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母が泣く⑩母と私

 私たちが暮らしている県でもコロナのクラスター感染が複数発生したのをきっかけに、仕事のほとんどを在宅でオンラインに切り替えたため、母が退院した7月下旬からはずっと自宅に居られるようになった。

「シール貼ってもらおうかな」
8時半くらいになると、母が歩行器を押しながらやってくる。
最近では恒例の風景だ。
日付と時間を書いて新しいフェントステープを貼る。

「痛みはどう?」
「まぁまぁいいよ」

有難いことに痛みも上手くコントロールされ、嘔吐することもなく食欲もある。もともと母は何でもよく食べる人だ。
連日猛暑だったので、黒蜜のシロップをかけたかき氷を喜んで食べていた。
神経難病のため箸を持つのもここ数年難しかったが、介護用の食器を使いたがらなかった母のご飯は、ふりかけをしたおにぎりにすることが多かった。
用意した食事は毎回ほぼ完食してくれる。
時々、私よりも食べることがあってちょっと心配になるくらいに、いつも通りの母だった。

8月9日。
故郷に残したお墓を墓じまいする前に母を連れて行くことにした。
夫と母と三人で出掛ける。毎回ながら賑やかな車内だ。

田舎の墓地(霊園とは呼べない)なので駐車場など整備されていない。
夫が少し離れた空き地に車を停めに行ってくれている間に、母を車椅子に乗せて墓地に向かう。

「久しぶりに来たから懐かしいね」
「なにも変わらんね」

車椅子を押してだんだん急になる坂道を登る。
勾配が増すたびに、車椅子を押す腕に力が入る。

「重いやろ?」
「重いわ。手伝ってよ」
笑ってそんなことを言いながら、また母の乗った車椅子を押す。

しばらく来られなかったこともあって、雑草が勢いをつけていた。
8月の日差しは強く、母の体調が心配だったので急いでお墓の手入れをする。
何度も何度も一緒に訪れたこの場所に、この土地に、母を連れてくるのはおそらく今日が最後になるだろう。
懐かしそうに辺りを見ていた母が帰り際、名残惜しそうにしていたのを見逃してない。
他にどこか寄りたいところはないかと問うと
「どこもないよ。これでもう安心やね」
と母が言う。

その日の夜、いつものように寝る支度を手伝って、ベッドに横になった母に布団をかける。
「あー、良かった。安心した」
また母が言う。本当に安心した顔で満足したように笑う。
「新しいお墓できたら車椅子で連れて行ってね」
「いいよ。出来上がるのは涼しくなった頃だから散歩できるね」
「いいね~楽しみだね~」

気掛かりだったことが解消したからだろうか。
この日以降、母の容態が崩れていくように悪化する。

8月11日。
母の診察日。
急に吐き気が出始めた。腹部の痛みも強まる。
膵臓癌が大きくなって、食道を圧迫しているかもしれないとのことで、ステント留置をするか検査も含めて急遽入院することになった。
「何回も入院させてごめんね。ご飯食べられたほうがいいから、狭くなったところを広くする処置をさせてね」
担当医が母にそれはそれは優しい口調で説明してくれる。聞いているこちらが泣いてしまう。
母は渋々と言った様子で入院を承諾。8月13日に入院することになった。
痛みをとるために舌下錠も多めに処方してもらった。

8月12日。
「お刺身が食べたいな」
仕事がひと段落して、母のリクエストの刺身を買いに出掛ける。
14時過ぎだったと思う。
30分くらいの買い物から帰ってくると、母のおでこに擦り傷があった。
「おでこどうした?転んだ?」
私が問うと、言いにくい様子で母が答える。
「足が動かなくなった」

私が出掛けている間に急に右足が動かなくなったと言う。

「トイレ行こうかな」
母がそう言うので、歩行器を持たせて私が後ろから抱えて立たせるも、母の両脚は全く動かない。
直立したまま、足が前に出ない。膝も曲がらない。
私が抱えている腕だけが母を支えている状態だ。
脱力した母はとんでもなく重く、いつまでも抱えていられない。
安全に座らせることもできない。ひとりではどうしようもない。
どうにか携帯を取って夫に電話をするもつながらず、すぐ近くに住んでいる義母に助けを求めた。
すぐに駆け付けてくれた義母と一緒に母のトイレを済ませる。

これからどうしたらいいだろうか。また選択を迫られる。
入院は明日だ。一日早く病院に連れて行ったほうがいいだろうか。
それとも明日まで傍で様子を見ていても大丈夫なんだろうか。
母はベッドに横になって無表情でじっと天井を見ている。

病院に連絡をして事情を説明すると、連れてきても構わないとのこと。
慌てて入院の準備をしていると夫が帰ってきた。
先程呼んだ介護タクシーには夫に同乗してもらい、私は母の荷物を車に積むと少し遅れて後を追った。

この頃病院は、コロナ対策で入院患者の面会はできない状態になっていた。
着替えは受付に預けて交換するという対策が取られている。
先月入院した時と全く様子が違う。
病室にはひとりしか上がれなかったため、夫にはロビーで待機してもらう。
母のいる病室に行く。
表情の暗い母がいた。

慌てて来たため足りないものなどがあって、明日は特別に病室まで上がってきてもいいと許可を得た。

「また明日くるね。大丈夫。すぐ家に帰れるからね」
「うん」
元気なく母が答える。
どこを見ているともわからない暗い表情だった。

自宅に帰り着くと、母から着信がある。
母がかけてきたのに、電話の向こうの母は喋らない。
特別な用事があるわけではない。
母が言いたいことは解っている。
「ひとりで心細いね」
「うん」
「ごめんね。寂しいね」
「うん」
「大丈夫よ。ちゃんと帰れるからね」
「うん」
「明日行くからね」
「うん」

「うん」しか言わない母の声が震えて聞こえる。
電話の向こうで母が泣いていた。
どうしようもない歯がゆさに襲われる。
癌を告知された4月、これから起きる一切を引き受けると決めた。
どうあっても母を支えていく。母の笑顔を守らなければ。
頭の中で何度も何度も復唱してみる。
弱っている場合ではないのに、母との電話が終わると私も泣いた。
こんな一日になるなんて思っていなかった。
一瞬でも気を抜くと不安に飲み込まれる。

母の最期の入院がこんな形で始まった。
母が食べたいと言った刺身は冷蔵庫に入ったまま。
結局、食べさせてあげることができなかった。

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