップに入れると再び席に戻る。SSDをパソコンに差し込んでから、しばらく電車で読みかけだった本を開いて読書に耽る。まだオフィスには誰もいないのだ。

 電子音とともにエレベーターの扉が開く音が聞こえると、咄嗟に本をリュックの中にしまい、パソコンを睨みつける。

「おはようございます」

僕は少し間を置いてから答える。

「おはようございます」

 管理部の三上さんだった。三上さんは僕の後ろを通り過ぎ、レターボックスにある郵便物をひとしきり脇に挟むと、僕の横を通り過ぎてそのまま奥の部屋へと歩いて行った。三神さんの姿が見えなくなると、僕は再び本を取り出してきりの良いところまで読み進めた。すると、再びエレベーターの音がして、すぐに本をリュックの中にしまった。マーケの望月さんだった。

「おはようございます」

今度は、本をしまうのも早かったため、同じタイミングで挨拶を返すことができた。

「おはようございます」

「あら斎藤くんじゃない。久しぶりね」

「お久しぶりです」

「元気だった?」

「はい」

 普段マーケの人は昼過ぎに来るため、午前中に帰る僕とはなかなか顔を合わせることがないのだ。僕はパートタイムとして雇われていたため、一日の勤務時間は特に定められてはいなかった。昼前に帰っても通常の出勤時間に帰ってもどちらでもいいのだ。月に一定の時間数稼働してさえいれば何も言われないのだ。そのため僕はいつも午前中で仕事を切り上げていた。今日はたまたま望月さんが朝からオフィスで仕事があったみたいで一緒になった。僕はなんとなく嬉しかった。望月さんは僕によくかまってくれる人だった。

 その日は望月さんとも会えたことで、いつもより長く新たに追加された顧客リストの整理をして昼過ぎにオフィスを出た。駅を降りて自宅まで向かっていると、やはり牛丼屋の前で赤信号に引っかかってしまった。ちょうど信号待ちをする場所の手前にお店の裏口があり、コンクリートの段差の上で男が体育座りをしてタバコを吸っていた。スタッフが休憩中のようだった。彼は僕に見られていることを気に留めることなく、目を細めて淡々と煙をふかしていた。僕はなぜか、彼のタバコを吸う姿に惹かれてしまった。恋愛感情というより、その男に態度を羨ましく思ったのだ。人の目に映る裏口で悠々とタバコを吸うなんて店の名前を汚す行為でしかないのに、そんなことなど一切気にしない様子だった。子持ちの母親が信号待ちでもしていたら、誰これ構わず厳しく注意するに違いないのだ。しかし彼はタバコを吸い続けた。僕はふと、彼になりたいと思った。

 翌日の朝は雨が降っていた。幸い牛丼屋の前を通る頃には信号は青で無駄に雨の下で足を止めることはなかった。オフィスに着くと、いつものように管理部の三上さんが来るまで読書に耽った。オフィスの中はどこかモヤっとしており、雨によって湿度が高くなっているのだろうと思った。僕は本をパソコンの横に置いて窓を開けにオフィスを一周した。自分の席に戻ると、ちょうど三上さんと遭遇した。窓を開けたせいで外からの音がエレベーターの音を遮ったようだった。

「斎藤くん。漱石好きなんだ」

「あ、ええ」

「あ、別に咎めるつもりなんてないから平気よ」

「いや、その――」

「心配しないで。だって私出勤してから向こうの部屋でいつも何してると思う?」

「わからないです」

「ネットショッピングよ。なんか習慣づいちゃって」

「そうなんですね」

「毎日何か買ってるわけじゃないのよ?ただウィンドウショッピングしてる時だってあるし。そこは誤解しないでね」

「あ、はい」

「じゃあ、私行くから。続き楽しんで」

と三上さんは言葉を残して奥の部屋に去っていった。僕はうまく三上さんに返答できていただろうかと直前の会話を思い出してみだが、あまり覚えていなかった。僕は本をリュックにしまって、顧客リストの整理に励んだ。

 いつも午前中は三上さんしかオフィスにいなかった。僕が入社した頃からテレワークが導入されて、特にオフィスに来る必要のない、あるいは来たくない人は家で仕事をすることを推進された。一時期僕もテレワークを利用して、家で一人コツコツと業務をこなしていたが、やはり時々集中力が途切れて、すぐに家の中にあるありとあらゆる誘惑に負けてしまうのである。ましてや他の人と比べて業務時間が少ないというのに、その時間をサボりに使ってしまっては元も子もないのだ。――正社員であればある程度許されるのだろうと思うが。そのため、今では朝早起きをしてでも出勤してオフィスで仕事をするように心がけていた。僕は三上さんに「お先に失礼します」と一言告げて会社を出た。

 その日も案の定、家に着く直前に赤信号に捕まってしまった。僕は振り返って牛丼屋の裏口を見た。そこにはこの前の若い男の姿はなかった。マルボロの箱とライターだけが、吸ってくれと言わんばかりにレンガを模した壁に立てかけられていた。僕は咄嗟にコンクリートの上に座り込んで箱の中身を確認した。何も入っていなかった。僕は存在しないタバコを一本指に挟んでライターで火をつけた。裏口からは赤信号で待っている帽子を被った老人の姿を垣間見ることができた。老人は一度こちらを向いて僕のことを睨みつけてから再び赤信号の方に視線を戻した。僕はなんとも思わなかった。あの老人が突然歩道に乗り上げてきた車に轢かれたとしても動揺することはないだろうと直感した。しばらく煙をふかしながら、あの若い男が見ていた景色はなんて平凡で退屈で輝かしいのだろうと物思いに耽っていると、突然裏口のドアが開いた。


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