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タイザン5『タコピーの原罪』 : 〈後出しジャンケン〉の意外性

書評:タイザン5『タコピーの原罪』(ジャンプコミックス・集英社)

大型書店で平積みになっていたのが目をひいた。どうやら話題作らしい。
見てみると、少女の泣き顔が描かれていたので、気になって手に取ってみると、いじめを受けている少女を、タコ型宇宙人が助けようと奮闘する物語のようだ。

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この時は上巻しか刊行されていなかったので見送ったが、この度、下巻が刊行されたので、読むことにした。

ところで、私がネットを始めて、最初に使ったハンドルネームは「アレクセイ」という。
これは、私の大好な小説、中井英夫の『虚無への供物』と、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に由来するものである。

『カラマーゾフの兄弟』では、カラマーゾフ三兄弟の次兄イワンが、弟のアレクセイ(アリョーシャ)に「この現世において、理不尽にも虐げられている罪なき子供たちの悲しみが贖われないのなら、俺は自分だけが救われて、めでたく天国に行くなんてことはできない。そんなことなら、つつしんで天国への切符をお返しするよ」という趣旨の話をする。

私はこのセリフに強くうたれ、イワンに深く同感したのだが、しかし、イワンというのは、この世への呪詛に生きる人間だとも言えるので、この生き方が最終的なこの世の救いに貢献できるものとは思えなかった。
それでは、そうした理想はどこに見出せるのかと考えると、それはむしろ、「大地にキスをする」という象徴的な行為で、この度し難い世界を、それでも肯定してみせた、まだ未熟な末弟アレクセイにこそ、可能性があるのではないかと考えた。

また、前記の『虚無への供物』の主要な登場人物の一人は「アリョーシャ」というあだ名を持っていたので、そちらにもひっかけて、私は自身のハンドルネームを「アレクセイ」としたのだった。

そして、そんな私だから、「子供の泣き顔」「いじめ」「救い」といった問題が扱われているらしい、本作を無視することができず、読んでみることにしたのである。

一一で、結論から言うと、本作は、私が想像したようなシリアスな作品ではなかった。

ごく大雑把に言うなら、本作は、目まぐるしく変転する意外な展開で、読者に手も足も出させずに、右へ左へ引き摺り回すような、いまどきの、力づくのエンターテイメントだった。

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自分を助けてくれた少女しずかに恩義を感じたタコ型宇宙人のタコピー(しずかの名づけ)は、しずかが何やら困難に直面していると気づいて、彼女をその困難から救い出し、笑顔を取り戻してやろうと考える。

しかし、何しろ宇宙人だから、地球人の感情や表現がほとんど理解できず、トンチンカンな行動で、結局はしずかを救えないまま死なせてしまう。

ただ、タコピーは宇宙人らしく、ドラえもんの秘密道具みたいなものを持っており、それを使うことができた。
そんな道具の一つに、写真を撮った、その場面まで時間を戻し、やりなおせるというカメラがあったので、タコピーは今度こそしずかを救おうと、時間を巻き戻して、新たなアプローチを試るのだが、やはり、うまくは行かず、悲惨な結末にたどり着いてしまう。
そこで、もう一度、時間を巻き戻して…。

本作は、形式としては、わりあいよく見かける、いまどきのタイムリープSF(あるいは、歴史改変SF)である。

ただし、問題は、タイムリープを繰り返して試行するたびに、新たな事実が判明してきて、しずかへのいじめの解決は、そう単純な話ではないというのがわかってくるだけではなく、タコピーを助けたしずかや、彼女をいじめていた少女まりが、当初タコピーが(そしてタコピー視点で彼女たちを理解していた読者が)、そう思きこんでいたような人物ではなかったことまで判明して、物語はどんどん悲惨な方向に流れていく。
もう「優しい少女を、いじめから救う」といった、シンプルなお話ではなくなって、読者はひたすら、この脱線していくジェットコースターに翻弄されるだけの存在になってしまうのだ。

つまり、本作は「次々と現れる意外な展開を楽しむジェットコースター・エンタメ」である。私が当初、予想し、期待したような、社会派的な作品では、ぜんぜんなかったわけだ。

無論、登場人物の性格が「後出しジャンケン」的に変わっていくおかげで、物語は意想外な展開が可能となっているわけだし、作中でも語られるとおり、人間というものは「一面的なものではない」。つまり、いじめをするにはするなりの、いじめられるにはいじめられるなりの理由や背景があり、いじめる方は悪人で、いじめられる方はいつでも善人だなどとは限らない。そんな単純な話ではないから、この世は難しい…と、いちおうの理屈はある。

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しかし、それは現実の話であって、もとよりこの作品はフィクションであり「作品」でしかない。
つまり、作者と読者の間には、暗黙の了解があるはずなのだが、この作品は、その約束をあえて破ることで、極端な意外性を演出し得ているのである。
だが、このやり方は、フィクションとして、アンフェアではないだろうか。

ある登場人物の描写において、作者は読者に、その登場人物の性格設定を、順を追って説明する。「この人は、こういう性格の持ち主ですよ」と説明し、それを前提として物語は展開するわけだ。
仮に、後で「意外な一面」を出すとしても、それは最初に紹介した「性格設定」に矛盾するものであってはならないし、意外な展開の前には、それも「あり得ること」となるように、あらかじめ「伏線」を張っておかなければならない。そうしないと、物語は作品としての統一性を失って、統合失調病の内的世界めいたものになってしまうだろう。

驚かせることだけが目的で、あえて伏線を張らないホラー映画。たとえば、ウェス・クレイヴン監督の『スクリーム』シリーズや、ジェームズ・ワン監督の『ソウ』シリーズのような、B級作品であることに自覚的な作品なら気にはならないが、曲がりなりにも「子供のいじめ」という重い問題を扱った作品で、そんなことをやれば、普通その作品は「作品として破綻している」ということになるのではないだろうか。

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ところが、本作は、これを平然とやってしまってしまっているのだ。
こんな「後出しジャンケン」が、許されるのなら、物語をどんなふうにでも歪めてしまうことができる。なにしろ「作品としての内的一貫性」を放棄しているのだから、と。

しかし、この作品は、「作品としての内的一貫性」を放棄することで、掟破りの意外性を発揮した。
そして、多くの読者は、その意外性の連打と、取ってつけたようなハッピーエンドを肯定したのである。だから大ヒットした。

しかしこれは、麻薬の快楽に手を出すのと、似たようなことなのではないだろうか。
読者は、目先のめくるめく展開に目を奪われ、思考を麻痺させることにこそ、快楽をおぼえているからだ。

つまり、何の疑問もなく、当たり前のように本書を楽しめるような読者は、すでに理性を半ば放棄して、麻痺の快楽に溺れようとしているのではないか。この現実から、ただ逃れて、訳のわからない、受け身に麻痺した世界に溺れたいだけのようにしか、私には見えない。
もう、作中人物は、感情移入の対象としての「人間」ではなくなって、単なる「道具」と化しているのである。

『アルプスの少女ハイジ』や『火垂るの墓』などで知られるアニメ作家の、故・高畑勲は、新海誠の作品に同種のものを感じて、警鐘を鳴らしていたが、なるほど世の中は、そちらの方に進んでいるのだなと、この作品を読んで、私はそれを深く実感させられたのだった。

(2022年4月7日)

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