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【短編】『サルバドールの発明』(後編)

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サルバドールの発明(後編)


 家に帰ってもなかなか寝付けなかった。ダイナーで注文したアイスコーヒーのせいだ。かといって小説を書く気にもならなかった。あの背の高い若者が破ったナプキンの内容は頭に残っていたが、一度捨てたアイデアを甦らせることは良くないのだ。――捨てたと言うより捨てられたと言ったほうが正しいが。これは私の決め事だった。

 AMラジオをつけて、しばらく機械から流れる人の話し声に心地よさを覚えていると、懐かしい曲が流れ始めた。

ユーエイントナッシングバットアハウンドドッグ
クライングオールザタイム

プレスリーの「ハウンドドッグ」だった。意味もなく学校に通っていた時に、地下鉄の中でイヤフォンの長い線を耳につけて聴いていた。もちろんウォークマンにダウンロードしたものをだ。当時はすでにプレスリーを聴く若者はおらず、プリンスやデュランデュラン、スティーヴィー・ワンダーが流行っていた。三十年も前の曲を聴くのにも理由があった。父親の車に乗る際に、毎度エンジンをかけると同時にその曲が流れ出すのだ。おおよそ父親のお気に入りの曲だけを集めたリミックスのCDを入れっぱなしにしていたのだろう。私はそのテンポの良い曲調と突然走り出す車の勢いに心を震わされた。何もかも嫌なことを忘れ去って、人生そのものが加速するかのような興奮を味わった。

 地下鉄で曲をリピート再生している時に、一度イヤフォンごと機器を盗まれたことがあった。一瞬の出来事だった。たしか私はその時目を瞑っていた。何を考えていたかは覚えていない。しかし、突然耳を引きちぎられたような嫌な感覚を味わい、咄嗟に目を開けるといつもの車輪がレールを擦る騒音が鼓膜に響いた。すぐに周りを見渡すと、男が隣の車両まで走っているのが見えた。私は男を追いかけることもできたが、なぜか犯人を目の前にして諦めがついてしまった。私が作家を目指そうと決めたのもそれがきっかけだった。

 自分が大切にしているものを誰かに奪われるという経験をするのは人生で初めてのことだった。兄弟がいなかったのもその理由の一つだろう。人は皆何かを自分のものにし、それを所有していると感じながら生きる。しかしそれは幻想に過ぎないのだ。神があなたのものだとそれを授けたわけでもなく、人間が作った法律の中で自分のものだと考えているだけで、その法律を無くしてしまえば自分のものだと主張もできないのである。人間は、「地球は誰のものか」という問いには答えられないのだ。――もちろん誰のものでもないのだが。

 絶対に自分のものと断言でき、決して奪わる心配のないものはなんだろうか。そう地下鉄に揺られながら物思いに耽っていると、ある一つの答えが頭に浮かんだ。それは、頭に浮かんだこと自体である。つまり、アイデアは絶対にそれを考えた人のものであり、自分から発言しない限り盗まれることもない。その他のものは、誰かに奪われたとて文句は言えないのだ。私はこの発明を皆に伝えたいと思った。そして筆を握った。それが私の処女作「盗人」である。


盗人

 僕は一つの音楽を持っている。好きな時に好きなだけその音楽を聴ける。途中で止めて逆再生だってできる。君が考えている以上になんだってできるんだ。なぜならその音楽は僕のものだから。

 けれど音楽はある日僕のものではなくなった。誰かに奪われたのだ。今まで好きな時に好きなだけ聴けたその音楽は、その日を境に一切聴くことができなくなった。

 僕は音楽を求めて旅に出ることにした。色んな人に出会った。道端でダンボールの上に寝転がって遊んでいる人や、十秒に一回は腕時計を確認する青いスーツを着た人。長らく陸で暮らしてないと言い張る真っ黒に焼けた人。僕は彼らの前でその音楽を口で奏でてみせた。皆は「素敵な音楽だね」と言ってくれた。そして最後にこう付け加えた。「――きっと見つかるといいね」。その言葉は僕を奮い立たせた。いつか必ずあの音楽を取り戻す。そう心に決めて音楽を追いかけた。

 雨の日も、風の強い日も、砂埃が激しい日も絶えず探し続けた。見当がつく場所はすべて回った。しかし、いくら探してもその音楽を持っている者は見つからなかった。僕はとある橋の上で目の前に映る大きな海を眺めながらふと思った。彼らが言っていた「きっと見つかるといいね」という言葉は、本当は「見つからないだろうけど仕方ないよ」という意味で発した言葉だったのだと。すると突然目の前が真っ暗になり、何か大切なものを失ったような感覚に襲われた。それは僕の持っていた音楽がもう見つかることはないということを仄めかしていた。僕は認めたくなかった。そのまま海に飛び込もうと思った。とその時、美しい音色が僕の耳を優しく包み込んだ。僕は耳を疑った。かねて探し続けていた僕の音楽だった。すぐに目の前の暗闇は明るさを取り戻した。僕はその音を辿って一歩、また一歩と慎重に音源へと近づいていった。久方ぶりに聴くその音楽は僕の心を激しく震わせた。

 その音楽はとある豪邸の中から流れていた。僕は人の家に許可なしに忍び込んだ。入り口を通ると目の前には大きな庭が広がっていた。無駄に広かった。中央には小川が作られており、周りを石段で囲われていた。音楽は建物の中から聴こえた。ドアも窓も開けっぱなしになっており、白いカーテンが風で大きく揺れていた。中に入ると一人の若い女性が僕の音楽を聴きながら椅子に腰掛けて眠っていた。音楽は古びたレコードプレイヤーから流れていた。女性は僕に気がついて目をそっと開けた。

「どなた?」

僕はその質問に答えることなく、聞き返した。

「その音楽をどこで?」

彼女は何も言わなかった。

「そのれはもともと僕が持っていたんだ。誰からもらったんだ?」

以前として彼女は何も答えなかった。彼女はしばらくその音楽の音色に浸っていた。すると、何かを機に立ち上がって開いたドアの方へとゆっくりと歩いていった。

「誰からももらっていないわ」

「どういうこと?」

彼女は外の庭を眺めながら言った。

「私が生まれた時からこの音楽はこの家にあって、今でもそれは変わらない」

「嘘だ」

「嘘じゃないわ」

「誰かにもらったはずだ。盗まれたんだ」

すると、彼女は視線を僕の方に移して少しばかり落胆したような表情で言った。

「誰のものでもないの――。この家だってそう」

「どういうこと?」

「あなたが持っていた音楽はあなたのものではないの。そして私のものでもない。それを奪った者のものでもない。世界は誰のものでもないのよ」

僕はその言葉を聞いて動揺を隠せなかった。

「それは本当なの?」

「ええ、本当よ」

僕の頭は混乱した。なぜなら今まで探し続けてきた音楽が自分のものではなかったのだから。彼女が嘘をついているようにも思えなかった。レコードプレイヤーから流れる僕の音楽はずっと流れ続けていた。突然、音楽が奇妙な音を奏で始めた。今まで聴いたことのないほどにゆっくりとその音楽は流れた。その曲調はどこか悲しそうで、恐怖さえも感じた。

「最近調子が悪いの――」

初めて聴く曲調が頭から離れなかった。音楽は僕の人生そのものをスロー再生させた。とその瞬間、僕の世界は一転した。僕は自ずと彼女がさっき言った「誰のものでもない」という言葉を信じられるような気がした。音楽は僕のものではない。家だって、車だって、船だって、腕時計だって、ダンボールだってそうだ。僕はそう思いを巡らせながら、重荷が下りてどこか身軽になったような気がした。彼女がレコードプレイヤーの機械に手を加えると音楽は元通りになった。僕は彼女と一緒に、もう僕のものではない音楽を最後まで聴いた。今まで聴いた中で格別に美しい音色だった。僕は窓から大きな海を眺めて呟いた。

「あの海もそう」


 私はAMラジオから流れるプレスリーの「ハウンドドッグ」を聴き終えた。気がつくと、窓の外から朝一番の太陽の光が差し込んでいた。ほとんど寝付けなかったにもかかわらず、なんだか気持ちが良かった。私は床に落ちているマグカップを拾って再び目を瞑った。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

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