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36 冷遇された最後の来日 汎アーリア主義の叫び|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


ダルマパーラへの冷遇

大正二(一九一三)年四月、ダルマパーラは四回目の来日を果たした。彼にとって最後の日本滞在となったが、前三回とは大きくその様相を異にしていた。彼は日本の仏教界からほとんど無視された。

日本の仏教新聞における報道も一概に冷淡で、甚だしきは「この度の(ダルマパーラの)来朝に関しては、仏教徒中誰一人として歓迎する者な」い理由として、仏跡復興のための資金集めに関するダルマパーラのスキャンダルを大々的に紹介し、彼を「世界的詐欺師、佛教破壊者」と誹謗中傷する記事までが掲載された*53。

一方、来日したダルマパーラ自身も、日本仏教の停滞に対して強い失望と苛立ちを感じていた。同年五月、「煙草の吸い過ぎ」と気候の変化で体調を崩し、駿河台浩養館に静養していたダルマパーラは、『中外日報』記者のインタビューを受けた。記者が「先年の来朝の時と今回とを比較して、日本仏教の変化について話してほしい」と質問したのに対して、ダルマパーラは「感慨多き色を面に、さも残念そうな色をあらわしつつ……」こう答えている。

 私が明治二十一年初めて日本へ来た時は物質的方面の文明は極く幼稚な者で完全な写真さえも出来なかった。然るに今は亜細亜のみならず世界に於ての物質の最も進歩したる日本である。其内唯一つ仏教の発展せないのは誠に残念である。日本へ四度来ました経験に由りて考えまするに仏教は日本の社会に活動力を失いつつある様に見える、総て事物が太陽の登る国としての日本にあるに拘わらず、仏教のみが日の西山に没する様にだんだん衰えて行くのはどういう理由であろうか、釈尊一代の宝行は夜を日に継いで真理を教える為めに活動すると云うのが本義であった。
 印度の仏教は亡びセイロン、ビルマ、シャム等の仏教は悉く半死の状態である、此際日本の仏教が生きて働いてくれなかったならば世界の仏教は滅亡する一方である。如何すれば日本の仏教を充分に発展さす事が出来るかは日本の国情を充分に知らない自分には解らないが、とにかく何とかして貰いたい、前に来た時は世界の仏教の連絡を取るために英文の仏教雑誌が発行されていた、海外宣教会というものもあった、其次に来た時は万国仏教青年連合会があった。そういうものが日本の発達とともに発達せねばならんのに今その現状を知ることが出来ぬ云々

*54

日本の繁栄と仏教とを不可分のものとして捉えていたダルマパーラからすれば、日本の物質的発展と仏教復興とがリンクしていない、という現実に大きな戸惑いと苛立ちを感じたとしても無理はないだろう。しかし、それは偽りようのない日本の現実だった。

実際、明治の後期に盛り上がった革新的な新仏教運動は、大正時代に入るまでにはほとんどが廃れていた。

仏教運動という空虚

社会主義思想が活動的な青年を魅了する一方、現代の価値相対主義のごとく多種多様な思想的アイテムを弄んだ大正時代の知識人層にとって、明治期の破邪顕正的な宗教運動や信仰問題をめぐる熱い論争など、もはや「現代人の心には何も感鳴もない」(『明治宗教史』島地大等)ものにまで成り下がっていた。「現代の新人は、彼らの思想中より、一切の既成宗教を葬り去って、それ等には、何の執着も、未練も持って居ない。……自我自体の本質的生命を、所謂宗教と云うものからは求めぬことにして居る。」(同上)

清濁ともに大正という時代の刻印を生涯引き受けて生きた詩人、金子光晴は、島地の言葉を裏打ちするようにこう述べる。

 少なくとも、大正という時代の子には、宗教への正確な要望が希薄だった。換言すれば、宗教など不要な、そんなものを思いつかなくても、みちあふれていっぱいな時代だったのだ。

『這えば立て』*55

ただし、この言葉は、二・二六事件を昭和になって噴出した宗教の復讐とみなした述懐だが。

宗教無用論が時代の流れだったとしても、そこには当時の日本仏教界が抱えていた問題も投影されていたはずだ。例えば木村泰賢は、「仏教運動」なるものの原理的な脆弱性を次のように指摘する。

……総じて仏教運動に欠けている大事な要素がある。即ちそれは思想的立脚地の確定し居らぬことである。換言すれば仏教運動と称しながら実は仏教思想をいかように体系づけ、之をいかように現代的に実現するかの根本方策を欠いて、ただ漫然と仏教主義とか仏陀の精神に基づいてとかいうが如き表幟を以てすることである。

*56

このように思想的あいまいさをついに払拭できなかった「仏教運動」は、明治末から隆盛を見せ始めた左翼マルクス主義運動に容易にスポイルされていった*57。また、国家創世神話と仏教伝来が抜きがたく結合しているスリランカと比べると、日本では仏教とナショナリズムを結合させる試みさえ、天皇崇拝を頂点として諸宗教を同化する国家イデオロギーに取り込まれ、解体・解消されてしまう頼りなさ、脆さをはらんでいた*58。

「印度の志士」ダルマパーラ

来日中、ダルマパーラは一般新聞紙上では、「印度の志士」として紹介された*59。

前年の一九一二(明治四十五、大正元)年、ダルマパーラはナショナリストたちの先頭に立ち、スリランカで公布された憲政改革案を激しく批判し、鉄道労働者のストライキを支援する活発な働きをしていた。いきおい、残されている日本での彼の発言にも、反英・反欧米植民地主義を強く訴える政治的なアジテーションが目立つ。

米国カリフォルニア州の排日法案の行方が新聞を賑わせていた時節柄、西欧での排日・黄禍論の跋扈に対しては激烈な批判をなしている。

 イギリスの支配者はインドの民衆に教育を施しません。それは教育を施せば統治するのが難しくなると考えるからでしょう。しかし日本人は植民地である台湾と朝鮮でアヘンを禁制にし、人々が生活の機会を得らえるよう様々な教育機関を設立しました。イギリスでは子供たちに、学校で麻薬によって堕落のどんぞこに落ちた奴隷状態の中国人の絵を実例として示して、アヘンに触れないように教え込みます。しかし彼等はそれと同じ怖ろしいドラッグを、インドと中国には強要している! それがクリスチャンのいう「愛と道徳」の逆説なのです。
 今日、私は見学のため中国の寺院へと連れていかれました。するとひとりの中国人が私を見つけて、一服のアヘンを求めました。インド人はアヘンの下請業者として、中国人から重宝がられなければならないのです。西洋人たちは、三億人のアジア人を彼等の足で踏みつけつつ、黄禍(Yellow Peril)を嘆いている、それを考えると、私は血がたぎります。
 西洋人は黄禍(Yellow Peril)を叫んでいます。しかし我々が共同で行動し、取り組まねばならないのは「黄禍」などではなく、白人の脅威(White Peril 白禍) なのです。

*60

 黄禍(Yellow Peril)をくどくどと主張し続けることはヨーロッパ人たちの政治的トリックなのです。……白人の脅威こそが現実です。黄禍論はアジアの現実をごまかすためヨーロッパの外交戦略で作られた幻なのです。

*61

ダルマパーラは八月に入ると日本を離れ、朝鮮と満州の視察も行ったが、あくまで日本の植民地政策に理解を示し、これを手放しで賞賛している。

 日本に対する関心から、私は英国人やアメリカ人が書いた日本に関するすべての書物を読みました。日本の朝鮮や満州における植民政策は、多くの英語新聞の特派員から「日本はその成すべき仕事をやっていない」として批判されていました。私は自分自身で、彼らの批判が真実からどれだけ遠いものなのか視察したいと望んでいました。私はあなた方(日本)が過去七年間になし遂げた、素晴らしい事業の進歩に満足しています。私はすでに多くの手紙を書き、その中であなた方が朝鮮や満州で数年間のうちに成し遂げた事業に、イギリスならインドで五十年を費やしたかもしれないと報告しています。

*62

実際、この年(一九一三年)四月から五月にかけて石橋湛山が『東洋経済新報』誌上に掲載したデータによれば、日本は朝鮮などの植民地に人口比では内地並みの莫大な予算をつぎ込み、鉄道・港湾・都市基盤などのインフラ整備を行っていた。石橋は日本の植民地政策が「経済的見地より生れ来りたるものにあらずして、全く軍国主義の施政方針より割り出だされたるもの」*63として批判したのだが、インドをはじめとする植民地を徹底した経済的収奪の対象としたイギリスの姿勢と引き比べれば、ダルマパーラが日本の植民地経営に憧憬の眼差しを送ったとしても不思議ではなかった。

汎アーリア主義の叫び

しかし、彼の日本に対する過剰ともいえる期待の背景には、彼独特の文明論的視点が色濃く投影されていた。以下は大阪朝日新聞主催で開かれた講演「世界への日本の義務(Japan's Duty to The World)」のなかの一節だ。

 私に代表されるインドのアーリア人種は、古代のアーリア文明が多くの恵まれた国の子孫たちによって保存されたことを喜んでいます。インドを故国とする、偉大なアーリア化されたファミリーは、日本人・朝鮮人・モンゴル人・中国人・タイ人・カンボジア人・ビルマ人・チベット人・シンハラ人に属し、八億人を数えます。偉大なアジアの兄弟関係(Brotherhood) は日本のリーダーシップの下で世界史のなかに再び失われた地位を回復することが可能になるのです。

*64

ダルマパーラは日本をして「インド発祥のアーリア文明の現代における復興者」と持ち上げた。ダルマパーラがその闘争と宣教の舞台としたのは偉大なアーリアの伝統と、そのもっとも昇華された形態である「仏陀の教え」のかつて広められた、そしていまは隷属の大地である、「ひとつのアジア」だった。ダルマパーラにとって日本は、滅びかけた偉大なアーリア文明のエートス、つまり仏陀の教えがいまも息づく希望の国だったのである。

 アーリアン文明は、十全に育った樹木の果実として、日本──神々によって特別に恵まれた土地──に植えられました。六世紀以降、この非常に恵まれた大地に暮らす人々は、あらゆる外敵による侵略と妨害を受けずに栄えたのです。

〝Japan's Duty to The World〟

そして、ダルマパーラの遠大なアジア復興(=汎アーリア文明の再興)のビジョンのなかでは、日本に特殊な歴史的使命が与えられていた。彼は日本の国力が西欧列強に引けを取らないことを強調し、「日本がアジア人種の運命を導いてゆくことは、その優れた地位ゆえ完全に正当化されるのです。」*65とまで断言した。

『道会』での講演録

四度目の来日時のダルマパーラが残した日本語テキストとして、現在のところ筆者が確認した範囲で唯一まとまっているのが、松村介石(一八五九〜一九三九)*66が会長を務める修養団体『道会』機関誌に掲載された講演記事である。

松村介石

彼の祖国スリランカにおいて、キリスト教宣教師による善意の布教活動が、結果として植民地支配の尖兵として機能した事実を述べ、日本人への警告としている。幼少期、キリスト教学校での教育を受けたダルマパーラならではの洞察が込められた文章だが、ここで彼は人種進化論への恐怖を延々と語っている。

 およそ世に最も恐るべき言葉は優勝劣敗適者生存の八字にして、諸君はこの八字を進化学上、動植物の上において、軽く面白く趣味ある学説として机上に玩弄さるヽならんが亡国の遺民として、黒奴の一員として、この八字を見る時は、実に涙に血を混ぜざるを得んのであって、(中略)そもそも印度人は往古はともかく、今後劣敗者として、また生存不適者として、この地球表面より次第〳〵に葬り去らるべきものであろうか、この問題の研究はひとり印度人ばかりがなすべきものに非ずして、大いに諸君日本人が主としてなすべきの急務であろうと思う。

「泣いて日本人に警告す」『道』第六十五号、大正二年九月

いわゆる白色人種をすぐれた人種とし、インド人や日本人を含むいわゆる有色人種を劣等人種とする偏見を打ち破った日露戦争について、

 実にこれほど痛快な事はない。また我々日本以外のアジア人は、いかに諸君の活動によって励まされたか、死から復活したかは、恐くは諸君親みずからも気付かざる程であろう……

同上

ここまではお決まりの話であるが、彼はこの人種闘争の時代において宗教が果たす役割を強調する。

 まず優者が劣者の国を奪わんとする手始めには、……宗教を利用して劣者の心魂から奪い始めるのである。この仕事をさすには普通仕入れの逮夜坊主的の宣教師ではいけない、最も徳の勝れた良宣教師を派遣する。而して気の毒なことにはその派遣された宣教師はそもそも己れが利用され居ることを知らざるのみか、己のが背後に奸譎かんきつなる商人や、獰猛なる政治家や軍艦が控え居る事さえ知らず、神は愛なり父なり、四海は兄弟なりと、真面目に神道人道を説き、実践躬行以て到る所良民をその徳風に感化し去て、白人は有難き者と充分信仰させるのである。(中略)諸君が善事と思って受けられた洗礼が、後日国家を滅ぼす種蒔きをしたことになるのである。

同上

当時にあっても、このような極端な「キリスト教の植民地支配尖兵説」は日本の状況にまったくそぐわないものであったろう。いわゆるキリスト教亡国論を吹聴し続けた日本仏教の「破邪顕正」運動の退廃が、大正初年における仏教運動の停滞を招いたといえないこともない。しかし、ダルマパーラはあくまでインド・南アジアにおける英国植民地支配の経緯に基づいて語っていた。

 印度に悲歌慷慨の士は古来無いのではない、広き意味において云えば挙国皆悲歌慷慨の志士であるのである。然るに国家をして、今日の悲境に沈淪せしめたのは、果して誰れであるかと問えば、別人でない即ち印度人にして基督教を奉ずる者が中心となって、常に愛国の士を抑圧したからである。印度人にして権勢を欲ほっする者は必らず基督教を奉ずる左さなくては栄達の途みちがない、その栄達と云い権勢と云うも白人が好んで与えるでない、いわゆる毒を以て毒を制するの策に出で、彼等をして獅身中の蟲の働きをなさしむるのである。

同上

幼い頃から「真面目に神道人道を説」く宣教師によって少なからぬ感化を受け、「印度人にして権勢を欲る者は必らず基督教を奉ずる左なくては栄達の途がない」英領セイロンでの出世の道をあえてドロップアウトしたダルマパーラの、苦い思いが透けて見えるようなテキストである。

革命の坩堝・試練の道へ

当時の『道会』ではダルマパーラ終生の友であった野口復堂が教談振りで大活躍しており、オルコット招聘運動の中心にいた平井金三も道会創設期からのメンバーであった。この講演記事は、彼らとの古いコネクションによって掲載されたものと思われる。

ダルマパーラの講演録が掲載された翌々月の『道』には日本でヒンドゥスタニー語の教授をしていたインド独立運動家、モハンマド・バルカトゥラー(Abdul Hafiz Mohammad Barkatullah)による論説「予が祖国」も掲載された。

Abdul Hafiz Mohammad Barkatullah
https://thelogicalindian.com/history/mohammad-barkatullah-bhopal-35314

戦前の大アジア主義イデオローグとなった大川周明は、若き日にこの道会に関わっていた。これらの記事は、ちょうどその頃インドの現実について目を開かれつつあった大川周明に、強いインパクトを与えたとされる。

来日中、ダルマパーラは二人の探偵に監視されていたという。英国当局は彼と日本人仏教徒とのコネクションに対して非常に神経質になっていた。スリランカに帰国した後、彼は一九一四年四月にベンガルに赴くが、まもなく第一次世界大戦が勃発すると、セイロン植民地相 R.E.Stubbs(のちの第十六代香港総督)は「(ダルマパーラは)インド人不満分子と外国製力とを仲介することで合意したらしい。」と決めつけ警戒を募らせた。同じくベンガル地方長官も「ドイツ内のインド人政党は日本人を通じて活動しようと画策しており、またダルマパーラがその陰謀の重要な役割を担うことに期待している。」とした報告書を残している*67。

当時の日本には前述のバルカトゥラーなどインド人革命家が滞在していた。ビルマ独立の礎を築いた革命僧として名高いウー・オッタマ(U Ottama 一八八〇〜一九三九)は、伊藤次郎左衛門祐民の外護を受けて日本とのコネクションを強めていた。中国大陸で袁世凱との戦争に敗れた孫中山(孫文)ら革命派幹部の多くもまた、日本を亡命の地に選んでいた。

日本におけるウ・オッタマ
https://www.irrawaddy.com/specials/on-this-day/death-british-burmas-anti-colonial-monk.html
ウ・オッタマ(ビルマ独立の父)初版 大日本雄弁会講談社 昭和18年
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=418153516

大英帝国アジア支配の片棒を担ぐことを余儀なくされた日英同盟体制下、それは決して国家政策ではなかったにせよ、日本は事実上アジア植民地解放運動のセンターがごとき役割を果たしていたのである。ダルマパーラが従来の「仏教活動家」というイメージから離れ、「印度の志士」という称号を与えられたのは、至極当然の成り行きであった。

日本を離れた後、「ランカーの獅子」の前途には長く苦しい試練が待ち受けていた。


註釈

*53 『中外日報』大正二(一九一三)年五月九日。ちなみにブッダガヤ奪還運動における「敵役」だったマハンタはこの前年、明治天皇の崩御に際して、大日本仏教青年連合会幹事の来馬琢道に託して丁寧な弔辞を送っている。それを報じた大正元(一九一二)年九月十九日の『中外日報』には、「右のマハンタ師は、非常に日本人を畏敬し邦人の同地に巡拝する者ある時は宿舎の便を謀り、貴重なる宝物を【二文字判読できず】し、時には秘蔵の大象を貸与して各地を巡拝せしむるなど厚意を尽し……」と好意的な言葉が並ぶ。いたずらに宗教対立をあおるばかりで何ら成果を見せないダルマパーラへの日本仏教徒の違和感は、ブッダガヤ奪還運動の対立図式そのものを疑うところまで進んでいた。それはダルマパーラ個人の資質以上に、インド主流宗教との対立を通じて輪郭の鮮明な正典宗教として歩んできた上座部仏教と、伝来当初から三教一致のシンクレティズムの影響を受け、むしろヒンドゥー教的ごった煮宗教の発想に馴染んできた日本大乗仏教の伝統の違いにも関わる問題かもしれない。

*54 『中外日報』大正二(一九一三)年五月二十日

*55 『這えば立て』金子光晴、大和書房、一九七五年、五十九頁

*56 「新しき佛教運動と思想的背景の貧弱」木村泰賢『祖国 PATRIA ET SCIENTIA』創刊號、學苑社、昭和三年十月

*57 個人的な意見だが、日本の知識人が仏教を語るうえでの「思想的立脚地」は、本当はいまでも確立されてはいないのでははなかろうか。仏教史研究(特に近代)は最近まで階級闘争史観に拘束されていたし、経典研究にしても虚心坦懐にテキストに当たるというよりは新約聖書研究の文献批判のパターンをそのままアーガマ聖典に敷衍しようという意図が見え見えの研究が目立っていた。祖師の教えも、それがキリスト教思想なり現代の流行思想なりとどれだけ「似ている」かが第一の売りにされる軽薄な状況が続いていたと思う。

*58 この点で異彩を放っていたのは一九〇二年、ダルマパーラと邂逅した田中智学である。「日本国体」の発顕を通じて日蓮主義を世界に及ぼそうという彼のビジョンは、厭世的なイメージの強かった仏教のイメージを払拭し、マルクス主義にも対抗し得る世界的視野と実践理論を兼ね備えていた。ある意味では、仏教が、日本ナショナリズムの最も先鋭的な思想を育んだのである。
実際、昭和初期のトレンド「国体思想」のフォーマットをつくった最大のイデオローグは田中智学であり、その骨格には「時代への応答」と通じてあくまで普遍を標榜する彼の法華思想・日蓮主義が据えられていた。智学は一九二二年に刊行された『日本国体の研究』のなかでこう叫ぶ。
「法華経を形とした国としての日本と、日本を精神化した法華経と、この法国の冥合といふことが、世界の壮観として、世界文明の最殿者として、日本国体を開顕すべく日蓮主義は世に出た、日本でなくてはならぬ法華経! 法華経でなければならぬ日本!……」
ダルマパーラ最後の来日中の時期にあって、智学は活発な活動を続けていたが、両者が再びまみえたという記録はない。日蓮主義の位置付けという問題にとどまらず、いわゆる「大正生命主義」への仏教の影響も含めて、大正初頭の日本において、仏教が本当に「退潮」していたと言えるのか、筆者には正直まだよく分からない。ちなみに『近代日本の日蓮主義運動』大谷栄一(法藏館、二〇〇一年)は、この問題を考える上で必読書だ。
【note版追記】大谷栄一先生の日蓮主義運動研究は『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』(講談社、二〇一九年)に集大成されている。

*59 『朝日新聞』大正二(一九一三)年七月七日

*60 The Danger of〝White Peril〟The Rev.Anagarika

Dharmapala Lecture MBJ 1913.9,Vol.21.No.9, P192-194

*61 〝Japan's Duty to The World〟A lecture delivered in the Kansai Educational Exhibition Lecture Series,Held under The Auspices of The Osaka Asahi Shimbun, By Anagarika Dharmapala. MBJ 1913.9,Vol.21.No.9, P.177-182.

*62 The Danger of〝White Peril〟

*63 「北海の開拓」東洋経済新報社説1913.May.25,June.5,June.15(『石橋湛山全集 二巻』東洋経済新報社、一九七一年、三八三頁)

*64 Japan's Duty to The World

*65 Japan's Duty to The World

*66 キリスト教を儒教思想とりわけ陽明学の影響のもと再解釈した「日本教会」の創始者。松村介石の事跡に関しては、酒井嘉和氏のホームページ「聖中心道肥田式強健術」内のコンテンツ「肥田春充師と巨人達」にて詳しく紹介されている。

*67 Kumari、同前。大正二(一九一三)年八月九日付在独日本大使館から外務大臣宛文書「伯林新聞ニ顕レタル排日記事ニ関スル件」には、日本とアジア諸民族の提携を示す警戒すべき兆候として、ダルマパーラの日本訪問が槍玉に挙がっていることが報告されている。JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B03040820400、大正二年八月九日〜大正六年四月十九日「日露戦役後ニ於ケル外字新聞論調並操縦一件/欧州ノ部 第一巻」第一画像目(外務省外交史料館)

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