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【短編】『ワーク・ライフ・バランス』(中編)

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ワーク・ライフ・バランス(中編)


 ちょうドアの設置部分に背中が押されて少しだけ前屈みになった。

「おい、何やってんだ。シフトの時間だろうが」

中年の後頭部の髪がやや薄くなった男が立っていた。牛丼屋の制服を身につけているからにこの店の店員に間違いなかった。僕は反射的に何かを口走っていた。

「すみません」

「あと一分だけだぞ?そしたらすぐ戻って来い」

「わかりました」

「ちゃんと火消すんだぞ?」

「はい」

おおよそサボり癖のある若い店員だと勘違いしたのだろう。しかし、なぜ僕はまるで自分が牛丼屋の店員かのように装って返事をしてしまったのだろうか。咄嗟に選んだ判断が、その場の空気を壊さないということだとしたら、自分はよほどこれまで労働という環境に束縛されてきたのだろうと思った。僕は存在しないタバコの火を消して、ライターとマルボロの箱を元の位置に立てかけた。小さなコンクリートブロックから降りると、一度裏口のドアの方をじっと見つめてからゆっくりと自宅まで歩いた。

 家についてからも先ほど自分の身に起こったおかしな出来事が頭から離れなかった。僕が以前赤信号を待っている時に見かけた青年は、シフトをサボってタバコを吸っていたと思うと、ますますあの青年の姿勢や心意気に感銘を受けた。シンクに溜まった食器を丁寧に皿の底の淵まで洗いながら、自分が今抱えているストレスがなんであるかを考えた。今の職場は自分の好きな時間に仕事ができることから特に嫌な気分になることないはずだった。――時に顧客リストのデータが丸ごと消えてしまった時はこれ以上もない焦りと緊張を覚えたが――むしろ仕事以外での日常に隠れたしこりが溜まっているのではないだろうかと思った。しかし、家事に関してはもはや趣味と認識してこなしているために、家で面倒だと思うことは一つもなかった。家族関係も良好な方だとは思っている。すると、ふと頭上に真っ赤な信号が灯った。やはりストレスの原因はあの時計だった。毎度赤信号で立ち止まるたびに時計の連れが爆発的なストレスを生んでいるのだ。その時計を見ないという手もあるが、あそこまで大きく大々的に設置されていたら嫌でも目に入ってくるのだ。一層のことあの時計を外してしまおうかと悩んだ。僕は心を決めて牛丼屋に電話をかけた。

「もしもし。牛丼王子〇×店です」

若い女性の声だった。

「あ、あの、バイトの応募でお電話しました」

「バイトのご応募ですね。少々お待ちください」

と言われてしばらく待っていると、中年男性の声に変わった。

「もしもし、牛丼王子〇×店店長の下田です。今回はバイトご応募のお電話ありがとうございます。一度詳しくお伺いしたく面談の日程を設定してもよろしいでしょうか?」

「はい。もちろんです」

「明日の十四時あるいは十五時などはいかがでしょうか?」

「問題ありません」

「承知しました。では十四時にお店に来てください」

「わかりました」

「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「あ、斎藤と申します」

「ありがとうございます。では明日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「あ、履歴書もお忘れなく」

「承知しました。では失礼します」

と言って電話を切った。すんなりと面談の日程まで決まってしまったことに妙な焦りを覚えた。決心したとはいえど、まだ自分の心のどこかで不安が残っていた。僕は副業を始めようとしているのだ。

 店の前まで来ると、屋根の上にある時計を一度見てから中に入った。老人や暇を持て余した主婦がすでに食事を終えてカウンター席でくつろいでいた。僕はレジにいる男性に面談に来たと伝えると角のテーブルに座っているよう指示された。しばらく何台もの車が店の前を走り去っていく情景を眺めていると、後ろから名前を呼ばれた。

「斎藤さん。初めまして。店長の下田です」

「初めまして――」

僕は店長の顔を見るや否や緊張が走った。向こうも僕の顔を見るなり大きく目を見開いた。

「君は、この前裏口でタバコを吸っていた青年じゃないか」

「裏口?なんのことでしょうか?」

「いやあ、あの後また裏口に声をかけに行ったら姿がなかったから驚いたよ。シフト表を見でもしっかり皆キッチンで働いているから誰だったのかと――」

「すみません。記憶にないですね」

「君じゃないの?」

「はて――」

と何を言っているのか理解できないといった顔で店長の目を見ていると、店長も諦めた様子で口を開いた。

「そうか、すまない。人違いだった。忘れてくれ」

「いえ。よく間違われるので大丈夫です」

「じゃあ、始めようか」

「よろしくお願いします」

ふと電話では敬語で話していたことを思い出したが、タメ口でも特に気に触ることはなかった。僕は店長に履歴書を印刷した紙を渡した。店長は紙を自分の方にスライドさせてからほんの一瞬で上から下まで視線を移した。

「まずは、志望動機を教えてくれ」

「はい。今はパートタイムで中小企業の事務作業をしているのですが、収入も十分ではないので、別の仕事もしたいと思っていました。ここの近所に一人暮らしをしていて毎日この牛丼屋を通るので、ちょうど信号を待っている時に、一度応募してみようと思いました」

「なるほど。つまり、副業をしたいということだね?」

「はい」

「端的に聞くけど、何時から何時なら入れるの?」

「入る?」

「ああ、シフトのこと」

「ああ。夜の九時から深夜二時を考えていました」

「九時からか。こっちも人数が限られていてね。スタッフ同士で入れ替わりの時間を同じにしているんだ。今のところ八時上がりが一人いるんだけど、それじゃ厳しいかな?」

「八時からで問題ないです」

「よしわかった。いつから入れそうだね?」

「今日でも明日からでも問題ないです」

「そうか。さすがに今日明日ではこちらの準備ができていないから――。そうだな。一週間後の夜の八時でどうだい?」

「わかりました。よろしくお願いします」

「ああ、よろしく。夜勤の担当に指導を任せておくから、八時に出勤したら誰かに声をかけてくれ」

「わかりました」

僕は、客のいなくなった牛丼屋を出てから信号が青になるのを待った。時計は数時間早まっていた。


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