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大アジア思想活劇ーー仏教が結んだ、もうひとつの近代史

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教談師・野口復堂、神智学協会・オルコット大佐、スリランカ人仏教徒ダルマパーラ、そして田中智学などなど、十九世紀から二十世紀の正史、秘史を彩る人物たちがアジアを股にかけ疾駆する近代… もっと読む
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はじめの口上|大アジア思想活劇ーー仏教が結んだ、もうひとつの近代史

はじめの口上|大アジア思想活劇ーー仏教が結んだ、もうひとつの近代史

明治二十一(一八八八)年の天竺武勇談

「古来印度の事をば我国では天竺と称え、雷の住宅は必らず天竺の横町で、之を姓にしたのが徳兵衛と云う海賊で、復堂は海賊に近いのか赤松連城師より、入竺居士の号を貰った。復堂が僧であったら入竺沙門と来て唐へ留学した弘法大師の入唐沙門釈空海と同格、否以上である。さて復堂何等が故に入竺せしかと尋ぬれば……」*1

野口復堂(善四郎 元治元年生まれ)は無名の噺家、否、「教

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1オルコット大佐来日まで~白人仏教徒からの手紙|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

1オルコット大佐来日まで~白人仏教徒からの手紙|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

キリスト教の大攻勢

本文でもまた、野口復堂の『教談』から口火を切らせてもらった。さて、明治維新の大混乱もひと段落した明治時代の中頃である。切支丹の禁令から数百年ぶりに日本国内での信教の自由を獲得したキリスト教徒は、西欧化の時流にも乗じて、日本各地で活発な布教活動を展開していた。明治初頭の廃仏毀釈による打撃からようやく立ち直りつつあった仏教勢力もこれに対抗の動きを見せ、両者の間で、宗教論争が激しく

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2日本仏教と明治維新~廃仏毀釈からの手探りの復興|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

2日本仏教と明治維新~廃仏毀釈からの手探りの復興|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

近世仏教の姿

……と思ったがその前に、ここで、日本仏教が当時置かれていた状況について少し振り返ってみたい。日本仏教の歴史は、欽明天皇十三(西暦五五二、一説に五三八)年、百済の聖明王の使者により仏像と経典が初めて持ち込まれた史実をもってスタートした。以来、千数百年の長きにわたって、仏陀の教説は日本独自の発達と粉飾を遂げ、世界史上に誇り得るさまざまな文化・思想を生み出してきた。しかし「日本仏教史」と

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3オルコット招聘運動顛末|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

3オルコット招聘運動顛末|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

オルコット招聘運動と平井金三

ヘンリー・スティール・オルコット著『仏教徒教理問答集ザ・ブッディスト・カテキズム』日本語版の出版によって、インド神智学協会と日本仏教徒の通信はがぜん活発化した。明治十六(一八八三)年に建てられた鹿鳴館に象徴される欧化主義は、この頃ようやく反動期を迎えつつあった。折しも明治二十一年には三宅雪嶺、志賀重昂らによって雑誌『日本人』が創刊され、国粋主義の旗が論壇にも翻る。キ

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4平井金三と野口復堂~日本仏教を世界へ開いたパイオニア|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

4平井金三と野口復堂~日本仏教を世界へ開いたパイオニア|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

ここまで駆け足で、オルコット招聘運動の経緯を述べたが、重要な人物が二人登場した。平井金三と野口復堂である。この後も何度か繰り返して触れることになると思うが、いま分かっている範囲で「列伝」風に解説してみたい。

平井金三の生い立ち

平井金三(ひらい きんざ)は明治大正時代の英学者。安政六年十月二十五日、京都に生まれる。父は儒者で書家でもある平井義直(春江)、母は山科の西宗寺の出身。幼名は鱗三郎で、

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5神智学協会インドへ!~ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

5神智学協会インドへ!~ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

スリランカ仏教の恩人──その意外な素顔

印度天竺は東南の海に、マンゴーのごとく浮かんでいる島国、スリランカ民主社会主義共和国。その実質的な首都コロンボの鉄道ターミナル駅にあたるのがフォート・ステーション。ランカー各地から長距離バスやら鉄道で流れ込む、褐色の雑踏行き交う駅舎の正面には、豊かな顎髭をたたえた格幅のよい初老のアメリカ人紳士の銅像がすっくと立っている。駅前を走るメイン・ストリートもまた、

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6インド洋の「仏教国」スリランカ~その受難の近代史|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

6インド洋の「仏教国」スリランカ~その受難の近代史|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

光り輝く島

いまや九億もの民がひしめく喧騒のインド亜大陸から東南約三〇キロメートルの海に、前章ではマンゴーと謂いましたがむしろ洋梨か、いや乙女の涙粒のごとき姿をさらした大きな島がある。この島全体がスリランカ民主社会主義共和国であり、六四、四五四平方キロメートルつまり北海道よりひとまわり小さな面積に約千八百万人の人口を抱えている。ご年配にはセイロンという呼び名のほうが通りがよいだろう。スリ・ランカ

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7パーナドゥラの論戦~世界史を動かしたキリスト教VS仏教の言論対決|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

7パーナドゥラの論戦~世界史を動かしたキリスト教VS仏教の言論対決|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

パーナドゥラで何が起きたのか?

西暦一八七三年八月二十六、二十八日の両日。コロンボから南に十五マイルほど下った海辺のパーナドゥラ村で、スリランカの歴史に残る公開宗教論争*15が繰り広げられた。対論者はメソジスト派のデイヴィツ・デ・シルヴァ牧師ら二人のキリスト教宣教師、そして仏教僧ミゲットゥワッテ・グナーナンダ長老(Ven. Migettuwatte Gunananda Thera一八二三〜一八九

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8白い仏教徒の闘い~プロテスタント仏教の創生|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

8白い仏教徒の闘い~プロテスタント仏教の創生|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

神智学協会インド上陸

「旅の始まりはひどかった。船酔いに熱気と、それからアリア・サマジのボンベイ支部長から届いた多額の請求書──それがHPBを爆発させ、暴涜の言辞を吐かせた。にもかかわらず、協会の選んだ道は正しいものだった。」*19

一八七八年十二月十七日、ニューヨークを発った二人の神智学徒は、ロンドンを経て翌一八七九年二月十六日、インド西海岸の大都市ボンベイに到着し、積極的な講演活動を開始す

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9「ランカーの獅子」の誕生~ミッションスクール・神智学・パーリ語|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

9「ランカーの獅子」の誕生~ミッションスクール・神智学・パーリ語|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

その生い立ち

「ダルマパラなる語は梵語にして漢字に訳すれば「護法」となり。而して法名である。戸籍上の俗名はクリスチヤン・ネームでエッチ・ドン・デビッドで錫蘭セイロン人でありながら亡国の民の悲しさブリッチッシュ・サブゼクト即ち英国臣民であって生れしところは錫蘭島のコロンボで、家は家具製造を職とする。
 島中屈指の富豪の嫡男なるが、生来脚に病あり。二弟をして英国倫敦の大学を卒業せしめ、一は家職を次ぎ

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10 ダヴィッド少年がダルマパーラを名乗るまで~神秘・辺境・ナショナリズム|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

10 ダヴィッド少年がダルマパーラを名乗るまで~神秘・辺境・ナショナリズム|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

ブラヴァツキー夫人のインド追放

ダヴィッド青年がアディヤールでの短い滞在を終えてセイロンに帰還し、貝葉をめくってパーリ語の習得にいそしみ始めた頃、彼の崇拝するブラヴァツキー夫人は人生最大の危機を迎えていた。彼女の反キリスト的な過激な言動はインドで活動する宣教師たちの目の仇だったが、このとき宣教師たちは彼女の起こした奇跡にまつわるトリックの証言者を担ぎ出し、大々的なスキャンダルに仕立て上げることに

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11 野口復堂 コロンボでの出会い~幽閉されたエジプトの英雄|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

11 野口復堂 コロンボでの出会い~幽閉されたエジプトの英雄|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

コロンボ上陸まで

インド・スリランカの近代史を概観しているうちに、野口復堂先生の漫談からずいぶんと遠ざかってしまった。ここからは心機一転、楽しく教談ぶりにゆきたいと思う。

さて、オルコット大佐を日本に招聘すべく決死の覚悟でインド行きを決意した復堂センセイ。明治二十一(一八八八)年九月九日神戸港での涙の別れから、船は香港・サイゴンと来て暑気はますます加わって、さすがの復堂センセイも船室には居れず

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12 野口復堂 セイロン珍談集|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

12 野口復堂 セイロン珍談集|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

スマンガラ大長老との会見

もうしばらく、野口復堂のセイロン滞在記にお付き合いのほど御辛抱願いたい。さて、アラブの英傑アフマド・オラービーとの印象深き邂逅の、後か先かは定かではないが、復堂の口上に依ればその次にあたる訪問先は、セイロン仏教界の重鎮にして仏教復興運動の大イデオローグ、シャム派(貴族派 由来は後述)のスマンガラ大長老である。日本仏教の使者としてセイロンを訪れた復堂。当然ながら島の仏教関

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13 野口復堂 ついにインド上陸|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

13 野口復堂 ついにインド上陸|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

南の島の天長節

そんな調子で密度が濃いんだかなんだかわからない日々を過ごしていた野口復堂。ほかにもセイロン人の結婚式に立ち合った際の印象記やコロンボの街頭で救世軍の一団を目撃し、その物真似をネタとしてマスターした逸話など、おかしな話題は枚挙にいとまないが割愛しておく。

ちょうど来島一カ月に足らんとした頃に、復堂は南アジアの小島で十一月三日の天長節(天皇誕生日)を迎えた。

「公使館か領事館があ

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