見出し画像

『橋のない川』 と 『新版 水平社の源流』 : 理想と現実の間の真実

書評:住井すえ『橋のない川』(新潮文庫)、水平社博物館編『新版 水平社の源流』(解放出版社)

住井すえの『橋のない川』は、日本文学において特異な位置を占める作品だ。いわゆる「純文学」でもなければ「大衆文学(エンタメ)」でもないし、歴史的事実を扱いながらも、決してドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、まちがいなく「小説(フィクション)」である、といった点においてだ。

本書に対する、私以前の11本のレビューは総じて本書に好意的な評価を与えており、それ自体は基本的に正しいものだと思うものの、本書の「小説(フィクション)」性の問題は、本書に好意的ならざる人たちの間でなら必ず問題視されるはずだから、私はそのあたりについて、ここで整理しておきたいと思う。
そのためにここで参照されるのが、水平社博物館編『新版 水平社の源流』(2002年刊)である。

 ○ ○

だが、その前にすこし回り道をお許しいただいて、私個人と「差別問題」の関係について、すこし紹介させていただきたい。
私は昭和37年(1962年)に大阪に生まれて、今に至るまで大阪在住である。そして、そんな私の幼い頃には「あいつは四つや」とか「あのへんは部落や」といった、大人たちの差別的な陰口をじかに耳にする機会がままあったし、「解同は怖い」というのも何度か耳にした。
しかし、実際に被差別部落出身の人と知り合ったことがない。と言うか、いまだに差別が生きている現状では、自分から被差別部落出身だと明かす人はいないので、そういう人たちのリアルな存在は主にテレビを通して接することになり、長じてからは書物を通じて学ぶことになる。

被差別部落出身者を名乗る友人知人はいなかったが、被差別者として在日の人には少なからず知人がいた。というのも、私が小学生の頃、家族とともに創価学会に入ったからで、そこには多くの在日の人がいたからだ。そういう人たちも、同じ創価学会員どおしとして、わざわざ自分が在日であることを強調することはなかったし、私もそういう人たちを「創価学会員の、近所のおっちゃんおばちゃん」としてつきあっていたが、そういう人たちの家に上がった時、チマチョゴリを着た人形が飾られたりしていて、その意味を長じてから知ることになるのである。

私自身は後に、アメリカによるイラク戦争を追認した公明党・創価学会を(政治と信仰の両面において)批判して創価学会を脱会したが、末端の学会員に怨みなどはなく、むしろ親近感を残していたし、彼らが「普通の庶民」でしかないことを重々承知して、そこに日本人も在日もないという「人間の現実」を肌身で感じていた。
だからこそ、そこからの類推として「部落差別」の非論理性は容易に想像できたし、書物をあたればその非論理性は容易に裏づけられもしたのであった。

ただ、私は「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という、信仰への漠たる疑問は常にあった。
創価学会員時代の幼い頃には「なにか自分がまだ知らない難しい理由と根拠があるのだろうが、そこまで勉強するのは面倒だし、ひとまず世界平和に貢献する庶民運動としては素晴らしいので、やらなくちゃ」という感覚だったので、だからこそ、後の「イラク戦争」の是認は、その信用を根底から覆すものとして、とうてい容認できなかったのだ。
そんなわけで、私は創価学会を辞めたあとも「人はなぜ宗教などという、確証しようのないものを信じられるのか」という疑問を持ち続け、オウム真理教などの比較的わかりやすい事例に関する研究書を読んだりしてきたが、近年では「宗教の代表」としてキリスト教の研究を始めるようにもなったのである。

さて「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という疑問に引っかかってくるのは、なにも「宗教」の問題だけではない。それは「部落差別」も同じだったのである。

どう見たって同じ日本人なのに、どうして「部落出身者」は低く見られるのか、その理由がわからなかった。
単純に考えて、住む場所なんて変えられるものだし、どこに住んでいる人だって、善人もいれば犯罪者もいて、居住地区で人間が一色になるわけがない。もちろん、地域柄というのもあるだろうが、それは何も「被差別部落」だけの問題ではなく、例えば大阪と東京では地域柄は違っているが、しかしそれをして大阪が上だとか下だとかいった議論は、個人差の大きさをまったく無視した、愚かな議論としか思えない。したがって「部落差別」に合理的な根拠があるとは、とうてい思えなかった。

しかし、まずは「事実」関係を知らないことには話にならないと、上原善広による「被差別部落」関連のノンフィクションを読んで、現状について多少は勉強したりもしたが、私の「部落差別問題」に対する興味を決定づけたのは、なんと言っても、戦後日本文学の巨峰と評される、大西巨人の『神聖喜劇』であった。

『神聖喜劇』は戦争文学(軍隊小説)であるけれども「軍隊内での部落差別問題」を重要な要素として扱っている。そして、この作品の魅力は、何と言っても、その論理的徹底性(論理的厳格主義)で、被差別について「可哀相」だと情に訴えるのではなく、「差別の非論理性」を剔抉することによって、軍隊の非論理性、さらには「世間」一般の非論理性を徹底的に暴きだしていた点である。

『神聖喜劇』を読むことで、やはり「部落差別の今」を知るだけでは不十分であると気づいた私は、最低限の古典には当たらないといけないと思い、島崎藤村の『破戒』やその関連書を読んだし、2005年には高山文彦のノンフィクション『水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』を刊行と同時に読んだりもしていて、その当時にはすでに、『橋のない川』もいずれ読まなければならない基本文献だと意識してもいた。しかし、全7巻という分量は、読みたい本が多ジャンルで無数にある読書家の私に、長らく着手の決断を躊躇させたのだが、先般ようやく読むことができたのである。

このような経緯のあと『橋のない川』を読んだ私の率直な感想は「世の悪を告発して理想を語るという意味においての勧善懲悪的な作品で、けっして不出来な作品ではないが、しかし、文学としてはきれいごとに過ぎ、情に訴える点に重きを措いている点でも、いささか弱い」というものであった。端的に言えば「これは現実そのものではないだろう」と思ったし、その部分に対するフォローが十分になされているとも思えなかったのである。

私たちの世代は、すでに「被差別部落民」の全員が「悪人でもなければ、善人でもない」という「人間の現実」を知っていた。その代表例が「同和利権」問題である。
もちろん、被差別民とて人間なのであれば、悪人も犯罪者もいるのが当然で、こうした犯罪者の存在をして「だから部落の人間は」などと言うのは頭の悪い人間のすることであるし、こうした犯罪者をことさらにフレームアップすることで「反差別運動」に水を差そうとする勢力のあることも事実であろう。しかし「被差別民にも、悪人もいれば、同情に値しない犯罪者もいる」という現実は直視しなくてはならない。その上で、非合理な「差別」を無くしていかなければならない。「被差別民は全員、無垢な被害者だ」というような非現実的な主張では、そこに「偽善」や「独善」を見る人が当然にも出てきて、かえって反発を招くことは必定だからである。

したがって、私たちが考えなければならないのは「被差別者にも、悪人もいれば犯罪者もいる。その点でも、私たちとまったく同じである。その事実を直視した上で、非合理な差別は論理的に撤廃されなければならない」という理想を掲げることであろう。
そして、こうしたリアリズムの観点からすると、住井すえの『橋のない川』は、やや物足りないと感じられたのだ。

もちろん、著者の住井すえも『橋のない川』が「解放運動の理想像を語ったフィクション」であることは自覚していただろうし、現実の難しい問題はあるとしても、ひとまず「原理原則としての理想」は語られなければならないと考えて、あえてあのような「純文学でも大衆文学でもない、ドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、フィクション」を書いたのであろう。その意味では、『橋のない川』は十分に価値のある「フィクション」であったと評価できる。

つまり『橋のない川』という作品は、「差別問題を考える」上での基点(出発点)となるべき作品であって、終着点ではないのだ。この作品を読むことによって持つことのできた問題意識を、読者はそれぞれに深めていくことが求められており、それでこそ真の「反差別」の意志が鍛えられるのである。

 ○ ○ ○

このような観点に立った場合、『橋のない川』のモデルとなった奈良県の部落解放運動の歴史を追った『新版 水平社の源流』はとても参考になる本だった。
『新版 水平社の源流』は、水平社博物館編ということで、まちがいなく「部落解放運動」の側に立った本なのだが、しかしこれは党派イデオロギーの書ではなく、入門書的ではあれ「歴史研究書」であり、そうした研究者的良心に支えられた本であった。

『新版 水平社の源流』で、私がもっとも興味を持ったのは、『橋のない川』の重要登場人物の一人である「村上秀昭」のモデルとなった「西光万吉」の、戦時中の「転向」だ。
『橋のない川』のWikipediaには「村上秀昭」を、

『学力と画才に恵まれ進学したが、その才能が開花するにつれて世間に出自を知られ差別される恐怖が重くのしかかり、小森に戻って来てしまう。穢多寺の嫡子(モデルは西光万吉)。』

とあるが、秀昭は、逃げても逃げても追ってくる「差別」に対し一時は絶望したものの、やがて画業への憧れを振り捨てて、部落解放運動の指導者へと成長していく。
『橋のない川』に描かれた村上秀昭は「平易な言葉で、差別の非合理性を村人たちに教える、信望あつき青年指導者」であり「国家や職業の枠を越えた、被圧迫民の連帯を訴える理想主義者」として描かれる。

『橋のない川』は、当初の6巻分に、後に書かれた第7巻を加えても、そこに描かれたのは、昭和初年頃までであって、シベリア出兵や満州事変などは描かれても、本格的な太平洋戦争の時期には届かなかった。
問題は、その時期(大戦期)の「村上秀昭」のモデル・西光万吉の変貌だ。この変貌は『橋のない川』の「村上秀昭」からは、とうてい想像できないものであった。
と言うのも、住井すえは『橋のない川』で「戦争こそが差別の最大の敵(のひとつ)」という明確な「反戦」の立場に立っており、それを「反差別」運動と連動するものとして『橋のない川』を書いているので、当然、その中に描かれた「反差別の理論的指導者」である「村上秀昭」も、反戦の人として描かれていたのだ。しかし、現実の「西光万吉」は、その立場を堅持することができなかったのである。

『労働農民党、第二次共産党に参加したが、三・一五事件で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から大日本青年党と協同し、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに石川準十郎の大日本国家社会党に入党して国家社会主義運動に加わる。こうした融和主義的な姿勢は「水平社」の頃の思想とは全く相いれないものであった。』(Wikipedia「西光万吉」)

西光万吉の「転向」は、決して「偽装転向」ではない。真面目な理論家である万吉は、獄中で自分なりに納得して転向書を書いたのであろうことは、彼のその後の人生における言動に明らかである。

『 西光のいう「日本国体の特異なる本質」「神ながらの道」「天皇制の帰結としての国家社会主義」は、「天皇機関説」の「非国体性を排撃」するまでになり、しかも、軍部政権に期待をかける日本ファシズムにまで至りました。』(『新版 水平社の源流』P194)

『(※ 1938年(昭和13年)にいたっても、差別の根絶という方針に固執する)全国水平社の方針は西光万吉にとっては容認することのできないのものでした。西光は『新生運動』第八号(一九三八年一二月一五日発行)で、全水は今日の状勢を正しく認識しておらず、「国体の本義に基きて更に反省せよ」ときびしく批判しました。そして、「今や我らは『人間に光りあれ、人世に熱あれ』の願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に邁進せんとする」と主張しました。一九二二年(大正一一)に水平社創立宣言を起草した西光は、そのときから比べるとずいぶん遠くへ離れてしまっていたと言えるのではないでしょうか。』(前同P227)

戦時下の大政翼賛体制に完全に嵌り込んでいた西光万吉の、これが現実の姿であった。
『橋のない川』の主人公・畑中孝二の祖母で、無教養な農民でありながら人間の本質をきちんと見抜く目を持ち、戦争の悲惨と欺瞞を知る「大衆の原像」的な人物である畑中ぬいが、この「村上秀昭=西光万吉」の変貌を見たらどれだけ嘆き失望したことだろうと、フィクションのことながら、そう思わずにはいられない「現実の悲惨さ」が、そこにはあったのだ。

ところで、『新版 水平社の源流』が「新版」なのは、「旧版」刊行段階では確認されていなかった、戦時中の資料などが多数見つかったからで、それを実証的に研究した結果、「水平社の歴史」の修正がなされたためである。

『一〇年前の全国水平社創立七〇周年に当たっても、(※部落差別撤廃運動における、奈良の水平運動の歴史を伝えるという)同様の目的で『水平社の源流』(『水平社の源流』編集委員会編、一九九二年七月、解放出版社発行)を出版いたしましたが、以後、膨大な新資料の発見が相次ぎ、研究成果も格段に深まってまいりました。そうした成果も踏まえて、今回、新訂版として(※本書『新版 水平社の源流』を)発刊することにいたしました。』(前同「まえがき」より)

『新版 水平社の源流』では、『橋のない川』に描かれた、部落解放運動を立ち上げていった青年たちのモデルの、戦中戦後の動きも紹介しており、戦時中に大政翼賛したのは、なにも西光万吉一人ではなく、彼の周辺の仲間たちの多くも西光と行動を共にしている事実を正直に紹介していた。

そのうえで、私たちが何よりも気になるのは、戦中に大政翼賛体制に「心から翼賛し」、民衆主義的な社会改造の理想を棄てた西光万吉たちが、戦後の解放運動にも草創期からのリーダーとして、そのまま参加していた事実だ。彼らは果たして、戦時中の転向を総括反省したのであろうか。

たぶん、明確にはそれをしていないはずだ。彼らの転向も、すべては本質的に差別をなくすためであったと理解されれば、過酷な戦時下における転向を厳しく弾劾する人たちは、そう多くはなかったはずだからで、だからこそ西光たちは戦後にも差別撤廃運動のリーダーの一角となりえたのである。

まただからこそ、『橋のない川』の作者である住井すえが、西光万吉らの戦時中の言動を十分に知らなかったのであろうことは、容易に推察できる。そのために、住井は躊躇なく西光万吉をモデルとして、理想的な青年指導者である「村上秀昭」を描けたのではないだろうか。

しかし、現実は直視されなければならない。
戦中の転向を十分に反省しないまま、西光万吉らが「部落解放運動」に復帰したことが、その後の運動に幾ばくかの陰を落としていないとは言えないからだ。
それは、戦後の部落解放運動が、『橋のない川』が描いたような「青年たちによる理想主義的な運動」ではなく、「現実の挫折を経験した、屈折した大人たちによる運動」となり、そのリアリズムの悪しき部分が「同和利権」などの一因となったのではないかと、私には思えてならないのだ。

したがって、『橋のない川』的な「理想」は語られなければならないけれども、『新版 水平社の源流』的な「現実直視」も絶対になされなければならない。
この両者がそろってこそ、人は現実の厳しさに脚を掬われることなく、理想を目指すこともできるのではないかと、斯様に考えるからである。

初出:2019年2月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○








この記事が参加している募集

読書感想文