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全身女優モエコ 第二部 最終回 東京へ、東京へ!

 こうしてモエコはわずか十七年の生涯を終えた。この舞台に生き、舞台に死んだ一人の少女の生涯は永遠に語り継がれる事になるだろう。彼女の舞台を観た人間はその演技を鮮烈な感動と共に思い起こし、不幸にも彼女の舞台を観れなかった人間は彼女の伝説を聞いて彼女の演技を想像するだろう。そして彼らは慨嘆するのだ。ああ!モエコがここにいたらと。

 しかし役者とは死すら演じるものである。彼らは舞台で何度も死に、そして何度でも甦る。そうしてまるで霊のように次なる役へと乗り移ってゆく。だからモエコよ!お前も早く甦るのだ。いつまでも死んでいる場合ではない。


 モエコは刺されてからすぐに会場の近くにある大学病院に担ぎ込まれた。しばらくして病室のベッドで目を覚ました彼女はそばにいた医者から自分の傷の状態を聞いた。医者の説明ではまともに突き刺さったと思われた傷は意外にも浅かったということだった。包丁は運良く彼女の体をそれ、肌とカルメンの衣装の生地の間に挟まったらしい。さらに医者はモエコに向かって切り傷を縫う必要もなく、自然治癒で一週間有ればほぼ傷口は塞がりおそらくは傷跡も残らないだろうとも言った。彼女はこの幸運に喜んだが、同時にあの出来事を思い出して背筋が寒くなった。

 モエコはまず共にカルメンを演じていた演劇部のみんなの事を思った。結局あれからみんなはどうなったのだろうか。みんなで作り上げてきたあのカルメンはあの地主のバカ息子のおかげで台無しになってしまった。せっかくみんなと全国で最優秀賞を取るとみんなで誓いあったのに、そのためにホセ役に水で溶かした台本を飲ませたり、一週間ホセ役にホセのセリフしか喋るなと命令したり、さらにはホセ役に振り回される男の気持ちをわかってもらおうと、稽古中ずっとホセ役を体ごと振り回していたり、そんな血の滲むような努力をしていたのに、それが全て無駄になってしまった。彼女はもう泣くしかなかった。こんな傷なんかつかなかったらなかったらカルメンを最後まで演じられたのに!モエコは怒りのあまり呪わしい傷口を思いっきり叩こうとしたが、たまたまその場にいた看護師に思いっきり止められた。

 しかし一体なぜあの地主のバカ息子は私に向かって包丁なんか振り回したのだろうか。とモエコは病室で一人になると地主のバカ息子のことを考えた。彼は私に対して何か不満でもあったのだろうか。あんなに怒りん坊だとは思わなかった。私はずっと彼に優しくしていたのに、ホントに男の子ってわからない。どいつもこいつもいくつになってもわがままなんだから。あれから地主のバカ息子はどうなったのだろうか。みんなの前で刃物なんか振り回したら逮捕されるに決まっている。とモエコは地主のバカ息子の事を考えそして彼のために涙した。バカ息子はホントにバカ息子だったわ!友達だったら私にちゃんと不満を言えばよかったのに。そしたらちゃんと話し合って仲直りして、そして演劇大会が終わったらお友達みんなでティーパーティーできたのに、なのになんでこんなことしたのよ!


 あの事件の後地主の息子は会場に現れた捜査員たちによって現行犯逮捕され、教頭と御曹司も参考人として事情聴取を受けた。さらに警察は被害者のモエコにも事情聴取を求めてきた。モエコは事件の翌日に病院で事情聴取を受けたが正直すぎる彼女はそこで地主の息子だけでなく教頭や御曹司とのお友達関係を全て事細かに喋ってしまったのだ。彼らから一日いくら貰っていたか、彼らといつも何時ごろあっていたか、勉強を教えてもらったとか、大会が終わったらお友達のためにヌードになるとかそんなことを。


 そしてそれからまた三日ほど経った夕方である。モエコの病室に突然ハゲの校長がやってきて頭をテカらせながらいきなり彼女に向かって退学にすると告げた。モエコはそれを聞いたとき一瞬校長が何を言っているのかわからなかったのでもう一度校長に聞いた。ハゲの校長はモエコの言葉を聞いても表情を変えず、もう一度同じことを言った。当校は君を退学処分にすると。モエコはベッドから身を乗り出して理由を問いただしたが、しかし校長は表情を変えず自分の胸に手を当てて聞いてみろと言うばかりだった。モエコはその校長の自分を蔑んだ態度に激怒して包丁で刺された傷も癒えぬのに暴れて校長をボッコボッコにした。

「なんで私が学校をクビにならなきゃいけないのよ!私は被害者じゃない!私は刺されて死にかけたのよ!その私に向かって退学ってどういうことよ!」

 すると校長は急に感情をむき出しにしてモエコに向かって怒鳴りつけた。

「黙れ!貴様のおかげで我が校がどんな損害を被ったかわかってるのか!売春なんかしてたくせにどの口でそれを言うか!挙句の果てに教師までたぶらかしおって!いったい貴様は何人の男に体を売ってきたんだ!ああ!貴様のせいで我が校はもう滅茶苦茶だ!貴様にかどわかされた教頭は近々懲戒免職になるだろう!貴様は自身の卑しい欲望のために一人の人間を破滅にまで追いやったのだぞ!退学処分でもまだ甘いぐらいだ!」

 モエコはブチ切れて思わずツルッパゲの校長を持ち上げて病院の窓から放り投げてしまった。校長はキャー!とか女の子みたいな声で絶叫をして落ちていったが、運よく木の枝に引っかかり事なきを得た。しかしモエコにとってそんなことはどうでもよかった。先ずはずっと一緒にやってきた演劇部のみんなに会わなくてはと思った。それからお友達にも会わなくてはもと思った。そして家にいる両親の事が心配になった。ああ!あんなクズ親でも親は親、きっと私のせいで今ごろはテレビ局や新聞のカメラの雨あられのフラッシュを浴びているんだわ!きっとそのせいで病院に見舞いに来れないのよ!ダメよ!二人にそんなことしちゃ!フラッシュを浴びるのはこのモエコだけで十分よ!

 彼女もう居ても立っても居られないと早速制服に着替え、バッグの中の札束を掴むと、医者と看護師を呼んで、今から退院するからカルメンの衣装持ってきてと頼んだ。しかし医者と看護師はまだ安静が必要だと止め、そしてカルメンの衣装は証拠品として警察が持っていってしまって病院にはないと話した。この事実を知ったモエコはまたまた大激怒してじゃあ警察に返してもらうわと叫ぶと、とりあえず入院代よと手にしていた札束をぶちまけた。医者と看護師はこのモエコの狂態に、もう退院を止めても無駄と判断して彼女が投げた札束を拾って受付へと飛んでいき領収書とお釣りを持って来たのだが、しかし金勘定の細かいモエコはお釣りと領収書と見比べて頭の中のそろばんで弾いていた金額と違っていたので百円足りないわよ!と怒鳴りつけた。そして慌てた看護師がすぐさま百円を持ってくると大急ぎで病院を出て警察に向かったのである。


 モエコは脇目も降らず警察署へと向かった。そして署内に入るといきなり私のカルメンの衣装を返せ!と叫んだのである。近くにいた署内の職員はまた頭のおかしい人間が来た思ってモエコに向かって、お嬢ちゃんそんなものはここにはないですよ、と作り笑いを浮かべてさっさとこの頭のおかしい女子高生を追い出そうとしたのだが、モエコが、「この間私が演劇大会で着てた衣装よ!私がそこで刺された時にアンタたち私から無理やりひん剥いて盗んでいったでしょ?返してよ!あのカルメンの衣装は私が高い金出して買ったんだから!」と言ったのを聞くと急に無表情になりモエコを害虫でも見るような目で見てこう呟いた。

「お前があの演劇大会で刺されたガキか。高校生のくせに男たちから一千万以上の金をむしり取ってたっていう淫売か」

 この職員の唖然とするほど口汚い侮辱に彼女は当然激怒して叫んだ。

「私のどこが淫売だっていうのよ!ただあの人たちとはお友達として付き合ってただけじゃない!いいからカルメンの衣装返しなさいよ!」

「うるせえんだよこの淫売!淫売を淫売だって言って何が悪いんだ!本当だったらテメエなんか監獄行きなんだぞ!ムショにぶちこまれなかっただけでも有難いと思え!あとテメエのカルメンの衣装だけどな。刑事事件の証拠品なんだからテメエに返せるわけないだろ!ああ!まったくテメエに騙されて人生を狂わされた連中が気の毒だぜ!お前は連中に対してなんとも思わないのか?人間としてのまともな感情はないのか?」

 モエコはこのあまりにも酷い言葉に涙を流して殴りかかろうとした。だが彼女は殴ろうとした瞬間、署内の人間が皆対応している職員と同じく彼女を害虫であるかのように見ているのに気付いて手を下ろした。モエコは彼らの視線が耐えられなかった。まさか自分がこんなに誤解を受けるなんて。彼女は震えながら後退り、そして絶叫して警察署を飛び出した。


 警察署を飛び出したモエコはそのまま県庁所在地の駅から電車に乗り学校へと向かった。彼女は演劇部の仲間に会いたかった。一緒に舞台をやった仲間たちに慰めてもらいたかった。いつも一人で人生を切り開いていたモエコであるが、その彼女が今心から人の助けを求めていた。それほど今の彼女は孤独であったのだ。

 駅に着くとモエコはまっすぐ学校へと向かった。そしてそのまま校門の中に入ろうとしたのだが、その時後ろから警備員たちが現れて彼女の制服の襟を掴んだ。モエコは彼らに向かって「私はこの高校の生徒よ!演劇部のみんなに会いたいんだから中に入れなさいよ!」と叫び体を振り乱して警備員から逃れようとした。その彼女に向かって警備員はお前はもう退学になったんだ!早く出て失せろ!と言い痴漢だとモエコが喚くのを無視して彼女を取り押さえようとした。しかしモエコは校庭に現れた生徒と教師たちを見た瞬間、またしても糸が切れたかのようにその場にへたり込んだ。彼らは皆無言で、警察署の人間と同じように、モエコをまるで害虫を見るような目で見ていた。その視線を目の前にしてモエコは学校からも逃げ出すしかなかった。


 学校から近所の町へと戻る電車の中でモエコは泣きながらさっきの生徒たちの冷たい視線を思い返していた。きっとあの中には演劇部も部員もいただろう。なのに何故誰も私に声をかけずに、それどころかゴキブリでも見るような目で見たのか。自分は刺されて死線を彷徨った被害者なのにどうして加害者みたいな扱いを受けなければいけないのか。悔しさと悲しさが入り混じり思い返すたびに涙が溢れてきた。もう最後の拠り所はお友達のところだけだった。彼女は現実に打ちのめされた自分を慰めてもらおうと彼らの家に尋ねることにしたのだった。

 しかしお友達は揃って不在であった。御曹司はすでに逃げ出したらしく住んでいたアパートの部屋には空室との張り紙が貼られていた。教頭もいなかった。モエコはマンションの教頭のへやのドアをガンガン叩いて、「先生、モエコが来たわよ!」と大声で教頭を呼んだが中からはなんの反応もなかった。モエコはしばらく教頭の帰りを待っていたが、マンションの住人がドアの隙間から彼女を見ているのを見て不愉快になってその場から出て行った。そして最後に向かったのが、地主のバカ息子の所だった。モエコはバカ息子がもう出所しているのかもしれないと思ったのだ。彼に刺されたことは刺されたが自分には大した怪我はなかったし、あれはちょっと激しい喧嘩みたいなものだと思っていた。友達同士の喧嘩は友達同士で解決しろと小学校のジジイの先生は教えてくれたではないか。そしてモエコはバカ息子の家まで着いたが、ここでも門は閉じられていた。彼女は門を激しく叩き「モエコが来たわよ!いるんだったら開けなさいよ!」と大声で地主のバカ息子を呼んだ。すると中からやせ細った老人が出てきてやかましい!と怒鳴りつけてきた。老人は再び「今取り込み中なんだ!張り紙に来客お断りだって書いてあるだろ!」と怒鳴ってきたが、その時モエコの制服姿を見て指を差しながら大口を上げて震えだした。

「あ……あ……まさかお前!……む……息子をたぶらかした淫売女か!」

 老人はこう叫ぶといきなりモエコの胸ぐらを掴んだ。

「き、貴様のせいでうちの息子は犯罪者になったんだぞ!それにもかかわらずノコノコと現れおって!まだ足りんのか!うちのバカ息子だけでなくワシからも金を搾り取るつもりか!貴様殺してやる!殺してやる!」

 モエコはクビに巻き付いた老人の腕を必死でもがいて振りほどいた。モエコは信じられなかった。まさかお友達の親までも私を淫売扱いするとは!

「黙りなさいよ!大体アンタのバカ息子に刺されたのは私なのよ!なのに私に対して親として一言の謝罪すらしないでのっけから淫売女って罵るってどういうつもりよ!謝りなさいよ!親として子供の罪を詫びなさいよ!」

「やかましい!この淫売め!女郎め!売女め!パン助め!さっさとこっから出て失せろ!貴様には塩すらもったいないわ!」

 老人はこう喚きながら地面の土を握ってモエコに投げつけてきた。この老人の態度に彼女は三度目のショックを受け、その場で号泣してしまった。そして彼女は泣きながら老人から逃げ出した。


 ああ!なんでドイツもオランダもミャンマーもどうして私をいぢめるのよ!私が何をしたっていうのよ!ただ私はお友達とテレビを観てあげてただけじゃない!そして楽しく遊んであげただけじゃない!それのどこが悪いのよ!ああ!もう限界だわ!彼女はただひたすら走った。もうどこにも自分の居場所はなかった。どこにいても淫売扱いされるだけだった。ああ!なんでこうなるのよ!私はただ正直に生きたかっただけなのに!

 もはや彼女の帰るところは一つしかなかった。それは懐かしい我が家、学校の合宿で久しく帰っていなかった我が家だった。ああ!両親はどうしているだろう。自分のせいで今ごろテレビや新聞に付け回されてはいないだろうか。あんなクズ親だけど迷惑はかけられない。自分の責任は自分で取らなくては!彼女は全速力で家へと向かった。ああ!お父さんもお母さんも私がいなきゃダメなんだから!二人共待ってて!モエコ今すぐ帰るから!

 そしてモエコは村の家の前に着いたが、村も家の周りも唖然とするほどいつもどおりで、家の周りにテレビ局などのカメラなどまったく見当たらなく、この事実にモエコは何故か悲しくなった。家はまだ夕方であるからなのかまだ明かりは点いていなかった。モエコは玄関の前で立ち止まり両親になんと言っていいか考えた。事件のせいで高校を退学になり、しかもお友達とはほとんど縁が切れ生活費の入る当てがなくなった。確かにそれまでも貯金があればしばらくは余裕で暮らせるだろう。しかしあの両親である。大金を持ったら何をしでかすかわからない二人なのだ。モエコは両親がつい最近地主のバカ息子と店を出すとか計画を練っていたのを思い出した。ああ!あれで相当の金額を使い込んだに違いない。家は再び借金漬けとなり、今度こそ自分は正真正銘の淫売婦にならざるを得ない。だがモエコはそれでもいいと思った。全てを失った今自分には血の繋がった家族しかいない、父と母さえそばにいればそれでいいと思ったからだ。

 モエコは精一杯の笑顔で玄関を開けて「ただいま!」と言った。しかし中からはなんの反応もなかった。モエコはもう一度「ただいま!」と言った。だが相変わらずなんの反応もなかった。モエコは「どうしたの?出かけてるの?」と確かめるように両親に呼びかけて中に入った。そして彼女はやたら整理された茶の間に入りちゃぶ台の上にあった白い紙を見つけたのである。モエコは両親の書き置きを読んだ瞬間、激怒のあまりちゃぶ台を叩き割り、絶叫して転がりまわった。書き置きには父と母がそれぞれこう書いていたのだ。

『モエコへ お前のせいでここに住めなくなった。俺たちは金を持って別のところで暮らす。借金取りが来るかもしれないから代金はお前が払うように。自分の責任は自分で取れ』

『モエコへ お父さんとお母さんは長い旅に出かけます。いつまた会えるかはわからないけど遠く離れた場所であなたの健康をお祈りしています。追伸、あなたの押し入れにあったお金は私達が全部いただきました。ごめんなさいねこれから何かとお金が入用なの』

「絶対に呪い殺してやる!このクズ親め!私がアンタたちのためにどれだけの事してあげたと思ってるのよ!私の苦労はなんだったのよ!チクショウ!」

 モエコはそのまま一晩中絶叫して泣き明かした。これでもう全てが終わったと思った。自分が今までやってきたことは全て水の泡どころか蒸発してどこかに飛散してしまった。泣きすぎて涙も枯れ果ててしまった。彼女は日が昇ると無表情のまま立ち上がって自分の部屋へと歩いていった。

 戸を開けると畳にお友達からもらったお金を入れていたアルミの箱が置いてあるのが見えた。母の書き置き通り、蓋は開けられて中は空だった。モエコはそれを見ても何も感じなかった。次にモエコは部屋の壁にいつもと変わらずシンデレラの衣装が掛けられていて、その下のダンボールで作った祭壇にはこれもいつもと変わらずシンデレラの絵本が置いてあるのを見た。彼女はそれを見た瞬間、過去の思い出が次から次へと脳裏に浮かんできた。彼女は泣き尽くしたはずだと思っていたのにまた泣いてしまった。もうとめどなくあふれる感情は押さえきれなかった。


 それからモエコはこのがらんどうになった家でずっと引きこもって過ごした。ろくにご飯も食べなかった。ただ彼女は清潔好きだったので風呂だけには毎日入った。彼女の元を訪ねる者はほとんどなく、ただ父の借金取りだけがたまにやってきて「お前さんが例の淫売女か!早くその体で親父さんの借金返してくれよ!何なら俺が中洲のトルコ紹介してやっていいんだぜ!」と言って帰っていった。モエコは借金取りの言う通りトルコで働こうかとふと考えた。しかしモエコはもう先のことなど考える力もなかった。


 あの演劇大会で起こった事件はあんな大惨事が起こったにも関わらず各新聞はほとんど取り上げなかった。ただ事件が起こった翌日に小さな記事が書かれた程度である。テレビでは勿論全く取り上げられず、不思議に思った地元の噂好きな人々は犯人の地主の家族が新聞に取り上げぬよう圧力をかけたと噂しあっていた。しかし本当のところは財閥の御曹司の一族が各メディアに圧力をかけたと思われる。財閥としてはこの痴情沙汰が原因の傷害事件に放蕩息子が関わっていたのを公にされたくなかったのだ。


 ある日のことだった。モエコは久しぶりに森に行こうとして山へと行こうと家から出た。家にいることが耐えられなくなったのである。彼女はあの木に会いに行って自分を見つめ直したかった。彼女は村の道を通った時に村人の冷たい視線にぶつかった。だが彼女はその視線に耐えて先へと進もうとした。その時だった。どっかの女の子が彼女を指差して笑いながらこう言ったのだ。

「煤っこだ!お母さん、見てよ。このお姉ちゃん煤っこだよ!」

 母親は慌てて女の子の口を塞いだ。モエコは久しぶりに聞いたこの言葉に衝撃を受けて立ちどまった。彼女は髪を触ったが確かに煤がついている。モエコは突然絶叫するとそのまま叫びながら家へと逃げ帰った。


 そしてモエコは完全に引きこもってしまった。相変わらず風呂には入ったが、それも水道代とガス代が尽きるまでだった。彼女は朝晩布団に入ったきりで一日中過ごしていた。もう今ではあの輝かしい思い出さえ全て偽りのように思えてきた。あの初舞台のシンデレラも、高校一年で主演したおきゃんぴーも、そしてあのカルメンでさえ、貧乏人の自分の願望が生み出した幻想であったように思えてきた。今の自分はシンデレラでもおきゃんぴーでもカルメンでもなくただの煤っこでしかなかった。私はただの煤っこ。私は身の程知らずにもいい気になって持ち上げられた、ただの煤っこなのよ!


 そうしてモエコが引きこもって過ごしていたある日のことだった。ついにモエコを東京へと向かわせたあの出来事が起こったのである。彼女は最近誰かが頻繁に尋ねて来ては玄関の戸を叩いて自分を大声で呼んでいるのに気づいていた。しかしモエコはどうせ借金取りなのだろうと無視してずっと布団で寝ていたのだ。何も変わらぬ毎日だった。ただ地震が度々来ていただけだ。そうしてずっと寝ていた夜だった。深く眠っていたモエコは空中に飛ばされた夢を見て目が覚めた。しかしそれは夢ではなかった。強い振動で床が跳ねたのだ。空中で目覚めた体制を整えるまもなく布団へと落ちた。そして間髪を入れずに部屋をかき回すように揺れだした。その時モエコは誰かが玄関を激しく叩いているのが聞いた。モエコはこの異常事態に飛び起きて何事かと玄関へ飛んでいった。玄関を開けると消防員らしきもの前に出てきていきなりモエコを怒鳴りつけた。

「バカヤロー!やっぱりもういないと思って安心してたらやっぱり家にいたのか!他の連中はもう避難してるぞ!早く俺と一緒に来い!」

 モエコは噴火と聞いて火山の方を見た。山からマグマがまるで血のほとばしりのように噴き出していた。彼女はその噴火の激しさと美しさに見とれてしばらく陶然としていたが、その彼女に向かって消防士が、「なにぼーっと突っ立ってんだ!」と叫んで彼女の手を引っ張って無理やり連れて行こうとした。しかしモエコは抵抗して「ちょっと待って!すぐ戻って来るから!」と言って家の中に入ってしまった。彼女は思い出したのだ。大事なものが部屋にあることに。消防士は玄関からモエコに向かって、「荷物なんかどうだっていいだろ!もうじきこの村にマグマが流れて来るんだぞ!この村はもう終わりなんだぞ!」と叫んだ!モエコは消防士に向かって「うるさいわね!大事な物を探してるんだからあなたは黙って待ってなさいよ!」と怒鳴りつけた。それからさっきの地震でグチャグチャになった部屋でシンデレラの衣装と絵本と大事な金の入ったバッグを見つけるとすぐさま家を飛び出した。今のモエコにはこれしか要らなかった。学校からも、両親からも裏切られた彼女にとってこれだけあればよかった。

 消防士と共に火山から逃げる途中モエコはは火山から吹き出るマグマが森さえも覆い尽くしているのを見た。それを見て彼女は小学校の時シンデレラを演じれぬ悔しさに自殺を考えて山へ登った日のことを思い出した。あの時森の中の一本の木が私に演じることを教えてくれなかったら今ごろ私はこの世にいなかったかもしれない。そしてあの木は私を神崎雄介と出会わせてくれた。ずっと芝居をやっていた私に本物の役者と、ホンの少しだけど、お話させてくれた。その木が今マグマによってあっという間に灰になってしまった。生きなければ。あなたは生きなければ。火山から逃げるモエコに向かって誰かが繰り返しこう囁いていた。モエコは思った。どこの誰なのだろうか。私に向かって何度もこう囁くのは。

「ココまで来たら安全だ。おそらくこんなとこまでマグマは来やしねえよ」

 と息をゼイゼイさせながら消防員は言った。モエコも同じように息をゼイゼイさせて頷いた。消防員はそのモエコに向かって指で崖の下を指差しながら言った。

「見ろよあれを!お前がもうちょっと逃げるのが遅かったら今ごろはマグマの下敷きになってたんだぞ!」

 崖の下の村は完全にマグマで覆い尽くされていた。もはや全てが無くなってしまったのだ。小学校も、モエコをいぢめていた女の子の家も、モエコがいつも万引きしていた駄菓子屋も、そして今さっきまでいた家も、全てが一瞬で消え去ってしまったのだ。

「とりあえず避難所はこの先だ。先へ進むぞ」

 消防士はそう言ってモエコの先を歩いていく。モエコは目の前のマグマで覆い尽くされた村を見て自分の故郷が完全に失くなったことに愕然として先へと進めなかった。この先自分はどうすればよいのだろうか。このままここにいても野垂れ死ぬだけだ。その時モエコは再びさっきの囁きを聞いた。生きなさい、あなたは生きなさい。モエコはその声の正体が何者かようやくわかった。そして彼女は自分のゆくべき道をようやく見つけたのだ。

「おい、何やってるんだ!早く避難所に行くぞ!」

 消防員はモエコがずっと立ち止まっているのにじれて大声で彼女を呼んだ。しかしモエコは消防員の言葉を無視しどこかへと駆け出してしまった。消防員は慌てて彼女を呼び戻そうと大声で叫んだ。

「おい、どこへ行くんだ!そっちは避難所じゃないぞ!」

 その消防員の声にモエコは立ち止まった。そして鮮やかに振り返ってこういったのだ。

「消防員さん、私を助けてくれてありがとう!私、東京へ行くの!」

「何バカなこと言ってるんだ!さっさとこっちへ来い!」

 しかしもはやモエコには消防員の言葉は聞こえなかった。彼女はただ暗闇の中を全速力で駆けていた。目の前は何も見えぬ暗闇だったが、彼女はその先に薄っすらとした未来を見ていた。東京へ、東京へ!そこには私の未来が待っている。東京へ、東京へ!そこで私は未来を手に入れるんだ!







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