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おじいちゃんはパンクロッカー 全編


ガン宣告

「俺、ガンなんだってさ。しかもステージ4で助かる見込みねえんだとよ」

 こう病室のベッドに横たわっている全身入れ墨だらけの男が言った瞬間、病室にいたものは驚きの表情で彼を見つめた。周りのベッドで寝ていた他の患者たちは彼の言葉を聞いて俯いた。男はかなり年がいっており、客観的に見ればすでに老人である。痩せこけた体はシワで覆われ、髪もすでにハゲかかっており、髪の毛の間から地肌がうっすらと見えた。しかし男は老人にはあまりにも似つかわしくない格好をしていた。体は上に書いたように全身入れ墨で、ハゲかけた髪はパレスチナの国旗を模したのか赤白緑黄色に染められ、裸の上半身はタトゥーで埋められていた。履いている穴開きジーンズは至るところに安全ピンが刺さっており、滑稽なほど場の雰囲気に合っていなかった。病人が寝ているベッドの周りにいる男たちも彼と同じ年頃で、しかも同じように派手な格好をしていた。病人が自分の病状を告白した後重い沈黙が流れたが、その時病人のベッドから離れて立っていた三十代前半の若い男が突然病人に向かって声を荒げて言い放った。

「ざまあないな!まぁ、あれだけ好き勝手な事してたんだから当然の罰だよ!むしろ遅すぎたぐらいだ!」

 ベッドの病人を囲っていた男たちはこの若い男の言葉を聞くと立ち上がって彼を取り囲んで怒鳴りつけた。

「お前それが病気の親に向かっていうセリフかよ!お前だって今のコイツの話聞いただろ!お前の親父は今大変な事になってるんだぞ!お前分かってんのか?」

 若い男は老人たちの言葉で冷静になって自分の言った事に後悔したのか急に気まずそうな顔になって黙り込んでしまった。

 病人の仲間らしき男たちはしばらくそのまま若い男を取り囲んでいたが、病人が自分たちを呼んだので慌てて振り向いた。

「お前らやめろ。コイツは昔からこういうやつなんだから気にすんな」

 男たちは病人の言葉を聞くと上げかけた腕を下ろして若い男から離れた。それを見て若い男は病人に背を向けて病室から出ていった。出ていく際、男は一瞬立ち止まり病人を思いっきり睨みつけてから早足でエレベーターへと向かった。

 このガン宣告を受けた男は伝説のハードコアパンクバンド、サーチ&デストロイのボーカル大口垂蔵である。そして彼のベッドを取り囲んでいたのは同じバンドのメンバーであった。彼が率いているバンドサーチ&デストロイはガーゼやG.I.S.M等とほぼ同時期に活動を始めたバンドであり、メジャーではなかったものの、ハードコアシーンの伝説として、同世代の連中を始めとして若手バンドにいたるまで多くのミュージシャンの尊敬を集めていた。その激しいノイズ混じりの音楽は勿論、ステージでの観客との乱闘、気に入らないバンドのライブへの殴り込み、さらには傲慢なライブハウスの経営者を拉致して裸で性器に竹筒を被せ、そのまま電柱に縛って放置したエピソード等は今も語り草だ。

 しかしそのバンド活動は全く安定しなかった。垂蔵の暴力沙汰のせいでライブは度々警察沙汰となり、そのせいでバンドは度々活動を休止した。それでもなんとかバンドは続けていたが、今度は垂蔵自身が自身の不摂生極まる生活態度がたたって重い病に倒れ、バンドは完全に活動停止に追い込まれた。しかしここで垂蔵は一転奮起して今までの自堕落な生活態度を改め、ようと医者による厳しいリハビリプログラムを乗り越え、ようやくライブできる状態にまで回復した。それでバンドは早速サーチ&デストロイの復活ライブの日取りを決め、『大口垂蔵大復活!』とその宣伝を大々的に行いその準備に取り掛かっていたのだが、週の初めの月曜日にそのライブのリハーサルのためにスタジオ入りしていた時に垂蔵が突然倒れてしまったのだ。垂蔵はすぐに救急車でスタジオの近くの病院に運ばれてレントゲン検査を受けた。そしてその翌日彼は医師から、自分がステージ4のガンである事と、余命が一年もない事をハッキリと宣告されたのだった。それは復活ライブを控えた二週間前の事だった。

 大口垂蔵にはデビュー当初からのファンと三十手前で結婚したが、その妻は十年前に亡くなっている。この妻との間には一人息子がいるが、それが病室で垂蔵を怒鳴って出て行ったあの若い男である。息子の名前は大口露都といった。名前は垂蔵のリスペクトするセックス・ピストルズのジョニー・ロットンからつけられた。彼は垂蔵から電話番号を書いた紙切れを渡されたメンバーによって病院に呼ばれたのだ。

 病院を出た大口露都はそのまま真っすぐ自宅に帰った。彼は自宅の玄関についてしばらくそのまま立ってため息をつきそのままベルを押した。するとすぐに中から扉が開いて妻と子供が迎えにやってきた。妻は夫の顔を見て心配そうに聞いた。

「お父さんどうだった?」

 露都は妻の問いに答えず黙りこくったまま、奥の自分の書斎に向かおうとした。しかしその時彼は子供が鋲の入った革ジャンを着ているのを見て怒りのあまり思わず妻に向かって怒鳴りつけた。

「お前まだサトルにこんな物着させているのか!早く捨てろと言っただろ!」

 サトルは突然の父の怒りにびっくりして泣き出してしまった。露都は息子の泣きわめくのにどうしていいかわからず、妻の絵里に向かって「ちょっと来い!」とそのまま手を引っ張って書斎に引っ張り込んだ。

「どういうことなんだ!この間あれほど捨てろって言っただろ!あんなもん着て学校に言ったらどうするんだ!ろくでなしの親がいるってPTAから呼び出し食らうぞ!」

「しょうがないじゃないの!サトルが嫌だっていうんだから!おじいちゃんがくれたもの勝手に捨てないでよ!って泣き喚いて大変なんだから!」

「おい、ってことはお前まさかアイツからもらったあのクズみたいなCDとかビデオとかもまだあんのかよ!」

「あるわよ!しかもサトシ毎日私にラジカセ持ってきてこの小さいフリスビーみたいなやつから音鳴らしてってCD持ってくるわよ!うるさいからやめましょって断ってもあの子全然鳴らして鳴らしてって言って聞かないのよ!毎日デストロイデストロイって一緒に歌ってるんだから!」

「馬鹿野郎!俺は何度も言っただろ!あんな奴叩き出せって!サトシが悪い影響を受けたらどうするんだ!不良になるぞ!高い金払って行かせてる学校から追い出されるぞ!お前はそれでもいいのか!」

「あんなピエロみたいな格好している人たちの音楽なんか聴いて不良になるわけないでしょ!お笑いじゃないあんなの!サトルだっておじちゃんのバンドを仮面ライターかウルトラマンみたいなヒーローものだって思ってるだけよ!」

「お前はどうしてそんなに音楽に無知なんだ!あれはおっかない音楽なんだぞ!人を殴るのは当たり前の連中がやってる音楽なんだぞ!正真正銘のクズがやってる音楽なんだぞ!」

「いい加減にしなさいよ!サトルが好きだって言ってるんだからそれでいいでしょ?大体私とサトシをあなたたちの争いに巻き込まないでよ!ハッキリ言って迷惑なのよ!」

 ここで絵里は話を一旦止めた。そして落ち着いてからさっきと同じ質問をした。

「それで、お父さんはどうなのよ」

 露都は冷静になって病院で本人から聞かされた病状を思い返して頭を抱えた。彼は妻に向かって吐き捨てるように言った。

「全く絶望的だ!」

垂蔵と露都

 大口露都は父の垂蔵を激しく憎んでいた。父につけられた自分の名前すら嫌悪していた。子供の頃から同級生にドラクエのキャラかとバカにされ続け、やがて名前がパンクロッカーから取られた事を知ると完全に嫌いになり、役所でまともな名前に変えようと思うようまでになった。だが彼はそう思う度にこの名前で自分を呼んでいた母の顔を浮かべて思いとどまった。露都がここまで父の垂蔵を嫌うのには勿論理由があった。彼は生まれてから今までずっと垂蔵という人間に苦しめられ続けて来たのだ。彼は生まれて一ヶ月経った頃、垂蔵に抱えられてライブハウスのステージに上げられたのだが、その時むずがっておしっことうんこを同時に漏らしてしまった。これを見た垂蔵は面白がり、バンドのローディにお漏らしして泣き喚く赤ん坊を撮らせたのだが、なんと垂蔵は後にその写真をシングルのジャケットに使ってしまったのだ。露都はそれを小学生の頃に友達から見せられ、それ以来父に対して激しい憎悪を抱くようになった。

 露都は元々官僚の家に生まれ、自身もそれなりの大学を出ている母の、というより母の実家の方針で、幼少の頃から徹底的に教育された。そのおかげもあってか彼は無事進学校に入ることが出来たのだが、そのせいでかえって彼の父親嫌いを一層拗らせてしまった。というのはクラスメイトは超エリートの子息ばかりだったからだ。露都はその友達の所に遊びに行く度に、彼らの本棚に囲まれた清潔な部屋を見せられ、そのたびに自分の家の下品なパンクのポスターに埋め尽くされた部屋を思い出して惨めな気分になった。垂蔵さえいなくなれば自分の家はもっとマシになるはず。そう心から思い垂蔵がどっかに消えることをひたすら願った。

 散々絶対に授業参観に来るなと言っていたのにかかわらず、垂蔵は堂々とパンクスタイルで授業参観に現れた。クラスメイトたちはその垂蔵を指差して大爆笑し、他の親たちは彼を見て失笑した。大笑いするクラスメイトと、呆れたように笑うその親たちを見て、露都は恥ずかしさのあまり手で顔を覆った。クラスメイトたちは彼に父親がパンクロックをやっていることを興味津々に聞き、しょうがなく彼が父親のやっているバンドの事を教えたのだが、それを聞いて友達は一斉に彼を嘲った。そういうことが積み重なって露都はとうとうパンクどころか全てのロックを嫌悪するようになり、さらにポップスや歌謡曲まで嫌うようになってしまった。彼は家に帰るとクラシックを大音量で流し、たまたま酔っ払って寝ていた垂蔵がうるせえと文句を言いに来ると、うるさいのは父さんのやってるパンクとか言うクズ音楽だと言い返した。

 高校では一二年ともに学級委員長を務め、三年の時には生徒会長を務めた露都だったが、彼は生徒会のミーティングで生徒会のメンバーと教師たちに向かって軽音学部の廃部と、合唱コンクールのプログラムを全てクラシック音楽に統一する事を何度も提案した。パンクを激しく憎む彼にとってロックやポップス、あるいはヒップホップなどは世の中にとって害毒以外の何者でもなかった。

 露都は子供の頃から母の親の影響と父親への反発から官僚になる決めていたが、その彼の大学の卒業論文はそのあまりの激烈さで学内で少なからず反響を呼んだ。その論文はバクーニンとそのアナーキズムの思想を徹底的に批判したものであるが、その論文の中で彼は父親への嫌がらせのつもりか、わざわざセックス・ピストルズ等のパンクバンドを引き合いに出して、現代西洋におけるアナーキズムの流行を体制批判どころか、ただの鬱憤バラシであり、それは消費社会にどっぷり浸かった子どもたちの害のない戯れに過ぎないと徹底的に痛罵した。

 当の息子からこの論文のコピーを目の前に突き付けられた垂蔵は当然大激怒した。息子はその彼に向かってまるで子供に言い聞かせるように丁寧に自分の書いた論文の内容を説明し出した。垂蔵はこの自分を見下した態度をとる息子にブチ切れて、とうとう手にしていたレポートを破って叩きつけてしまった。しかし露都は垂蔵が床に撒き散らしたレポートを拾い上げて、再び父親に突き出した。これにはさすがの垂蔵もあっけにとられてもう怒鳴り散らしても無駄だと諦めたのかいきなり外に出て行ってしまった。

 ここまでの内容だと露都の垂蔵への嫌悪は自らの出自への嫌悪だと考えられ、実の息子から一方的に嫌われる垂蔵が気の毒に思える。しかし残念なことにそうではなく、実際に垂蔵は息子から嫌われても当たり前のクズ人間であった。垂蔵は高学歴で美人の妻がありながら平気で浮気をする人間であったのだ。いくら伝説のパンクバンドだといっても所詮インディーズのバンドなので収入などたかがしれている。しかし彼はバイトもろくにせず、家計をすべてパートに出ている妻に任せていた。それにもかかわらず垂蔵は全国ツアーに行く度に現地の女を引っ掛けていた。その関係を持った女のうちの一人が垂蔵の家にまで押しかけて来て、垂蔵を挟んで母とその現地の女が取っ組み合いの喧嘩をおっぱじめたことさえある。露都は当然母に惨い仕打ちをする垂蔵が許せず、母に自分は大丈夫だから早く親父と離婚しろと言ったことがある。しかし母は悲しい笑顔を浮かべてこう言うのだった。

「垂蔵は私がいなきゃ何もできないの。だから別れるなんてできないわ」

余命宣告

 母が亡くなったのは彼が大学を卒業する直前だった。すでに入省が決まり、垂蔵を激怒させた卒論も提出し、後は卒業を待つだけとなった時突然母が倒れた。露都は母がお勝手で倒れているのを見つけるとすぐに救急車を呼んだ。そして母に付き添って救急車に乗ったのだが、そこで彼は医者から母が重い病気に罹っている事と、寿命が長くても半年である事を知らされたのだった。露都はこれを聞いてやっぱりかと頭を抱えた。ああ!いずれこうなるって薄々わかっていたのに。わかっていながら何も出来なかった。あのクズ親父のせいで!露都は垂蔵のせいで苦しみ続けた母を思って心で泣いた。垂蔵が働かないせいでパートの掛け持ちしていた母。だけどそれだけじゃ生活費が足らないから実家に頭を下げて金を貸してもらっていた母。垂蔵が持ち込むトラブルのせいで毎夜涙していた母。許せん!母をここまで追い詰めたのは垂蔵だ。ああ!畜生!後何年か耐えてくれたら俺が楽をさせてやれたのに!

 露都は医師の部屋を退出するとまっすぐ母のいる病室に戻ったが、母は起きており、露都は入ってきたのを見てすぐに体を起こした。

「お医者さんから私のこと聞いたのね。なんて言ってた?」

 この母の問いに露都は何も答えることが出来なかった。根が正直な彼には適当に誤魔化すなんて事は出来なかった。悔しさに俯いて思いっきり舌を噛んだ。母はその露都の絶対に嘘がつけない態度を見て父親そっくりだと笑った。

「あ、もう大体わかったから何にも言わなくていいよ。どうせ明日あたりにお医者さんからちゃんとした説明あるんだろうし。でも垂蔵には何も言わないであげて。あの人絶対落ち込んでバンドなんか辞めるとか言い出すから」

 露都は思わず母に言い返そうとしたが、声が出ようという瞬間に我に返って慌てて口を閉じた。彼は真から母を憐れみ、その母をここまで追いやった垂蔵を憎んだ。母さんはなんだってあのクズをいつまでも甘やかすんだ?何が落ち込んでバンド活動が出来なくなるだよ!あんなゴミバンドなんかすぐに辞めさせて働かせてれば、母さんだってこんなことにならずに済んだんじゃないか!しかもアイツは母さんを何度も裏切ってきただろ?ああ!母さん今からでもいいからアイツと離婚しろよ!

 垂蔵が病院にやってきたのは夜半であった。彼は病室に入るなり笑いながらライブでこの時間まで来れなかった事を詫びた。垂蔵は酔っているらしく、赤ら顔で妻と息子の前に現れて病院に担ぎ込まれた妻に対して病院から連絡あって心配したけど全然大丈夫じゃねえかよというと、続けてさっきまでやっていたライブの事を喋り始めた。

「本当にあのライブハウスでまたやれてよかったぜ!あそこはずっと出禁になってたからな!店長もチンポに竹筒被せて放置した事を許してくれたし、ファンもまたここでデストロイ演れて嬉しいなんて泣きやがってよ!最後にゃモッシュの嵐だぜ!俺も年甲斐もなく頭から客席に突っ込んじまった。見ろよこの頭の傷をよ!」

「良かったねぇ垂蔵。私も見たかったよ」

「で、どうなんだよ病気は。どうせ入院してればすぐに直んだろ?」

 この垂蔵の言葉を聞いて露都は思わず父を睨みつけた。全くおめでたいほどのバカだ。コイツは察する事さえできないのか。

「全然平気よ。お医者さんはまだ何にも言ってこないけど多分そのうち退院できるんじゃないかな」

 母が医者から正式に余命宣言されたのは翌日だった。母は彼女らしく気丈に宣告を受け入れた。その母を見て露都は涙が出そうになったが、母の手前必死に涙を抑えた。母は医者に垂蔵は今日もライブがあるから来れなくてと詫びたが、それは半分嘘だった。彼女は自分の本当の病を垂蔵から隠し通そうとしてあえて彼を呼ばなかったのだ。


 母は死ぬ寸前まで露都に向かって何度も垂蔵と仲直りするように言っていた。あなたたちは親子なんだし私だってあなたたちが歪み合っていたんじゃ天国に行きたくてもいけないよと見舞いに来るたびに露都を諭した。露都はそれを聞くたびに母を哀れに思い、さらに父への憎しみを募らせた。そんな露都にある日母は掠れ声でこんな事を言った。

「あれでもお父さん、すっごくカッコいいんだから。垂蔵はね、露都が言うように、普段は全くどうしようもない人間だけど、ステージに上がったら全然違うんだよ。あの人はステージで叫んで暴れてる時が一番輝いているの」

 これを聞いて露都は思いっきり口を噛んだ。どこまでも純粋でお人よしな母。垂蔵に騙されていることも知らず、いや騙されている事を知っていながらどこまでも垂蔵の面倒を見続けている母。なんでその母が病気で死ななけりゃいけないんだ。死ぬべきはアイツだろ?ハードコアパンクなんて公害音楽撒き散らして、クズみたいな連中とつるんでいるアイツじゃないか!露都は母に向かって頷き、別れを告げた。そしてエレベーターで一階まで降りると、そこから出口を突き抜けて全速力で駆け出した。露都は走りながら思いっきり泣いた。畜生!畜生!俺がもっと母さんを守ってやればこんな事にはならなかったのに!

親子ゲンカ

 今そのクズの垂蔵が死のうとしている。母を結果的に死に追い込んだ男もまた母と同じようにガンになり死の宣告を受けて死のうとしている。だけど露都はそれを聞いて激しいショックを受けた。自分でも想像できないぐらい激しく落ち込んだ。これは天罰だ、むしろ遅すぎた、母の苦しみを思い知れ。なんて言葉を投げつけてもそれはあくまで口だけだった。露都は垂蔵の病状を知って自分がこんなに憂鬱になるなんて思っても見なかった。さっさと死ねばいなんて本気で思っていたし、それを願ってさえいた。それが現実のものになったのにどうしてこんなにもショックを受けるのか。露都はもしかしたらまだ自分の中にかすかに父親に対する愛情が残っているんじゃないかと勘ぐった。だが彼はすぐに頭を振ってそれを打ち消した。ばかげた話だ。俺があのクズに愛情なんて抱くものか!これは憐れみだよ!死にゆく野良犬を可哀想にって憐れんでいるようなものだ。


 書斎は重苦しい沈黙に包まれていた。絵里は露都のあまりにも痛ましい絶叫にそれ以上何も聞くことが出来なかった。露都は机に座って頭を抱えたまま無言で黙っていた。その時突然どこからかとんでもない騒音が鳴りだした。露都も絵里も何事かと思って部屋を見回したが、露都はハッと気づいて声を上げるとすぐさまサトルの部屋に向かって駆けだした。そして部屋のドアを思いっきり開けて中に入った。

 部屋には耳をつんざくような爆音が響き渡っていた。その爆音の中サトルはラジカセからがなりたてる叫びと一緒になって叫んでいた。

「デストロイ!デストロイ!デストロイ!」

 露都はすぐさまサトルの部屋に飛び込んでラジカセのコンセントを引っこ抜きラジカセを持ち思いっきりサトルを怒鳴りつけた。

「こんなクズみたいなもんかけるな!CDはもう没収だ!」

 そのままラジカセを持ち去ろうとした露都だったが、サトルはその彼めがけて奇声を上げながら飛びかかって来た。

「おじいちゃんのくれたフリスビーに何するんだよ!それはお父さんのじゃなくてボクのものなんだぞ!」

「うるさい!こんなもの聴いてたらバカになるっていうのがわからないのか!」

 露都はそう叫び自分に掴みかかっていたサトルを振り払った。しかし彼はその時思わず力を入れすぎてしまった。露都に吹っ飛ばされたサトルは頭を思いっきり壁にぶつけてしまった。壁に投げ飛ばされたサトルは泣き叫んでしまった。絵里は頭を抱えた息子を見て真っ青になり二人の間に割って入ってサトルを抱きかかえて露都を怒鳴りつけた。

「いい加減にしなさいよ!子供相手にそんなにムキになって恥ずかしくないの!」

 露都は妻の一喝を浴びて自分が情けなくなり、思いっきり舌打ちして、「とにかくコイツは没収するからな!」と吐き捨てるように言うとラジカセを持ってそのまま書斎へと逃げ込んだ。


 書斎に入るなり露都は頭を抱えて自分を責めた。ああ!なんて事だ!まさか俺が息子に八つ当たりするなんて!なんて俺はバカなんだ!いつもみたいに軽く叱ってこれはお父さんが没収するからねとか言っていればよかったじゃないか。今日は明らかに頭がおかしい。畜生!これもアイツのせいだ!アイツが末期のガンなんて告白しなきゃこんな事にはならなかったんだ!いや、そもそもアイツがウチに現れなかったら何も起こらず平穏無事な毎日を送れたはずなんだ!

 その時ドアをノックする音が聞こえてきた。絵里だった。彼女はノックして入っていいかと尋ねてきた。露都はいいよと呼びかけ、そして絵里が入ってくるとさっきの事を謝った。

「私に謝っても意味ないよ。サトル本人に謝らないとね。あっこれさ」と絵里は入れ物で敗れそうなほど膨らんだPPバッグを自分の前に置いた。

「これおじいちゃんがサトルにプレゼントしてくれたものね。多分全部入ってると思う。サトルの部屋からかき集めて持ってきたんだけど重くて無茶苦茶大変だったよ」

「そりゃそうだ。そんなにもの入ってりゃ」

「多分サトル怒ってあなたと口聞いてくれないと思うよ。だけどそうなっても私知らないからね。これは父親としてのあなたの責任なんだから」

「ああ、わかってるよ」

「とりあえずサトルは今寝室で寝てるからあなたはここで寝てね」

 絵里はこう言い終えて書斎から立ち去ろうとしたが、うなだれている夫を見てこのまま去りがたく思って立ち止まった。

「あの、お父さんのことなんだけど。あなた怒るかも知れないけどさ。やっぱり仲直りした方がいいと思うんだよね。勿論あなたとお父さんの事情はよく知ってるよ。それでもしこりをこのまま抱えるのはやっぱり良くないよ」

 だが露都は妻の言葉に首を振って言った。

「そりゃ無理だよ。だってアイツはそれだけのことをしたんだから」

母の死

 翌日勤務中の露都の元に電話があった。彼はすぐにスマホを確認して相手が病院なのにゾッとした。アイツに何か異常でもあったのか。もしなんかあったとしたら。露都は文書作成中のPCの蓋を閉じて駆け足で事務室を出た。

 病院からの電話は垂蔵が昼間に咽んで嘔吐したことの報告と、これからの入院費についての相談だった。看護師は体調の方はすぐに落ち着いて問題ないようだが、入院費の方は垂蔵に全く金がないということなので息子さんに支払ってもらえないかとの事だった。露都はこれを聞いて急に垂蔵への怒りが湧き、思わず奴の肩代わりなどしないと断ろうとしたが、喉元まで出かかったところで飲み込んだ。続けて病院は彼に改めて垂蔵の体調の報告と入院費の相談がしたいと言い、今日時間が取れるかと聞いてきた。露都はそれに対して18時から19時の間にはそちらに行けると答えた。

 病院の相談室で露都は看護師に垂蔵の体調と入院費について説明と受けた。露都は看護師の話をほとんど聞き流しながら自分の意思の足りなさをひたすら責めていた。なんで電話で払うつもりなんてないって言わなかったんだ。あんな奴病院から叩き出されて野垂れ死すればいいんだって。だけど俺はそう思いながらも実際に奴がそうなった時の事を想像して怯えている。もう正直に認めざるを得ない。俺は垂蔵が死ぬことに怯えているんだ。それに奴を見捨てたら母さんは絶対に俺を責めるだろう。そして俺自身が俺を一番責めるんだ。こんなクズでもお前の父親だろ?なんで助けなかったんだって。その時看護師がいつの間にか話を終えたらしく入院費の支払いの同意書を差し出してきた。露都は深いため息をついてからそれを一通り読んでサインと印をした。

 露都は看護師と共に相談室を出た時、看護師にお父様には会いに行かないのかと聞かれた。露都はこのまま帰ると言おうとしたが、ふと気が変わって、やはり見舞いに行く事にした。さっきの想像がふと頭をよぎったからだ。別に顔見せに行ったってどうせ入院費は自分が肩代わりするって報告するだけだ。起きていたらそれだけ言って帰ればいいし、寝ていたら顔だけ見て帰ればいい。ただそれだけのことだ。

 看護師は垂蔵のいる病室の前に着くと、消灯は九時だからそれまでに退出して欲しいと伝えて去って行った。あたりは薄暗い闇だった。奥の方にいくつか影で黒くなっているドアがあるが、廊下を歩いているときに看護師からあの辺りは全て個室だという事を聞いた。看護師はその話の後で垂蔵も近々あの個室に移動になると言っていた。影で真っ暗になったドアを見て露都は垂蔵が母親の末期を忠実になぞっているような気がしてきた。彼はネガティブな妄想にうんざりしてそれを追い出そうと舌打ちして病室のドアを開けた。

 病室は異様にシンとしていた。部屋の患者は皆寝ているようであちこちからかすかないびきだけが聞こえていた。垂蔵もまたベッドでぐっすりと寝ていた。露都はこの六十を超えているのに相変わらず髪を染めてイキがっている父を見て思いっきり舌打ちした。ったく地毛はもうほとんど白髪で禿げ上がってるのに相変わらずバカな事しやがって!その赤白緑黄色の髪の色ってパレスチナと連帯するって事なのか?ダサいんだよアンタは。アンタのその幼稚な反体制気取りのために母さんは犠牲になったんだぞ。わかってるのか?いや、アンタは絶対にわかってないんだ。今に至るまでずっと!アンタは母さんが死んだ時でさえ何も変わらなかったんだから! 露都はベッドのそばにあった丸椅子に座った。そして寝ている垂蔵の顔を見ていると母の亡くなった夜の事が思い浮かんできた。


 あの日露都は深夜に病院から電話で母親が危篤だと告げられてすぐさまタクシーを呼んで病院へと向かった。彼は数時間前に見舞いに行き、元気な母を見たばっかりだったから、この危篤の知らせはショックだった。露都はタクシーで病院へと向かっている最中何度も垂蔵に電話をかけたが、垂蔵は全く出なかった。病室に着くと沈痛な顔をした看護師と医師がそれぞれベッドを挟んで立っていた。二人の間のベッドには母親はすでになく、そこにはただの人の形をした殻が横たわっているだけだった。

「申し訳ありません。もう少し早く患者様の異変に気付いてあげればよかったのに……」

 露都にはそんなことどうでもいい事だった。母の最期の言葉を聞こうが母は蘇ったりしないのだから。母が死んではそんなものは全く意味をなさないのだから。露都は母の命が体のどっかにまだ残っているんじゃないかと思って遺体の手を握ったがそれはゾッとするほど冷たかった。その手の冷たさに体が震えたまらず膝から崩れ落ちて泣き叫んだ。

 それから一時間程経って垂蔵は現れた。垂蔵は明らかに酔っていた。彼は顔を真っ赤にして体をふらふらさせていた。だが、目の前の妻を見て思いっきり目を剥いてベッドに駆け寄った。

「おい!どうなってんだこりゃ!全く動いてねえじゃねえか!おい!お前寝てんのか?ふざけて寝てんのか?起きろよ!起きろよ!」

 垂蔵はベッドに横たわる妻を揺さぶった。看護師はすかさず彼の前に立って止めようとしたが、垂蔵はその看護師を振り切って妻にしがみついた。

「どけよバカヤロウ!この能無し野郎が!コイツが動かねえってのになんで何もしねえんだ!まったく、こんなに冷たくなっちまって!今すぐ温めてやるからな!」

 その時病室に鋭い音が鳴った。露都が踵で床を思いっきり蹴ったからだ。露都は激しい憎悪を込めて垂蔵に向かって叫んだ。

「やめろ!みっともねえな!こんな時まで恥をかかすなよ!お前の奥さんはさっき死んだんだよ!誰にも看取られないで死んだんだよ!他ならぬお前のせいでな!」

 病室に長い沈黙が流れた。しばらくして医師が垂蔵と露都に向かって患者の死亡を告げた。

母の遺書

 喪主は露都が務めた。垂蔵がとても喪主が務まる状態ではなかったためである。葬式中ずっと垂蔵は泣き崩れ、それが終わってお通夜に入ってもまだ泣き崩れていた。バンドのメンバーや音楽関係者やファンに慰められていたが、彼は酒をガブガブ飲みながらもう死んだ方がマシだと吠えていた。露都はこの垂蔵の泣き言を聞くたびに怒りが込み上げてきた。このクズのせいで母は死んだ。このクズのせいで!

 露都は母が死んだ翌日、病室の遺物を引き上げたが、その時に母の遺書を二通見つけた。一通は自分宛のもので、もう一通は垂蔵宛のものだった。それを見て露都はいずれ自分たちに渡そうとしていたのだろう。彼は遺書を書いている母親の姿を思い浮かべて悲しくなった。

 その露都に母の父が来て声をかけてきた。この彼にとっては祖父の一人である男は某省で最終的には局長にまでなったエリートだった。

「まぁ、こんな事になって辛いね。君の心中は察するよ」

「いえ、お祖父さんに比べたら僕なんて……」

「今は変な謙遜はやめるんだ。あまり無理をするなよ。ちゃんと寝ているかね?君まで倒れられたら私は娘に対して申し訳が立たないからね」

「ありがとうございます」

「ところで、こんな時にこれを言うのはなんだがと思うんだが……あの四月からの事だけとね。私も息子も全力で君をサポートするつもりだ。何かあったら気軽に私と息子に相談してくれ。娘も君の将来が安定することを何よりも望んでいるだろうからね」

 その時奥の垂蔵たちの所から騒ぎが起こった。どうやら垂蔵が酒によって誰かに絡み出したらしい。露都は垂蔵を怒鳴りつけてやろうと立ち上がりかけたが、祖父はその彼を手で制した。

「今注意しにいくと下手に揉めるから行かん方がいい」

「申し訳ありません。あんな父で」

 露都が謝ると祖父は深いため息をついて話し始めた。

「恐らく君は知らないだろうが、あれの父親と私は先輩と後輩の間柄なんだ。先輩は、事務次官まで勤めたエリート中のエリートでね、アイツはその先輩の子供たちの中でいわゆる不肖の息子ってやつなんだ。先輩もアイツの扱い方に非常に困っていたらしい。ああいう野良犬みたいな連中とつるみだしたからね。それでとうとうアイツは戸籍ごと勘当されてその後消息はつかめなかったんだが、まさか私の娘の彼氏として現れるなんて思わなかったよ。私は娘が連れて来たアイツのあまりに異様な格好に驚いたよ。娘は私にアイツがどれほど素晴らしい人間か語っていたが、その言葉と実際のアイツのあまりに格好が凄まじいので笑いしか起きなかった。アイツが娘と出て行った後で先輩に電話したんだ。娘があなたの息子を彼氏として連れて来たってな。だけど全く取り憑く島なしさ。先輩はアイツは戸籍からも外してあるし、今はただの他人だ、俺の知ったこっちゃないってね。あまりにも無責任な言い分だが、先輩を責めてもどうにもならない。私は自分で娘と奴を別れさせるために娘を説得したんだ。だけど娘の奴は垂蔵と別れるなんて出来ないって強い目で言うんだな。その目に根負けして私は娘とアイツの結婚を認めたんだが……」

 とここで祖父は言葉を切ってしばらく娘の遺影と奥で喚いている垂蔵を交互に見た。それから露都の顔を見て再び口を開いた。

「だけどこうなってしまったら。それが正しかったのかわからなくなるね。娘が最後までアイツを愛していたのはわかるんだよ。だけど、あの娘の苦労ぶりを間近でみて、いまこうして若死にしてしまった娘を思うとね、君には申し訳ないと思うが、それでもやっぱりそう考えてしまうんだよ」

 祖父はそのまま泣き崩れた。露都は泣き崩れる祖父に言葉をかけることが出来ずただ見ている事しか出来なかった。

 その日のお通夜が終わり参列者を見送った後、露都は自分の部屋に戻り机の引き出しを開けて母の自分宛の遺書を出した。遺書は母らしく柔らかい字で書かれていた。日付を見ると入院した間もなく書かれたもののようだ。これを見た露都は思わず目頭を押さえた。こんな早くから覚悟決めていたのか。そして彼は遺書を封筒から出して読み始めたが、最後まで読み終えた瞬間腹立ちのあまり便箋を脇に退けた。

 なんだよこれ。俺のことなんかほとんど書いてねえじゃねえか。何が露都はしっかりしてるから安心して旅立てるだよ。何が自慢の孝行息子だよ。ふざけんな!息子宛の遺書をこんな片言半句で片付けるなよ!あとアイツのことばかり。垂蔵は強がっているけど本当は弱い人間だ。だから露都が私の代わりに支えてあげて。最後まで私が垂蔵の面倒見てあげたかったけどもうそれは出来ないから……。バカヤロウ!最後までアイツの事を信じきって逝く事はねえだろうが!母さん、アンタはアイツに殺されたようなものなんだぞ!なのにどうしてなんだよ!

 露都は震える手で便箋を自分の名前が書かれた封筒に入れ、それから引き出しの中の垂蔵宛の遺書を手に取った。彼は母の垂蔵宛の遺書を前に葛藤していた。この遺書はあくまで垂蔵宛のものだ。自分が読んではいけないと思いと、どうしても母が遺した言葉の全てを読みたいという思いが頭の中で戦っていた。どうせ自分宛の遺書から母が何を書いているかなんておおよそわかる。だがそれでも母が垂蔵と暮らして来た日々をどう思っていたのかどうしても知りたかった。考えた挙句露都は結局垂蔵宛の遺書を自分宛の遺書と一緒に引き出しに戻した。そうしてしばらく床で横になっていたが、突然彼は起きて再び垂蔵宛の遺書を取り出した。やっぱり読まずにいられなかったのだ。

 遺書を読み終えると露都は思わず遺書を跳ね除けて泣き崩れた。泣きながら「バッカじゃねえの!」と叫んだ。その遺書には垂蔵への批判めいたものは一切書かれておらず、ただ垂蔵との思い出と感謝が書かれていた。しかも母は続けて垂蔵に対しこれから垂蔵を支えられなくなるのが辛いとまで書いていた。遺書の最後はこう締められていた。

『垂蔵。あなたといた日々は波瀾万丈で楽しかったよ。私は誰がなんと言おうと一番の幸せものです。ありがとう。』

 この母のあまりに無邪気な母の言葉を読んで露都は激しく混乱していた。母に対する怒りやら気恥ずかしさやら憐れみやら嘲りやらそれら全部の感情が一気に押し寄せてきてどうしようもなかった。ただ泣くしかなかった。このバカバカしいほどに感動的に綴られた垂蔵への想いにただ圧倒され言葉が出なかった。露都は近くにあったティッシュで涙を拭うと、床に散らばった便箋を封筒に入れた。そして引き出しに戻す時、明日垂蔵に渡そうと決めた。

それから

「だけどアンタは全く変わらなかった。俺はアンタに母さんの遺書を渡した時、アンタに期待をかけていたんだよ。この母さんの無邪気なまでの想いが書かれた遺書読んでアンタが自分のしでかした事を反省してまともな人間になってくれる事を。だがアンタは何も変わらなかった。アンタは母さんが亡くなってからいくらもしないうちに女を連れ込みやがった。まだ四十九日も経っていないのにだぜ」

 露都はその後この垂蔵のあからさまな裏切りを見てもう限界だと思って家を出た。彼は家を出る時母の仏壇や母の遺品を全て持っていこうとした。だが腹立たしいことに母への思いが彼を引き止めてしまった。母は垂蔵をずっと愛していた。それを全部持っていったら自分が母と垂蔵の間を引き裂くことになってしまう。だからやはり残していった方がいいと思ったのだ。

 露都が家から出て行って一年ぐらい経った頃、垂蔵は母との貴重な思い出のあったこの貸家を引き払ってどこかに消えた。露都はそれを知って腹が立ち完全に父と縁を切ることに決めた。自分の手元にある父の何かしらの痕跡のあったものはすべて処分し、一時は名字と名前を全部変えることさえ考えた。ああいうクズはどうせどっかで野垂れ死ぬんだろう。そんなこと俺の知ったことかと彼は思い、そして父を記憶の中からでさえ遠ざけた。

 しかし昨年の年末に垂蔵は突然目の前に現れた。しかも露都の家の近くにあるボロアパートに引っ越して来たのだ。垂蔵によるとそのアパートはサーチ&デストロイのファンたちがカンパし合って家がなくて困っている垂蔵に無償で提供しているという事だった。

 そしてこれがその結果か。全く呆れるぜ。露都は垂蔵の呑気にいびきなんかかいて熟睡している顔を憎さげに見つめた。

「アンタ何で帰って来たんだ?今更罪滅ぼしのためか?どっからか俺に家族がいるってこと突き止めたんだろうが、なんであんなクズのかたまりみたいなもん大量に寄越しやがったんだ?そんな事をしたってアンタのしでかしたことの罪は消えないし、アンタの母さんと俺に対する罪はもうとっくに時効なんだよ。そう時効。アンタは罰則を受けない代わりに永遠に罪を償う事はできないんだ。それか老後の一人暮らしが寂しくて養ってもらうために俺を頼りにきたのか?よく考えればこっちの方が本心だよな。何故ならアンタは母さんの遺書を読んで何も心を動かされなかった人間なんだから。だけどそれもダメだ。もっとダメだ。アンタは俺たちよりあのクズみたいな連中に看取られて死ぬ方がよっぽどふさわしいんだよ」

 その時ドアが開いて巡回の看護師が現れた。露都は我に返って慌てて挨拶をした。看護師はその露都に「もうすぐ消灯の時間になりますのでそろそろご退出お願いします」と声をかけてきた。露都はそれを聞いて長居して申し訳ありませんと言って慌てて病室を出た。彼はその時何故か後ろ髪引かれる的なものを感じたが、それは決して気分のいいものではなかった。

 家のドアを絵里がすぐに玄関に迎えにきた。寝てればよかったのにと露都が言うと、絵里は怒ったような感じ寝れるわけないでしょと言い返して来た。続けて彼女はお父さんは大丈夫かと聞いて来たが、露都はそれに対して大きなため息をついて頷いた。彼はそのまま書斎に行こうとしたがふと立ち止まってサトルの事を聞いた。すると絵里は呆れたように笑ってサトルが「絶対にパパは許さない。おじいちゃんのプレゼントをあんなふうにボクから取り上げる奴は人間じゃない」と言っていたと答えた。それを聞いて露都はそうかと苦笑して再び書斎へと向かったが、その絵理がご飯は食べないのかと聞いてきたので彼は食べてきたからいいと嘘をついてそのまま行こうとした。

「ホントに食べてんの?朝だって食べずにそのまま出て行ったでしょ?あの、お昼はどうなのよ」

「食べてるよ」

 と露都は妻に返事をして軽く腕を上げて見せたが、絵里には彼が昨日から何も食べていない事は見え見えであった。

「ったく、ホントに嘘がつけないんだから」

 と絵里は書斎のドアの鍵を開けるのに苦労している夫の背中を見て呆れ顔で呟いた。

 露都は書斎に入ると、とりあえず鞄の中の書類を整理してそれから風呂に入って寝ようと考えた。だが、いざそうしようとすると病室での垂蔵の寝姿がチラついて何もやる気がしなくなった。垂蔵はもうじき死ぬ。それに対し自分は心配する必要なとなく死ぬまでの間入院費を払ってやればいいだけだ。だけど死んだら死んだで俺が葬儀をしなきゃいけないのか?なんだって俺があのクズの葬式なんかしなきゃいけないんだろう。あんな奴をどうして俺が見送んなきゃいけないんだ!

 ああ!めんどくせ!と露都は強引に断ち切って鞄から書類を抜き出そうとした。だが抜き出そうとした瞬間、また別の事を思い浮かべた。今度は母の垂蔵への遺書だ。母はその遺書で最初から最後まで垂蔵への愛と感謝の言葉を書き綴っていたが、その中で母は垂蔵のバンドサーチ&デストロイのライブを観た時に自分がどれほど救われたかを書いていた。『あなたのあのライブを観なかったら私は生きていなかったかも知れない。これは大袈裟じゃなくてホントのことだから。』露都はあの時このくだりを読んだ時、十代や二十代ならともかく五十近い末期ガンの病人が書く文章じゃないだろって激しく憤った。あの遺書は今も垂蔵は持っているのだろうか。いやヤツのことだ。酔ってどっかに捨てちまってるはずだ。と露都は毒付いたが、そうしたところで気分が治まるはずはなかった。

垂蔵のプレゼント

 露都はふと昨日絵里がサトルの部屋から袋詰めで垂蔵のサトルへのプレゼントを持って来た事を思い出した。彼はあのPPバッグはどこに置いたっけと部屋の中を探そうとしたが、部屋のど真ん中に置いてあるのを見て頭を掻いた。露都は持っていた鞄をそのまんま床に投げるとバッグを覗いて何が入っているのか見た。全くどうしようもないものだった。安全ピンをそこら中に刺したモヒカン狩りのリカちゃん人形。同じくモヒカン狩りで安全ピンが至る所に突き刺さった下品な頭蓋骨とサーチ&デストロイのTシャツを着た誰かに作らせたらしきオリジナルの人形。何枚ものビニールに入ったまだ一回も袖を通していない下品なデザインのTシャツ類。サーチ&デストロイのフリスビーにもならない、血だらけの悪趣味なジャケットのCD。最後に同じく血だらけでただ不快になるだけのデザインの絵と、その中心に暴れている若き垂蔵をはじめとしたサーチ&デストロイのメンバーがプリントされているビデオの箱。どれもこれも正真正銘のゴミだった。

 ったくこんなもの貰ったってサトルが観れるわけねえだろってのに。露都はそうビデオを嘲けりながら手に持ってその箱の面裏をひっくり返して見ていた。裏には最狂だの、破壊だの、暴力だの、革命だの、アナーキズムだの物騒な言葉が並べられ、その中心に『ラストハードコアヒーロー、サーチ&デストロイの狂気の流血ライブ!』という煽り文句がデカデカと載っていた。煽り文句の下に三枚ほどのライブを撮ったと思われる写真がプリントされていたが、露都はそれを見るだけで不快になった。自分も確か赤ん坊の時から小学校に入るまで母に無理矢理垂蔵のこのゴミバンドのライブに連れて行かされていた。だがライブなんて殆ど覚えていない。ただうるさくてピーピー泣いていた事ぐらいしか記憶にない。露都はうんざりしてビデオを袋に入れようとしたが、その時また母が垂蔵に宛た遺書に綴った言葉を思い出してこう思った。もしかしたら母さん観客としてこのビデオの中に映っているんじゃないか?

 確かめようと思えばすぐに確かめられる方法があった。露都はビデオデッキを持っていたからである。本棚の脇に置いてあるのこのビデオデッキは、露都が中学に入った時に母の弟の叔父が譲ってくれたものだった。映画好きでもあった官僚の叔父は膨大なビデオと共にこのビデオデッキをくれたのだが、残念ながらビデオの大半は引越しの際に家に置いて出て行ったので手元には数本しかない。ビデオデッキの方もそれからいくらもしないうちにDVDが広まったので中学以来全く動かしていない。果たしてまともに作動するのだろうか。

 しかし露都はすぐにビデオを観ようという気になった自分を恥じた。こんなものは観る必要がない。大体母がそこに映っていたとしても、バカの垂蔵がバカな事をしてそれに対して母がきゃーきゃー騒いでるだけの代物じゃないか。観たって却って陰惨な気分になるだけだ。

 だかそうやって見まいと我慢しているとまたムカムカしてきた。露都は自分が麻薬の禁断症状になっているような気分になってきた。どう観たって大したもの映っていない。母が垂蔵にぞっこんだったってのは遺書で散々書いていただろうが、そんなものを確認したところで、と思っている先からすでにビデオの箱を開けてしまっていた。

 どうせちょっと観るだけだ。早回しして母が映ってるか確認してそれで終わりだ。露都はそう無理矢理自分を納得させてビデオデッキをテレビに繋いだ。彼は間違いなく自分がバカげた事をしていると思った。繋ぎ終えて彼はビデオデッキの電源を入れたが、問題なくついた。しかも時刻表示の時間が現在時刻とほぼ同じであった。露都は十数年前の骨董品なのにどうなってんだよと呟いた。後はビデオテープがちゃんと再生できるかだが、ここで彼は止まって一息ついた。しかし彼はすぐに決心してテレビの再生設定を外部機器にしてヤケクソで差し込み口にテープを押し込んだ。

 一瞬、画面にブチっという音と共にノイズが走った。殆どビデオデッキなど使っていなかったので一瞬やっぱりビデオデッキが壊れているのかと思った。だがすぐに黒い画面に白字でビデオのタイトルと、サーチ&デストロイのバンド名と、ビデオの制作会社名が出てきた。どうやらこのビデオデッキは無事に再生されているようだと安心した瞬間、ものすごい轟音が部屋中に響いた。あまりの轟音に露都は耳を塞いだ。その画面にはモヒカンで頭に包帯を巻いた今の自分より年下であろう垂蔵が出てきた。露都はあまりのうるささに思わずビデオを消そうとしたが、その時最前列の客席を映したカメラにひたすら飛び跳ねて何か喚いている頭を立てて派手な恰好をしている若い女を見て目が止まった。これ、母さんじゃん。ビデオの中で飛んで吠えている母は彼の全く知らない母であった。露都はひたすらステージに向かって吠えている母を見て彼女が遺書に書いた事が百パーセント事実だったと理解したのである。

 母さん、何やってんだよそんなとこで!こんなゴミみたいなもんに何そんなに興奮してんだよ!母は最前列からステージの垂蔵に向かって絶叫し、垂蔵もそれに応えるようにステージで喚きまくりいきなり客席に飛び降りて母やその周りの男連中を殴り始めた。ああ!このクズ野郎が!俺の母さんに何するんだと立ち上がった時、露都はドアがいつの間にか半開きになっていて、そこにサトルが立っているのに気づいた。

 露都はすぐさまテレビとビデオのコンセントを引き抜き無言でドアを閉めた。

垂蔵のニュース

 日が変わってもまだ露都とサトルの冷戦状態は続いていた。朝食の時も互いに口も聞かず食事が終わったら互いに声もかけず外に出た。絵里は露都に呆れ果てあなたお父さんなんだから子供じみた事はやめてサトルに頭下げなさいよと叱ってきた。だが露都はそれに対して何も答えず、ただサトルが自分について何か言っていなかったか聞くだけであった。

 露都は自分の混乱を全て垂蔵のせいと決めつけ、日常から出来るだけ垂蔵の存在を消そうと試みた。彼は積極的に会議で発言し、うまく会議をまとめ上げた。そんな彼の働きぶりを同僚はアイツやばい薬でもやってるのかと驚いていたが、それも全て垂蔵のことを頭から退けるためであった。だが現実はそうは問屋が下さなかった。嫌なことはこっちがどんなに避けても向こうからやってくるのだ。

 昼食時間になると露都は最近そうしているようにこの日も庁舎の近くの公園のベンチでスマホをいじって株価情報や博士論文やwikiなんかを覗いていた。株価情報にも博士論文にもwikiにも別に興味などはなかったが、とにかく暇つぶしにはなったからである。その露都の所に同期で入省した男が声をかけてきた。この男は露都の小学時代からの友人で大企業の経営者の子息だった。

「よぉ、大口久しぶり。そっちは忙しい?うちは最近徹夜漬けでさぁ。まるで肉体労働者みたいだぜ。何のために官僚になったんだよって感じだよ。ああ!早く辞めてえな!」

「いいな、実家の太い奴は呑気にそんなこと言えて。俺なんか何も持ってねえからしがみつくしかねえんだよ」

「へっ、何言ってんだよ。お前のお母さんの父親なんて局長まで登りつめた人じゃねえか。その息子の叔父さんだって今審議官だろ?いずれ父親みたいに局長になるって噂されてる人じゃん。どこが何も持ってねえだよ。お前は俺らに比べりゃよっぽど恵まれてんだよ。いい加減その事に気づけ」

「あっそ!」

「ところでさ」と友人は突然真顔になって言った。

「お前の親父さん、倒れたんだって?大丈夫かよ?」

「えっ?」と露都は思わず声を上げた。こんな事家族以外どこにも話していないぞ。コイツはどっからそんな事知ったんだ?まさか省内に垂蔵の事がバレてるって事か?下手に大っぴらになったらまずい事になる。そうなったら叔父さんは真っ先に俺を切り捨てるはず。あの人はなんだかんだいって結局は自分が一番かわいいんだから。

「おい、何そんなびっくりした顔してんだよ。自分の父ちゃんが倒れたってネット話題になってんの知らないのか?昨日の夜親父さんがやってるサーチ&デストロイだっけ?そのバンドの事務所がネットに親父さんが急病で倒れたって事を公式であげたんだよ」

「知るわけねえだろそんなもん!」露都は友人の言葉にホッとしてとりあえず肩をなでおろした。しかし改めて友人の言ったことを思い返しあんなクズが病気になったぐらいでなんで世間が大騒ぎするんだと不思議に思った。

「まぁ、お前もいろいろ忙しくてネットなんかチェックする暇ねえってのはわかるけどな。でも凄え人なんだな、お前の親父さん、なんかいろんな人が親父さん心配してるぜ。ミュージシャンは勿論評論家や政治ジャーナリストまでさ、親父さんのバンドを聞いて人生変わったとか言い出してさ。そういや、俺小学校の時お前の親父さんバカにしてたよな。あんまりにも今更で意味ないかもしれないけど詫びるよ。申し訳なかった。親父さん早く元気になるといいな」

「ああ、ありがとう。だけどお願いだから俺と親父が親子だって事絶対に口外しないでくれ。俺と二人だけの時もだ」

「おいおい、親父さんがパンクロックやってちゃやっぱり出世に響くってのか?お前には叔父さんとお祖父さんがついてんだろ?」

「おい!」

「わかったよ!もう言わねえよ!ったく神経質な奴だな!」

 友人はそう言うと立ち上がってじゃあなと言って足早に去って行った。再び一人になった露都は今の友人の言葉を思い浮かべて何ともいえない気分になった。こんなに頭から垂蔵の事を追い出そうとしているのにどうして周りは放っておいてくれないのか。あの野郎、今更畏まって散々クソ親父をバカにした事を謝ってきやがって。そういうのが尚更こっちを苛立たせるのかわかっているのか?露都の頭の中にふと昨夜観たビデオの映像が浮かんできた。垂蔵の馬鹿げた見世物としか思えないあの様を。アイツ結構有名だったんだな。全く知らなかったよ。まあ知る気もなかったけど。

 友人の話を聞いて世間で垂蔵の事がどう語られているかが気になった。しかし露都はそんな事はバカげた事と手に持っていたスマホをポケットにしまい、そしてベンチから立ち上がった。さぁ、もう仕事だ。垂蔵の事などさっさと忘れてしまえ。

ビデオの中の母

 病院からの用件がなかったので、露都は普段通りに九時半まで残業した。いつもだったらイヤイヤながらオフィスに残るのだが、今日は率先して時間いっぱいまで残業した。もしなんかの間違いで定時通りに帰ることがあればサトルと一緒に夕食を食べなきゃいけないし、そして無言の気まずい時間を過ごさなきゃいけない。絵里はそんな自分を呆れ顔で見るだろう。ああ!俺は帰宅拒否症の旦那かよ!露都はそんなことを考えながら玄関のドアを開けた。絵里は出て来なかった。どうやら寝ているようだった。

 家の中に入って台所の明かりをつけるとテーブルに紙が置いてあった。絵里のメモ書きだった。『お仕事お疲れ様。夕食の作り置きが冷蔵庫にあるから食べて。毎日食べないと死んじゃうから絶対に食べるんだよ』。露都はメモ書きを読んで絵里に対して申し訳なく思った。彼はその冷蔵庫の中の作り置きをレンジに入れて食べたが、食べている最中にサトルの事を考えた。やっぱり絵里のためにも明日仲直りしておこう。だけどあのゴミはどうすりゃいいんだ。返すわけにはいかないし、返さなかったら返さなかったでサトルは怒るだろうし。

 露都はふと垂蔵の父親が自分と同じ官僚だったのを思い出した。垂蔵は多分その父親に反発してあんなクズみたいな事をやり出したのだろう。その父親は顔さえ知らず、今生きているのか死んでいるのかさえわからない。事務次官を勤めたほどの人だからググったら消息は簡単に掴めるだろうが、それは怖くてとても出来なかった。大体戸籍上では自分と垂蔵の父親は完全に他人なのだ。にもかかわらず自分はその事務次官まで勤めた人と血が繋がっている事に誇りを持っている。一方サトルはあのクズの垂蔵に妙なシンパシーを抱いている。あの子はまだ子供だし反抗期なんてまだ全然先だが、このまま成長したらどうなるのだろう。垂蔵が彼の父親に反発してクズの道を転がっていったし、自分はその垂蔵に反発して真っ当な道を歩んで行った。男は父親に反発して祖父にシンパシーを抱くとはよく言われているけど、もしかしたら自分たちはそのまんまかもしれないと思った。露都は空の食器の前で深いため息をついた。彼はテーブルの上の食器を持って立ち上がり流し台へと向かった。

 今日は寝室で寝ようと思ったが、その隣の部屋で寝ているだろうサトルを思い出してやはり昨日と同じく書斎で寝る事にした。寝る前に絵里に声を掛けたかったが、サトルが起きているかもしれないと考えてやめる事にした。部屋は昨日のまんまだった。バッグから出しっぱなしにしていた垂蔵のゴミのような代物が床に無造作に投げられていた。確かテープはまだデッキの中だ。昨日テレビのコンセントごと抜いちまったし。彼はとりあえずテープを抜き出そうとデッキのコンセントを入れたが、その時ふとビデオの続きを観たい誘惑に駆られてしまった。たしか垂蔵が母さんを殴り出したところでコンセント抜いたんだっけ?あの後どうなったんだろう。母さんは無事だったのだろうか。露都は誘惑に勝てず舌打ちしながらテレビのコンセントも入れた。

 今度は誰も入って来れないよう注意を配る必要があった。鍵かけなきゃまたサトルに覗かれる。それから音も小さくしなきゃ。その上でベッドホンだ。露都はこう周りに聞こえないよう視聴の準備をしている自分をまるで今からエロ動画でも観るみたいだと自嘲した。彼自身は今までそんなものは見た事は一度もなかったのだが。

 準備を全て終えた露都は早速デッキの再生ボタンを押した。するとビデオは昨日と同じようにノイズをたててから昨日の続きを映し出した。昨日と同じようにやかましい騒音が流れる中、垂蔵は母や周りの客を殴っていた。他の連中はたまらず逃げ出すが、母だけは垂蔵に反抗して殴り返す。垂蔵はその母に恐れをなしたらしく、彼女を避けて周りの客の方に飛び込んでいった。

 しばらくして垂蔵はステージに戻りマイクを手にまたわけのわからない絶叫をし始めた。全く酷いゴミだ。アンタこんなろくでもない事よく何十年も出来たよな。こんなバカなドクロのTシャツなんか着て。と思った時、露都は突然自分もライブに連れて行かれるたびにこんなのを無理矢理着させられていた事を思い出した。あれはまだ俺が幼稚園の頃だ。母さんとコイツが泣いてイヤがる俺に力づくで着せたんだ。彼は袋に同じようなTシャツがあった事を思い出して、袋からキッズ用のTシャツを何枚か出した。

 このサトルにプレゼントされたビニールに入ったTシャツは確かに未開封の新品だろうが、よく見るとビニールは古く、すえたようなきつい匂いがしていた。まさかこのTシャツ俺のために買ったやつか?俺がイヤがって受け取らなかったからずっと持ってたってのか?驚いたな。こんなものとっくに捨ててると思ったよ。俺はアンタからもらった奴は全部捨てたしな。そうかだから俺のお古をサトルに渡したってわけか!チッそんな事されても俺のアンタへの判決は絶対に揺るがねえよ!

 その時突然昨日のように母の絶叫が耳に響いた。露都はベッドホンに手を当てながら再びテレビを見た。昨日と同じように母が映っていた。母は鼻血を垂れ流ながら周りの男をぶん殴って大口を開けて絶叫していた。ああ!なんてこった!こりゃひでぇよ!酷すぎるよ母さん。アンタいいとこのお嬢さんじゃないか。確かに垂蔵だって実はいいとこのお坊ちゃんだけど。でもアンタは違うだろ?まともな大学出てんだから商社にでも就職すりゃもっとまともな未来がアンタを待っていたんだ!少なくとも五十前で若死にするよりマシな未来が待っていたんだ!なのに、なのになんでアンタこんな奴のゴミみたいな代物見てそんなキラキラした表情してんだよ!そんな顔俺の前で一度もしなかったじゃないか!母の絶叫とバンドの騒音と垂蔵の喚き声がガンガン響く。おかしいなテレビの音声はちゃんと小さくしてるのに、なんでこんなにうるさく響くんだ?いつの間に手に雫が垂れてる。おい、もしかして俺は泣いているのか?

 その時ベッドホンの外からドアを回す音が聞こえてきた。露都はまたサトルかと思って慌ててベッドホンを外して耳を澄ました。ドアはガチゃガチャと二回ほど回りそれから子供の足音が微かに聞こえた。やはりサトルだった。

仲直りの決意

 翌朝、露都は起きると朝食をとるために台所へ向かった。彼はそこで偶然玄関のドアからから出てゆくサトルの背中を見た。声をかけようとしたが、サトルは父に気づかなかったようで振り向きもせずに出て行った。露都はその去り際にサトルの持っていた手提げバッグがやたら膨らんでいたのを見た。あれは図工の宿題の工作か何かなんだろうか。そういえば最近忙しさにかまけて全くサトルを構ってやれていない。全部絵里に任せっきりだ。サトルとまともに話したことなんてここ二週間ぐらいないのでは。下手したら今回の事がきっかけであの子と一生口を聞かなくなるかもしれない。彼は無意識にサトルを子供の頃の自分に重ねた。とにかく今日にでもあの子と仲直りしなきゃ。上司はうるさく言うだろうが今日の残業はやめだ。定時に帰ってサトルと話す機会を設けないと。

 台所に入ると絵里がおはようと声をかけてきた。露都は昨夜の夜食の礼を言ったが、それに対して妻は美味しかったかと聞いてきた。露都はその問い詰めるような口調に少し慌てて美味かったと答えると、彼女はにっこり笑って口調でありがとうと答えた。絵里は何も言って来ない。どうやら彼が話し出すのを待っているようだった。

「あのさ、サトルのことなんだけどさ」

「おっ、とうとう謝る気になったか」

「まぁな。今日は残業断ってまっすぐ家に帰ってくるつもりだ。素直に謝るつもりだよ」

「それはよかった。でもそんなに慌てて帰って来なくていいよ。サトル今日塾だから。でも、露都にしちゃ上出来だよ。それでお父さんのプレゼントも返してくれるんだよね?」

「返すわけないだろ」

「はぁ?それじゃ意味ないでしょ?それでサトルが許してくれると思ってんの?」

「事情を話せばサトルだってわかってくれるさ」

「わかるわけないでしょ!サトルはまだ小学校一年なのよ」

「いや、わかるはずた。だってサトルは俺の子だ。人間って小学生にもなると世の中ってのか見えてくるものなんだ。いいか?子供ってのは意外に察するものなんだよ。俺もそうだった。あのクズがどれほど汚い人間か……」

「ハイハイわかりました!もうわたしは何も言いませんよ。あなたのお力でサトルを目覚めさせてあげてくださいね!」

 露都は妻がこう投げやりな口調で言ったので少し腹が立った。しかし彼は何も言わずテーブルの椅子に座って朝食を食べようとした。が、その時ふとサトルの鞄の事を思い出した。

「そういえばサトルやたらカバンに荷物詰め込んで学校に行ったけど図工かなんかの宿題でもあったのか?」

「はぁ?サトルのカバンがどうしたって?」

「どうしたって、あんなにパンパンだったじゃないか」

「そんなの見てないからわかんないよ」

「見てない?お前母親だろ?なんで子供の行動ちゃんと見張ってないんだよ!サトルが何かしでかしたらお前のせいだぞ」

「何よその偉そうな態度!家のことは何にもやらないくせに!あの、アンタたちの揉め事のせいで私がどんだけ神経すり減らしてるか!わかってるの?あったまに来た!もうアンタの朝食抜きよ!さっさとお役所に行きやがれ!」

 露都は絵里の物凄い剣幕にビビってとにかく今日は早く帰ってくるからなと言い残して玄関から逃げ出した。

 定時に帰るにはまず上長の許可を取らなくてはいけなかった。露都はこういう時いつも一般の会社員をうらやましく思う。官僚は残業が当たり前だ。特にキャリアはそれが義務だ。なのに自分は最近連続で定時に帰ってしまっている。いくら親の病気であるとはいえ、このような事が続けば出世に間違いなく響く。しかも今日は他人から見れば不要不急の家庭の事情でしかない。気が重かった。彼は朝オフィスに入ると早速課長に定時上がりの報告をしたのだが、予想以上の強烈な嫌味を言ってきた。

「今度は家の都合なの?そこまでして定時で上がりたいの?全くいいご身分だね。我々がこうして日々十時近くまで残って資料作成しているのにさ。君ときたら自宅でのんびり家族サービスなんだから。幸せだよ君は。みんなが仕事のために家族を犠牲にしているのにさ。君今自分がどういう地位についてるかわかってるの?課長補佐だよ。本来なら僕のサポートとして手となって足となってバンバン動いてもらわなきゃいけないんだよ。なのに当たり前のように定時で上がろうとするんだからね。それとも自分は特別だとでも言うのかい?君には後ろ盾もあるからね。局長まで勤めた祖父がいて、さらに審議官のいずれ父親と同じ局長になるって噂のある叔父がいるんだからね。何をやっても出世コースだから定時で上がっても全然平気だとでもいうのかね。ホントに血筋のいい人間は違うんだな!僕みたいに今年いっぱいで天下り確定の中間管理職とはまるっきり違うんだな!」

 露都この露骨な嫌味を適当に聞き流し、話が終わってから改めて定時で上がってもよろしいですかと聞いた。すると課長は投げやりな態度でああいいよ、好きにすればいいさと手を振って立ち去るように促したが、その時ふと何か思いついたのか自席に戻ろうとする彼を呼び止めてこう聞いた。

「そういえば君のお父さんって官僚だったっけ?だとしたらどこの省庁にいたのかな?」

 この課長の言葉に露都は怒りを抑えきれず思わず大声を上げてしまった。

「父は官僚ではありません!」

 全く不愉快だった。この課長の嫌味には慣れているつもりだったが、最後の最後で爆発してしまった。それもこれもこいつが最後に突然厭味ったらしく俺分の父親のことを尋ねて来たからだ。まさかこいつは垂蔵が自分の父親だって知ってたからわざとこのタイミングで父親の事を聞いてきたのか。畜生、心が乱れてしょうがない。課長が垂蔵が俺の親だって知ってようが、無視してりゃいいじゃないか。誰が何を知ってようが無視して適当に取り繕ってればいいじゃないか。なのに何で今日に限ってこんなにムキになってるんだ?ええい!今は仕事中だぞ!垂蔵のことなんか忘れてしまえ!

 そうやって葛藤しているうちに時間は驚くほど早く流れていった。露都は報告文書の作成や外部との連携で一日中ずっとPCと睨めっこしていたが、意外にも仕事が進んだのに自分でも驚いた。露都は昼食を忘れていた事に気づいて苦笑した。PCの時計はもう十七時四十五分になっていた。彼は内部フォルダに作成した文書を入れると帰宅するために立ち上がった。とにかくなんと言われようが今日は帰る。今日残業したら明日も残業で、そんな感じで明後日も残業して結局サトルと距離が出来たまま虚しく時間が流れてしまう。こういう問題は決めたらすぐ実行しなきゃダメなんだ。彼は帰る時課長に帰宅の挨拶をしたが、課長はPCを見たままあっそと相槌を打った。

サトルの事件

 庁舎を出た瞬間、スマホから着信音が鳴り出した。露都は垂蔵に何かあったのかと思って慌ててスマホを取り出したが、通知バーが病院ではなく、絵里からのものだったので安心して大きく息を吐いた。彼は驚かせやがってと思いどうせサトルの帰宅の報告だろと思って電話に出た。しかし電話の向こうの絵里はあ……あとうめくばかりで話がまともに出来ない状態だった。露都は絵里の態度に不安を感じて落ち着いて一から話せと嗜めた。すると絵里は慌てちゃってごめんと謝ってから一息置いて喋り始めた。

「あ、あの……私この間おじいちゃんのサトルへのプレゼント回収して露都に渡したよね?私、全部回収したつもりだったんだけど、たった一つ忘れていたのよ。露都も見てるでしょ?あの鋲がたくさん打ち込まれたなんか昔の漫画みたいなジャンパー」

 露都は絵里の言葉を聞いてサトルがその革ジャンを着ていた事を思い出してあっと声を上げた。

「それ、たしかこの間サトルそれ着てたやつだ!おい、そのジャンバーがどうしたんだよ?まさかそれが今回の揉め事に関わってんのかよ!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてよ。今から順序立てて話すから!そ、そのジャンバーなんだけどあの子今日それを持っていっちゃったのよ!学校じゃ着てなかったらしいんだけど、塾で着ちゃったの。そのジャンバー着たサトルを見たマー君がね、思いっきりからかったらしいの。で、サトルはそれに怒ってマー君に殴りかかっちゃったんだって。私塾の方から電話でそれ聞いてもうどうしようかって思ったわよ」

 露都は絵里の話にショックを受けて倒れそうになった。朝やたらサトルのカバンがパンパンになっていたのはサトルがジャンバー入れていたからなのか。だけどなんであのジャンバーが記憶からすっかり抜け落ちていたんだ。あんな目立つジャンバーをすっかり忘れちまうなんて!俺はどうしようもないバカだ!ジャンバーの事覚えていたらサトルのカバンからあのクズのバカさ加減が染みついたジャンバーなんかぶんどってやったのに!ああ!もう脳天気に仲直りとか言ってる暇じゃない。

「それでお前今どこにいるんだ?サトルはどうしているんだよ!」

「サトルは今ジャンバー持って自分の部屋にいるよ。さっき塾に行ってマー君とお母さんに謝ってきたんだけど、マー君は自分も悪かったって泣いてサトルと仲直りしてくれて、マー君のパパとママにうちの子がサトルちゃんを傷つけてごめんなさいなんて謝られちゃってなんか申し訳がなかったよ。露都ごめんね。ジャンバーの事度忘れして。あれちゃんと露都に渡してたらこんな事起きなかったのに。だけど、びっくりだよ。まさかサトルが人と喧嘩するなんて。ホントににおじいちゃん好きなんだね」

「何がおじいちゃんが好きだ!そんな能天気なこと言ってる暇ねえだろ!とにかくすぐ家に戻る。それまでサトルが家を出ないか見張っとけ!」

「露都!いい?お願いたがらサトルを責めないで!あの子だって悪気があって塾にジャンバー着ていったんじゃないんだから!」

「悪気がない方が一層悪いだろうが!今すぐ家に帰ってサトルからそのジャンバー取り上げて翌週の燃えないゴミに捨ててやる!」

「ああ!そんな剣幕で怒鳴り込んだら何もかもめちゃくちゃになるじゃない!全くあなたって予想外のことが起こるといっつも我を失うんだから!いい?とり合えず家に帰ってくる前にあなたからもマー君のパパとママに電話で謝っておきなさい!」

 この絵里の一喝を聞いて露都は急に我に返った。彼はしばらく黙った後で絵里に謝り、そしてマー君の両親への謝罪と、改めてサトルと話し合うつもりだと伝えて電話を終えた。

プレミア物のジャンバー

 それから露都はすぐさまマー君の家に電話をした。するとワンコール鳴らないうちにマー君の母親が出てきた。母親はいつもと変わらず明るい調子だった。彼はとりあえずマー君の母親に謝罪をしたが、母親はまぁ、子供の喧嘩だし当人同士が仲直りしたんだからと笑っていた。露都は謝罪が済んだので電話を終わらせようとしたが、その時マー君の母親が旦那に変わっていいですか?と聞いてきた。露都は大丈夫だと答えたが、露都はこの旦那が苦手であった。確かに絵里と奥さんは仲が良くたまの休日には家族連れで互いの家に通い合うほどであったが、そんな時でも露都はこのかなり有名なデザイナーであるという旦那とは挨拶程度の会話しかしなかった。この旦那の砕けた口調が苦手で会話を避けていたからである。また露都は旦那の雰囲気がどこか垂蔵を思わせるところがあるのも気になった。恐らく旦那の方も逆の立場から自分のことを同じように見ているのだろう。露都はスマホを手に旦那を待っていて妙に緊張してきた。多分旦那とは挨拶程度で終わると分かり切っているが、それでも構えてしまう。露都は息を整えて旦那が出るのを待った。

「やぁ、大口さんどうも!うちのバカがサトル君をからかったみたいで。申し訳ありませんねぇ〜。いやぁ、俺もカミさんからそれ聞いてぶっ飛んじゃいましたよ。息子は俺に似てすぐ軽口叩くから時々人を本気でムカつかせるんです。困ったもんです。でも仲直りしたようでホントに良かった良かった」

 奥さんから変わって電話に出たマー君の父は開口一番いきなりこう捲し立てた。露都は久しぶりに聞くこの男の砕けた口調に気に触るものを感じさっさと形通りの謝罪を済ませて電話を終わらせようと思った。それでとりあえず謝罪の言葉を並べながら会話を終わりへと持って行こうとしたのだか、マー君の父が突然サトルの着ていた革ジャンの事を聞いてきたので思わず声をあげてしまった。

「あの、サトル君が着ていた革ジャンて大口さんが買ったんですか?」

 露都はマー君の父の質問にどう答えていいか迷った。あの革ジャンを垂蔵から貰ったとはとても正直には言えないし、自分が買ったとも、妻が買ったとも言えなかった。しばらく考えて彼はあれは多分サトルがゴミの集積場から拾ってきたものだから非常に困っていると大嘘を言った。するとマー君の父はいきなり思わず耳を塞ぐほどの大声をあげてこう喋り出した。 

「ええ〜っ!あんな貴重なもの捨てる奴がいるんですかぁ〜!あれってサーチ&デストロイの大口垂蔵が自分の子供に着せてたレア中のレアもんじゃないですかぁ〜!どっからか流れに流れてサーチ&デストロイも大口垂蔵も知らない連中に貰われちゃったんですかねぇ〜!あの〜いらないなら私に譲ってくれませんかぁ。困っているんだったら私が引き取りますよ」

 マー君の父がやたらはしゃいだ調子でサトルの着ていたジャンパーの事を話しているのを聞いて露都はなんか自分もサトルぐらいの歳に何回か着させられたような気がしてきて、不愉快な気分になった。垂蔵はどこまでも現れる。まるで背後霊のようにずっと。垂蔵が現れない日なんてあったろうか。長年消息不明だった時も垂蔵はどこまでも頭の隅に巣くっていた。ああ!ウンザリだ!

「ねね、大口さん。週末にお宅に伺うからサトル君のジャンパー見せてくださいよぉ。それとさっき言った事ですけど、勿論無償じゃないですよ。大口さんの言い値で……」

 露都はこの旦那にウンザリしてもう電話を終わらせようと、週末は病院に父の見舞いに行くからと嘘をつき、さらにゴミ捨て場から拾ったものとはいえ、誰かの持ち物で盗品の可能性もあるから警察に届けるつもりだと、職場で身につけた仮初の丁寧さで嘘を重ねて相手に電話を終わらすように促した。結局マー君の父は露都のこの嘘を信じたのか、単に根負けしたのかわからないが、それじゃあしょうがないですねと彼の話を受け入れた。それから露都はマー君の旦那に対して重ねて謝罪しマー君の父のこちらこそという返事の後で挨拶してから電話を切った。

帰宅

 電話を切った途端に疲れがどっと来た。露都はマー君の父との電話の内容を思い浮かべて思わず舌打ちした。全く垂蔵の奴は本当にどこまでも湧いて来る。全然関係ないと思われた所にもこうやって出て来る。全くアイツはウジかなんかか?いやそれともがん細胞か?しかしそう思った所で彼は慌てて頭を振り、また舌打ちした。

 全く今日は厄日だ。上司からの強烈な嫌味、サトルの喧嘩沙汰、そして今の息子の喧嘩相手の父親。結局全部垂蔵絡みじゃねえか。そしてこれから家に帰ったら俺はもう一度垂蔵に関わらなきゃいけなくなる。露都はサトルの顔を思い出して陰鬱になった。でもちゃんと向き合わなくちゃいけない。これから俺はサトルに垂蔵の事を全部話してやるつもりだ。奴があの子の思っているようなカッコいいヒーローじゃなくてパンクロックなんてクズの塊みたいな音楽をやっているクズ中のクズみたいな人間なんだって事を。サトルは子供だから俺が何を言っているかわからないだろう。だけどそれでもあの子は俺の子供だ。長い時間をかけて話してやれば絶対にわかってくれるはず。とにかく今日で仲直りをして、明日は久しぶりにサトルのスイミングスクールに付き添ってやろう。明後日は公園でも連れて行ってやろう。いや、なんならディズニーランドでもいいか。そういえば家族でディズニーランドなんか言った事なかったな。いや、俺自身全く行った事ないんだけど。とにかく絵里任せにしないでサトルに対して父親らしい事ちゃんとしなくちゃ。

 露都は家路へと向かっている最中ずっとこんな事を考えていた。だけど家が近づくにつれてだんだん足取りも重くなってきた。全くサトルと話すのは、上長と顔を突き合わせるより遥かに緊張する。あの子はちゃんと俺の話を聞いてくれるだろうか。いや聞かせなきゃいけない。それが父親としての俺の役目だ。露都はとうとう家の玄関の前に立った。それから一息ついてドアベルを押した。

「おかえりなさい」の声と共に絵里が出てきた。露都は絵里に向かって軽く頷き靴を脱いで家に上がってから「で、サトルは?」と聞いた。すると絵里は渋い顔をしてサトルが自分の部屋にいると言い、続けて彼にマー君の所に電話したかと聞いてきた。露都は電話して両親と話したと答え、続けて相手が大して怒ってなくて安心したと言ったが、その時さっきのマー君の父親との会話を思い出して、もしかしてお前あっちの親にサトルのジャンバーのこと話したんじゃねえだろうな詰め寄った。すると絵里が「なにいきなり訳の分からない事言い出すのよ。確かにマー君パパがサトルのジャンバー気になってたみたいだけど、私何にも話していないからね」と言い返してきた。しかし彼女はそこで言葉を切り、サトルの部屋の方に顎をしゃくって言った。

「で、今日こそサトルと仲直りしてくれるんだよね?あの、電話でも言ったけど絶対にサトルを叱らないでよ。ジャンバーの事はもう終わった話なんだから」

「ああ、わかってるよ」

「何よその気のない返事は。ちゃんと私と約束してよ!私はあの子の母親なんですからね」

「ああ!わかりましたよ。俺もサトルの父親だ。絶対サトルを叱らんしあいつの目だって覚まさせてやる」

 露都はそう言うとまっすぐサトルの部屋に向かったが、絵里はその露都の後ろ姿を見てため息をついた。

「ホントに大丈夫かしら」

再びの大喧嘩

 そうして露都はサトルの部屋の前に立った。だがどうやって話を切り出そう。彼はいざこうやってサトルと話そうとして、自分がいかに今まで子供とろくに会話していなかったか思い知らされた。普段から会話していたらこういう時迷わず話しけることが出来るんだ。だけど自分は忙しさにかまけてろくに話すことがなかった。だからこうやって向き合うと碌に言葉も出てこない。ああ!もうめんどくせえ!とにかく話しかけりゃいいんだ!露都は頭を思いっきり振ってドアを見た。部屋の中からは音すらしなかった。本当にいるのだろうか?もし窓から外に出て行ったとしたら……。彼は不安になって子供がいるか確かめようとノックをした。

「サトル、お父さんだ。いるんだろ?今日は話があるんだ。お願いだから部ドアを開けてくれよ」

「開けない!ジャンバーも渡さない!」

 部屋の中からサトルが子供らしい悲痛な声で叫んだ。露都はサトルがいたことにホッとしたが、こののっけからの徹底的な拒絶に怯んだ。だが今日こそこの子と仲直りしなくちゃいけない。明日がある明後日もあるなんて能天気に考えていたら、結局は一生仲違いしてしまう。露都はふと垂蔵の顔が頭に思い浮かんだ。だが彼はそれをすぐさま頭のゴミ箱に投げ煤て、再びドアに向かって話しかけた。

「いいかい?サトル。お父さんはサトルがあの酷すぎるジャンバーを着たせいで、マー君に揶揄われて喧嘩になったことなんかどうこう言うつもりはないんだ。ただ仲直りがしたいんだよ」

「何が酷すぎるジャンバーだよ!おじいちゃんがボクにくれたカッコいいジャンバーなのにさ!仲直りなんて嘘つかないでよ!どうせボクがドア開けたらこのジャンバー盗むつもりだろ?もう早くそっから出て行ってよ!」

 さっとよりも遥かに激しい絶叫だった。露都は我が子の甲高い、痛ましさすら感じる声に思わず目をつぶった。彼は今までこんなサトルを見たことがなかった。多分絵里はこういうサトルを何度も見ているだろう。彼女はよくサトルと喧嘩したことを話していたから。露都はなんとかドアの向こうのサトルに届くようにさっきよりも声を上げた。

「だからそんなもの着てちゃダメなんだよ!サトルはおじいちゃんがどんな人か知らないからそんなことが言えるんだ。いいかい?おじいちゃんはいい人じゃないんだよ。今からお父さんが話してあげるからよく聞いて……」

「うるさいんだよ!おじいちゃんの悪口なんか聞きたくないよ!お父さんはどうしてそんなにおじいちゃんが嫌いなんだよ!」

「サトル、だからお父さんが今からそれを話すって言っているんだよ。よく聞きなさい。おじいちゃんはね……」

「うるさいって言ってるだろ!お父さんの話なんか聞きたくないんだよ!いいから早くあっち行けよ!」

「サトル!いいからお父さんの話を聞きなさい。お父さんはサトルがどうしておじいちゃんを嫌うのかって言うから全部話そうとしているのに、どうして話している側から聞きたくないなんて言い出すんだ。矛盾しているじゃないか!」

 絵里は露都とサトルのこのちぐはぐなやりとりをみて思わずため息をついた。「ダメだこりゃ。全然会話になってないわ」

「ああああ〜っ!」と突然部屋の中から耳をつんざくほどの絶叫が聞こえた。そしてわあああ〜んと泣き叫ぶ声が後に続いた。サトルがとうとう泣き出してしまったのだ。

「なんでなんだよ!なんでなんだよ!お父さんはどうしておじいちゃんをそんなにきらうんだよ!おじいちゃんボクに来週の土曜日にコンサートやるからお父さんも連れておいでって言ってくれたんだぞ!お父さんとも仲良くなりたいってボクとお母さんの前でなんかいも言っていたんだぞ!それなのに、それなのに!」

 露都はこのサトルの話を聞いて愕然とした。サトルの言っていた垂蔵の楽しい事というのは明らかに垂蔵のバンドサーチ&デストロイのライブの事だ。彼はサトルから思わぬ話を聞かされて衝撃のあまりドアの前に立ち尽くした。ドアの向こうからはサトルの泣いている声が聞こえている。立ち尽くす露都の方を後ろから絵里が軽く叩いた。

「しばらくサトルはほっとこ。私が様子見ておくからさ」

 露都は絵里に向かって頷き深いため息をつき、そして彼女に言った。

「サトルが落ち着いたら書斎来てくれないか。お前に聞きたい事がある」

妻の言葉

 しばらくするとドアの外からノックが鳴った。それに続けて絵里が入っていいかと尋ねてきた。露都がいいよと呼びかけるとすぐにドアが開いて絵里が入ってきた。絵里は垂蔵がサトルに送ったプレゼントがあちこちに散らかった部屋を見てため息をついた。彼女は書斎に籠っている夫がどんな気持ちでこれらのものを見ていたかなんとなく察したのだ。露都はその絵里の姿をじっと眺めていたが、やがて深く息を吐いて口を開いた。

「サトルもう泣き止んだ?」

「うん、泣き止んだ。とりあえず飲み物持って行ったらちゃんと受け取ってくれたよ」

「そうか……」と言って露都は黙り込んだ。しかししばらくして意を決して絵里に言った。

「あの、さっきサトルが言ってた来週の土曜にアイツがあの子をコンサートに連れて行くって話だけど、お前は当然知っていたよな?なんで俺に黙っていたんだ」

 その露都の問いに対して絵里はあまりにもあっけらかんと答えた。

「そりゃあなたに話したら絶対にサトルと揉めるからに決まってるでしょ」

「じゃあ、来週の土曜日はどうするつもりだったんだ。まさかライブに行くつもりだったとか言うんじゃないだろうな!」

「ええ、あなたに隠れてお父さんのところに行くつもりだったわよ」

「どうやって行くつもりだったんだ?土曜日は俺一日中家にいるんだぞ!」

「そりゃあなたにサトルと友達のとこに遊びに行くって嘘ついて行くに決まってるじゃない。あなた意外に単純だからかんたんに騙せるもの」

「俺に嘘ついてまで小学一年の子供連れてあんなゴミみたいなライブに行くつもりだったのか!ライブ会場でサトルが泣きわめいたらどうするつもりだったんだ!」

「あ、そう?お父さんの音楽ってそんなに怖いんだ。でも泣き喚いたら周りにごめんなさいって謝って会場から出ればいいだけの話でしょ?」

 露都はこの絵里の開き直りっぷりに唖然とした。

「あ、そう?じゃねえよ!お前俺散々アイツの事を散々話しだろ?ちゃんと聞いていたのか?あいつは人間として最低最悪な奴なんだよ!だからアイツはこの家には絶対に近づけちゃいけないし、何よりサトルを絶対にアイツから守らなくちゃいけないんだ!アイツがうちに来たのだってどうせ金でもせびりに来たに決まってるんだ!アイツはそういう奴なんだよ!パンクロックなんてやってる社会のクズなんだよ!」

「ふ~ん、そうなんだ。お父さん、そんな人には見えなかったけどね、変わってるけどいい人だと思ったよ。サトルを本当に可愛がってくれたし」

「何がそうなんだ、だ!すっとぼけはやめろ!あいつがどれだけ酷いやつかは俺が一番よく知ってるんだ!あいつは決してやさしいおじいちゃんなんかじゃねえよ!そういう風に見せてるだけなんだよ!いいか?もう何度も言ってるけどそれはアイツの手なんだよ!あのクズはそうやってお前らを騙くらかして家から金をせびろうとしているんだ!それにアイツには仲間もいるんだぞ!そいつらにも乗り込まれたら俺たちはもう……」

「あの、話している最中申し訳ないけどさ……」と絵里は真顔になって言った。

「露都さ、あなたいくらお父さんが嫌いだからって自分でも思ってない事言わない方がいいよ。もうバレバレだよ」

 露都は絵里に自分の幼稚な脅しを見抜かれて恥ずかしくなった。彼は子供のように絵里から目を背けた。絵里はその彼に向かって言った。

「正直に言って私あなたとお父さんの揉め事にうんざりしてるの。あなたから結婚前にお父さんの事聞かされた時、私もなんて酷い人なんだろうって思ったけど、でも実際本人に会ったら確かにすごく変わってるけどキュートなおじいちゃんだったじゃない?サトルを可愛がっている姿は実のおじいちゃんそのものって感じだった。確かにお父さんがあなたの言う通り昔は酷い人だったんでしょう。あなたがそのお父さんからサトルを真剣に守ろうとしている事もわかる。だけどもうやめない?なんでいつまでもこんなギスギスな事やってんのよ。私があなたとお父さんとサトルの間に挟まれてどんだけ苦労してると思ってるのよ。あなたたちが素直に仲直りすれば私もサトルも楽になれるのよ」

「出来るわけがないだろ!アイツは母さんを死に追いやってそれでも自分の堕落仕切った生活を改めなかったクズなんだぞ!俺はアイツを別にどうこうしようってんじゃない!ただアイツを家に近づけたくないだけだ!」

「ちょっと待って!私の話はまだ終わってないよ!」

 絵里の一喝に露都は思わず口を閉じた。しばらくしてから絵里は頬を緩め露都を見つめそして言った。

「あのさ露都、これは私とかサトルは関係なしにあなたに聞きたいんだけど、あなたは本当にこのままお父さんと仲違いしたまま別れていいと思ってる?こんな事言うのは不謹慎かもしれないけど、今お父さん、凄く大変な状況になっているわけだよね?運良く病気が治ればいいけど、やっぱり宣告通りになったらどうするの?あなたはそれでも自分が父親を最後まで突き放した事は正しかったと胸を張って誓える?確かに今は誓えるって言えるかも知れないよ。でもお父さんがいなくなってもう仲直りなんか出来なくなった時にも同じように誓える?」

 露都は絵里の話に腹が立って絵里に言い返してやろうとしたが、しかし何も言葉が出て来なかった。

「いいこれはお父さんのためとかじゃなくてあなた自身の心に聞いているの。私はあなたは絶対に後悔すると思ってる。だって私はあなたという人ををあなたの次に知っているつもりだから。だからあえて言うんだけど、あの、せめて最後ぐらいはさ、お母さんの事とかいろんな事を一旦胸に納めてさ、息子としてお父さんとちゃんと向き合ってあげなよ。別に許せないんだったら許さなくていいんだよ。あくまでただ向き合ってあげるだけでいいんだから。そうすれば多分お父さんも、そしてあなたも少しは救われるかもしれない。勿論こんなのただのごまかしだけど、でもこのまま別れたまま全てが終わるよりマシでしょ?」

 絵里はここで話をやめて露都を見た。露都はまるで不貞腐れた小学生のように彼女にそっぽを向け何度も拳で膝を叩いていた。

「けっ、何を言い出すかと思えばなんだよ偉そうに。人の気も知らないでそんなどっかで聞いたような下手なお説教かましてんじゃねえよ!」

「ああそう!あなたの気も知らないで偉そうにしてすみませんでしたね!おまけにどっかで聞いた聞いた風な、ってか最近読んだ本の文章そのまんまの下手なお説教してすみませんでしたね!あなたってホントムカつくわ!いつも人の揚げ足取りばかりしてさ!」

「うるさい!もう出ていけ!今夜もここで寝る!」

「ああ出ていきますよ!全くなんてわからずやなんだろう!もう知りませんからね!」

仲直り

 絵里が出て行った書斎で露都は大きなため息をついた。もう完全に仲直りどころではなくなってしまった。しかも絵里とまで喧嘩になってしまった。彼は先程の自分の子供じみた態度を悔やみ、自分は垂蔵の事になると何故にこうも冷静じゃなくなってしまうのか考えた。これも全てアイツが悪いのだ。アイツがいるからこんな事になるのだ。何故ならアイツは憎んでも憎みきれない男だからだ。自分を愛した母を死に追いやり、それでも悔い改めず自堕落な生活を続けていた男。パンクロックなんてゴミ音楽で言葉の意味もろくに知らないのにアナーキズムとか喚いていた社会のクズ。さっさとその存在ごと消してやりたいと思っているのに、どうしてアイツはいつまでも俺に付きまとうんだ。露都はさっきの絵里の説教を思い浮かべた。あのバカ偉そうなぬかしやがって俺を一体何だと思ってるんだ!何が後悔したくないならごまかしでも仲直りしろだ!そんなことで全てが丸く収まったらこんなに苦しんでねえんだよ!垂蔵には誰かが罰を与えなきゃいけない。アイツに自分がしでかした罪を味合わせて後悔と自責の念で最期まで苦しんで死んでもらわなきゃいけない!それが世の道理だ!とここで露都はふと立ち止まって考えた。母さんは自分に酷いことを重ねた垂蔵を許し、そして幸せだったと思い込んで死んだ。その母さんの父であり弟である、祖父や叔父さんはアイツには二度とに会いたくはないだろうが、母さんを死に追いやったアイツを憎むというよりは、ただの忌むべき人生の障害として忘れ去ろうとしている。それは普段の二人の口ぶりからあからさまにわかることだ。ということは俺だけなのか?母さんは赦し、彼女の親や兄妹がなかった事にしようとしている垂蔵という存在を、こんなにも胸が苦しくなるほど憎んでいるのは俺だけなのか?

「俺だけなのか?」

 露都は口に出して自分に問うた。彼はこう口に出した途端に自分の垂蔵に対する恨みつらみが滑稽に思えてきた。バカバカしい、なんで当人が許しているのに息子の俺がわざわざ垂蔵を罰しなきゃいけないんだ?いずれ死ぬ垂蔵をどうしてここまで憎まなきゃいけないんだ?彼は再び絵里の言葉を思い返した。別に許さなくてもいいから母の事は一旦胸に納めて父親を看取れ。それが垂蔵と俺の救いになる、か。絵里のヤツ苦労知らずのお嬢様のくせにうまい事言いやがって!露都はしばらく座ったまま天井を見上げていた。そしてしばらくしてから立ち上がり、絵里がサトルの部屋からプレゼントを入れて持ってきたPPバッグを手に、床に散らばっていた垂蔵の孫へのプレゼントを拾い始めた。


 サトルへのプレゼントを入れたPPバッグを持って書斎を出た露都だったが、ドアから出た途端いきなり絵里に出くわして固まってしまった。なんだか気まずかった。彼はさっき怒ったことを詫びようと思ったが、絵里がじっと自分を見ているのに動揺して言葉が出なかった。だが絵里はすぐににっこりして彼に話しかけた。

「あっ、サトルにプレゼント返してくれるんだ。もともと私があの子の部屋から持ち出したものだから、気に病んでたんだよね。よかった、これで肩の荷が下りるわ。で、やっぱり謝るの?」

 露都は絵里の問いに顔をこわばらせて立ち去ろうとした。しかし絵里はその彼に向かって再び尋ねた。

「ねえ、サトルに謝るの?答えてよ」

「ああうるさいな。このバッグ見てわかんないのかよ」

「そうなんだ。でも明日にしない?どうせ部屋に行ったってサトル寝てるよ?」

「いや、寝てるかどうかなんてノックすりゃわかんだろ。ノックしてなんの反応がなかったら寝てるってことだ」

「はぁ、あなたバカ?あの子が起きていたとしても、さっきあんだけ喧嘩した人の話を聞くと思う。謝罪なんてのはね、ちょっと間をおいてお互いに冷静になってからするもんでしょ?」

「俺は今日中にサトルと仲直りするつもりなんだ。いいからお前は黙って見ていろよ」

「だから私はそれが却ってあの子の機嫌損ねるからやめろって言ってんの?あなたそんなこともわかんないの?」

「だから黙って見てろって言ってるだろ!」

 そう言って露都は絵里を振り切ってそサトルの部屋に行ってしまった。絵里はこの露都の行動にあきれ果て、もうどうなっても知らないからとこの頑固者の夫に向かって言い放った。

 露都は勢いでサトルの部屋のドアの前に立ち早速ノックしようとした。だがノックの必要はなかった。サトルの部屋からは何の音も聞こえないが、ドアのそばでサトルの立っている気配がしたのだ。今息子に謝ろうとしている父親はノックしかけた手を下ろし、左手で持っていたバッグを上げて眺めて、そしてドアに向かって呼びかけた。

仲直り その2

「サトル、起きているのか?」

 しかし中からは何の反応もなかった。それで露都は再び呼びかけようとしたが、その時ドアの向こうからサトルが異様に低い声で父親に向かって尋ねた。

「そのおっきな袋、おじいちゃんのプレゼント?」

「そ、そうだ」と露都は慌てて答えたが、その時ドアの隙間からサトルの強烈な視線を感じた。彼はその息子の視線にビビって思わずのけぞったが、息子はさらに続けてこう聞いてきた。

「それボクに返してくれるの?」

「ああ、返すよ。でもその前にお父さんと仲直りしようよ。今までの事は全部お父さんが悪かった。この通り謝るからドアを開けてくれよ」

「ごめんなさいするだけじゃだめだよ。だけど、もうおじいちゃんを追い出したりしないって約束してくれるなら仲直りしてもいいよ」

 露都は約一週間まったく口も聞いていない息子との仲直りのためだったらもうなんでもするつもりだった。サトルを垂蔵の入院先に連れて行ったってもいいとさえ思った。彼は先ほどの絵里の言葉を思い出した。確かにアイツはいまだに許せない。だけどそれはサトルとは全く関係ないんだ。自分の事情でサトルを大好きなおじいちゃんに会わせない理由なんかない。露都ははっきりと息子に言った。

「わかった。これからはおじいちゃんが家に来ても追い出したりしないよ」

「絶対だよ。うそついたら魚屋さんでハリセンボン丸ごと飲んでもらうからね」

「ああわかってる。お父さん嘘ついたら自分でハリセンボン買ってサトルの目の前で飲むよ」

「ホントだよ!今言った事忘れないでね。あっ、それと!」

「なんだ、まだあるのか?早く言えよ。お父さん早くサトルと仲直りしたいんだよ」

「うん、うん、言うよ!来週の土曜日におじいちゃんがコンサートやるんだ。だから連れて行ってね」

「ああそうだな、おじいちゃんのコンサート一緒に行こう、な……」

 露都は勢いでここまで口にした瞬間あっと声を上げて慌てて口を閉じた。しかしすでに時は遅しだった。サトルは露都の言葉を聞いて歓声を上げていきなりドアから飛び出してやったぁ~と叫んで駆け出して離れたところで二人を見守っていた絵里に飛びついて全身で喜びを表現しながら母にこう言ったのだ。

「ねえ、お母さん、お父さんがおじいちゃんのコンサート連れて行ってくれるって!おじいちゃん絶対に喜ぶよ!お母さんも聞いたでしょ?おじいちゃんずっとお父さんにコンサート見せたいって言ってたもんね!ああ!来週が待ちきれないよ!やっと、やっとおじいちゃんに会えるんだよ!しかもお父さんと一緒にさ!」

 絵里は抱きつくサトルをあやしながら厳しい顔で露都をチラリと見た。露都はその視線に耐えられなくなり、サトルの部屋に垂蔵のプレゼントが入ったPPバッグをおくと再び書斎に引っ込んでしまった。


 それからしばらくして絵里が書斎に入ってきた。彼女はさっきよりも一層厳しい顔で露都に言った。

「あなたなんて事言ってくれたのよ!いくら息子と仲直りしたいからって実現できない約束しちゃダメでしょ!来週になってやっぱりおじいちゃんライブ出来ませんでしたって言われてあの子納得すると思う?」

「わかってるわそんな事!ただもののはずみで口にしちゃっただけだ!俺だってすぐに取り消そうと思ったわ!だけどあんなに喜んでるサトル見てホントの事言えるかよ!」

「で、どうすんのよ。あなたその日になったらやっぱりおじいちゃん病気でライブ出来ませんでしたって謝るつもり?ああ!またサトル怒るわよ!今度は一生あなたと口聞いてくれなくなるわよ!」

「そうなったらサトルを垂蔵のとこでも連れて行けばいいだろ?アイツだっておじいちゃんに会いたいんだろ?」

「何それ?あのさぁ、そんないい加減な態度でいいと思ってんの?」

 と絵里はここまで言ったところで露都の言葉にハッとして彼に尋ねた。

「っていうか、あなた本気でサトルをお父さんのとこ連れてくつもり?さっきみたいに口が滑ったとかそういうんじゃないよね?ホントに連れてくんだよね?」

「ああ、本気だよ。俺さ、サトルにプレゼント帰る前、ずっとお前が言ったことを考えたんだ。確かに俺はアイツが憎い。だけどあんなヤツでも親父は親父なんだ。決して他人じゃないんだってさ。それに俺とアイツの事はお前とサトルには関係のないことだ。だからせめて生きてる間はアイツに向き合ってやろうって思ったんだ。絵里。さっきは怒ってごめんな。俺正直に言ってお前の言葉に打たれたよ。ありがとう。俺、生まれてこの方人から説教されたの初めてだよ」

 この夫の素直っぷりに絵里は驚くどころか引いてしまった。えっ、この人なんか目をキラキラさせて言ってるよ。

「ろ、露都どうしたの?なんか素直すぎてキモいんだけど。あれはね、さっきも言ったようにあれは私の言葉じゃなくて本かなんかの言葉だから、か、勘違いしないでよね!と、とにかくサトルの事はこれから何があっても私は責任持だないからね!全部あなたが責任持ちなさいよ!父親なんだから!」

 絵里はそこでああもう!と言って言葉を断ち切り、そして露都に聞いた。

「で、今夜はどこに寝るの。ここ?それとも寝室?」

「寝室にするよ。ここじゃ全然寝らんねえからな」

 それを聞いて絵里はにこやかに笑って答えた。

「じゃあ、ベッドの準備整えておくからもうちょっと待っててね」

突然の電話

 翌朝、久しぶりのベッドで熟睡しきっていた露都は絵里から思いっきり揺さぶられて目を覚ました。露都はうつらうつらの意識の中、何事かと思って目を開けたが、絵里はその夫に向かって大声で電話だと言い、相手は垂蔵の所属事務所のデストロイカンパニーの人だと教えた。露都は妻から垂蔵の所属事務所だと聞いて不思議に思った。彼は事務所とはそれまで全くやりとりがなかったので、まさか垂蔵になんかあったのかと不安になった。がすぐに冷静になり、今は病院と直接やりとりをしているから、垂蔵の病状に何か異変があったら直接連絡が来るはずだと思い直した。垂蔵の病状じゃなかったらなんなのか。露都はとにかく電話に出る事にした。

「あっ、大口露都さんでしょうか?私デストロイカンパニーの家時と申します。実はご相談したい事がありまして、あの、垂蔵さんも交えて話し合いをしたいので、今から病院に来てもらえませんでしょうか?私もサーチ&デストロイのメンバーと一緒にそちらに向かってますので」

 聞き慣れぬ声であった。声からするとどうやら若い男のようだ。相談とは何事だろうか。入院費はこっちが全部持ちだ。その他にもまだ金が入り用なのか?入院費も本来はそっちが全部払うべきなのに、何でもかんでもこっちに押し付けられては困るってもんだ。露都はこの垂蔵の事務所の家時という男の言葉に胡散臭いものを感じた。垂蔵も交えて話し合いたいという事だが、もしかしたらライブの中止の賠償とかでこっちに金を無心してくるんじゃないかと勘繰った。どうせ垂蔵の入院費すら払えない事務所だから当然保険なんて入っているわけがない。全く冗談じゃない。いくらなんでもこっちにそんな金なんかあるわけがない。しかし彼はとにかく話を聞いてみない事には何も始まらないと思い、とりあえず全てを確認するために病院に行く事した。

「ありがとうございます!では病院でお待ちしています!」

 事務所の男は露都の返事を聞くとやたらハキハキした声で礼を言って電話を終えた。受話器を置いたのだが、その彼の後ろから絵里が話しかけてきた。

「ねぇ、お父さんの事でなんかあった?私たちも病院行こうか」

「いや、大丈夫だ。アイツの体調に変化があったとかそういう話じゃないから。俺一人で行く。今日はスイミングスクールなんだろ?もうそろそろサトル起こして準備始めないとバス待たせちゃうぞ」

「ああ、そうだね。でもなんかあったら絶対に連絡してね。一人でなんとかしようってのはなしだからね」

「ああ」

 結局、ホントに病院に行くハメになっちまったな、と病院へと向かう電車の中でマー君の父親と昨日電話で交わした会話を思い出して皮肉な偶然に苦笑した。そして病院が自宅から離れていて本当に良かったと思った。病院が自宅の近くにあったら自分と垂蔵の関係は全てあの男にバレてしまう。したらあのサーチ&デストロイファンらしき男は目の色を変えて自分に付きまとうだろう。やっぱり隠してたんですねえ。全く人聞きが悪いなんて。彼はその情景を思い浮かべて笑いかけたが、その瞬間さっきの事務所の電話の事を思い出して嫌な気分になった。相談てのはやっぱり金の無心なのだろうか。そうだとしたらハッキリとうちにはこれ以上出す金はないと断らなきゃいけない。たとえアイツが土下座してきてもだ。だが断ったら結局垂蔵たちと揉める事になるかも知れない。そうなったらサトルを垂蔵に会わせるなんて出来なくなる。それじゃ完全に元の木阿弥だ。

 ええい!まだ何にも聞かされてないのに勝手に判断するな!とにかく病院で垂蔵や事務所の連中に事情を聞かなきゃ始まらんと露都は両手をキツく握って自分に喝を入れた。露都はふと垂蔵のバンドにも公式HPみたいなものがあるのだろうと考えた。それを見ればライブのスケジュールがどうなっているのかわかるだろうと考えてググって調べようと考えたのだ。だがすぐにバカバカしくなってやめた。そんなものどうせ病院で聞けばわかる事だし、わざわざあんな馬鹿げたものを見る必要はないと思った。その時電車が止まったので露都は顔を上げてホームの駅名標を見た。ちょうど目的地の駅だった。

 垂蔵の入院している病院は駅から徒歩十分ぐらいの所にあった。露都は早足で向かい、今はエレベーターで垂蔵のいる病室の階へと昇っている所だった。気分は重かった。全くなんて一週間だ。垂蔵の入院に始まり、息子との喧嘩。せっかく全てが収まりかけているのにまた火種が起きそうな予感がする。その時エレベーターが止まって開いた。電光表示は垂蔵のいる階を示していた。

全員集合

 エレベーターから垂蔵の病室まで向かっていた露都は部屋の前でサーチ&デストロイのメンバーとスーツ姿の若い男がいるのを目にした。サーチ&デストロイの連中はこの間と同じというか、いつものような年に似合わなすぎる派手なパンクファッションに身を包んで、昔のヤンキーのように壁に寄りかかったり、うんこ座りしてしていた。一番手前でウンコ座りしている髭面のやたらガタイのいいジジイはベースのイギーという。名字が井尻とかいうらしいが、下の名前は知らない。この男がサーチ&デストロイのリーダーで垂蔵が倒れた事を露都に連絡してきた。そのちょっと奥の向かい側で立っているのがギターのジョージ。この本名が某大物演歌歌手と姓名が漢字まで一緒な男は、モヒカンの痩せ切った歯抜けのジジイで、入れ歯をはめてないのでたまに喋りが聞き取れない事があった。イギーの後ろにいるのがドラムのトミー。このデブについては何も知らないがそれは別にどうでもいい事だ。その三人の間で青白い顔をした若いスーツ姿の男が縮こまって立っていた。その光景はもうチンピラとカツアゲされるサラリーマンそのままで、見るだけで気恥ずかしいものだった。

 このスーツの男は初めて見る顔だった。恐らくこの男が朝電話をかけてきたのだろう。自分よりも少しだけ若く見える。露都は彼らを見て一瞬立ち止まった。が、しかし行かねばと自分に喝を入れて足を進めた。病室の近くまで来た時、露都に気づいたサーチ&デストロイのメンバーの一人が片手を上げて彼を呼んだ。露都は彼らの元に歩み寄り軽く一礼した。するとベースのイギーが一歩近づいて彼に声をかけてきた。

「よう坊主、朝っぱらから足運ばせてすまなかったな。ちょっと大事な相談があってな。それできてもらったんだが」

「父は今どうしているんですか?」

「いやぁ~ぐっすりと寝てるよ。まるで死人みてえに」

 イギーはニヤリと笑ってそう答えると意思を確認するかのように周りの連中をゆっくりと見回した。そして露都の肩を叩いて言った。

「まぁ、ここじゃ話せねえからとりあえずそこの休憩ルームで話そうや」

 露都はこのイギーという男の胡散臭い口調と態度にやっぱり電車の中で考えていたことは正しいと思った。しかし向こうがそれをはっきりと言葉に出して言わなくてはこちらも何も言えない。だから彼は大人しく彼らと一緒に休憩ルームまで行く事にした。

 休憩ルームにぞろぞろ歩いてきたサーチ&デストロイのメンバーの凄まじい格好を見て、そこでたむろって世間話なんかしていた他の患者たちは思わずのけぞった。メンバーたちはこの自分と同じ年ごろであろう患者たちに向かって「おい、ジジイども。こっちは大事な話があるんだから自分の部屋に帰れ」とか言って脅しまくった。露都はこのこのイキがったジジイたちの行動を見て本当に恥ずかしくなった。イギーたちメンバーは休憩ルームの真ん中あたりのテーブルを占拠して椅子に大きな音を立てて腰を掛けると、口々にスーツの男に向かって早く飲み物買ってこい!と急かした。イギーは立っている露都を見てお前も座れと声をかけた。それで露都が言われた通り向かい側に座ると彼はニタニタと下品な笑いを浮かべながら「いやぁ~、まさかこうして来てくれるとは思わなかったよ。お前オヤジ大嫌いだもんンなぁ~」とか嫌味たっぷりに言い出した。露都はこの言葉を聞いて心底不快になった。ああ!クズども!こういう連中のせいで母さんは死んだんだ!もうひと時だってこんな連中とはいたくない!さっさと用件を話せ!だが露都はこのこみ上げる怒りを無理に抑えて出来るだけ冷静に言った。

「で、今日はどういう相談なんですか?僕は事務所の方に父を交えて話がしたいって言うからここに来たんですが」

 その時ジュースの買い出しに行っていたスーツの男が戻ってきてメンバーの座っているテーブルに飲み物を置き始めた。スーツの男が飲み物をイギーと露都に向かって「コーヒーです」と言って飲み物を置くとそれを手にうさん臭さ満開の笑みで露都に缶コーヒーを差し出しながらこう言った。

「まあまあ、そんなに急くなよ。時間はたっぷりあるぜぇ~。ほらここに温かいコーヒーだってある。ほら、まずは飲んでからにしろよ」

 だが露都は目の前に置かれた缶コーヒーをイギーの方に戻して断った。

「いえ、ご厚意はありがたいのですが、僕は昔からコーヒーは飲まないので遠慮します」

「ああん、コーヒーじゃダメだってのか。じゃあミルクティーがいいのか?おい、毛ジラミ!この坊やにミルクティー買ってこい!」

「いいえ結構です!」と露都は思わず声を張り上げた。その露都の声の強さにニタニタ笑っていた他のメンバーも一瞬にして真顔になった。露都はそのメンバーたちに向かってこう言い放った。

「さっさと用件を言ってください。僕はあなた方のように暇じゃないんだ」

一触即発

 露都の言葉を聞いて隣のテーブルに座っていたサーチ&デストロイのメンバーは一斉に立ち上って彼を取り囲んだ。スーツの男はこの事態に慌てふためいてあわあわしていた。しかし露都は動揺しなかった。逆に連中を思いっきり睨みつけてやった。彼は連中の馬鹿げたパンクファッションと白髪と皺だらけの顔を見て激しい苛立ちを感じた。全くいい年こいてなにいきがってやがるんだ。垂蔵もお前らも社会のゴミじゃないか。いつになったらそのアナーキズムだ、革命だ、破壊だって幼稚な戯言をやめるんだ?そんなものは中学あたりで卒業すべきもんだろうが!その時ギターのジョニーが露都のテーブルに片肘かけて「ほぉい、ホラァ~」と凄んできた。だが露都はその歯の抜けた口から放たれた声に全然張りがなく、少しの迫力もなかったので思わず笑ってしまった。それに頭に来たのかドラムのトミーが「このガキ」と言いながら露都の肩を掴んだ。しかしその時露都の向かいに座っていたイギーがドスの効いた声で二人を制した。

「お前らやめろ。病院で暴れて垂蔵が追い出されたらどうすんだよ。俺たちゃ喧嘩しにきたんじゃねえんだよ。話し合いに来たんだよ。は、な、し、あ、い。わかるか?」

 二人の爺さんはイギーに注意された途端に大人しくなり自分のいたテーブルに戻って行った。露都でさえその迫力に怯んだ。イギーは再び露都の方を向いてにっこりと不気味な笑顔を浮かべて言った。

「なぁ坊主、別にそんな喧嘩腰になる事ねえじゃねえか。俺たちはお前に相談したいことがあってここに呼んだんだからさ」

「だからその相談ってのはなんなのですか!早く言ってください!」

 露都は不安に駆られて思わず声を張り上げてしまった。やっぱりこいつらは俺にライブの賠償金を払わせようとしている。多分垂蔵の奴が連中にそうするよう吹き込んだに違いない。やっぱり垂蔵など信用してはいけないのだ。アイツは母さんを始めとする人たちの信頼を全て裏切ってきた人間なんだから。だからこの場ではっきりとコイツラと垂蔵に言ってやる。二度とお前たちとはかかわらない。そしてサトルとはもう二度と会わせないと。

「おいおい、今、喧嘩腰になるなって言っただろ?お前は親父に似てせっかちなとこあるな。高級官僚さまなんだからもうちっとどしっと構えろや!」

 そう言うとイギーは自分の前に置かれた缶コーヒーのプルタブを開けて飲み始めた。そしてひとしきり飲むと缶をテーブルに置いて後ろに立っていたスーツ姿の男を呼んて露都に紹介した。

「話は全部こいつから聞いてくれ。こいつ覚えてるか?ウチの社長の息子の家時来未いえときみくる。まあ、俺たちはいつも毛ジラミって呼んでる。お前もガキの頃ライブでコイツに何回も会っているだろ?」

 しかし露都はこのやたらおどおどしている毛ジラミという哀れにもほどがあるあだ名をつけられた青年と会った記憶がまるでなかった。彼はこの真面目そうな青年に対してその事を申し訳なく思った。

「すみません。申し訳ないですが、僕はあなたの事を覚えてません。僕が父のライブに連れて行かれたのは小学校上がるか上がらないかぐらいまでだったと思うのですが、残念なことにライブの事は殆ど忘れてしまっているんです」

 この露都の言葉を聞いて毛ジラミと哀れにもほどのあるあだ名をつけられた家時は本当に悲しそうな顔をした。

「はぁ、そうですよね。ずっと昔の事ですからね。だけど僕は露都さんの事は今もハッキリ覚えていますよ。露都さんいつもライブ中に泣いていたから僕がそのたんびにうまい棒上げて宥めていたんです。露都さん僕より年上なのにあんなにライブを怖がっていて可愛かったです。いやぁ、いい思い出だなぁ」

 露都はこの毛ジラミと哀れにもほどがあるあだ名をつけられた家時に自分の知らない恥ずかしい過去をばらされて羞恥のあまり泣きたくなった。その露都をサーチ&デストロイのメンバーはコイツそうだったよなぁ!とせせら笑った。しかしその時イギーが笑いながら家時に向かって「この泣き虫の坊ちゃんに早く用件伝えてやれ」と急かしたのを聞いてメンバーたちは笑うのをやめ露都たちの方を見た。

疑惑

 イギーは家時のために椅子を持ってきて彼を自分の隣に座らせた。家時は座ると途端に緊張したのか何度もハンカチで顔を拭いた後で、露都に向き直り朝の電話の礼を言ってから話を始めた。

 家時はまず今自分が病気で臥せっているらしい社長の父の代理で事務所の運営をしている事を話し、続いて今回のライブの件について話した。彼の話によると今回のライブは垂蔵の待望の復活なので、その宣伝のために今までにないぐらいお金を突っ込んだそうだ。勿論ライブの成功とバンドの再ブレイクをかけての事だ。家時は露都に向かってサーチ&デストロイのHPを観たことはあるかと聞いてきた。露都はその質問に対して当たり前のようにないと答えた。それを聞いた家時はショックでテーブルからずり落ちてテーブルに置かれていたイギーの飲みかけの缶コーヒーを倒しそうになった。彼はイギーの顔を恐々と覗いたが、恐れていた通りもの凄い顔をして睨んでいたので、すぐに目を背けて露都に話しかけた。

「ははは、見たことがないんですか。実は最近HP新しくしたんですよ。その新しいHP結構有名なデザイナーに作ってもらった凄いカッコいいヤツなんですけどね。まぁ、お暇な時でいいですから一度観てあげてください。実はあれにも物凄いお金をかけてまして……。他にもプロの動画制作のスタジオに頼んで作ってもらった動画をYouTubeチャンネルとかTikTokとかに上げたりしてそりゃもう一大宣伝かけていたんです。だけどまぁ、こういう事になってしまいまして……」

「そうですか」と相槌を打ったところで露都はやっぱり賠償金の無心だと確信した。事務所の社長の息子であるらしいこいつにあえて用件を言わせているのはこれがバンドの話じゃなくて事務所との契約の問題にしようとしているのではないか。だとするとライブの契約書の抜け穴を見つけて何とかこっちから金を絞り出そうとしているんじゃないか。だとしたらまずい。垂蔵が署名した契約書など自分が知るはずもないのだから。彼はそれを確かめるために愚問だとは思ったが、あえて家時に聞いた。

「あの、家時さん。そちらの事務所は保険とか入っておられるんですか?」

「いえ、入ってません。父は昔の人だからそういうとこにはまるで無知で……。だから今こんな状態になっているんですね」

 やっぱりだ。このクズ事務所め!これはきっと垂蔵も了解の上の事だろう。奴だったらバンド仲間や事務所を救うためなら平気でなんでも受け入れるに違いない。なんてバカなクズだ。アンタは昔からそうだった。母さんや俺よりこんな連中のほうがよっぽど大事だったんだ。これでわかったよ。もうあんたとは終わりだ。と思ったその時露都の目の前を塞ぐように家時がぐっと顔を近づけてきた。

「で、それで露都さんにお願いがあるんです。あの、今度の土曜日にやる復活ライブの件で……」

 ああ!ふざけるな!もうお前らが何を言うかわかってるんだ!それ以上言うな!露都は怒りのあまり立ち上がろうとしたその時だった。いきなり家時がテーブルに頭をこすりつけてこう頼み込んできたのだ。

「お願いします!今度の土曜日のライブに垂蔵さんを出させてあげてください!あの人が出なかったらもうウチの事務所は終わりです!先ほど露都さんがおっしゃられたようにうちは何の保険もかけていません。だから今回のライブが中止になったらもう事務所自体を廃業せざるを得ないのです!確かに垂蔵さんの病気が重いのは重々承知しています!ですが私と父やバンドのメンバーはその垂蔵さんの復活をアピールするためにこうして頑張ってきたんです!垂蔵さんも是が非でも出たいって言っています!もしかしたらライブ中に自分は死ぬかもしれない。でも出たいとおっしゃっているんです!だから重ねてお願いです!垂蔵さんをライブに出してあげてください!」

 この家時のあまりに意外な言葉を聞いて露都は激しく混乱した。彼はライブなんてとっくに中止が決まっていると思っていた。すでに中止の告知が出てはずだと思い込んでいた。なのに決行するとは。どうやってあんなジジイの病人に長い時間歌わせるんだ?無理に決まっているだろ?目の前ではまだ家時がテーブルに頭を擦り付けている。家時は顔を上げず、ただ何度もお願いしますと泣きながら露都に懇願している。その家時をサーチ&デストロイのメンバーたちが囲んで露都を見た。

「まぁ、そういう事なんだよ。今回坊主に来てもらったのはざっくり言えば垂蔵の外出許可をもらうためだ。この病院は異常に患者の外出に厳しくてな、医者の許可に加えて保護者の許可も必要なんだ。だからお願いだ。外出許可証にサインしてくれ。勿論俺だってアイツがどんな状態かわかってる。一年、いや半年も持たねえかもしれねえ。だからアイツのために最後の花道を飾ってやりてえんだよ。俺とアイツは四十年以上付き合いだ。もう兄弟みてえなもんだ。そのアイツが言うんだよ。死ぬんだったらステージで死にてえってな。お前も息子だったら垂蔵の気持ちわかんだろ?俺からも頼む。アイツをライブに出してやってくれ。この通りだ」

 イギーはそう言い終わると露都に向かって深く頭を下げた。それに続いてジョージもトミーも頭を下げてきた。露都はそのサーチ&デストロイのメンバーを見て、垂蔵とこの連中の愚行に苦しめられた日々を思い出した。こいつらはしょっちゅううちに来ていた。時にはどっかから引っかけた女を連れて来ていた。散々飲んでいるのに寝ている昼夜のパートで疲れてぐったりして寝ている母さんを叩き起こして酒を出させていた。しかも垂蔵の奴その女たちと関係を持ったりしていた。母さんがいるのに、母さんはずっとお前の帰りを待っていたのに。何が四十年以上の付き合いだ。何が最後の花道を飾ってやりたいだ。何がステージで死にたいだ。そんなにパンクっていうあのゴミ音楽が好きなのか。母さんや俺よりもこんなクズどもと一緒にいたいっていうのか。確かに母さんはお前に救われたって書いていた。だけどお前はその母さんを幸せにするどころか、結局は命まで奪ったんだぞ!わかっているのかよ!その時露都は母の事を思い浮かべた。きっと母さんが生きていたらこんなバカげたことをやる垂蔵を全力応援するだろうな。きっと彼女は垂蔵のライブがどんなに無様でも涙するんだろう。だけど俺にはダメだ。こんなバカげたことは到底承認出来ない。コイツラじゃなくて垂蔵本人に直接言ってやるさ。こんな事は俺が認めないって。彼は考えを決めると力を込めてこう言った。

「垂蔵と話がしたい。俺の言いたいことは全部アイツに話す」

対面

 露都はそう言うと椅子を蹴って立ち上がった。サーチ&デストロイのメンバーや家時は驚いて露都を見上げた。彼らは顰めっ面の露都を見て戸惑っていた。しばらくの沈黙の後でイギーが露都を宥めた。

「まあまあ、そんなに肩を怒らせんなよ。この話は垂蔵も交えて話すつもりだったんだぜ。なのに来てみたらアイツが寝ているからよ。看護師によると早朝に垂蔵の奴が痛みがひでえって喚きだしたんでモルヒネ打ったらしいんだ。おい、坊主お前知ってるか?ヘロインってのはそのモルヒネから作られるんだぜ。つまりアイツはここでヘロインの元を打ってもらっているんだ」

 このどうしようもない不謹慎極まる冗談に露都は頭に来て思いっきりイギーを睨みつけ声を荒げて言った。

「とにかく俺と一緒に垂蔵のところ来てくれ。こっちはアンタのくだらん冗談に付き合ってる暇はないんだ」

「だけど垂蔵がまだ寝ていたらどうするんだ。起きてたってモルヒネ打ってるんだからまともに喋れないかもしれないぞ」

「寝ていたら起きるまで待つし、意識が混濁しているのならハッキリするまで待つよ。とにかく俺は垂蔵と話がしたいんだ」

 そう言うと露都はまっすぐ垂蔵の病室へと歩いた。イギーとその仲間たちはその彼を早足で追った。

「おい、さっきの俺の話のことはどうなってんだよ。答えろ」

「だから垂蔵に全部話すって言ってるじゃないか」

 露都はそう言い放つと彼の後を追ってきたイギーたちを無視してそのまま垂蔵の病室に入った。彼は病室に入った瞬間、部屋が奇妙にシンとしているのに驚いた。それもそのはずだった。垂蔵の他に入院していたはずの患者のベッドが皆空になっていたのだ。ベッドのカーテンはすっかり開けられ、シーツは窓から陽に照れされて眩しいぐらいに真っ白だった。そこにはこの間まで人がいた痕跡がまるで残っていなかった。露都はそれを見て不安になって垂蔵のベッドを見た。

「おう、久しぶりじゃねえか」

 目があった瞬間垂蔵が声をかけてきた。露都は垂蔵が普通に起きているのに驚いて呆然としてしまった。

「なんだそんなびっくりした顔しやがって。死んだと思ったのに生き返ってびっくりしたか?」

 露都は思わず垂蔵から目を逸らして空のベッドを見た。

「なんだお前、オヤジを無視すんじゃねえよ。それともここにいた死にかけのジジイどもがみんないなくなってんのに驚いてんのか?」

 垂蔵の言葉を聞いて露都はあんたもあの人たちとおんなじジジイだろと突っ込んでやりたくなった。しかし垂蔵にはそんな自覚はないようで部屋を去った患者をせせら笑うかのように笑ってこう続けた。

「へへへ笑えるぜ。たった三日間で俺しかいなくなっちまったんだから。まず向かいの手前にいたやつは三日前に無事退院。萎れたババアとブサイクな娘夫婦に連れられて出て行ったぜ。その隣の窓際にいたやつは一昨日めでたく個室行き。後は死ぬのを待つばかりって感じだ。それでこの部屋には俺と隣の半ボケジジイが残ったんだが、コイツが昨日の朝に心臓が止まったとかで看護婦のねぇちゃんとか医者たちがみんなして処置していたぜ。だけど治んなくてそれで救急治療室行きさ。半ボケが治療室にベッドごと運ばれてから半日してからベッドだけ戻って来たけどな、ベッド運んできた時看護婦の姉ちゃん超暗え顔していたぜ。あのジジイ死んじまったかもな、ヒヒヒ!いずれにせよ、しばらくは俺一人だぜ。気楽にやれるってもんだ。まぁ、俺もいずれ個室に移動になるだろうけどな」

 垂蔵この同室の患者に対する笑えない話を終えた時ふと寂しげに露都を見た。露都は今まで見たことのないそんな垂蔵の姿を見て彼が最後に言った言葉と、入院してから一週間も経っていないのにげっそり痩せ切った体に死という現実を見せられてゾッとした。

「ところで……ってか、お前らもいたのか?」と垂蔵は露都に話しかけたところで彼の後ろにいたサーチ&デストロイのメンバーを見とめて声をかけた。

「そういやお前ら昨日話したこともうコイツに言ったか?」

 するとイギーが前に出て来て答えた。

「ああ、さっきお前の寝ている間に休憩ルームで坊主に話しといたぜ。したら坊主お前に直接話すからって言いやがってよ……」

「ほう、そうかい」垂蔵はイギーの言葉を聞くとしばらく黙り込んだ。そして露都をじっと見てこう言った。

「じゃあ答えてくれよ露都さんよ。お前外出許可にサインしてくれるんだよな?」

「サインなんてするわけないだろ」

 露都の無表情の顔から放たれたこの言葉を聞いてサーチ&デストロイのメンバーは目を剥いて彼を見た。しかし垂蔵は息子の言葉に驚かず彼を見て笑った。

「アンタ自分の病状わかってんのか?今のアンタにライブなんか満足に出来るわけないだろ。アンタは普段通りの生活さえ送れていねえんだぞ。いいか?今アンタに必要なのは安静なんだよ。ここでゆっくり静養して少しでも長く生きることを考えるんだな」

「あ~あ、やっぱりそう言うと思ったよ。お前はそういう奴だ。大体お前は俺が大嫌いだもんなぁ。そんな大嫌いなオヤジに騒ぎ起こされてもし世間に俺と親子だってバレたらもう官僚さまじゃいられなくなっちまうもんなぁ。だけど俺はそれでも演るよ。お前がサインしなかろうが、病院の連中が俺を羽交い絞めにしようが、お前が官僚を首になろうが、こっから出てライブ演るよ。別にライブで死んだっていいさ。どうせ死ぬんだからな」

「いい年こいてバカなこと言ってんじゃねえよ!」

対面 その2

 露都は垂蔵の言葉に怒りのあまり思いっきり叫んだ。垂蔵に対してここまで怒りを感じたのは母が亡くなった時以来だった。コイツはゴミ以下だ。今すぐ殺処分すべきなんだ。垂蔵は露都の声に目を剥いた。他のサーチ&デストロイのメンバーは慌てて垂蔵の元に近寄った。露都は皆が自分をマジマジと見ているのを目にして冷静になろうとしたが、だがもう自分を抑える事が出来なかった。

「あんた年いくつなんだ?もう高齢者だろ?普通の会社員だったらあと数年で定年って歳だろ?なのにいつまでもガキみてえなことばかり考えやがって、何がライブで死んだっていいだ。いつもテメエ勝手なこと言ってんじゃねえよ!そうやっていつまで遊び呆けて恥ずかしくないのかよ。最後の最後までパンクなんてゴミ音楽やって他人に迷惑かけていくつもりなのか?アンタは今まで自分がしでかした事をなんとも思ってないのか?周りに迷惑をかけた事に何にも罪の意識を感じないのか?母さんはあんなにアンタを慕っていたのに、アンタは母さんに感謝するどころかなんでもかんでも押し付けて、しかも彼女の想いをずっと裏切り続けてきたじゃないか。いいか?母さんはアンタが殺したんだぞ!アンタが真面目に反省してまともな生活送れば母さんだってあんな若くして死ぬことはなかったんだ!アンタが今すべきなのはライブじゃなくて悔恨だよ。最期までここで己が罪の愚かしさを悔い続けろ!」

 露都がこう言い放ったと同時にサーチ&デストロイのメンバーが一斉に彼を取りかこんだ。ギターのジョージは歯のない口を大きく開けて「ほのはき~、ふちほろひてはる~」と臭い息をまき散らして凄み、ドラムのトミーは休憩ルームの時と同じように露都の肩を掴んだ。ベースのイギーはその二人を押し退けて露都の目の前に立って叫んだ。

「このガキ生意気抜かすんじゃねえ!垂蔵とオレたちがサーチ&デストロイにどんな思い込めてやってんのがわかんねえのかコラァ!」

「わかるわけねえだろこのゴミどもが!」

「この餓鬼ぶち殺してやる!」

 さっきは冷静に他のメンバーを止めたイギーが今肩を震わせて殴り掛かろうとしていた。露都は自分を取り囲むサーチ&デストロイのメンバーを見て怒りが込み上げてくるのを感じた。殴るっていうなら今すぐ殴りかかってこい。お前らみたいな爺さんが何人かかってきても返り討ちにしてやるぞ。だがその時ベッドの垂蔵が露都たちを制した。

「やめねえか、お前ら」

 この垂蔵の普段からは全く想像出来ない異様に落ち着き払った声に露都とサーチ&デストロイのメンバーたちはびっくりして一斉に彼の方を向いた。

「おい、垂蔵。なんで止めるんだよ。お前自分の息子に生き方バカにされて腹立たねえのかよ。この餓鬼エリート面吹かしやがって生意気抜かしやがって。おいコイツは親のテメエをゴミがなんかのように見てるんだぞ。一回ガツンとやったれよ!」

 垂蔵は露都とイギーに向かってドアに向かってあごをしゃくった。

「ほら、看護婦のババアだって怖え顔してきちまっただろうが。テメエらがこれ以上騒いだら俺が追い出されんだよ。ちったあ静かにしろよ。お前らいい大人だろうが」

 垂蔵の言葉を聞いてその場にいた全員ドアの方を向いた。ドアの前には中年の女性の看護師が目を剥いて立っていた。

「あなたたちいい加減にしなさいよ!来るたんびにいつも騒ぎ起こして!さっきだって他の患者さん休憩ルームから追い出したでしょ!今度こんなこと起こしたらもうあなたたみんな病院から叩き出してやりますからね!」

 看護師のあまりの激怒っぷりにその場にいた全員が一斉に頭を下げた。露都でさえ頭を下げた。看護師は病室にいる連中を虫唾が走るといった顔で見渡すと思いっきり顔をしかめて無言で病室から立ち去った。看護師が去ってしばらくして垂蔵が口を開いた。

「あの看護師のババアの顔見ただろ?世間からしてみりゃ俺らはコイツ言う通りゴミなんだよ。俺たちだって自分たちは日本のゴミだって散々インタビューで言いまくってたじゃねえか。ノイズどころか汚物だって垂れ流してやるって言って実際に街中でウンコしまくったじゃねえか。その通りだよ」

「おいおい、いくらガンだからってガンジーみてえに悟った事言ってんじゃねえよ。お前は大口垂蔵だぞ。悪逆非道の大口垂蔵じゃねえか。こんな餓鬼の戯言なんか真に受けんなよ」

 垂蔵はそれを聞くとゆっくりと顔を上げて天井を見た。

「あのな、イギー。俺がアイツ亡くした時バンドやめるって言ったの覚えているか?」

 垂蔵のこの言葉を聞いて露都はハッとした。それはまるで彼のまるで知らない事だった。確かに垂蔵は母の死を深く悲しんではいた。それは露都もよくわかっていた。だが垂蔵は母が死んで四十九日も経っていないのにどっかの女をうちに連れ込んだりし始めた。結局母が死んでもバンドはやめず、それどころか母と暮らしたあの家さえ捨てた。その垂蔵がバンドをやめようとしていたとは。

「ああ、覚えてるぜ。俺はあの時正直に言ってお前が情けなく思ったな。お前あれだけ人に死ねだレイプだぶち殺せだの言っといて、てめえのカミさんが亡くなったらそれかよってな、まぁ、お前があそこまで落ち込むのは確かにわかったよ。俺たちもあの子が死んじまった事には深く落ち込んだよ。なってったってもともとあの子は俺たちサーチ&デストロイの親衛隊みてえなもんだったしな。だけどサーチ&デストロイの大口垂蔵がそれじゃいかんだろって思ったよ」

「けっ、今更殊勝なこと言ってんじゃねえよ。あん時バンド辞めるんだったらいっそ東京湾に沈めてやるってお前ら全員で俺を半殺しにしたくせに」

「ありゃ愛の鞭だろうが。お前だってそれで改心してバンド続ける決心したんだろ?」

「違うな」と垂蔵は答え、そして眉間に皺を寄せた。

黄ばんだ紙

「俺はあん時本当にバンドを辞めてカタギになるつもりだった。俺がこんなくだらねえことしてるからアイツは死んじまったんだって本気で思った。そんな罪の意識から逃げたくて女だの酒だのクスリだのやりまくったけどそれでもダメだった。恥の上塗りで罪の上に蜜まで塗ったようなどうしようもない状態でもう今までやってきた事が全部バカバカしくなった。それで俺はもう真人間になろうって思ったんだ。せめてアイツの供養のために真面目に働こうってな。それでお前らにバンドやめるって言ったんだ」

 垂蔵はそう言うと口を閉じて再び天井を見た。露都はその垂蔵を見て母が亡くなってから家を出るまで垂蔵と暮らしをしていた日々思い出した。母が死んだというのに平気で女を連れ込んでいた垂蔵。いつも酔っ払い、度々女を連れ込んで来てその度に追い出していた。ああ!思い出すたびに腸が煮えくり返ってくる。

「だけどな」と垂蔵が再び口を開き、枕元を探り出した。そして彼は枕元から出した黄ばみきった紙の束を広げて言った。

「俺はコイツを読んじまったんだよ!」

 その黄ばんだ紙を見て露都は衝撃のあまり倒れそうになった。自分が依然見たあれとはすっかり似ても似つかなくなってしまったが、だけどあれである事はもう火を見るより明らかだった。垂蔵の奴ずっとこれを持っていたのか。とっくにどこかに捨ててしまったと思っていたのに!

「露都、これお前がくれたんだぜ。覚えてるだろ?」

「ああ、忘れるはずねえよ。アンタずっと持ってたんだな……とっくに捨てちまったと思ってたよ」

「バカやろ、いくら俺がバカでもアイツの形見を捨てるはずねえだろ!へっ、しょっちゅう読み返していたせいでこんなに黄ばんじまったけどよ。読みすぎてもうインクなんか全部飛んじまって、もうまともに読めやしねえや。だけど中身は全部覚えているぜ。この身に入れ墨見てえに刻んでいるぜ」

 それは間違いなく母の遺書であった。すっかり黄ばみ、さらに垂蔵が酒がなんかこぼしたせいで水跡とシワが出来てしまい、字なんかも垂蔵が言うようにすっかり薄くなってしまっているが、それでも母の遺書だった。よく見ると便箋のあちこちが黒く汚れていた。きっとそれは垂蔵の手あかに違いない。母さんの大事な遺書をよくもここまで汚くしてくれたな。そんなになるぐらいずっと読んでいたっていうのか。露都は垂蔵をまじまじと見た。

「正直に言うと俺、お前にアイツの遺書を貰ってからずっと読まずにいたんだ。あの借家から出てアパートで暮らし始めてからも、ずっと出してはしまって、出してはしまっての繰り返しだった。怖かったんだよ俺は。アイツに一番酷えことをしたのは俺だってわかってるから、どんな事が書いてあるのか見るのがずっと怖かったんだ。ぜってえありえねえけどアイツが恨みつらみなんか書いてたらどうしようってそんなことまで考えた。でも恨みつらみでなくちょっとしたお説教じみたものは書いてあるかもしれねえとは思った。アイツが生きているときだったらそんな説教いくらだって聞いてやったさ。だけどアイツは俺がくだらねえことばかりやっていたせいで死んだんだ。遺言でそんな説教かまされちゃもう俺耐えられねえよ。死んで詫びするしかなくなっちまう。だから俺ずっと遺書を放っておいた。だけどこのクソ垂れどもにボコボコにされてアパートでやけ酒かっ食らってた時、ふとバッグにしまったまんまだったアイツの遺書を思い出したんだよ!」

 ここまで言うと垂蔵は顔を顰めた。露都はその垂蔵の方へ思わず歩み寄った。垂蔵の言うことをもっとはっきりと聞きたかったのだ。

「それで俺は引き出しからアイツの遺書出した。そして勢いで読んだんだよ。もう何が書いてあろうがどうでもよかった。俺自身完全に終わりだと思ってたしな。だけどよ、読んでも恨み事どころか説教一つ書いてねえじゃねえか。思わずバカ野郎って口に出したね。アイツは最期まで俺を全肯定して逝っちまったんだ!こんなクズ以下の俺をさ!」

 そう震える声で言うと垂蔵は声をあげて泣いた。その涙が母の遺書にポタポタと落ちてあちこちに黒ずんだシミを作った。露都は泣いている垂蔵を見て目頭が熱くなった。今までこんな事は始めてだった。生まれてからずっと軽蔑と憎しみしか感じていなかった父。母に苦労を全て押し付けて遊び呆けていた父。そのクズ以下の人生を歩んで来た父の悔恨の言葉にどうしてこんなに心が動くのか。その父がシワだらけの泣き腫らした顔を上げて彼をじっと見た。

「露都、お前母ちゃんの遺書読んだか?」

 父の問いに嘘をつく事は露都には出来なかった。彼は額に手を当てて正直に答えた。

「読んだよ。アンタには悪いとは思ったけど、読ませてもらった」

「そうか。じゃあ話は早いや。俺は母ちゃんの遺言に従わなきゃいけねえ。お前がどんなにまともに働かないクズだと罵ろうが、俺はサーチ&デストロイのボーカル大口垂蔵なんだ。だから最期まで母ちゃんの望んだように大口垂蔵として生きていかなきゃいけねえんだ。だから頼むよ!俺にライブを演らせてくれよ!そうじゃなきゃ俺は母ちゃんに申し訳がたたねえんだよ!」

 垂蔵はその痩せ切った体を折り曲げてベッドがめり込むほど深く露都に頭を下げた。サーチ&デストロイのメンバーや家時もまた露都に向かって頭を下げた。露都は周りの連中を見回してそれから再び垂蔵を見つめた。ベッドでライブに出るために必死に息子に懇願しているのは余命が一年、いやそれよりずっと短いかも言われている末期がんの患者だった。こんな人間にライブなんかまともに出来るはずがない。大体痛み止めにモルヒネ使っているような人間にライブなんか出来るはずがない。無理だ、いくら母さんがそれを望んでいたとしても絶対に無理だ。

「坊主頼むよ。親父がこんなに頼み込んでいるんだぜ」

 そう口にしたのはイギーだった。他のメンバーはイギーの言葉にただ頷いて露都をじっと見た。

「露都さん、僕からもお願いします。確かに垂蔵さんの体調は絶対に気をつけなきゃいけません。だけど僕垂蔵さんがどれだけライブにかけていたかを考えるとやっぱりライブをやらせてあげたいんです。それは事務所とかそういうの関係なくて僕個人の正直な思いなんです」

 サーチ&デストロイの所属事務所の次期社長家時未来は涙ながらにこう語った。今、垂蔵もサーチ&デストロイのメンバーも家時もみんな露都の言葉をただ待った。

母とサトル

 露都は彼らの視線に耐えられなくて思わず目を逸らした。全くバカバカしいにも程がある。あんなゴミ音楽を撒き垂らすのにどうしてアンタらそんなに真剣になれるんだよ。こんなもの命懸けでやるもんじゃねえだろ!露都はまだ頭をベッドに押し付けている垂蔵を見た。アンタはバカだよ!エリートの家に生まれたくせにこんなものやるために人生を棒に振ってさ。挙げ句の果てに最期までやり通すってのか!俺には全く理解出来ねえよ!ふざけんな、ふざけんな!最期ぐらい真人間として生きろよ!いくら母さんがそんなアンタが好きだったからってさ。と思ったところ露都はは母の顔を思い浮かべた。よく考えれば母さんいつもアンタの事ばっかり考えていた。今考えれば俺の事なんか二の次だった気がする。アンタがいかにカッコよかったか、アンタがなんか問題を起こした時は息子の俺を放っておいてアンタの事をずっと心配していた。正直に言ってアンタに対してジェラシーみたいなものだって感じた。母さん、俺はどうすりゃいいんだよ。下手したらその場で倒れるかもしれないライブ行かせていいのか?『垂蔵はね、露都が言うように、普段は全くどうしようもない人間だけど、ステージに上がったら全然違うんだよ。あの人はステージで叫んで暴れてる時が一番輝いているの』俺にはあんなものカッコいいなんて全く思わねえよ!うるせいだけじゃねえか!俺に無理矢理あんなこっぱずかしいパンクファッション着させて!とその時だった。露都の頭の中に突然母と観たサーチ&デストロイのライブの記憶が蘇ってきた。結婚してさすがにビデオに映っていた頃のような派手な格好をしなくなった母。その母に手を引っ張られて涙目でライブ会場に入ったんだ。鋲だらけのバカみたいなジャンバー着させられて……。ああ!まさか!サトルが着ていたあのジャンバーは俺がガキの頃に着ていた奴なのか?サトル、そうだ、俺は昨日アイツと垂蔵のライブに行くって約束しちまってたんだ。今更ライブやらねえとか言ったらアイツ絶対また怒るに決まってる。もう父さんとは口を利きたくないなんてまた言い出したら今度はどうやって謝ったらいいんだ。畜生今思い出したぜ!母さん……サトル。ホントめんどくせえ!全くめんどくせえ!

 露都は自分の中に溢れる感情に耐えられず吐き出しまえとばかりに思いっきり舌打ちをした。そしてもうヤケクソになってまだうつ伏せになっている垂蔵に向かってこう言い放った。

「そんなにライブやりたきゃ勝手にやればいいだろ!俺はもう止めねえよ!」

 この露都の言葉に部屋にいたものたちは一斉に唖然とした顔をした。彼らは露都の半ギレ状態で放たれた言葉が信じられないようだった。垂蔵などすっかり体を起こし目を丸くして息子を見ていた。

「お前、今の言葉嘘じゃねえよな……」

「おい、何度も言わすな。さっき俺はライブやりたきゃ勝手にやれって言ったんだ!」

「それに……」と露都はここで言いよどんだが、もうやけくそになって一気に言い切った。

「それに昨日勢いでついサトルにアンタの連れてくって約束しちまったからな。やんねえと思ってたからあの子にどうやって謝ろうかって考えてたけど、やるってんなら……」

 ここまで聞いた垂蔵は意地の悪い笑みを浮かべ、露都にこう尋ねた。

「お前ひょっとして息子と喧嘩したのか。なあそうだろ?正直に言えよ」

「うるせえ!ただの家族サービスだよ!俺はアンタらと違ってよき市民、よき父なんだよ!」

 露都はこう言って懸命に誤魔化そうとしたが、垂蔵の指摘した事がドンピシャだって事は誰の目にも明らかだった。垂蔵は気恥ずかしさに顔を真っ赤にしている息子を見て思いっきり笑った。

 垂蔵は露都からライブにサトルを連れてくると聞かされてすっかり上機嫌になっていた。もう完全にはしゃいでメンバーたちに確かめるかのように言った。

「コイツ言ったよな?今ライブに息子連れてくるって言ったよな?男に二言はねえよな。おい露都、そうだよな?」

「うるせえんだよ、連れていくっつってんだろ!もう黙ってろよ!」

「そうか……」と垂蔵は呟くとしばし目を閉じ。そして再び目を見開いて露都に言った。

「そうなんだな。サト坊来るんだな。で、あの子も来るんだろ?」

「あの子って誰だ?」

「バカやろ。お前の連れのことだよ」

「ああ、そうか。そりゃ来るだろうよ。元々……いや、いい」

「おいおいなんだよ。変なとこで話を止めんじゃねえよ。気になっちまう。まぁいいや。ところであの子母ちゃんに似てねえか?」

「はぁ?何言ってんだ。絵里が母さんに似てるわけねえだろ。どっからどう見ても別人だろうが」

「いや、似てるな。最初にお前の家に言った時、出迎えてくれたあの子を見てすぐに母ちゃん思い出したからな。顔作りは確かに似てねえが雰囲気がどっか母ちゃんに似てるんだよ。やっぱり親子って似たような女を好きになるんだな」

「何が親子だ。俺とアンタは全然違う人間だろうが!気安く人を家族扱いするな!」

 露都は気恥ずかしくてたまらずに垂蔵を黙らせようとしたが、垂蔵は声を上げて笑いサーチ&デストロイのメンバーたちに息子を指で示して笑うばかりだった。しかししばらくして垂蔵は真顔に戻り、露都に向かってこう言った。

「なぁ、露都。サト坊はここに連れて来ないでくれ。それとお前もライブが終わるまでは来ないでくれ」

「いやアンタが言うなら俺は別に来ないが、だけどなんでだ。アンタ孫に会いたいんじゃないのか」

 この息子の問いに垂蔵は一瞬間を置いてから笑顔で答えた。

「やっぱりサト坊の前ではカッコいいおじいちゃんでいたいんだよ。あの子にこんな俺の姿見られたくねえし、お前にもこれ以上惨めな姿晒したくねえし。あの、お前知ってるか?サト坊、俺と会うといっつもデストロイやってくれるんだぜ」

「何がカッコいいだ。子供の言葉を真に受けるんじゃねえ。アンタみたいなジジイがどうやってもカッコよくなるわけじゃねえんだよ。大体アンタ昔から一度だってカッコよかったことなんてなかったじゃねえか」

大騒ぎの後の不安

 しかし垂蔵は露都の言う事などもう聞いていなかった。彼の心はすでに来週の土曜日に行われる復活ライブに向かっていたのだ。彼は客席から自分を見上げる孫のサトルを想像した。そして孫の母とその夫である自分の息子……。

「おい垂蔵」

 と声をかけてきたのはイギーであった。垂蔵は声をかけられて物思いから目が覚めた。

「親子水入らずのとこ悪いけど、もうライブやるって事でいいんだな。今医者呼んでくるけどいいのか?コイツがサインしたらもう逃げらんねえぞ」

「何言ってんだお前。ずっとやるって言ってたじゃねえか?お前とうとうボケが入ったのか?ガンにアルツハイマーじゃサーチ&デストロイも終わりじゃねえか」

「バカ!笑えねえ冗談言うんじゃねえよ。ったくテメエって奴はよ!……でもよ」

 イギーはそう言いかけて垂蔵のそばにいる彼の息子を見た。そして続けた。

「へっ、まさかサーチ&デストロイん中で一番の悪たれだったお前に孫までいるなんてよ。おい、俺たちん中でガキがいるのお前だけだぜ」

 垂蔵はイギーの話を聞いて驚いような顔をした。

「あれっ?お前らにも女はいただろうが。イギーお前も結婚してただろ?」

「お前、何年前のこと言ってんだよ。あれとはとっくに離婚したよ。今は若い姉ちゃんと暮らしてる」

「ああ、この間スタジオに連れてきた四十ぐらいのババアか」

「てめえ!ってまあそうなんだが……とにかく俺はそいつと暮らしていて、コイツラに至っては昔も今も独身よ」

「ヘッ、そうかい。確かに若え頃はこんなジジイになるなんて思ってなかったぜ。三十前で死ぬって信じていたからな」

 垂蔵はこう言って笑ってからサーチ&デストロイのメンバーを見渡した。イギー、ジョージ、トミー。コイツラとはホントに長い付き合いだ。何度も洒落にならないほどの喧嘩をしてもずっと一緒にいる。全く今じゃ生きているのかどうかさえわからねえあのクソ兄貴たちよりずっと兄弟らしく思える。まぁ、当たり前だ。コイツらとは兄貴たちよりずっと長い時間を一緒に過ごしてきたんだから。垂蔵はサーチ&デストロイのメンバーに向かって言った。

「来週のライブ、俺お前らのためにも命懸けで演るよ。それが今まで一緒にやってきたお前らへのせめてもの礼だ」

「バカヤロウ!そんなしみったれた事言うんじゃねえよ!来週はお前の復活ライブだぜ!ガツンとかまして大口垂蔵ここにありってのを見せなきゃダメだろ!復活するんだから次のライブだってやるし、そのまた次のライブだってやる。そうやってライブを延々やってきゃガンなんてガンジーみてえに餓死するわ!」

 このイギーの言葉に続いてジョージもトミーも大声で垂蔵を励ました。垂蔵はバンドメンバーの励ましに上機嫌になり、復活ライブにきた客をみんなぶち殺してやるとか喚きだした。露都はジジイたちの大騒ぎぶりを場所をわきまえない騒ぎぶりに恥ずかしくなったが、同時に彼らの絆の深さを見てこのクズどもにもそれなりの人生があったのだなと感慨を持った。だが、彼はふと眺めた病室のドアに先程の看護師が目を剥いて直立しているのを見て感慨など一気に吹き飛んでしまった。彼はサーチ&デストロイのメンバーを黙れと叱り、看護師に何度も頭を下げた。


 その後露都は垂蔵の外出許可をもらうために医者と会った。イギーにパシられた家時が看護師に頼んで病室に来てもらったのだ。部屋に入ってきた医者は垂蔵と露都たちを訝しげに見回してフンと鼻を鳴らし、垂蔵のベッドの脇に立っている露都に向かって面談室にくるよう声をかけた。

 面談室に入ると医者はレントゲン写真や診断書をテーブルに出して垂蔵の現在の状態を報告した。医者によると垂蔵の体調は取り合えず安定はしているらしい。食事もちゃんと取っているようだし、血圧も体温も目立った異常はないそうだ。

「まぁ、今のところは安定しています。歩くことも出来るようになったようだし、ひとまずは安心です」

「そうなんですか」

「それでですね。外出の件であなたに一つ聞きたいんですけどね……」

 医者の訝しげな顔を見て露都はなんだか嫌な予感がした。

「患者さんの外出の目的はなんでしょうか?」

 露都はさんざん垂蔵から聞かされているだろうに何故か今更聞くのかと考えた。しかし考えてもしょうがないと思い、正直に垂蔵が来週をやるからだと答えた。すると医者は表情を変えずに口を開いた。

「まぁ、多分あなたは今こんな事を今更聞くのは何故かって思ったんだろうけど、まぁ規則なんでね。保護者には念のために一応聞いてるわけです。ウチが他の病院に比べてなんで外出許可をこんなに厳しくしているのか話しますが、一年前に外出許可を出した末期がんの患者さんがそのまま居酒屋に飲みに行ってそこで急死してしまったという事故がありましてね。それでうちは外出に対して厳しくなったんです。まぁぶっちゃけて言えばこれは患者さんを守るというより、あくまでウチを守るためです。なんでもかんでもウチのせいにされてはたまりませんからね。いいでしょう外出は許可します。ただ」

 と医者は一瞬話を止めて、そして再び口を開いた。

「許可書にも書いてますけど、何が起こっても絶対にウチは責任取りませんよ」

 医者は本当にうざそうな感じで言い終えた。露都はその医者の口調から垂蔵がこの病院からどれほど嫌われているかを改めて感じた。すると医者が何かを思い出したように顔を上げて露都に尋ねた。

「失礼な事聞くかもしれないけどあなたのご職業は?」

 露都はなんの意図があってこんな事を聞くのかと思ったが、しばらくしてから公務員だと答えた。すると医者は軽く相槌を打ってこう言った。

「なる程、いろいろ大変だね」

 医者のどこか見下した口調に露都は自分が誤解されているように感じてハッキリと自分の身分を明かしてやろうと一瞬思った。医者はそばにいた看護師に許可書を持ってくるように言い、そして露都に向かって話しかけた。

「最後に患者さんの病状について話しておくけど、火曜日に命は持って一年、最悪の場合はそれよりも早いかもしれないって話しましたよね。だけどこの一週間何度もレントゲンを撮ったんだけど、どうやら思ったより腫瘍が大きくて、下手したら予想よりもずっと早いかもしれないんだよ。だけど手術をしてその腫瘍を取れば宣告通りあと一年は生きられるかもしれない。まぁ、あくまで可能性の話だよ。手術をしたからって別に寿命が大きく延びるわけじゃない。ハッキリ言えばただの延命措置だよ。その手術だって大きなリスクがかかるんだ。もしかしたら手術中に命を落とすことだってあり得るかもしれない」

「父と相談してみます」

「そうだね、本人にも伝えておくからよろしく頼みます。じゃあ私はこれで退出するから。外出許可書についてはそこの看護師から説明を受けて下さい」


 看護師から外出許可について一通りの説明を受けた露都は許可書にサインと印を押し、それから許可書の控えを持って病室に戻って垂蔵とサーチ&デストロイのメンバーたちに見せた。垂蔵たちはやっと出た外出許可書を見て喜び、興奮のあまり許可書を破りかねないほどだったが、露都ははしゃいでいる彼らを眺め、さっきの医者の話を思い出し、これから垂蔵と自分を待ち受けている未来を思い浮かべて暗澹たる気持ちになった。

後悔

 家へと帰る途中露都は自分が病室で垂蔵が母の遺書を見せながら語った事に心を動かされ、その勢いで垂蔵の外出許可にサインしてしまった事を後悔し始めた。もう今から病院に電話をかけてすぐにでも外出許可を取り消したい気持ちになった。だがそれがもう無理だという事は彼自身が一番よくわかっていた。だから猶更後悔の念は激しかった。垂蔵のガンは想像よりずっと早く進行している。このまま行ったら半年も持たないかもしれない。それどころか下手したら垂蔵も医者が話した患者みたいにライブ中に死んでしまうかもしれない。

 垂蔵の外出については垂蔵本人とサーチ&デストロイのメンバーと家時が看護師と打ち合わせていた。露都もその場にいたが、彼はサーチ&デストロイのバンド活動について全く知らないので何も発言できなかった。相談の結果これから一週間の垂蔵の外出のスケジュールが決まった。それによると垂蔵は明日からバンドのリハーサルのために木曜まで毎日二時間外出し、ライブ前日の金曜日と当日の土曜日は家時の家に泊まる事になった。露都はとりあえず垂蔵が家時の家に泊まる事になってホッとした。メンバーの家に泊まったら垂蔵は絶対にたかが外れて無茶をし始めてただでさえ悪い病状を急激に悪化させてしまうだろう。家時は看護師からの注意をメモに書きつけながら熱心に聞いていた。

 垂蔵に別れの挨拶をして病室から出た時、家時が追ってきて連絡先を教えて欲しいと頼んできた。外出中の垂蔵について報告を入れたいという事だった。露都はそれだったらと自分の携帯番号とメールを教えた。すると家時はチケットの事を自宅に送っていいかと聞いてきた。

「三人分でいいんですよね。一応説明しておきますけど、お送りするチケットは関係者用だから開場まで並ばなくても外のスタッフに見せればすぐに中の関係者席に入れてくれますよ」

 露都はライブが出来る事に喜んで目を潤ませている家時に向かってありがとうと礼を言ってそのまま立ち去ろうとした。だがその時家時が彼を呼び止めて不安げな顔でこう尋ねた。

「あの露都さん、大丈夫ですか?なんか顔青いですよ」

 全く大丈夫じゃなかった。こうして電車にも乗らず無駄に歩いて頭を空っぽにしようとしても病院での医者との会話が頭の中に現れた。露都は自分が今垂蔵という存在をこんなにも近しいものに感じていることが不思議でならなかった。ついこの間まで本気で死んでしまえと思っていた垂蔵。いつもクズ!ゴミ!と罵り続けた垂蔵。垂蔵は今でも立派に現役のクズでゴミなはずなのにどうしてこんな気持ちになるんだ。今日、初めて垂蔵という人間の一端に触れたような気がした。あんなクズでもクズなりに母の事を想っていたんだという事が初めて分かった。そういえば垂蔵とまともに会話したのは小学生ぶりなんじゃなかったか。会話をして少しだけ驚いた。こいつも普通のじいちゃんなんだって。露都は垂蔵との会話を思い浮かべた。サトル、絵里、母、垂蔵。だけどその垂蔵はもう時期死ぬ。そう思った瞬間露都は我に返って空を見上げた。日はもう完全に暮れていた。全く時間ってのはどうしてこんなに経つのが早いんだ。朝病院に来たのにいつの間にか日が暮れてやんの。多分看護師と垂蔵たちの話し合いが長引いたせいだ。もう絵里とサトルはとっくに家に帰っているはずだ。もしかしたら心配して電話かメールを送ってきてるかもしれない。露都はジャケットのポケットからスマホを取り出して通知を確認した。絵里からの電話はなかったが、メールが一通届いていた。そこには短くこう書かれていた。

「露都、お父さん大丈夫?帰りが遅いからちょっと心配になってメールしました。別に急がなくていいからなんか返信して。サトルもパパ遅いって心配しているから」

 露都は「大丈夫だ」と短く書いて返信しポケットにスマホを戻した。その途端急に家に帰りたくなった。帰ろう。外はもう寒いしこのままいたら風邪引いちまう。露都は周りを見て駅を探した。少し先に地下鉄の出入り口があるのが見えた。彼は小走りで出入り口へと向かいそして駅へと続く階段を降りた。


 ドアベルが鳴ったので、一人リビングでテレビを見ていた絵里はやっと帰って来たのかと呟やきながら立ち上がって玄関へと向かった。そしてドアを開けて夫を出迎えようとしたのだが、開けたらそこに真っ青な顔の露都が立っていたのでびっくりして固まってしまった。

「ど、どうしたの?さっきメールで大丈夫だって言ってたよね?もしかしてその後なんかあったの?」

「いや、なんでもない」

「なんでもないってそんな青い顔してたら誰だって心配するよ?」

「いや本当になんでもないんだ」

 そう言うと露都は玄関から内に上がりそのまま書斎に向かって歩いた。

「ねぇ、作り置きのご飯あるから温めようか?」

「後で食べる」

 絵里は書斎へと入る露都の背中を見て一人呟いた。

「まったく何がなんでもないよ」

 書斎に入った露都は机の椅子に座って力なく項垂れていた。しばらくして絵里がドアをノックして彼を呼んだ。

「あの、ご飯持ってきたから中に入っていい?」

 露都はうつ向いたままいいよと答えた。すると絵里がドアからご飯を乗せたトレーを手に入ってきて机にご飯を置いて話しかけてきた。

「で、本当にお父さん大丈夫なの?私にはホントのこと言ってよ」

一週間お疲れ様

 顔を上げるとそこには自分をまっすぐ見つめる絵里がいた。露都は「大丈夫だよ」と答えたが、それから言葉が出ず口ごもってしまった。絵里も夫の顔を見て言葉をかける事が出来ず書斎には気まずい沈黙が流れた。

「あのさ」と突然露都が口を開いた。絵里はハッとして夫を見つめた。

「来週の土曜だけどさ。ライブ、やることになったよ」

 この露都の言葉を聞いて絵里は思わず声を上げた。

「えっ、ホントにやんの!お父さん大丈夫なの?」

「大丈夫じゃねえよ」と言った瞬間露都はいきなり堰を切ったように喋り出した。

「実は朝の電話その件についての相談だったんだ。ライブやるために外出許可が欲しいから俺を呼んだんだと。あのバカ、どうしてもライブやりたいって言ったんだ。母さんの遺書まで持ち出して俺を泣き落とにかかったんだぜ。何が死んでもいいからライブやるだよ。ホントに死んじまったらどうすんだよ。テメエは勝手に死んで目出てえだろうが、残された俺たちはどう責任とりゃいんだよ。あいつサトルを病院に連れてくんなって言ったんだぜ。サトルの前ではカッコいいおじいちゃんでいたいとか訳のわからねえ事言い出してよ。馬鹿だよ、垂蔵もその仲間もみんな大馬鹿野郎だ。まっ、アイツの泣き落としにまんまと引っかかって許可書にサインした俺も大馬鹿野郎なんだけどさ。ったく信じられねえよ。あんなゴミ音楽のためにどうして命まで賭けられるんだよ。あんなものが人生賭けてやるものなのか。あれよりましなものだったらいくらでもあるだろうが。せめて最期ぐらいもっとまじめに生きろよ!」

 絵里は付き合ってから今に至るまでこんな赤裸々に自分の全てをさらけ出す露都を見たことがなかった。露都は滑稽なほど誠実な人間であったので確かに自身の事を全て話してくれた。それに彼はすぐに顔に出るような人間だったのでたとえ隠し事をしていたとしても答えはすべて顔に出てしまっていた。だけどプライドの高さゆえかなかなか心の奥は見せなかった。その彼が今こうして自分の全てをさらけ出している。露都は涙は出ていないけど彼女にはぐしょぐしょに泣いているように見えた。絵里は妻として、自分の愛する夫に向かって微笑んでこう言った。

「じゃあ、ライブ行ってあげないとダメだよね。お父さんがそれだけ思いを込めてやるんだから。サトルにもちゃんと見せないとね」

「アイツにも行くって言っちまったししょうがねえよ」

 露都がこう言ったのを聞いて絵里は露都をギュッと抱きしめた。彼女はこのプライドの高い頑固者の夫の全てを抱きしめてやりたいと思った。「露都」と口にしようとしたその時、胸に顔をうずめていた露都が急に顔を話してこう言った。

「おい、絵里。あのな、今日その気はねえから」

 絵里はこの夫の言葉を聞いて顔を真っ赤にして叫んだ。

「このバカ!一体何を勘違いしてるんだ!」


 翌日の日曜日は露都たち三人は久しぶりに揃って近くの公園で遊んだ。露都はサトルとバトミントンや縄跳びをして遊んだが、サトルは露都が以外にも運動神経がいいことに驚いて、お父さん凄い二十飛び出来るんだとはしゃいで絵里に喋っていた。露都は息子から褒められたのに気をよくしてお父さん三十飛びだって出来るんだぞと言って早速三十飛びを始めたが、その途端縄が思いっきりくるぶしにあたって激痛のあまりひっくり返ってしまった。絵里とサトルはその露都を見て大爆笑したが、露都は恥ずかしさのあまり涙目になって二人を叱り飛ばした。それから三人は朝に絵里が作った弁当を広げて食べ始めたのだが、その時サトルが寒いと言い出したので絵里がバッグからあの鋲ガラのジャンバーを取り出した。露都はそれを見て真っ青になってなんで持って来たんだと絵里を問いただしたが、絵里はサトルが着たがっているからと言い露都を無視してサトルに羽織らせた。

「おい、ここは近所の人とか、あのマー君の家族も来るんだぞ。人前でそんなもの着させたらみんなにバレちまうだろうが早く脱がせろ!」

「うるさいなぁ~、別にバレてもいいじゃない」

「よくない!」

「しょうがないなぁ、じゃあサトルジャンバー脱いで」

「いやだよぉ~、だってこれおじいちゃんがボクにくれたもんだもん」

 そう言ってサトルはそのまま立ち上がって駆け出してポーズを取ったりしてふざけ出した。

「ったくバカ野郎、近所の連中にバレたらどうすんだよ!」

「別に気にすることじゃないでしょ?みんな変わったジャンバー着てますねって言うだけよ」

「ああもう!」

 鋲ガラのジャンバーを着てサトルはフリスビーを飛ばして遊んでいた。そのサトルを見ながら露都は絵里に昨日家時から言われた事を伝えていた。

「多分、俺来週の土曜日休日出勤になるから、お前らだけ先に行っといてくれ。多分会場はすっげえ物騒な事になってるだろうから会場に着いたら外のスタッフの人たちにに声かけて中に入れてもらえ。もしスタッフの人が見当たんなかったら、今から家時さんの電話番号教えるからそっちに電話かけろ」

「あの私子供じゃないんだからそんなに事細かく説明してもらわなくても大丈夫よ」

「バカ、俺はお前じゃなくてサトルのために言ってるんだよ。母親のお前にはしっかり貰わないといけないしな」

「ハイハイわかりました。おっしゃる通りにいたします!」

「また、前日になったらまた言うけど」

「ハイハイ!」

「しつこいけどこれはもう一回言わせてもらうぞ。お前チケットは絶対に捨てるなよ」

「ああ!うるさい!」

 サトルはまだフリスビーで遊んでいた。露都はいつまで経ってもフリスビーで遊んでいる息子に目を細めてこう呟いた。

「全く子供っていつまで経っても飽きないもんだな」

「そうだね。で、全然話変わるけど露都ちょっと聞いていい?」

「あん、聞きたい事ってなんだ?」

「あのさ……露都。AVを観るのはいいけどちゃんと観るもの選んでね。それとそういうものをテレビで観ちゃダメだよ。誰が見てるかわかんないんだから」

「はぁ?いつ俺がAV観たんだよ!俺は生まれて一度もそんなもの観たことねえぞ!」

「大きい声出さない!」と絵里は露都を諫めた後でため気をつきながらこう言った。

「実はサトルが見てたんだよ。朝あの子私に言ったもん。お父さん夜テレビで女の人が殴られてる変な物観てたんだよ。最低だよって……」

 露都は絵里の話を聞いて衝撃のあまり口をあんぐりと開けた。そして大きな声で叫んだ。

「バカヤロー!あれはAVじゃなくて親父のライブビデオだ!」

 今度は絵里が露都の言葉に驚いた。

「えっ、そうだったの?私サトルからお父さんが女の人殴ってるビデオ観てるって聞いててっきりAVの事だと……でも、露都。あなた今お父さんの事親父って言わなかった?私あなたの口からお父さんを親父って呼んだの初めて聞いたけど……」

 絵里からズバリ指摘されて露都は思わず口に手を当てた。彼は慌てて親父じゃなくてクズの垂蔵のライブビデオだと言い直したが、もう完全に遅かった。絵里は露都が自分の発言を必死に打ち消そうとしているのがおかしくて笑い転げてしまった。露都は恥ずかしさのあまり折った膝頭に顔をうずめ耳を塞いだ。

 しばらくして笑いが収まった絵里はまだ膝頭に顔をうずめている露都に向かって声をかけた。そしてなんだと顔を上げた夫に向かって言った。

「土曜日のライブ絶対に行こうね。すっぽかしたら私もサトルもお父さんもみんなあなたを許さないからね。……とにかく一週間お疲れ様。ホントに大変な一週間だったね」

垂蔵の復活

 週明けの朝、各SNSのサーチ&デストロイのアカウントから一斉に大口垂蔵の体調が回復し、土曜日の復活ライブが予定通り開催されることが発表された。この発表がされてから各SNSの話題はサーチ&デストロイ一色になった。彼らの先輩であるパンクのレジェンド達も、彼らとハードコアシーンを引っ張ってきたジャパコアの盟友達も、彼らと同世代のアーチストたちも、中にはシティポップの代表的なシンガーでさえも、また後輩たちも、そして今人気のアーチストたちも一斉にサーチ&デストロイへの愛と復活への喜びを語って垂蔵とバンドの復活を祝った。リスナーたちもまた垂蔵とバンドの復活に歓喜した。昔からのファンは勿論、レコードやCDで彼らを知ったリスナー、YouTubeやTikTokで彼らに初めて触れた若者たち。皆が一斉に大口垂蔵の復活とサーチ&デストロイの復活ライブの予定通りの開催を祝福した。しかしサーチ&デストロイの復活を祝ったのは同業のミュージシャンや一般のリスナーだけではなかった。サーチ&デストロイは意外にも政治や社会の分野にも影響力を持っていた。ある政治家はこのニュースを聞いてこう書いている。「私が政治家になろうと決めたのは大学時代にサーチ&デストロイを聴いた事がきっかけだった。サーチ&デストロイがいなかったら今の私はなかった」と。

 家時は病院で約束した通り昨日早速メールを送って来た。そこには月曜日にチケットを発送する事と、外出した垂蔵が元気でリハーサルしている事が写真付きで書かれていた。パンクファッションで笑顔でメンバーたちと肩を組んでいる垂蔵は病院で見た時より若干健康そうに見えた。露都は笑顔の垂蔵を見て思わず笑みを浮かべかけたが、すぐに我に返りきつく口を閉じた。家時は続けてライブの準備が着々と進んでいる事と、そして月曜日の朝一にSNSで垂蔵の復活と、サーチ&デストロイの復活ライブを予定通りに行うことを同時にアナウンスをすると書いていた。そのわきに太文字の※印でSNSでの発表の件はご内密にお願いします念を押して書いていた。最後にサーチ&デストロイのHPとSNSの各アカウントが載せられていた。露都は休憩時間に広場のベンチでこの家時の昨日のメールを読み返してその能天気っぷりに笑った。全く何がご内密にだ。あんなクズ音楽をまき散らすだけのイベントをどうしてこんなにも大げさに隠すかね。君たちは垂蔵にもしなんかあったらどうすんのかね、全く後々の事なんてまるで考えないんだから。

「おっ、大口じゃねえか。また一人で飯食ってんのかよ」

 と前から声をかけて来たのは葛木だった。露都は慌ててスマホを隠して顔を上げうるせいなそっちも一人だろうがと言い返した。その葛木は露都を前にしてああとかどうしよっかなぁ~とかブツブツ言い出し露骨に何かを言いあぐねているような態度を見せていた。露都は同僚が何を言いたいかもう分かりすぎる程わかっていた。

「おい、なんだよ気持ち悪いな。言いたいことがあったらなんか言えよ。どうせ親父のことだろ?」

 葛木は露都の言葉を聞くなりパッと顔を輝かせて勢いよく喋り出した。

「おおそうだよ!ってか親父さんの事喋っていいのか?」

「そばでぶつぶつ言われると気持ち悪いんだよ。喋りたいんだったらさっさと喋れ」

「何でお前いつもそうつっけんどんなんだ。だから誰も昼食に誘ってくれないんだぞ」

「うるせい。さっさと喋ろって言っているだろうが」

「チッ、お前と会話するといつも調子狂うんだよな。まぁ、とにかく親父さんよかったな。退院したんだろ?SNSじゃ朝っぱらからすげえバズってるぜ」

「そうなんだな」

「そうなんだなって他人事かよ。ったく自分の親父の事ぐらい恥ずかしがらずに素直に喜べよ。でもお前の親父さんってホント凄い人なんだな。俺最近お前の親父さんのことネットで調べてたんだけど、パンクの世界じゃ生きる伝説だって言われてるらしいじゃん。俺マジでびっくりしたよ」

「俺はそういう事全く知らねんだよ。親父のやってる事なんて全く興味ないし」

「おいおいそりゃないだろうが。あの人はお前にとっちゃ誇れるような親じゃないかもしれないけど、でも親は親なんだぜ。自分の親のことぐらいちゃんと知っとけよ。とりあえず音源でも聴いてさ」

「いやだよあんなもの。ゴミとしか思えないよ」

「ひっでえこと言うなぁ。でも今日のお前少しだけ素直じゃん。お前いつも極端に自分の親に触れられるの嫌がっていたのに。やっぱりお前でも親父さんが復活したのが嬉しいもんなんだな」

「うるせいな馬鹿野郎!お前といたんじゃろくに休憩できねえじゃねえか。俺はもう行くよ」

 と露都は立ち上がってそのまま立ち去ろうとしたが、ふいに立ち止まって葛木に声をかけた。

「葛木、ありがとう」

「あ、ああ……」

 露都は自分の言葉にびっくりしてベンチで固まっている葛木を見て礼を言った事が急に恥ずかしくなって慌ててその場を立ち去った。

 午後の勤務中露都は度々葛木との会話を思い出した。SNSでは垂蔵の復活がとんでもなくバズっている。自分はSNSの類はプライベートで一切やらないのでわからないが葛木の言う通り相当凄い事になっているのだろう。彼は生きる伝説だという葛木の言葉を笑った。何が生きる伝説だよ。あんなものただの生きる粗大ゴミじゃねえか。葛木のヤツ、ボンボンのナンパ野郎のくせしやがって生意気にも俺に説教なんかしやがって。何が自分の父親のことぐらいもっと知っとけだ。アイツのことぐらいイヤになるぐらい知っているよ。クズでゴミのろくでなし。ああいやななるぐらい。しかし露都はそこで急に母がいつも言っていた言葉を思い出した。『垂蔵は普段はろくでなしだけど、ステージでは見違えるぐらいカッコいいんだよ』確かに自分は垂蔵のバンド活動なんてまるで知らない。アイツがそこで何をしてどう過ごしてきたのかまるで知らない。きっと垂蔵の復活に大騒ぎをしている連中は母と同じものを見てきたんだろう。母と同じようにステージの垂蔵に喝采を浴びせていたのだろう。だけど俺はそんなものを全く見ていなかった。いや見ようとしなかった。露都は今初めて自分の父親であり、サーチ&デストロイのフロントマンで、世間から生きる伝説と語られている大口垂蔵という人間に真から興味が湧いてきた。

嵐の前の平穏

 今週は先週の慌ただしさが嘘のように平穏であった。しかし当然ながら不安はあった。今の所垂蔵には何の異変も報告されていないが突然それが起こることだってありえる。それと土曜日のライブがある。ライブの途中で体調に異変が起きたたら命に関わる。露都は湧き出す不安を仕事に没頭する事で打ち消そうとした。とにかく土曜日のライブまでは何も起こらない事をひたすら願った。露都は何事もなく一日が終わるとホッとするのだった。

 垂蔵のライブ当日の土曜日は予想した通り休日出勤になった。露都は課長補佐という責任ある役職の立場なので絶対に出勤しなければならなかった。職場は再来週からの通常国会の開会に向けて急に忙しくなり始めた。露都はしかしこれも来週に比べたらまだまだ序の口と自分を引き締めて日々業務を行っていた。

 家に帰るのはいつも十一時過ぎで、妻の絵里は起きていたり起きていなかったりしていた。息子のサトルはいつも寝ていた。彼は玄関を開けた妻がかけるお疲れ様という労りや、彼女が寝る前に作った夜食と共に置かれたちゃんと食べてと書かれた書き置きを読む度に、ありがたさとすまなさを同時に感じるのだった。

 露都は家で絵里と話すときは必ずサトルのことを聞いた。絵里はそのたびにサトルは普通に学校にも塾にも行っていると、サトルから聞いた学校での出来事とかを話で露都を安心させたが、ある時絵里はサトルが笑ってあの子今週に入ってからずっとおじいいちゃんのデストロイばっかりしてると話した。彼女の話ではサトルは土曜日の垂蔵のライブが待ちきれず塾から帰る度に早く土曜日こないかなと言っているそうだ。露都はこれを聞いて頭を抱えた。彼はもう息子がこれ以上垂蔵に影響されてクズの道に走らぬように祈るしかないと思った。

 週の中頃、露都は長い残業を終えて深夜近くに家に戻ったが、その玄関を開けた瞬間、どこかからかかすかにあのデストロイがかかっているのを聞いた。彼はきっとサトルの奴がまだ起きていて曲をかけているに違いないと思い、なんで絵里はサトルを寝かしつけずに寝たんだと憤りながら、さっさと寝るように注意しようと玄関を上って早足で歩いた。しかしその途中、ふと台所の方をみると、寝ていると思っていた絵里がテーブルでスマホを眺めていたのである。彼はこれをみて唖然として妻にサトルのデストロイ放置して何をやっているんだと妻に言おうとしたのだが、その時音の出所に気づいてあっと声を上げた。

「あっ、露都おかえりなさい。今日も遅かったね。野菜炒め作っといたけど、どうする?レンジで温める?それとももう一回炒め直す?」

「炒め直すじゃねえだろ!お前何聴いてんだよ!」

「何ってこれお父さんの曲じゃない。サトルが散々流しているでしょ?これ最近YouTubeで見つけたんだよ。今まで全く知らなかったけどお父さんのバンドって結構有名なんだね。今見てる動画もコメントの数凄いよ」

「バカやろ!そんなゴミを深夜に聴くやつがいるか!サトルならともかくお前までそんなもの好きになり出したら近所の恥だろうが!」

「何が恥よ!あなたそれって自分の親に向かって言っていい言葉なの?あなただって土曜日にお父さんのライブ行くんでしょ?会場で恥かかないように土曜までにちゃんと予習復習のために聴いておきなさいよ!」

「あんなゴミどもに恥なんかかかされても平気に決まっているだろ!バカどもが持ち上げようが俺は絶対にそんなゴミは聴かん!」

「へぇ~、この間そのゴミのような人たちが暴れているビデオ観ていた事息子にバレたのは誰でしたっけねぇ~!」

「うるさいうるさい!俺は今からトイレに行くんだからもう喋るんじゃねえ!」

 露都はそう言うなり慌ててトイレに逃げ込んだ。その逃げる夫の背中を見て絵里は大きくため息をつき、全く素直じゃないんだからとつぶやくのだった。


 妻にはこんな態度を取っていた露都だったが、彼もまた人に隠れてこっそり垂蔵の事をネット検索をしたりしていた。彼は月曜日の昼間に葛木にSNSで垂蔵の事がバズっているという事を聞き、その夜に家時からの垂蔵の体調の報告を知らせるメールを読んだ。彼はそこでサーチ&デストロイのメンバーと肩を組んだ、昨日より元気そうに見える垂蔵を見て、この世間で話題になっている父がどんな風に語られているのか知りたくなった。それで少しだけ見てみようと、メールのリンクにあったSNSのサーチ&デストロイのアカウントを押した。

 最初は家時がどのように垂蔵の復活をどう発表したのか確認してそこに書かれたコメントをチラ見したらすぐに閉じるつもりであった。それで彼はまずサーチ&デストロイの公式発表を読んだのである。露都は昼間に葛木が昼間に垂蔵が退院したのかと聞いてきたのを思い出し、家時がそのような嘘を書いているのだと勘繰った。しかし公式発表には退院などとは書かれておらず、ただリハーサル中の垂蔵の写真付きで大口垂蔵大復活とエクスクラメーションマークを多発した煽り文句が書かれているだけだった。露都はその下に書かれているファンらしきものたちの退院おめでとうというコメントを読んでその勘違いっぷりを嘲笑したが、その彼らのサーチ&デストロイへの思いの丈を綴った文章を読んでいるうちに不思議に体が熱くなってくるのを感じた。頭ではバカげたものだと切り捨てても、いつの間にか共振してしまっていた。ライブで垂蔵に殴られた事をまるで勲章のように語る連中。垂蔵のパンクの心構え等といったインタビューのくだらない発言を引用して自分語りをする連中。全てクソだ。だがそのバカげた戯言を読んでいると妙に心が震えてくる。彼はふと亡き母も垂蔵をこんな風に見ていたのではないかと考えた。

 それから露都は気づいたらいつの間にかネットで垂蔵のことばかり見るようになっていた。彼はこれはあくまでも土曜日のライブのための下調べだと無理矢理自分を納得させようとしたが、だがそれが誤魔化しに過ぎない事を彼自身が一番よくわかっていた。彼はサーチ&デストロイの過去のインタビューの発言をまとめたサイトに載っていた垂蔵のあまりに幼稚な権力批判をせせら笑ったが、しかし笑いながらも次から次へとページをクリックして夢中になって読んでいる自分に気づく度に愕然とするのだった。

 この一週間、露都の頭の中は垂蔵で占められていた。これほど父に対していろんな事を思った事はなかった。彼は垂蔵との過去を思い出して腹を立て、垂蔵が余命いくばくもない事を思って悲しみ、そして垂蔵のために土曜日のライブが何とか無事に成功する事を願うのだった。

ライブ前夜

 サーチ&デストロイの復活ライブを明日に控えた金曜日の夜、残業を終えた露都は帰りの電車の中で本日送られてきた家時のメールを読んでいた。家時のメールにはまず明日のライブの準備が万端である事から始まって、それから明日のライブはスタッフに直接声をかけるようにという注意が書かれ、最後に今日の垂蔵の体調の報告があった。家時はその中で垂蔵が日を追うごとに元気になっていると嬉しそうに書いていたが、露都はそこに添付されている垂蔵の写真を見て彼の書いている通りだと思った。実際に写真の垂蔵は日を追うごとに体調を取り戻しているようだった。今日の写真はマイクで歌っている垂蔵を撮ったものだが、そこでの垂蔵は病院で見たしょぼくれた姿からは想像もできないぐらい生気に満ち溢れていた。露都はその垂蔵を見て安心したが、同時に一抹の不安がよぎった。もしライブ中に何かあったらどうすればいいのか。

 家に着き玄関を上がって台所へと向かった露都はテーブルの上に絵里が作った夜食が置いてあるのを見た。皿の下には絵里のちゃんと食べてねの書き置きが挟んであった。彼は絵里に感謝して早速テーブルに座って夜食を食べようとしたが、ふと寝る前にネットで垂蔵の明日のライブの事を思い浮かべ、SNSでの反応を確認したくなった。それでバカバカしいと自嘲して妻や子にバレぬように夜食ごと持って書斎へと向かった。それから露都は書斎の机で夜食を食べながらスマホを見てSNSでのサーチ&デストロイのライブの反応を見ていたのだが、その最中にふと母が出ていたあのライブビデオの事を思い出した。確かあのビデオだけはサトルに返していない。あれはどうせビデオデッキがなければ観れないし、大体教育に悪すぎる代物だ。彼は机の引き出しからビデオを取り出してジャケットをしばらく眺めた。

 何度見ても酷い代物だった。こんな物をよく恥ずかしげもなく出せたものだと思った。ビデオの中身だって五月蝿いだけの騒音とバカげた暴力だけが映っているものだ。だが母はこんなクズみたいな事をやっている垂蔵を崇め、そして愛したのだ。露都はまたビデオを観たくなった。母と、その母が愛した大口垂蔵という人間を再度この目で確かめたくなった。

 露都は残りの夜食を急いで平らげると、机の下にしまっていたビデオデッキを取り出してテレビに繋いだ。そしてヘッドホンをかけてからゆっくりとデッキにビデオを入れた。するとこの間のようにテレビにノイズが走り、しばらくしてから『ラストハードコアヒーロー、サーチ&デストロイの狂気の流血ライブ!』という酷すぎるビデオのタイトルが映し出された。間もなくしてライブの映像と騒音と共に流れたが、露都はその時ふとヘッドホンがテレビに繋がっていない事に気づいた。しかもドアの鍵まで掛け忘れているではないか。これではまたサトルに見られてしまう。露都は慌ててリモコンで音を消し、ドアを閉めに行こうと後ろを振り向いたのだが、彼はそこにサトル、いや無表情で立っている自分の妻の絵里を見たのである。

「何やってんの?」

「な、何で勝手に入ってきたんだよ!」

「勝手にって、あなたトイレに来たら書斎からうるさい音がしたから来ただけじゃない。大体もう夜中でしょ?いきなりそんな騒音流されたら誰だって気になるでしょ!」

「わ、分かったからもう出て行けよ!俺は明日の仕事の準備しなきゃいけないんだぞ!」

「へぇ~、仕事ねえ」と言いながら絵里は露都のところに寄ってきて彼が手に持っているものを覗き込んだ。

「それって、もしかしてサトルが言ってたAV?」

「なにがAVだ!これは垂蔵のだな……」

「そのAV私にも見せてよ」

 絵里の言葉に露都は驚いて止まった。

「いや、こんなものとても見せられないよ。酷いものだ」

「やっぱりAVなんだ。あなた家族に隠れてこっそりAVなんて観てたんだぁ」

「AVじゃねえって言ってるだろ!」

「じゃあ見せなさいよ。AVじゃないんなら大丈夫でしょ?」

「ああわかったよ!そんなに観たきゃ見せてやるよ!だけどな最初に言っとくけど全く酷えもんだからな!俺だってこんなもの捨てるつもりで最後に確認のために観ていただけなんだから!」

「下手な言い訳はいいからさっさと見せなさいよ!お父さんが出ているAVなんでしょ?」

「だからAVじゃねえって言ってるだろ!」

 結局絵里に根負けして垂蔵のライブビデオを見せることになったので露都は妻の要求通り改めてリモコンでビデオを最初から巻き戻したのだった。絵里は露都がリモコンでビデオデッキの操作をするのを興味津々に見ていた。

「へぇ~、凄いね。私ビデオデッキって初めて見たけどそうやって動くんだ。これってあなたの実家にあったもの?」

「ああ、おじさんがくれたものだけど全然使わなかったからよくわからんな。確かビデオの容量の三倍で録画できるモードもあるって話だけど」

「凄いじゃん。じゃあハードディスクいらなくない?」

「なわけねえだろ!今はもう全然仕えねえよ。ってかもう最初まで戻ったぞ。さっ、観たいんだったらみろ。イヤフォン貸してあげるから」

「あなたは観ないの?映像だけ見てもつまらないでしょ」

「別にそんなもの見なくてもいいわ!」

「ダ~メ!ちゃんと観なさいよ!自分のAVなんでしょ。ほらイヤフォン片方あげるから!」

「ったくしょうがないなあ。ほんとに言っとくけどこんなもの観るもんじゃないんだぞ。まぁ明日のライブの予行練習にはいいかもしれないけどな。いいかお前が明日行くライブはこんなクズな事をやっている連中の……」

「ああ!もういい加減にしなさいよ!うだうだ言ってないで早くイヤホンつけてビデオ再生してよ!」

「わかったよ」と絵里に返事をすると露都は右耳にイヤホンを付けてからリモコンの再生ボタンを押した。テレビ画面には再び黒バックに白抜きのタイトル画面が映し出された。そしてライブの会場が映し出されると右耳からさっきの同じような騒音が流れた。今度は耳に集中するのでなんだかさっきよりうるさく聞こえたので思わずのけ反った。露都は絵里の反応が気になって隣を見たが彼女は騒音など全く気にならないようで一心にテレビ画面を見ていた。

「露都、あれお父さん?」

 テレビの方を向いていた絵里が突然話しかけてきたので露都は慌ててテレビを見た。画面では垂蔵がマイクを振り回しながら絶叫してステージを練り歩いていた。

「結構若いね。いくつぐらいかな」

「多分このビデオの発売日からすると今の俺たちより年下だろうな」

「そうなんだ」

「だけど酷いもんだ。俺たちより年下と言っても二十歳過ぎのいい大人がこんな幼稚な……」

 と言ったところで露都は言葉を止めた。テレビにピンクの髪を逆立てた母が大写しになったからである。彼は絶叫する母を観ていたたまれなくなった。ステージでがなり声を立てていた垂蔵はその母めがけて飛び込んだ。画面には騒音と客席で母を殴っている垂蔵が映し出される。全く酷いもんだ。こんな事よく母に向かってできたもんだ。露都は恐る恐る絵里を見た。絵里は呆然とした表情で画面を観ていた。

「凄いね……」

「酷いだろ?コイツこんなことばかりやってたんだぜ」

 テレビはまだ母を殴る垂蔵を映していた。今度は鼻血を垂らした母が垂蔵を殴り返す場面が映った。

「ははは、お父さん殴り返されてる。強いねこのピンクの髪の人」

「ああ」

 その時絵里がいきなり露都の方に顔を近づけてきた。

「あの、一つ聞いていい?」

「突然なんだよ」

「このピンクの髪の女の人。もしかして露都のお母さん?」

 絵里の言葉はあまりに突然で、あまりに図星だった。露都は驚いて妻を見つめた。

「な、なんでわかった?」

「わかるよ。だってこの女の人映った時、露都の目が凄い変わったから」

「ったく恥ずかしいな。母さんこれでも結構いいとこのお嬢さんで、大学もそれなりのとこ行ってたんだぜ」

「でもお母さん、すっごくカッコいいな。髪なんか思いっきりピンクにしちゃってさ。服なんか今着ても全然いけるって感じじゃん。私露都のアルバムの写真でしかお母さん知らないけど、なんて言うかすっごい輝いてるんだよ。ホントにお父さんの音楽が好きなんだなってさ」

「こんなゴミみたいなものにか?」

「ゴミだなんて言うな!自分のお母さんが夢中になってる音楽だぞ!あなたもちょっとは自分の父親の音楽に耳を傾けなさいよ。明日ライブがあるんだからさ」

 結局露都と絵里は垂蔵のライブビデオを最後まで見た。見終わったときにはもう一時近くになっていた。露都はビデオを観ている間ずっと母の事を考えていた。ビデオにはもう母は出てこなかった。チラッとさえ映らなかった。だが露都は観ている間ビデオの中に垂蔵を見つめる母の姿を思い浮かべていた。一体母は垂蔵のどこに惹かれたのか。彼女はステージの垂蔵に何を求めていたのか。考えても考えても答えなんかわからない。自分にわかるのは垂蔵のライブがどうしようもなく酷い代物だという事だけだ。ビデオを観終わった後絵里は露都に向かって言った。

「明日のお父さんのライブ何があっても絶対に行こうね。もし明日課長とかが文句言ってきたら、親父のライブがあるから残業できませんってきっぱり断ってやんなよ」

「ドラマじゃあるまいし、そんなこと言えるか!」

 しかし絵里は露都に答えずすくっと立ち上がって手を叩いた。

「さっ、明日も早いんだからさっさと寝る!あっ、あなたそういえばまだお風呂入ってなくない?さっさとお風呂入ってきなさい!」

ライブの当日

 サーチ&デストロイの待望の復活ライブの当日の朝、露都は夜明けと共に目覚めた。まだ起きるのは早いので寝ようとしたが、目を閉じて寝ようとしたがやたら目が冴えて寝ることは出来なかった。その彼の上に隣で寝ていた絵里が覆い被さってきた。彼はバカと驚いて目を見開いたが、絵里は単に寝返っただけのようで思いっきりいびきをかいていた。露都はもう寝るのを諦めて絵里をそっと脇にのけてベッドから出た。その時絵里がボソッと寝言を言った。「大丈夫よぉ〜、サトルぅ〜、今日はお父さんちゃんと帰ってくるからぁ〜」

 絵里の寝言を聞いて露都はあらためて彼女に申し訳ないと思った。来週からはもうまともに家に帰れなくなる。でも家にいる時は父親らしいことをしなくては。と、思ったところで彼は今日の垂蔵のバンドのライブの事を思い浮かべた。皮肉な事にこの憎むべき父親がやるライブが自分と息子の仲を取り持ってしまった。垂蔵のバンドのパンクみたいなクズ音楽のライブだなんて家族サービスだなんてとても言えないが、でもサトルはそれを望んでいるのだ。しかし垂蔵は本当にライブが出来るのだろうか。確かに家時から毎日垂蔵の体調が良くなっているとの報告は受けている。だがそれはあくまでも今だけであり、今後どうなるかは分からない。今だって急に体調が急変することだって十分に考えられる。もしライブ中に垂蔵に何かあったらその時はどうすればよいのか。

 露都はその不安を吹き飛ばすためにシャワーを浴びた。殆ど常温に近い水を頭に浴びてなんと心を落ち着かせた。そして浴室から出ると書斎に入り仕事の準備をして、それが終わるとスマホで家時からメールが送られてないか確認した。家時からの新着のメールはなかった。彼はまだ朝早いしくるわけがないと思いメールを閉じて今度はグーグルで垂蔵を検索した。やはり復活ライブの当日だからかライブについての話題がトップに並んでいた。ニュース記事、SNSでの発言、ブログや掲示板。それらの記事は一応に垂蔵の完全復活を祝い、サーチ&デストロイのエピソードや今夜行われる復活ライブについて熱っぽく語るものだった。露都はその記事の、今夜のライブを見逃すな!サーチ&デストロイの伝説はまたここから始まるんだ!垂蔵さんの雄姿を目に焼き付けようぜ!等という調子の文章を読んでまるで死亡フラグじゃないかと思った。だがそこで彼はいかんいかんいい加減悪い想像をするのはやめろと頭を振った。もう窓を見たら日が昇っていた。そろそろ絵里も起きるころだと露都はスーツに着替えた。

 出勤する露都を見送りるために絵里とサトルが出てきた。露都は絵里に向かって改めて今夜のライブについて注意した。

「いいか、もう何度も言ってるけど、会場に来たらすぐ近くにいるスタッフさんに声かけて会場に入るんだぞ。そして席でじっとして俺が来るのを待ってろ。全く外にいたら何されるかわかったもんじゃないからな。お前はそんな事はありえないっていまだに思ってるかもしれないが、そういう油断が災難を巻き込むんだ。だからだな……」

「もう、それこの一週間で何回言ってる?もううざすぎて耳にタコどころかフジツボが生えてきそうなんだけど」

「お前はやっぱり俺の言うことがわかってない。俺だってこんなにうるさくいたくないよ。だけどなそれもこれもお前とサトルの安全を最大限に考えてだな」

「ああ!うるさい!もう時間なんだからさっさと仕事行きなさいよ!後それと……ちゃんと課長さんに今日は残業は出来ないって言うのよ。父のライブがありますからって」

「あのな、そんなドラマみたいな事言ったら職場の笑いものだぞ。恥もいいとこだ」

「じゃあ、あなたやっぱり残業するからライブ行けないとか言うわけ?」

「ええ~っ、お父さんおじいちゃんのライブ来ないの?おじいちゃん可哀そうだよ」

 絵里に加えてサトルまで露都に突っかかってきた。彼は困り果てもうやけくそになって言った。

「サトルまでそんなこと言うなよ。お父さんちゃんとおじいちゃんのライブ行くから。信じてよ」

「じゃあ」と再び絵里が口を開き、もう一度さっきの言葉を繰り返した。

「課長さんに今日は残業できません。父のライブがありますからってちゃんと言うんだよ」

 露都は再び繰り返されたこの言葉を聞いて思わず顔をしかめた。絵里とサトルはその露都に向かって一斉に今の言葉を復唱した。

「課長さんに今日は残業できません。父のライブがありますからってちゃんと言うんだよ」


 露都は勤務中は出来るだけ垂蔵の事は考えまいとしていたが、それでもやはりどうしても垂蔵の事を思い浮かべてしまった。昼休みにベンチでスマホを見たら家時の報告のメールがあったので早速開いて読んだ。彼は昨日垂蔵は家時の家に泊まっていた事を思い出し一瞬不安が頭をよぎったが、家時は垂蔵はいつものように元気でライブに向けて盛り上がっていると書いていた。垂蔵の写真も勿論貼られており、そこにはバンドメンバーや家時とにこやかに朝食を取っている垂蔵の姿が写っていた。家時はメールの末尾に「一時はどうなる事かと思いましたが、ようやくここまで行きつくことが出来ました。これも露都さんのご協力のおかげです。ホントありえないほど上手くいって、後はライブを無事にやり遂げるだけです」と書いていた。露都はこの文面に朝感じた嫌なものを思い出してすぐにスマホを閉じた。

 午後になりライブ開始の時間が近づくにつれ急に不安が大きくなってきた。ライブで垂蔵に何かあったらどうするんだ。大体ステージ4の人間に一時間も歌わせていいのか。下手したらそのまま死ぬ可能性だってあるかもしれないんだぞ。散々彼の頭を悩ませていた問題が今こうして再び彼の頭を占めてしまった。あと数時間後に垂蔵のライブは始まる。俺はそれをどんな風に見ればいいんだ。何事もなければそれでいい。ただこの胸のざわざわ感はなんなんだ。まるで何かを予告しているような胸騒ぎは一体何なのだろう。だが露都はそこで考えるのをやめた。バカバカしい、もういい加減そんな事考えるのはやめろ。どうせ何を考えたって運命ってやつは来るときは来るし、来なきゃ来ないんだ。もう今はただ垂蔵のライブに行くことだけ考えるんだ。

「おい」とどこかからか呼び声がした。気づいて振り向くとそこに課長がいた。露都は気づかなかったことを謝り用件を聞いた。すると課長は一息おいてからこう言った。

「君今日残業やんの?休日出勤だからあれだけどちょっと立て込んでんだよね。まぁ一時間ぐらいやってもらいたいんだけどさ」

 露都はこの残業の誘いを聞いて朝の絵里とサトルの言葉を思い出した。

(今日は残業できません。父のライブがありますから)

「はぁ?今なんて言ったの。小さくて聞こえない」

 露都は自分が知らずに絵里たちに言われた言葉をつぶやいていたことに気づきハッとして口を閉じ、そして改めてこう言った。

「課長、申し訳ないんですが、今日はちょっと……」

「あっそ、また家族サービスね。まぁ残ったメンバーで何とかやるから君は好きに帰っていいよ。じゃ」

 ドラマとは正反対の後味の悪すぎるやり取りだった。だけどこれが現実だ。現実なんてこういう嫌なことも積み重ねだ。露都はそう自分に言い聞かせてとにかく時間が過ぎるのを待った。

 そうして待っていたらようやく終業のチャイムが鳴った。露都は大急ぎで出る準備をし、そして挨拶もそこそこに走るように出て行った。庁舎から出た途端強い風にぶち当たった。風は地下鉄の入り口の方に向かって吹いていた。露都はその吹き付ける風に妙な解放感を感じた。待っていろよ絵里、サトル。お父さん今すぐそっちに行くからな。そして彼は垂蔵の顔を思い浮かべてこう思った。もうここまで来たら観るしかない。たとえ何が起ころうがその時はその時でしかないんだから。

ライブ開場前のトラブル

 露都はライブハウスへ向かう電車の中で絵里にメールを送った。しかし絵里からはしばらくたっても返信はなかった。彼は絵里とサトルがすでにライブ会場に入っているか、あるいは自分と同じように電車で会場に向かっている最中かと考えたが、ふと垂蔵と同じようなパンクスがたむろしているライブ会場を思い浮かべて、急に不安になってきた。それで妻の所在を確認するために家時にあいさつ程度のメールを送ったのだが、これも全く返信がなかった。電車の中なので電話も出来なかったので、一旦近くの駅で降りて電話しようと考えたが、今電車から降りたら何らかの事故で電車が止まって開場前に入れないかもしれないし、また絵里と家時がメールに気づいていない可能性も十分に考えられることから、我慢して電車の中に留まった。露都はドアの上の電光掲示を見てあと目的地まであと5駅だと確認した。時間的には20分程度である。

 近づくごとにいろんな不安がこみあげてきた。まずは絵里とサトルがもめごとに巻き込まれず、ちゃんと会場に到着しているか。そしてライブ中に特に絡まれたり、危害を加えられることなく家族三人そろって無事に家に帰ることができるか。そして、垂蔵が無事にライブをやり遂げることができるか。露都は垂蔵の事ばかり考えている自分に呆れた。本の一週間前まで垂蔵の事なんて考えさえしなかったどころか、むしろ頭の中から追い出していたのに。今になってどうしてこんなに垂蔵の事ばかり浮かんでくるんだ。あんな自分勝手な事ばかりして、母さんを死なせたクズみたいな人間のことなどどうでもいいと思っていたのに。露都は電車が止まる度に驚いて顔を上げた。その電車が止まるときの揺れと振動が彼の心情と妙にリンクしていたからだった。

 手前三駅あたりから車両にパンクスみたいな連中がやたら乗ってきた。露都は連中を見てサーチ&デストロイのライブに行くに違いないと思いすぐに連中から目を背けた。全く何十年ぶりに見ても酷い恰好だった。そんなばかばかしい恰好よくできるなと思った。連中は露都の座っている席の近くに座を占めてサーチ&デストロイのライブの事を口々に語りだしたが、露都はそれを聞いてやっぱりだと思った。

「まさか、復活ライブ直前に垂蔵が倒れるなんて思わなかったよ。で、俺らを心配させてからの復活だろ?やっぱりサーチ&デストロイは持ってるんだよ。今夜はホント目出度よ。ダブルで復活だもんな」

 露都は連中の能天気な言葉を聞いてまた不安に苛まれた。しかし何が起ころうとも目的地に電車は止まるし、自分は家族と垂蔵の元に行かなくてはいけない。彼は再びスマホを見た。しかし絵里からや家時からはメールの返信はなかった。


 駅に着くと露都は真っ先に電車から降りて早足で会場に向かった。人込みは多かった。会場のライブハウスのある辺りは繁華街で元々治安が悪い上に、今夜はサーチ&デストロイのライブがある。露都はいまだなんの連絡もない事態に不安になって電話しようとスマホを手に取ったが、その時会場のライブハウスが駅からほど近い場所にあるのを思い出しもうこのまま行った方がはやいと会場まで全速力で駆け出した。無事にいてくれ絵里、無事にいてくれサトル。お父さんが今そっちに行くから。今、横断歩道の向かい側に並んでかしましく騒いでいるのは男女共に赤青黄色緑ピンクに髪を染めたバカなパンクファッションのバカたち。連中を見て心臓の鼓動が早くなった。絵里もサトルもちゃんとライブハウスの中に入ることができたのだろうか。信号が変わったので露都は会場に向かって一目散で渡った。だがライブハウスへと向かおうとした彼の前に突然パンクスが現れた。ああ!なんだこのピンクの髪のバカ女!しかも子供まで連れてきてるじゃないか!なんだこのガキは革ジャンに突っ立てた髪の毛。このガキ俺の前ではしゃぐな!まったくこの親子はどんな教育を受けてきたんだ。ホントに恥ずかしくないのか!いや、ホントに……?

 露都は目の前の信じがたい光景に唖然として目と口を開けたままその場に立ち尽くした。その露都に向かって子連れのピンクの髪のバカ女は言う。

「何やってんの露都?ドッスンみたいな顔して」

「何がドッスンだ!それよりもその恰好は何だよ!なんで髪をピンクに染めてんだよ!それにサトルの髪まで立たせて、しかも鋲柄の革ジャンまで着させるなんて!」

「ああこれ、ウィッグだから心配しなくていいよ。あなたのお母さんの真似よ。私たちも頑張ってパンクファッション決めてみたのよ。どう、結構似合ってるでしょ?」

 そういうと絵里とサトルはドヤ顔でポーズを決めた。

「似合ってくるもくそもあるか!お前らまさか家からその恰好で来たんじゃないだろうな?」

「着てきたわよ。ここまでくる道で知り合いにあう毎に人から凄い恰好ねってびっくりされたよ。なんかのイベントに行くんですがって聞いてきたから旦那のお父さんのライブに行くのって言ってやったわ」

「バカ野郎!そんなことされたら俺の立場はどうなるんだ!」

「ああうるさいうるさい。あなたこそここじゃ完全に浮いてるよ。ここにスーツ姿の人なんて全くいないよ。ねぇ~サトルぅ。お父さんおかしいよね」

「おかしいおかしい。お父さんどうしてみんなと同じ格好で来なかったの?」

 露都は妻と子供からそう言われてふと周りを見た。確かにスーツ姿の人間等一人もいない。半数以上がパンクファッションで後は今風の服装を着ていた。彼は意外に若い連中も来ているのに驚いた。彼よりもはるかに年下に見える若者もいる。彼らの中にもパンクスみたいな恰好をしたやつがいたが、大半は今風のお洒落な恰好だった。だがこの連中は揃って騒々しく何やら喚いてる奴さえいた。

「で、お前らなんで外にいるんだ。俺散々言ったよな?会場着たらすぐにチケット見せて中に入れって。いつまでもこんなとこにいたら危ねえだろうが。それに俺さっきお前が首にぶら下げているそのスマホにメール送ったんだけど確認してねえのか?」

「あっ、ほんとだ。メール届いてる」

「届いているじゃねえよ。俺はお前らが心配で駅からここまで走ってきたんだぞ!なのにお前らは会場に入りもしないでそんな派手な格好して能天気に道端に立っているんだから」

 この露都の言葉を聞いて絵里はライブハウスの入り口を指さして露都にこう言った。

「あなた。あれでまともに入れると思ってる?あんなんじゃ近づくことだって出来ないよ」

 露都はそれを聞いて入り口の方を見た。入り口の前でほぼ老人のパンクスが数人で若い会場スタッフたちを怒鳴りつけていた。他に並んでいる連中はそのパンクスたちに向かってヤジを飛ばしたりしていた。露都はその光景を目にしてさっきの喚き声はこれだったのかと思った。

「あんなぁ~、このガキ。お前ら今まで俺らがどれだけサーチ&デストロイを盛り上げてきたかわかってんのか!本来ならてめえらが俺らのためにチケットを差し上げなきゃいけねえんだぞ!なのにもう完売したからチケットは売れませんだぁ~!なめてんのかコラ!こんなサーチ&デストロイ知らねえガキどもにチケット売って俺ら見てえな爺はお引き取りおってか!フザケンなゴラ!」

「申し訳ありません。今回は予想外の人気でどうしても当日券が出せないんです。もうすぐ開場時間ですし、ほかのお客様もお待ちしているので場所を変えてお話できませんか?」

「出来ないね!お前ら俺らをなめてるだろ?はいはいわかりましたおじいちゃんそこどいてねって感じか!俺らはそのお前らの見下した態度が許せねえって言ってんだよ!」

「ねっ、近づけないでしょ?さっきからずっとあんな状態よ。あの人たちっ全然ひかないんだから」

 全く酷いありさまだった。これじゃとてもライブ会場に入れはしない。家時はどうしたのかと彼は家時を探したが、なんとスタッフに家時も混じってひたすら頭を下げていた。

「責任者として申しますが、彼の言う通り、席はもう満杯でもうスペースの確保ができない状態です。だから今までサーチ&デストロイを手厚く支えて下さり、さらにわざわざこうして復活ライブの会場まで来てくださったのに何もできないのはこちらとしても申し訳なく大変心苦しいのですが、やはりお引き取りいただくしかありません」

「何が責任者だよ、このガキ。とってつけたような事ぬかしやがって!責任者だったら今すぐここにいるバカどもからチケット買いとれよ!どうせこいつら話題になってるから来ただけなんだろ?ひょっとしたらどっかから転売で買ったかもしれねえし、そんな奴らとずっとサーチ&デストロイを応援してきた俺らとどっちが大事だと思ってるんだよ!さあ早くこいつらからチケット巻き上げろよ!俺がお前らの代わりに払い戻ししてやっからよ!」

 周りの怒号と野次はますます酷くなった。露都はこんな連中の相手をさせられている家時を気の毒になってきた。余命一年の垂蔵のためにライブを実現させるためにどれほど彼が苦労を重ねてきたかと思うと堪らなかった。こんな連中のためにもしライブ自体が中止なんてことになったら、何もかもが救われなくなる。家時も、自分も、絵里も、イギーたちバンドメンバーも、そして垂蔵も。

「ねえ、露都まさか入口に行くつもり?危ないからやめなよ」

「いや、ちょっと話に行くだけだよ」

「だからやめなさいって!」

 露都は彼を引き留めようとする絵里と心配そうな顔で見るサトルに大丈夫と声をかけて前へと歩きだした。しかしその時、突然家時が耳が壊れそうなほどでかい声でこの年配のサーチ&デストロイのファンを怒鳴りつけたのである。

「うるせえんだよジジイ!チケットがねえっつってんのがわかんねえのかよ!テメエらのせいで今日のライブが中止になったらどうすんだよ!垂蔵さんが今日のライブにどんだけ懸けているのかわかってんのか!ほかのメンバーだってそうだ!みんなみんな命懸けでやってんだよ!そのライブをテメエらが見れねえからってぎゃあぎゃあ騒ぎやがって!ガキガキって言ってるけどてめえらの方がずっとガキじゃねえか!ファンだファンだっていうならどうしてライブをぶち壊すような真似ができるんだ!こっちに不満があるんだったらなんでも聞いてやるよ!だけどバンドのライブだけは邪魔すんじゃねえよ!」

 家時の突然の怒号に露都たちだけでなくその場にいた人たちが一斉に呆然とした。近くにいた連中は怒鳴り声がスーツ姿のもやしみたいな男から発せられたとは信じられなかった。彼に怒鳴られた年配のサーチ&デストロイファンもその怒声に圧され完全に縮こまり、なにやらぶつぶつ言いながら逃げるようにその場を去った。入口の方に向かおうとしていた露都とそれを止めようとしていた絵里とサトルはこの思わぬ怒号に呆然としてその場に立ち尽くした。サトルは露都と絵里に「あのスーツのおじちゃん怖かったね」と小さな声で両親に言った。

ライブ開演前

 それから間もなくしてスタッフから開場の案内があった。それを聞いてライブハウスの周りにいた連中は一斉に入り口へと向かった。連中は入口へと向かいながらさっきの騒動の事を話しあんな奴ら昔だったら半殺しどころじゃなくて八割殺しだよとか口々に言った。露都は今の騒動で他の連中の気が立っているのを感じて目立たぬよう最後尾に並ぼうと絵里とサトルに言った。絵里たちは露都の言葉に大人しくしたがって彼のそばに立った。だが後からきた連中がその露都たちの後ろに並んで結局は露都たちは周りを囲まれてしまったのである。

 開場時間が遅れたせいで道路は人でいっぱいになってしまった。露都たちの周りにいる連中はいつまでも行列が進まないのに苛立ってか口々に文句を言っていた。露都は連中に絡まれないように出来るだけ目を背けてやり過ごそうとしたが、それでも自分を見る彼らの目線は気になった。

 やがて行列は進み、とうとう入り口近くまできた。すると入り口付近に立っていた家時が露都たちに気づいてこちらに向かってきた。

「あっ、露都さん来ていただいてありがとうございます。先ほどメールをいただきましたが、返信する事が出来なくて申し訳ありません。あっ、それで奥様はどうされましたか?まさか道に迷われたとか……」

  露都はそれを聞いて慌てて隣のピンクのウィッグをつけた絵里を妻だと紹介して彼女に挨拶を促した。絵里は家時に頭を下げて自分の名前を言った。

「はぁ〜、びっくりしました。まさかお隣の方が奥様だと思いませんでしたよ。失礼ですがあまりにも露都さんのイメージと違っていたから……」

「あっ、これウィッグなんですよ。いつもはもっと普通の格好してます」

「はぁ〜そうなんですね。で、そこの坊ちゃんがお二人のお子様ですか?」

 と、家時が屈んでサトルに挨拶をしようしてきたが、その時サトルはさっきの事を思い出し露都に向かって「お父さん、このおじちゃんさっき凄い大きな声で怒鳴っていた人だよ」と言った。それを聞いた家時はあっと声をあげて露都たちにさっきの揉め事を見ていたのか聞いた。

「あっ、いやぁお恥ずかしい。私もああいうことにあったのは初めてでしてそれでつい声を荒げてしまいまして。あっ、露都さんたちすぐにご案内しますのでちょっと列を外れてもらってよろしいですか?」

 露都たちが言われた通り列を外れると家時は続けて言った。

「垂蔵さんに何か伝えたいことありますか?私が伝えに行きますが」

「いえ、別にありません」

 この露都の言葉を聞いて家時は固まってしまった。絵里はなんか言いなさいよと露都にせっついた。しかしそれでも露都はそれでも言ったっきり口を閉じたまま開こうとしなかった。絵里はこの夫の意固地っぷりに呆れるわと吐き捨てたが、その時サトルが家時に言った。

「おじちゃん、じゃあ僕でいい?うんとね、おじいちゃん頑張ってって言っておいてね」

「うん、わかったよ。おじいちゃんにはちゃんと伝えておくからね」

 そのサトルと家時のやりとりを見ていた絵里は隣の夫に向かって聞こえよがしにこう言った。

「サトルはどこかの誰かさんと違って大人よね〜」

 露都は絵里の嫌味を聞いて腹が立ったが言い返すこともできなかったので、八つ当たり気味に家時に席の案内を急かした。家時は露都のこの態度に少し戸惑ったが、すぐにわかりましたと言って自ら露都たちをを入り口へと案内した。列に並んでいた連中は入り口に向かって歩く露都たち三人を驚きの目で見ていた。

 入り口から中に入るとムッとする熱気が漂ってきた。暑苦しいようなカレーの匂いがプンプン漂うようなそんな熱気だった。壁中いたるところにサーチ&デストロイのポスターが貼られ、ロビーには大勢の人々がたむろっていた。グッズやCD等を売っている場所は特に人が集中し、グッズを買ったもの同士が互いの買ったものを自慢したりしていた。その混雑の中家時に先導された露都たちは離れ離れにならないように気を付けながら歩いた。露都は歩いている時絵里とサトルが人にぶつからないか心配して度々後ろを振り返ったが、そのせいで注意を怠ったのか逆に自分がぶつかってしまった。露都はぞっとして顔を上げたが、運のいいことに相手はぶつかったことに気づいていないらしかった。

 関係者席は出入り口の横の一段高いところにあった。そこにパイプ椅子が並べられており、そこに何人か座っていた。座ってない椅子の背中には招待客の名前が貼られていた。露都はこれをみて関係者なのになんてパイプ椅子なんだと憤り、思わず愚痴りそうになったが何とか場をわきまえて抑えた。しかし露都は関係者席から客席とその奥にあるステージを眺めた時、ふと幼い頃母と今日と同じような場所でライブを見た日の事を思い出してその場に立ち止まった。そういえばあの時もこんな風にパイプ椅子がおかれた場所で見てたんだっけ。目の前をチンピラたちが通り過ぎるのに怯えながらずっと見ていたんだ。今ここにいる客の中にあの時と同じ奴はいるのだろうか。何人かはいるのかもしれない。だけど自分にはそれはもうわからないだろう。年月はそれほど経ってしまったのだ。

「ちょっとぉ、露都!何ぼうっとしてんのよ!席早く座んないと!」

 気づくと絵里が後ろの椅子から自分を呼んでいた。露都はハッとして振り返るとそこに申し訳なさそうにしている家時と目が合った。

「あっ、露都さん声かけずにいてすみません。なんか僕昔の事ちょっと思い出しまして。子供の頃露都さんと関係者席でよく一緒に垂蔵さんのライブ観てたなぁって」

「はぁ、そうなんですか。だけど僕どうしても家時さんの事思い出せないんですよ。本当に申し訳ない」

 それを聞いたサーチ&デストロイのメンバーたちから毛ジラミと哀れにもほどがあるあだ名をつけられているこの青年は本当に悲しそうな表情をしたが、すぐに気を取り直して露都に席に座るように案内した。

 露都が自分の席へと向かっていた時横から全身黒詰めの男が通りかかった。おそらく自分と同じような関係者なのだろう。彼は立ち止まってその黒づくめの男に通路を譲った。男はそのまま彼の前を歩いて露都が座る席の隣に座った。男が席に座ったのを見て露都も絵里たちに声をかけてから自分の席に座ったが、絵里は座ったばかりの露都を捕まえて耳元でこう尋ねてきた。

「ねね露都、隣のひと見てよ!あれ本人?」

「本人ってなんだよ。そいつが偽名でも使ってんのか?」

「ああ!あなたなんかに聞くんじゃなかった。ホントあなたって文化方面の事まるで知らないのね。あの人はね」

 と絵里が言おうとした時また数人の人間が関係者席にやってきた。絵里は彼らを見て思わず声を上げた。

「ええ~っ!なにこれちょっと信じられない!ちょっとあなたのお父さんってこの方たちとみんな知り合いなの?」

 これを聞いて黒づくめの男も今関係者席に来た連中も一斉に露都たちを見た。黒づくめの男は挨拶をしに来た家時に向かって露都たちの事を尋ねた。それに対して家時が露都が垂蔵の息子であることを明かしたので連中は一斉に露都を凝視した。急に肩身が狭くなった露都と絵里は、連中から目を逸らして黙り込んだ。関係者たちの挨拶周りをし終わった家時は露都たちの所に再びやってきて垂蔵の楽屋に行くことを報告した。その時彼はサトルに向かってさっき言ったことちゃんとおじいちゃんに伝えてくるからねと声をかけた。

 それからまたしばらく経っていると時間が来たのかスタッフが出入り口のドアを閉め出した。もう客席は完全にすし詰め状態だった。客の男と女も皆やかましく騒ぎ立てていた。露都は小学生ぶりに聞くこの観客の喚き声に耐えきれず思わず耳を塞いだ。絵里も耐えきれなかったようでうるさいねえと露都やサトルの耳元で愚痴を垂れた。そんな中サトルだけはただ無心にステージを見ていた。この子は両親と違って客席の喧騒などはどうでもよく、心は完全にもうじき出るだろうおじいちゃんの事でいっぱいになっていた。まるでテレビのウルトラマンや戦隊もののヒーロー番組が始まるのをじっとして待っているように、今はただ自分のヒーローであるおじいちゃんの登場を待っていた。

 その時ステージのライトが点いた。それと同時に観客の騒音を消すほどのやかましい音楽が鳴りだした。露都は会場で流れる音楽を聞いて子供の頃を思い出した。ああ!なんて酷いゴミだ。久しぶりに聞いても懐かしいなんて気分になんて全くならない。セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、シャム69、クラス、ディスチャージ、エクスプロイテッド、カオスUK、デッド・ケネディーズ、ブラック・フラッグ、その他すべての連中。すべてクズだ。クズみたいな連中のクズみたいな代物でしかない。だが今俺はその酷いクズ音楽を聞くためにここにいるんだ。クズみたいな事を飽きずにやり続けた自分の父親である大口垂蔵のおそらく最後になるだろうライブを観に来ているんだ。その時サトルが大きな声で絵里に向かって言った。

「ねぇ、お母さん。いつか遊びに行った時おじいちゃんこの曲歌ってくれたよね?」

「あっ、そうね。確かにそうだ。ねぇ露都この今流れてる曲ってお父さん目の前で歌ってくれたことあるのよ。サトルに向かってさ。この歌は凄い勇気のでる歌なんだよって」

 何が勇気の出る歌だ。こんなごみのどこを聞いたら勇気が出るんだ。露都はそう愚痴りながらも耳を集中させて流れている曲を聞こうとした。だが曲はそこで突然切れて沈黙が流れた。客はさっきと打って変わって静まり返り、今はただサーチ&デストロイの登場を待っていた。ステージではスタッフたちが忙しく動き回りライブの最終チェックをしていた。もうすこしだ。もう少しでライブが始まる。

「おじいちゃん、とうとう出てくるよ、ねぇ、サトル」

 母の言葉に対してサトルはコクリと頷いた。サトルはさっきの全く変わらぬ姿勢で祖父の登場を待っていた。露都はそんな息子に姿を見てなぜか小学校時代の自分を思い出した。

サーチ&デストロイ復活ライブ!

 その時突然あちこちから歓声がなった。とうとうサーチ&デストロイが現れたのである。客席から口々に「垂蔵、復活おめでとう!」「ずっとお前らを待ってたんだぞ!」「早く演ってくれ!もう待ちきれねえよ!」の絶叫がステージに飛んだ。殆どが年季の入ったファンの老人の声だ。しかしそれに混じって若い連中の声援も聞こえた。ステージの端からサーチ&デストロイのメンバー四人がそろって登場した。露都はステージの垂蔵が家時のメールの写真よりもずっと健康そうに見えることに驚いた。まるで末期がんの病人であるとは見えなかった。勿論これは先週の弱りはてた垂蔵からのギャップからそう見えるのかもしれない。だが、それでも先週よりはるかに体調がよくなっているのは確実に見えた。

「うわぁ、おじいちゃんだぁ~!おじいちゃぁ~ん!こっちむいてぇ!」

 若い連中のなかでも一番若いのが垂蔵に向かって呼び掛けた。垂蔵はその声を聞いたのか一瞬顔を上げて客席の後方を見た。しかしすぐに正面を向きステージにあったマイクを手に取って叫んだ。

「地獄から帰ってきたぞオラぁ~!」

 この垂蔵の叫びに観客は喚声で答えた。昔と全然変わってねえというエールがそこら中から出てきた。その観客の喚声に興奮したのか垂蔵はさらに声を上げて客席に向かって呼び掛けた。

「もっと声上げろオラぁ~!お前らの力そんなもんじゃねえだろぉ!

 それを聞いた観客は再び声を張り上げて垂蔵に応えた。すると垂蔵はいきなり絶叫をはじめそれとともにバンドが一斉に楽器をかき鳴らした。観客はこのいきなりの始まりに興奮し垂蔵とともに声を張り上げた。露都はいきなり飛んできたこの騒音に驚いて思わず指で耳を塞いだ。小学生ぶりに聴くサーチ&デストロイの演奏だったが、やはり今聴いてもクズのようなものにしか聞こえなかった。こんなうるさいものを聴いたらさすがの絵里だって耳を塞ぐに違いない。ましてやサトルは子供だ。小学校時代の俺みたいに泣き出してしまうかもしれない。彼はもしサトルが泣き叫んでいたらライブどころではないと恐る恐る二人の方を向いた。だがその二人は耳を塞いだり、泣き叫んだりするどころか他の観客たちと一緒になって叫んでいた。自分の周りの連中もまた同じように声を張り上げている。全くばかばかしい。こんなものにここまで熱狂するなんて!だが会場は露都を無視して完全に一体化しひたすらステージの垂蔵に向かって喚声を浴びせていた。

 何曲か演奏した後サーチ&デストロイは楽器から手を離して垂蔵の方を向いた。客は垂蔵に向かって一斉に歓声を上げた。垂蔵は喚声を聞きながら深い息を吐きどうにか息を落ち着かせたところで話し始めた。

 垂蔵は昨今の国際情勢や日本の政治腐敗について熱っぽく語った。露都はそのあまりにばかばかしい陰謀論じみた戯言に笑う事さえできなかった。垂蔵はウクライナやパレスチナに関するまともな学者なら鼻で笑って相手にもしないような事を自慢気に開陳し、あれもこれもアメリカの陰謀とのたまい、そして昨今の政治腐敗はすべて政治家と官僚が既得権益を全て牛耳っているせいだと罵った。露都はこの幼稚な官僚批判に鼻白み、アンタもその官僚の息子で、しかもアンタの子供は現役官僚なんだぜと呆れた。

「俺たちはそんな世界と日本をぶち壊してやりてえ、だから歌うぜ!デストロイ!」

 この垂蔵の煽りに一斉に観客は喚声を上げた。もう誰もかれもがまともではなかった。ライブは中盤を迎えて盛り上がりのピークの寸前までいった。


 露都は一人熱狂の外にいた。彼は外側から熱狂する人々をただ見ていた。前の観客席で絶叫しながら大暴れしている馬鹿ども。こいつらの中の年寄りはきっと自分が小学生の時にもライブに来ていたに違いない。知性はあの頃のまま、いやあの頃よりはるかに衰えてもう猿並みだ。その周りにいる自分か、自分より年下の連中は惨めったらしい過去を美化する老人どもの情報に踊らされていることに気づかないこれも猿並みの知性しかない奴らだ。ステージでそいつらを煽っているサーチ&デストロイの連中に至ってはもう猿以下だ。世間の踊らされるなとか喚いているお前らこそ一番世間に踊らされているんだ!周りに過剰に持ち上げられた挙句、家族さえも捨てるようなクズへと成り下がっていったんだ!おい、聞いているのか!アンタだよ!大口垂蔵さん、そこで調子に乗ってがなり声を立てているアンタだよ!だがこの露都の心の叫びも大歓声の中に飲まれていった。彼は再び絵里とサトルを見た。見た瞬間二人がまるで母と幼い頃の自分のように見えてきた。母はまるであのビデオそのままにここにて子供の自分と一緒にライブに熱狂している。今目の前にいる母あの自分の前では絶対に見せなかった姿で大暴れして絶叫している。そして自分は母に着せられた革ジャンを振り乱しながら懸命に父に向かって叫んでいる。それは勿論忘れていた過去の記憶でなく、ただの妄想に過ぎない。だけどこういう過去はありえたかもしれないんだ。

 今彼の目に遠く離れたステージでがなり声をあげている垂蔵がくっきりと浮かんできた。垂蔵は昔からずっとこんなくだらない事をやってきたんだ。その幼稚な知性で自分のやっていることが正しいものであることと信じ込んでやってきたんだ。全くバカバカしいよ。こんな事よくもやってこれたな。アンタも親のいう事聞いていたらもっとまともな人生歩めたんじゃないのか。なんのためにこんなバカバカしいことを延々とやってきたんだ。最後の最期まで、もう残り時間なんていくらもないのに!絵里とサトルが叫んでいる声が耳を貫いた。絵里とサトルは無邪気にただステージの垂蔵に向かって喚声を上げている。ビデオの母そっくりの絵里と子供の頃の自分そのままのサトル。垂蔵はそんな昔っから延々とこんな事をやってきたんだ。そして母はその垂蔵をずっと愛してきたんだ。だけど何故彼女はこんな事をやっている垂蔵をそんなにも愛したのだ。全くわからない。どんなに考えても全く答えが見つからない。

 その露都の耳に垂蔵のがなり声が弾丸のように直撃した。母に連れていかれたライブで延々と聴かされた身の毛のよだつ声。でもこんなものにかつての母やここにいる人間すべてが熱狂しているのだ。理屈や論理じゃなくて、というよりそんなものから解放されたいがために。露都は改めてステージでがなり声をあげている父を見た。思いっきり目を開けてこの父を見た。彼はそこに彼の知っている父ではなく、伝説のパンクロッカー大口垂蔵を見た。もしかしたら母さんが見た垂蔵はこれだったのかもしれない。今母さんがあれほど垂蔵を愛した理由がなんとなくわかった気がする。彼は生まれて初めて父親に尊敬の念を抱いた。全くアンタはくだらないよ。でもそのくだらなさでこれだけの人を熱狂させているんだから。

 ライブは今クライマックスに向かってピークの頂点に達していた。今ここにいる客たちは誰もこのライブがここまで盛り上がるとは思ってなかっただろう。どんなに熱狂的なファンでもメンバーたちがそろって還暦越えであることと、ここ最近は殆ど活動してこなかったことから今回のライブは昔の全盛期を少しでも思い出させてくれたら大成功だと考えていたのだ。しかし今回のライブはその予想をはるかに超えていた。病気から復活した垂蔵はまるで病み上がりとは思えないぐらいのパフォーマンスをし、メンバーたちも確かに年齢は感じさせるものの、若さのままに突っ走った全盛期とは違う円熟すら感じさせるような堂々とした演奏っぷりだった。

 露都はずっと垂蔵を信じがたい思いで見ていた。一瞬だが垂蔵が余命一年の末期がんに侵されていることさえ忘れてしまいそうだった。あともう少しで終わるんだ。あともう少し、あともう少しで垂蔵のライブは終わる。とその時露都の隣にいた黒づくめの男が曲が終わった時こう呟いた。

「垂蔵さん、えらく汗かいてるな。大丈夫かな?」

 この黒づくめの男の言葉を聞いて露都はぎょっとして思わず男を見た。このテレビかどっかで見たことのあるようなないような男は露都と目が合うと慌てて目を背けた。しかし間もなくして演奏が再び始まった。垂蔵はラストに向けて息切れるどころか今までよりももっと激しく声を張り上げた。絶叫が会場に響き渡る。会場も垂蔵に負けじと大声を返す。このまま突っ走れと会場にいたすべての人間が思ったその時、突然ステージの垂蔵が倒れた。

生きてる

 バンドメンバーはすぐに演奏を中止して垂蔵のそばに駆け寄った。そこへさらに家時とスタッフがステージのわきから出てきて垂蔵の周りを囲んだので客席からは垂蔵の状態は全く確認できなくなった。さっきまで喚声を上げて盛り上がっていた客席は今は目の前で起こった事態にざわついていた。サーチ&デストロイの復活ライブの終了直前に突然起こった事態に皆どうしていいかわからない状態だった。

 露都もまたこのあまりに突然におこった出来事にどうすればよいかわからなかった。というより彼は衝撃が深すぎてそれが現実に起こった出来事だとさえ思えなかった。彼は無意識に助けを求めて絵里とサトルを見た。だが絵里もサトルも呆然として我を忘れているありさまだった。その時隣の席の黒づくめの男がこう呟いた。

「おいおい、まさかそのままなんてことはないだろうな。さっき俺が変な事言ったからって……」

 ステージではさっきと変わらずバンドメンバーとスタッフたちが垂蔵を囲んでいた。客席からは完全に垂蔵がどうなっているか確認できない。客席からは早く救急車を呼んだ方がいいんじゃないかと声が上がった。会場にいる全員が一心にステージを見ていた。だがステージからはアナウンスはない。

「露都お父さんのとこ行ったら?ここじゃなんにもわかんないよ」

 と絵里が言った。しかし露都はそれに対して首を振って自分が行ってもどうにもなることじゃないと答えた。

「あなたの言う事もわかっているけど……」

「それに垂蔵が今下手に動かせない状態だってことも考えられる。多分脳の異常か何かで……」

「おじいちゃんどうなるの?」

 とサトルが泣きそうな顔で両親に尋ねた。それに大して露都は答えることが出来ない。絵里はわが子を抱きしめて大丈夫だよと声をかけて落ち着かせようとする。露都は妻と子を見て自分が情けなくなった。全くろくでもない父親だな俺は。いざって時にらしいとこを見せられないんだから。その時ステージのに動きがあった。家時が声を上げるとステージにいた何人かが一斉にステージの袖に向かって走った。その瞬間に露都は見たのだ。起き上がり、足を踏ん張って立とうとしている父を。彼は今立とうとしていた。彼に手を差し伸べるスタッフの手をはたいて自分の力で立とうとしていた。これをみて客席はどよめいた。最前列の観客たちはステージに向かって大声で垂蔵の名を連呼し始めた。それに後方の客も反応してみな垂蔵の名を叫んだ。絵里もサトルも同じように叫んでいた。垂蔵、垂蔵、垂蔵と露都以外のすべての人間がただ垂蔵の名を叫んだ。

 露都はこの光景に戸惑っていた。こんな事をしたって何にもなるわけがない。素直にライブを中止して今すぐ病院に連れていくべきだと思った。だが、その一方で彼もみんなと同じように彼の名を呼んで立ち上がろうとする垂蔵を応援したい気持ち抑えきれなくなってきた。露都はステージで今立ち上がろうとしている垂蔵を見つめその名を叫ぼうとした。

 だがその時立ち上がりかけていた垂蔵は再び地面に崩れ落ちてしまった。会場のいたるところから悲痛な声が響きわたった。泣き出すものさえいた。絵里は動揺し垂蔵と露都を交互に見ていた。露都は垂蔵の元に駆け付けようとステージの方へと歩き出した。しかしその時、サトルが突然大声でこう叫んだのである。

「おじいちゃん頑張ってぇ!このままじゃ負けちゃうよ!」

 突然発されたこの透き通る声を聞いて会場の人間が一斉に後ろを向いた。そこには髪を逆立て鋲柄の革ジャンに身を包んだサトルが立っていた。サトルはさっきよりもずっと大きい声で垂蔵に呼びかけた。

「おじいちゃん立ち上がってよ!もっとかっこよく歌ってよ!」

 雑音が一斉に止んだ。会場ににいるステージすべての人間の目が垂蔵を見ていた。

「うるせえんだよ!このバカガキが!ライブでピーピー泣くんじゃねえ!」

 サトルの呼びかけにこたえるような絶叫だった。サトルは垂蔵の怒鳴り声に驚いて目を剥き、絵里は大喜びで露都の肩を叩いた。露都はその声に昔の垂蔵の記憶ごと呼び覚まされた。彼はステージの中央で体を震わせて立っている垂蔵を見た。垂蔵はもう立っているのもやっとの状態に見えた。しかしそんな状態なのに彼は差し出したペットボトルや酸素ボンベを手にしていたスタッフを追い払ってしまった。そして自分の元に集まってきたバンドメンバーと話をして彼らを持ち場に戻すと、床に落ちていたマイクを掴んで客席に呼びかけた。

「ったく、ちょっと転んだぐらいで大げさなんだよお前らは。ギャンギャン犬みてえに騒ぐんじゃねえよ!ちょっと転んでぽっくり逝くようなジジイみてえに思われるんじゃ俺もヤキが回ったってことなんだろうな。あっ、今回のライブ悪いけど次の曲で終わりにさせてもらうぜ。最初は最後までちゃんとできるって思ったんだけどな。だけど久しぶりのライブで張り切りすぎちまったんだなぁ。やっぱり年なのかな。結局はこのざまだよ」

 垂蔵はここで一旦喋るのを止めて息をぜいぜい吐き出した。もう誰の目にも限界だという事は明らかだった。だが垂蔵はそれでも踏ん張りそして再びマイクを手に話し始めた。

「ちょっと疲れちまったから、もう少し休ませてくれよ。俺はもうクタクタなんだよ。いや、俺だけじゃねえこいつらだっておんなじぐらいクタクタだ。なんたってもう四人とも還暦すぎだからな。ったく四十年だぜ。イギー、ジョージ、トミー。こいつらとサーチ&デストロイを結成してから四十年だぜ。ってことはその頃生まれたガキはもう四十じゃねえか。四十って言ったらもう親父だよ。全くしょうもねえ腐れ縁だぜ。カミさんよりも長く付き合っているんだぜ。こいつらとはホント悪いことしかしてねえ。ここじゃ口にできねえことだって両手の指がなくなるぐらいしてらあ」

 ここでまた垂蔵は胸を俯いて胸を押さえながら呼吸を始めた。露都はその垂蔵をただ見ていたが、その時再び顔を上げた垂蔵と目が合ったような気がした。

「多分ハードコアシーンの中でも俺たちぐらい嫌われた奴らはいねえよ。昔っからそうだった。あいつらと一緒にしないでくれ。あいつらはパンクスじゃなくてただのクズ。ああいう連中のせいでパンクが誤解されるんだ。ああそうだよ。俺たちはただのクズだし周りの連中は全員そう言ってるんだ。あんまり言ったけどねえけど俺には一人息子がいる。そいつが俺の嫌いなとこだけ煮詰めたようなむかつくガキでよ。今はむかつくほどえらい人間になっているんだ。そのガキが昔大学の小難しい卒論で所詮子供のお遊びだってパンクをディスったんだ」

 これを聞いて露都は驚きのあまり目を剥いた。そんな昔の事をまだ覚えていたのか。

「しかもだアイツそれを論文俺に突き付けたんだぜ。お前のやっていることなんてガキのお遊びだって事を知れってか。全く呆れるよ。こんな善人の俺からどうしてこんな嫌なガキが生まれてきたんだってね。だけど冷静に考えてみりゃガキの言う通りなんだよ。俺たちのやってることは所詮ガキのお遊びなんだよ」

 この垂蔵の言葉に会場は一斉にざわめいた。客席からはアンタのやってることはガキのお遊びなんかじゃねえと否定する声が飛んだ。露都の周りもざわつき出した。皆が一斉に彼を見た。露都は垂蔵が放った言葉に気まずさを感じ、なんで今頃そんな事を言うんだと心の中で愚痴った。にしてもなんだよこれは。突然しみったれたようなこと言い出しやがって。ひょっとしてこれでもう終わりだから最後に別れの言葉でも述べているつもりか?やめてくれよ。そんなのアンタには似合わねえよ。クズがまともになったって面白くもねえんだよ!

「だからって何だってんだよ!」

 と垂蔵が突然声を張り上げた。露都は自分が垂蔵に逆切れられたように錯覚して思わず体が震えた。

「確かにお偉い人にとっちゃ俺たちのやっていることなんかガキの遊びかもしれねえ。だけど俺たちはそれをこの四十年間本気でやってきたんだ!」

 この垂蔵の言葉に会場は地響きのような喚声を上げた。もう号泣しているものもいた。きっとこの中には結成当初からのファンもいるだろう。その彼らも含めたサーチ&デストロイのファンはきっと垂蔵たちと同じような思いを抱えながら生きていたはずだ。この何もかもがままならぬ日本という場所で彼らはサーチ&デストロイに自分の夢を見ていたのだ。そして……

「その四十年間ずっと俺たちについてきてくれた奴らがいる。ここにもいるだろ!」

「いるぞぉ!」と年季のはいったファンが垂蔵に向かって拳を突き上げた。

「だけどここにもどこにもいなくなっちまった奴らもいる。そいつらは俺たちのライブを観ることも出来ねえし、俺たちがライブをやってることさえ知ることも出来ねえ。その中には俺のカミさんだっている!俺はずっとそいつらのためにも歌い続けてきたんだ!」

 露都は垂蔵が母の事を口に出したのを聞いて目が熱くなるのを感じた。彼は隣にいるピンクのウィッグを付けた絵里と、髪を立てて革ジャンを着たサトルに再び母と自分を見出した。確かに母さんはこの世にはいない。だけど垂蔵は母さんが亡くなってからもずっと母さんが遺書に込めた思いを背負って生きてきたんだ。それは母さんだけじゃない。他の死んだ連中も、そして今彼の前にいる観客たちのために。

「だから俺は今目の前にいるお前らと、ライブにこれずにブーたれている奴らと、そしてこの世からとっくに消えちまった奴らに本日二回目のデストロイを送るぜ!」

 そう垂蔵が叫んだ途端地響きのような騒音が鳴り出した。それは露都が子供の露都散々聴かされていた、そしてサトルが好きでいつも叫んでいたサーチ&デストロイの代名詞のあの『デストロイ』だった。会場はこの二回目のデストロイに喚起しデストロイと叫びながら一斉に拳を突きたてた。絵里とサトルも周りと一緒に拳を突き立ててデストロイと叫びだした。そして露都も生まれて初めて拳を突き立てデストロイを叫んだ。完全に無意識だった。体が勝手に動いていた。あの頃の母のように、そして絵里とサトルのように露都は全身でデストロイと叫んだ。


 サーチ&デストロイの復活ライブは垂蔵の雄たけびとメンバーの楽器の轟音で終わった。垂蔵はイギー達メンバーに抱えられながら送られた。その去り際に垂蔵は観客に向かってこう叫んだ。

「また戻ってくるからな!今度は最後まできっちりやってやるからな!」

 観客は垂蔵に向かって喝采を送った。最高だと誰もが口々に叫び、中には号泣のあまり地面に這いつくばるものもいた。その会場の喧騒の中露都は一人呆然としていた。なんだかとても現実とは思えなかった。まだ興奮が体から抜けなかった。絵里はその露都に向かってハンカチを差し出した。

「顔拭いたら?もうグシャグシャだよ」

 それを聞いて露都はハッとして顔を触った。絵里の言う通りだった。顔中が濡れているみたいだった。ひでえなこれはと彼は思った。こんなとこ近所の連中や職場の奴らに見られたらどうしようもない。露都は慌てて顔を拭い絵里にありがとうと言った。すると絵里は露都に向かって優しく微笑んだ。

 それからしばらくするとスタッフがライブの終演をアナウンスした。しかしそれを聞いても観客のほとんどが出ようとせず、ずっとライブの事を話していた。「途中で終わったのは残念だけど、あんな凄いデストロイ聴かせられたらどうでもよくなった。凄いよ垂蔵はやっぱりパンクだよ」「ずっとサーチ&デストロイに付いてきてよかった。今度もまたライブに来ような」とこんなことがいたるところで言われていた。

 露都たちもずっと会場に留まっていた。周りの招待客の何人かが席を立ちあがったが、その時全員露都たちに向かって挨拶してきた。露都たちはこれに対して恐縮してお辞儀をした。例の黒づくめの男も挨拶に来たが、彼は非常に申し訳ない顔をしていた。おそらくさっきのつぶやきだろう。露都はふと黒づくめの男が誰なのか気になって、彼を知っているらしい絵里に尋ねたが、絵里ははっ?と声を上げてしばらく考えてから「はて誰だったっけ?」と答えた。露都がその答えに呆れてお前知らないで俺をもの知らずだと偉そうに言っていたのかと絵里を問い詰めようとしたのだが、その彼の前に家時がぬっとあらわれた。露都はいきなりの家時の登場でびっくりしてもう絵里どころではなくなってしまった。

「露都さん、何とか無事にライブが終わりました。これも全部露都さんのおかげです。あ、あのさっきの事ですけど垂蔵さんはあの時転倒してしまったみたいで、それでちょっと失神してたようなんですけど、今は全然問題ないです。勿論病院の方にはこの事はきっちり伝えますけど、とにかく今のところ垂蔵さんは元気です」

「それで父は今どうしているんですか?」

「楽屋で休んでいます。そうだ露都さんご家族の方も連れて今から僕と楽屋に行きませんか?」

「おじいちゃんのとこ行きた~い!」とサトルが手を上げた。絵里も露都に向かってお父さんに会いましょうよと言ってくる。露都は分かったよと二人に向かって言い。家時に行きますよと答えた。

 家時にステージ前のドアを開けてもらってそこから中に入った露都たちは壁中に貼られたパンクバンドたちのポスターが目にした。露都はそれを見た途端急に現実に返りやっぱりいつ見ても酷いもんだと顔をしかめた。絵里とサトルそんな露都をしり目に凄いとか言ってはしゃいだ。サーチ&デストロイの楽屋はすぐ目の前にあった。楽屋のドアのにはサーチ&デストロイ御一行様とあまりにも場の雰囲気に相応しくない平凡な字で書かれた紙が貼られていた。楽屋の前にいたスタッフは先頭にいた家時を見るなり深くお辞儀をして脇にどいた。家時はそのまま進みドアを開けて露都たちを迎えた。楽屋は意外にも静かだった。イギーたちメンバーは露都たちを見るなり指を口に当て静かにするように言った。

「垂蔵の奴が寝ているんだ。だから悪いけどちょっと静かにしといてくれ」

 露都は入口わきのソファーに反り返っていた。

「まあいろいろあったけど無事に終わってよかったよ。倒れた時どうなるかって思ったけどとにかく大事に至らなくてよかった。ホントお前には感謝しているぜ。お前が外出許可書にサインしてくれなかったらこいつも俺たちも今日みてえな最高のライブできなかったんだから」

 このイギーの言葉にジョージとトミーは深く頷いた。

「でもコイツライブで次もやるって言ってたよな?出来るわけねえだろってのに」

 イギーがそうつぶやくとジョージとトミーは静かに笑った。

 だが、その時いつの間に垂蔵のそばにいたサトルが垂蔵の手を握りしめながら青ざめた顔で露都に言ったのだ。

「おじいちゃん死んでる。手が冷たくて全然動かないよ」

 サトルの言葉を聞いてその場にいた全員が声を上げた。イギーたちメンバーは震え、家時は救急車を呼ぼうとスマホを取り出した。露都はすぐさま垂蔵の元に寄ってサトルに代わってその手を握りしめた。脈はちゃんと鳴っている。手は確かに冷たいがその中に温かみがちゃんとある。彼は息子と、そして自分を安心させるために力強くこう言った。

「サトル心配するな。おじいちゃんはちゃんと生きてる。親父は、俺の親父はまだここにいるよ」

おじいちゃんはパンクロッカー 完
 


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