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母と私

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母の癌闘病から見送りまでのことを綴っています
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記事一覧

これから⑳母と私

これから⑳母と私

 母の四十九日が過ぎて、祭壇も片付け終わると母の部屋は一気にガランとなった。
クローゼットも片付けて、綺麗好きな母が文句言わないくらいには整えた。
もうどこにも母の姿はないと解っていても、母の部屋を覗く癖はそう簡単には取れない。
受け入れ難い現実をいつまでも直視できないでいるが、それでも時間は確かに過ぎて、母が逝った日が遠ざかっていく。
これを書いているのは2021年2月。母を見送って5ヶ月が過ぎ

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親を看取る⑲母と私

親を看取る⑲母と私

 好きな食べ物は何かと問われたら『母の作る玉子焼き』と、いつも迷わず答えている。
どんなご馳走も敵わない、子供の頃からの私の大好物だ。
何度真似て作ってみても不思議と母と同じ味付けにならず、巻き方も何か違う。
やはり母が作ってくれる玉子焼きが一番おいしい。
再び食べることができなくなった事実を、未だに信じられなくて困る。
いつか、母と同じ味付けで作れるようになれたらいいなと思う。
母の玉子焼きの美

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うたた寝と浄化の雨⑱母と私

うたた寝と浄化の雨⑱母と私

 通夜の時と同じ方に着付けていただく。
仕事や猫の話をしながら、手際よく着せてもらった。
その方が部屋を出る時に、
「どうか大事に持っててくださいね。思いの詰まったお着物ですから」
そう声をかけてくれた。

母と一緒に最後の食事をする。
ほとんど喉を通らず心配する夫を困らせた上に、ふたり分を食べてもらう。
母の傍から離れ難く、とにかくずっと時間ギリギリまで棺に張り付く。
今にも起きてきそうなその顔

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虹を渡る⑰母と私

虹を渡る⑰母と私

2020年9月11日
朝から曇り空だ。
15時には葬祭場に向かう霊柩車が母を迎えに来る。

母に持たせたいものを何でも入れて良いと、A4より少し大きめのポーチを葬儀社の担当さんから貰っていた。
袋がいっぱいになるくらい、母が好きだったものを詰めてあげようと思う。

朝から人の出入りが多くて本当に慌ただしく、いろんな人の声がそこかしこでしている。そして通夜当日になっても尚、やることが多く残っている。

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母が遺した着物⑯母と私

母が遺した着物⑯母と私

 南の地方の田舎に住んでいる。
本当に田舎で何もないそこに、祖父母と母の4人暮らしで私は育った。
母は私を産んですぐに離婚したので、私は父の顔を知らない。
何度か写真を見せられたが、子供過ぎて記憶に遠い。
しっかり物心がついても、もう一度写真見せてとねだりもせず、父親に会いたいと家出をすることもなかった。

 「あなたは周りよりも持っているものが少ないから」と小学4年の担任に言われたことがある。

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おかえり⑮母と私

おかえり⑮母と私

母が逝った。
あっという間に、何もかも置き去りのまま、逝ってしまった。

死亡確認が終わる。
葬儀社の段取りは夫がしてくれた。
お迎えが23時頃になるそうだ。いま21時半。
さっきまで大泣きしていた義母の姿は、視界の範囲には見当たらない。

私は、黙々と母の荷物をまとめていた。
一言も口にしなかったと思う。
病室に散らかる母の荷物は、母が生きようとしていた証のようで、全て持って帰らなくてはならない

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ありがとう⑭母と私

ありがとう⑭母と私

2020年9月8日。
10時過ぎだっただろうか。病院から着信があった。
朝方から母の様子に変化があって、採血結果が悪くDICを起こしていると言う内容だった。

DIC(播種性血管内凝固症候群)。
全身の血管内に無数の血栓が生じ、臓器障害を起こす病態を指し、血栓ができる過程で無秩序になった血液は容易に出血しやすくなる。
血栓と出血が同時に起こるため治療が極めて難しく、予後が悪い。

これまでDICは

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10分の会話⑬母と私

10分の会話⑬母と私

 母が在宅で過ごせるように、粛々と準備を進める。
ようやく、母が使っていたベッドを処分し、介護用のベッドを搬入する段取りができた。
ガランとした母の部屋を見ると、何とも表現し難い気持ちになったが、形はどうであれ母が戻って来れる準備をしていることは、私にとっては前向きなことだった。
マットレスが重くて処分がとても大変だった話を、母が戻ってきたらこの部屋で話そう。テレビっ子の母と一緒にサスペンスも観よ

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ドラえもんになる⑫母と私

ドラえもんになる⑫母と私

 母の容体は一進一退。
脊髄小脳変性症の症状を緩和するため、14日間の点滴治療が始まった。
この点滴治療は、これまでにも何度もしていて歩行がスムースになる効果があったものだ。

日に二度程かかってくる電話で母は
「今日もね、歩く練習したよ」
と、教えてくれる。やはり、会話は聞き取りにくい。
午前と午後にリハビリが組まれていて、動かなくなった両足で母は懸命に歩行訓練を受けていた。
歩いて自宅に帰るこ

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変わってゆく⑪母と私

変わってゆく⑪母と私

8月13日。
足りなかった入院用品を持って面会に行く。
この面会以降、母に会うことはできない。

病室に行くと、これまでとあまりに様子が違う母が居た。
今朝からおなかの調子が悪いらしく、何度もトイレを失敗していると看護師さんが教えてくれた。
着替えが足りないから大目に持ってきてほしいと頼まれる。
仲の良い病棟師長にナースステーションで会うと、
「何回でもトイレ連れて行くし、間に合わない時はいつでも

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母が泣く⑩母と私

母が泣く⑩母と私

 私たちが暮らしている県でもコロナのクラスター感染が複数発生したのをきっかけに、仕事のほとんどを在宅でオンラインに切り替えたため、母が退院した7月下旬からはずっと自宅に居られるようになった。

「シール貼ってもらおうかな」
8時半くらいになると、母が歩行器を押しながらやってくる。
最近では恒例の風景だ。
日付と時間を書いて新しいフェントステープを貼る。

「痛みはどう?」
「まぁまぁいいよ」

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繰り返す選択⑨母と私

繰り返す選択⑨母と私

 数年前から母と相談していたことがあった。
同じ県内なので故郷と言っていいかわからないけれど、今住んでいる街から車で2時間弱のところに母と私が生まれ育った故郷がある。
祖父母と一緒に住んでいた一軒家は、私が就職した2年後に売却している。
古い一軒家のメンテナンスを母と私でするのは大変だったので、気楽な賃貸暮らしをふたりとも喜んだ。
私の結婚を機に今の街に移り住んだ訳だが、そこには祖父母のお墓を残し

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大丈夫⑧母と私

大丈夫⑧母と私

7月に入ると徐々に腫瘍の痛みを訴えるようになり、フェントステープ(麻薬性鎮痛剤)を始めようと担当医と相談して、使用量を調整するため7月7日に入院することになった。
ちょうど七夕の日に入院だったので、夕食に「七夕ゼリー」が付いていた。
「なに味?」と聞くと
「うすーーーいソーダ味」と答えて周りにいた看護師さんを笑わせていた。

フェントステープは24時間に一度貼り替えをする。
連続して同じ所に貼らな

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夫と母とまぐろ⑦母と私

夫と母とまぐろ⑦母と私

母はまぐろが大好物だった。
担当医から生ものが解禁されて以降、夕食にはまぐろの刺身を用意することが多かった。それをペロリと食べる。
これだけ食欲があれば、もう少し体力が戻れば、もう一度何か治療ができたりしないだろうかと考えてしまうほど、母の容体は安定していた。

6月30日。
「美味しいお寿司が食べたい」と母が言っていたのを私の夫が覚えていて、夕方に急遽三人で出掛けることになった。
夫の行きつけの

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