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変わってゆく⑪母と私

8月13日。
足りなかった入院用品を持って面会に行く。
この面会以降、母に会うことはできない。

病室に行くと、これまでとあまりに様子が違う母が居た。
今朝からおなかの調子が悪いらしく、何度もトイレを失敗していると看護師さんが教えてくれた。
着替えが足りないから大目に持ってきてほしいと頼まれる。
仲の良い病棟師長にナースステーションで会うと、
「何回でもトイレ連れて行くし、間に合わない時はいつでも着替えさせるから気を使わなくていいのに、お母さんいろいろ遠慮してるんやと思う。して欲しいことあったら教えてね」
と声をかけてくれた。本当に有難い言葉だった。

病室で面会している間に2度、トイレを失敗する。
母の表情は暗く、言葉数も少ない。
「遠慮しないでいいから、これ全部汚して着替えてもいいよ」
「うん」
「洗濯して、またすぐ持ってくるからね」
「うん、ごめんね」
「看護師さんが手伝ってくれるから、困ったら助けてもらおうね」
「うん、助けてもらおうね」
オウム返しのような会話だった。笑顔などない。

母は、自分のことは自分でやりたい人だ。
朝起きたら気に入っている好きな服に着替えて、きちんと身なりを整えて、祖父母の仏壇やルルの世話をして、ポットを沸かして、1階のカーテンを開ける。
大好きなお風呂にも自分のペースでゆっくり入って、出てくると冷蔵庫からヤクルトを取って自分で開けて飲む。
不自由な体だったからできないことも多かったが、自分ができることを自分の役割にして、毎日大事に生活していた。
そんな自立心の強い母だから、ひとりでトイレに行けなくなった状況はショック以外のなんでもないはずだ。

母の患っている脊髄小脳変性症のタイプは、経過が緩やかな病態だ。
いつかは歩けなくなって、ベッドに寝たきりになる。
食事も会話も難しくなることは承知していたが、もっと先の話だと勝手に思い込んでいた。
膵臓癌になって、あらゆる状況が一変する。猶予など残されていなかった。
今回どうして急に動けなくなったのか原因ははっきりしないけれど、誘因要素は既に在るわけで、この受け入れ難い現実からも逃れようがない。

急激に変わっていく母を受け入れる。どう変わっても私の母だ。

今回の入院はショートメールも打てない様子。
かろうじてかかってくる電話の声も、口が動かしにくいのか会話の内容が聞き取りづらい。けれど、いつも泣いているのはわかる。
母の様子を見に行けないのは本当に困った。
『会いに行く』そんな簡単なことも難しい状況にあっては、何かしてあげたくても、どうすることもできない。

四六時中、母の事を考える日々だった。
自宅に連れて帰るにはどうしたらいいか、ケアマネさんと何度もやり取りをした。
介護に纏わる制度は実に難解だ。
知らないことばかりで、聞いても理解できないことも多かった。

早く自宅に帰れる環境を作ろう。それが私にできる唯一のことだ。

この頃、生まれて初めて泣きながら起きることを経験した。
今ではうっすらとしか思い出せないが、とんでもなく悲しい夢を見たことは覚えている。夢の中でも泣いていて、目が覚めると実際に号泣していた。
連日、心がすりおろされるような感覚に心底へとへとだった。
泣くと心の均衡が保てる、とか何かで読んだような気がしたが、そんなことなかった。

いい歳して情けない話だけれど、どうしようもなく母が恋しかった。



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