最近の記事
40 ひとつになった仏教世界(下) 「仏教国日本」の再建とアジア仏教徒の受難|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
世界仏教徒連盟会議とサンフランシスコ会議 一九四七年八月十五日、英領インドはインドとパキスタンの分割という形で独立した。翌年二月、スリランカも英連邦内の自治領セイロンとして、整然と独立を果たした。 それから間もない一九五〇年五月、スリランカの首都コロンボにおいて、偉大なパーリ語学者にして在家仏教指導者G・P・マララセーケーラ博士(Gunapala Piyasena Malalasekera一八九九〜一九七三、彼は青年期にダルマパーラの仏教復興運動に共鳴して自らシンハラ名
マガジン
記事
37 その後のダルマパーラ 1915年セイロン暴動、サールナートでの出家と死|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
セイロン暴動 ダルマパーラの最後の来日から二年後の一九一五(大正四)年は、一八一五年にセイロン最後のキャンディ王朝がイギリスによって滅ぼされてから百周年にあたり、仏教雑誌である『大菩提雑誌』誌上にも獅子をあしらったランカーの国旗、民族意識の覚醒を呼びかける論説や詩が掲載された*68。この年のウェーサーカ祭の最中に起きたイスラム教徒とシンハラ仏教徒の衝突事件(後述)を発端として勃発した大暴動は、それを反英運動の一環とみなした英国官憲の介入を招くに到った。植民地当局は六月二日
【書評】杉本良男著『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』佐藤哲朗(『近代仏教』第29号、2022年5月発行 日本近代仏教史研究会)
仏教モダニズムとは何か? スリランカを主なフィールドの一つとしてきた社会人類学者・南アジア研究者が上梓した本書は「仏教モダニズムが、スリランカにおいて、アナガーリカ・ダルマパーラの影響力のもとで、とくにナショナリズムとの関係において、現代に至るまでどのような展開をみせてきたのかについて総合的に考えようとする、人類学的、系譜学的研究」(はじめに)である。著者は一九八〇年代から同地で吹き荒れた宗教民族紛争を身近に経験するなかで、大英帝国の植民地支配下で仏教復興運動を主導した
34 ダルマパーラと田中智学の会見(下)日露戦争と「人種闘争の世紀」の幕開け|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
瀧口での談話──仏教信仰と実践をめぐる智学との「論争」 達磨「十波羅蜜の実行、即ち妙法の修行にして、これを以て直ちに妙法の真理を證得することを得べしと考う、如何。」 智学「決して然らず。それは妙法の根本義を把住したる上にて、三学六度十波羅蜜も任運に本法化せられて真理と融即すべしと雖も、若し妙法の根本義に住立せざるに、十波羅蜜を行ずるも、是れ猶砂上に殿宇を築くが如し。故に先ず根本たる妙法を信奉して、然る後に枝葉を活動すべしというが、日蓮上人の主張なり。」 達磨「自行の時
33 ダルマパーラと田中智学の会見(中)日蓮宗の海外布教を促す|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
対鶴館における談話──ダルマパーラの「悪評」 明治三十五(一九〇二)年六月二十三日、鎌倉対鶴館における二人の「獅子」の座談は昼食を挟んで続いていた。和やかな席で、ふと智学はダルマパーラの随員工藤恵達のほうを向き、ダルマパーラに関する「悪い風評」について問いただした。 智学「予は世間に、ダルマパーラ氏に対し悪感を懷きて之を謗るものあるを耳にす。予はこれに就いてその事情を尽し、もし事何かの行き違いならば、氏のためにその冤を雪がんと欲す。もしまた事実ならば、ダ氏を戒論せんとす
32 ダルマパーラと田中智学の会見(上)二人の 「獅子」の出会い|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
二人の「獅子」の出会い 明治三十五(一九〇二)年六月二十三日、来日中のアナガーリカ・ダルマパーラは鎌倉に田中智学(一八六一〜一九三九)を訪ねた。田中智学は在家の仏教活動家として日蓮主義に基づく近代日本の国体思想を確立し、昭和初期に台頭した右翼革命運動にも大きな影響を与えた一代のカリスマである。ダルマパーラと智学の出会いは一度だけのものだったが、智学は晩年までこの邂逅を記憶し続けた。ダルマパーラもまた、智学を「日本の宗教上の偉人」として称えた。幸いにもほぼ完全な形で残された当
31 ダルマパーラ 一九〇二年の来日 近代アジアの運命を見据えて|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇
アメリカでの布教活動 正式な得度の儀式を受けず、黒い巻き毛をたたえたまま、僧侶の衣装である黄衣をまとった「異形」の仏教者アナガーリカ・ダルマパーラ。彼は十九世紀の末から二十世紀にかけて、世界を股にかけた活躍を始める。一八九五(明治二十八)年から翌年にかけてのブッダガヤ紛争を通じて、ベンガルの進歩的知識人層の間に仏教徒への同情が高まっていた。その結果として一八九六年五月二十六日、カルカッタでインド仏教の滅亡以来数百年ぶりに釈迦牟尼ブッダの誕生日が祝われた。ブッダガヤ大菩提寺を