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ドラえもんになる⑫母と私

 母の容体は一進一退。
脊髄小脳変性症の症状を緩和するため、14日間の点滴治療が始まった。
この点滴治療は、これまでにも何度もしていて歩行がスムースになる効果があったものだ。

日に二度程かかってくる電話で母は
「今日もね、歩く練習したよ」
と、教えてくれる。やはり、会話は聞き取りにくい。
午前と午後にリハビリが組まれていて、動かなくなった両足で母は懸命に歩行訓練を受けていた。
歩いて自宅に帰ることを諦めていないのだ。

だったら、私もその思いに応えたい。
ケアマネさんと相談して、ショートステイをうまく利用しながら在宅で過ごせるように環境を整えることにした。
仕事は概ねオンラインでいいが、出掛けなければならない時もある。
母を自宅にひとり留守番させられないので、その時に利用できるショートステイ先をケアマネさんが見つけてくれた。
看護多機能型居宅介護施設(看多機:カンタキと略すらしい)。
母の事がなかったら、知ることのなかった施設だ。
夫と一緒に見学に行く。
管理者の方に施設の説明を受けて、館内も見学させて貰えた。
アットホームな印象で、ここなら安心して母をお願いできそうだと思った。

「まだまだ何年も先の話だけど、最期はやっぱり家がいい?それとも病院?そのうち教えてよ」
少し前に、母とこんな話をした。すぐに結論など聞くつもりはなくて、何かのついでに母の本音が拾えるといいなと思って投げた問いだった。
思いがけず、すぐに答えが返ってきた。
「最期は病院がいい。今の先生に看取ってもらいたい。それまで先生は辞めたりせんよね?でも転勤もあるもんね?」

それが母の望んでいる最期なんだな、と静かに理解する。
だったら、それにも応えよう。

看護多機能型居宅介護施設を利用すると、その施設の在宅医が看取りをするのだそうだ。
管理者の方に事情を説明して、容体が悪化したら病院に搬送して貰えないか相談する。
スタッフの方と協議をしてもらい、お返事をいただくことにした。

 私は本業とは別に、専門学校の非常勤講師をしていて、二科目を三学年に教えている。
私が出かける時、母は歩行器を押して玄関までいつも見送りをしてくれた。
講義に出かける日も、
「今日は学校の先生の日ね?頑張ってね」
と送り出してくれた。
 講義に行っていた曜日を覚えていたのだろう。
電話を切るとき、不意に母が
「てんちゃん、今日は学校の先生の日ね?」
と言う。
「よくわかったね。今日は学校の日よ」
「頑張ってきてね」

たったそれだけの、何でもない会話に涙がつたう。
母が家にいた時のことを思い浮かべてしまう。
玄関の隅っこまで歩行器を押して歩いてきて、えへへと笑いながら
「またあとでねー」
と見送ってくれた母は、今もひとりで懸命に闘っているのだ。
私がへこたれる訳にはいかない。

母の受け入れ先の調整やケアマネさんとの打合せ。
介護用ベッドを母の部屋に入れるための片付け。
病院に母の着替えを取りに行く。
当たり前だが仕事。
一日一日が目まぐるしく過ぎていく。
何かしていないと、心がどうにかなりそうな気がしていた。

 母からの着信。
今日の電話の内容も聞き取りにくい。
けれど、その声もだんだん慣れてきて、何を言いたいか、言っているのかわかるようになった。
母が一生懸命、喋る。聞いて欲しいのか、何回も言い直しながら私に話してくれた。
何度も何度も夢を見るのだと。
病室で寝ていると私が迎えに来て、家に帰る夢を見るのだと。
家に帰る夢ばっかりみるけど、目が覚めて病室の天井だとわかって、
「なーんだ、夢かぁ~って思うとよ」
そう言って、とても寂しそうに笑っていた。

わかった。それにも応えるよ。
まるでドラえもんにでもなったかのように、母のお願い全てを叶えるつもりでいた。
母と過ごせる時間にカウントダウンが始まっているなんて、8月下旬の私は知らなかった。

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