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おわりに 広島の二葉山平和塔をめぐって 被爆地と仏舎利|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


二葉山平和塔の落成式

昭和四十一(一九六六)年八月五日の夕刻、国鉄広島駅の真北に位置する二葉山(広島市東区 標高百三十九メートル)山頂は厳粛な雰囲気に包まれていた。二十一回目の原爆記念日を翌日に控えたこの日、広島市外から瀬戸内海までを見下ろすこの場所で、巨大な仏舎利塔「二葉山平和塔(ピース・パゴダ)」が、ついに落成式を迎えようとしていた。仏舎利塔は高さ二十五メートル、基底部の直径二十メートル。コンクリート製の白い基壇の上に建つ覆鉢型のドーム部と尖塔は全面ステンレス張りで、夕日を浴びて銀色の光を放っていた。基壇の上のドーム中央部には、スリランカから寄進された高さ一・四メートルの釈迦牟尼ブッダ座像が鎮座していた。

午後六時に開始された落成式典では、日本山妙法寺大僧伽の藤井日達(一八八五〜一九八五)山主が導師となり、同宗派の僧侶二百名と地元関係者二百名が参加して、仏舎利の奉安式が挙行された。

藤井日達は戦前インドに渡り、マハトマ・ガンディーに「南無妙法蓮華経」の題目を授けたというエピソードで知られる、二十世紀の日蓮系仏教を代表する傑僧である。戦前から積極的な海外布教を展開し、戦後は仏教界を代表する非暴力・平和運動の活動家として、平和憲法に体現された日本の新しい「国体」を護持すべく獅子奮迅の働きをしていた。

さて、日達らによる読経供養の後、デキシット・インド大使から故ネール首相から贈られた仏舎利一粒、テネコーン・スリランカ大使から仏舎利三粒、その他モンゴル仏教徒から贈られた仏舎利一粒がそれぞれ贈呈され、日本山妙法寺僧侶によってパゴダに奉安された。この時、塔上から千個の風船が飛ばされ、あたかも散華のごとく空一面に飛び散っていった。広島少年合唱団がコーラス「平和の歌」を合唱して、第一部は閉会した。続けて第二部・仏舎利塔の広島市への贈呈式が行われ、目録一式とともに浜井広島市長に「二葉山平和塔」が贈呈された。インド・スリランカの両大使も祝辞を述べた。

山頂でのセレモニーが終わると、午後七時半からは麓にある光町公園で、第三部・原爆犠牲者二十一周忌法要が催された。午後八時、平和塔の前で日本山妙法寺の読経が始まると、これに合わせて光町公園から提灯行列が山頂を目指した。提灯行列には、二葉山を囲む二十二町会から約千五百人が参加し、平和塔までの急勾配の山道四百メートルを赤い提灯の明かりで埋めた。麓の広場からは打ち上げ花火が夜空を彩り、二百五十人の踊り手による日本舞踊の奉納も披露された。二葉山には、新しい平和のシンボルを見ようと、夜遅くまで登山者の列が続いた*1。

昭和二十七(一九五二)年十月に広島で第二回世界仏教徒連盟(WFB)会議広島大会が開催されると、スリランカからもたらされた仏舎利の歓迎に広島全市が沸き返った。「恩讐を超えて勝敗のむなしさを説いた佛陀釈尊こそ真の平和をもたらす守り本尊であり、その御舎利こそ広島の地において、原爆に代って世界平和のシンボルとして久遠の光を輝かすものである」(『中外日報』同年十月十四日)とされ、大会期間中から二葉山頂を含めて複数の候補地が名乗りを上げていた。それから十四年かけて、ようやく広島仏教徒の念願が叶い、第二回WFB会議の「本尊」は広島市内を見下ろす二葉山頂に安住の地を得たはずだった。

広島から消えた仏舎利

しかし、事実は違った。二葉山平和塔には、昭和二十七年に広島市民が歓喜して迎えた仏舎利は収められていなかったのだ。それどころか、くだんの仏舎利はいま、広島の地にはない。原爆投下の地・広島への「仏舎利の永久安置」こそが、第二回WFB会議の総意であり、仏教徒であるか否かを問わず、それが仏舎利を迎えた広島市民の願いであったはずだ。仏舎利をめぐって、広島でいったい何が起こっていたのか。

世界仏教徒の事業となった仏舎利塔建設

第二回WFB会議広島大会で納受式が済まされた仏舎利の安置場所をめぐっては、大会期間中から市内数カ所が名乗りをあげていた。現在、平和記念公園と慰霊施設が集中している中区の爆心地、市内を一望できる東区の二葉山と並んで、市民の憩いの場である広島市南区の比治山(標高七十メートルの丘)を「仏教上からみても霊りょう鷲じゅ山せん別名聖ひじり山やまといわれる比治山が最適である」*2と強く推す声があがっていた。

仏舎利は市内中心部の国泰寺(曹洞宗)に仮安置されたが、広島市の仏教関係者らによって仏舎利塔建設世話人会が組織され、事務所を広島商工会議所内に置いた。同年十一月二十七日には「世界平和仏舎利塔建設会」(事務所:国泰寺)が発足し、募金活動や建設計画が進められる。二年後の昭和二十九(一九五四)年十二月にビルマ(ミャンマー)の首都ラングーン(ヤンゴン)で開催された第三回世界仏教徒連盟会議では、この年「全日本仏教会」を結成した日本仏教界からの提案を受けて、広島「世界平和仏舎利塔」建設に向けた世界仏教徒の協力が決議された。広島の仏舎利塔建設は、日本のみならず、まさに全世界仏教徒をあげた事業として位置づけられたのである。

Radhabinod Pal

翌年一月、インドのパール博士は広島の渡部公允師に宛てた書簡で、ラングーンにおける決議を「最も感謝(す)べきこと」と称賛し、次のように言祝いだ。

 世界の仏教徒によって建設されるピースパゴダ(平和塔)は、広島にとって最もふさわしきものであろうことを信ずる。
 歴史とは何か地上に起った事柄であるにしても、或は人々に記憶せられ、記録された事柄であるにしても、或は単に歴史家の心のうちにのみ残されるものであるにしても、真実の仏教精神によって建てられるそのパゴダは、世界の人々の前に憎悪、復讐及び恐怖に対する心を起させ、世界人類の浩大な立場に立ってその行動をとらしめ、過去の悲惨とその結果として怒る危惧にのみその感情をとらわれることからまぬがらしめるであろう。
 その塔をして、再び恐怖におののいている世界に向って次のような言葉を叫ばしめようではないか
「心が平静になり、精神がまったく統一されたときにのみ、万事はその分裂した姿でなしにその統一した姿で認められる。」
一九五五年一月
カルカッタにて
ラダビノール・パール

*3

その後、昭和三十一(一九五六)年には、比治山で仏舎利塔地鎮定礎式が執行され、前述の「世界平和仏舎利塔建設会」も、社団法人「世界平和仏舎利奉安会」に改組された。昭和三十二(一九五七)年には中国仏教界から寄付金十五万円が全日本仏教界を通じて、スリランカから寄付金英貨一千ポンドが日本政府を通じて、昭和三十三(一九五八)年にはラオスからも寄付金二十五万円が奉安会に贈られた。同年七月には、広島市議会が仏舎利塔建設促進決議を行った。比治山の仏舎利塔建設計画は万全の後押しを得て前進していたように見えた*4。

藤井日達の二葉山仏舎利塔計画

しかし、ラングーンでの決議から半年以上も前の昭和二十九(一九五四)年三月下旬、もう一つの仏舎利塔候補地であった二葉山の山頂にはもうすでにコンクリート造りの小さな仏舎利奉安塔が完工していたのである。二葉山の仏舎利塔計画は、当時日本各地で仏舎利塔の建立を進めていた藤井日達の呼びかけによって具体化したようだ*5。釈尊降誕祭(花祭り)の前日にあたる四月七日には、これを包含する大仏舎利塔の建立計画発表が広島農民会館であった。その席で披露された北村嘉津一氏の設計と模型によれば、二葉山仏舎利塔は総工費三億余円を要する大計画で、ふもとから塔までは直線の石段で結ばれ、塔の高さも約四十メートルになるとされた。起工式は同年秋頃で、完成には二カ年を要すること、費用はほとんど外国からの寄付で賄い、施主代表には中華民国(台湾)の王文成氏が就任して中国華商の全面的援助を仰ぐことがうたわれていた*6。

同月十二日午前九時半から、二葉山頂に約千名の参拝者が集い、仏舎利塔地鎮祭が執り行われた。導師を務めたのは藤井日達上人である。その日の朝、二葉山麓の國前寺(浅野藩の菩提寺として造営された日蓮宗の古刹)に仮安置されていた仏舎利が、稚児、外国代表、施主代表らに守られて二葉山頂まで遷され、高さ三メートルほどの小さな奉安塔に正式に安置された。

 まず稚児代表の献花に始まり、藤井日達上人の読経、スリランカ代表P・ヴィバヴィ長老ら五人の読経などがあり、インド代表カリダス・ナーグ博士のあいさつに続いて、インド代表から藤井上人が仏舎利を納受、中国王文成代理田中有蔵、徳川義親らの施主代表のあいさつ、続いて海外代表団、施主代表、参拝者の焼香で約二時間にわたる式を閉じた。

*7

この後、実際に二葉山平和塔が落成するまでには二年どころか、十二年を要した。総工費も三億円どころか、二葉山仏舎利建設奉賛会が中心に集めた二千百万円という小規模なものだった。塔の高さも当初計画の四十メートルから二十五メートルに変更された。ふもとから仏舎利塔まで直線で伸びるはずの参道も、参道入り口に建立されるはずだった山門も、ついに建設されることはなかった。「平和塔を中心にヨット式回転展望台、レストハウス、広島市のマークを表わす三本の散歩道などを整備して観光開発する」広島市の計画も、「塔屋を囲んで世界百三十一カ国の平和連結を表わす平和の祈りの彫刻像「平和大連珠」の具体案」なども立ち消えになったようだ*8。

落成直後の九月九日の夜から翌朝にかけて、平和塔に奉安されたスリランカの釈尊像が何者かによって首を折られ、地上に放り投げられて破壊されるという不穏な事件も起きた*9。

現在、二葉山平和塔の東下には浄土真宗寺院により恐ろしく急勾配の墓地が造成され、そこだけが豊かな緑地帯をえぐり取られたような姿を曝している。周囲をアンバランスな開発にさらされながらも、「平和の聖者釈尊のご真骨」を収めた二葉山平和塔は、広島の街並みと遠く瀬戸内海を望める山の上でぽつねんと時を刻み続けている*10。

広島市双葉山平和塔(仏舎利塔)

迷走する比治山仏舎利塔計画

一方、全日本仏教会をはじめ全世界の仏教徒の支援を得て進められているはずだった比治山の仏舎利塔計画は迷走を続けていた。昭和四十(一九六五)年十二月二十二日の『朝日新聞』夕刊に衝撃的な記事が載った。

浄財二千万円が不明
起工式あげて十年 広島の仏舎利塔建設

【広島】広島市の比治山公園内に仏舎利塔を建設するため、広く国内外から集めた推定約二千万円の寄付金が使途不明になっていることがわかり、広島市議会仏舎利塔対策特別委員会(杉村政太郎委員長)は二十一日、「起工式をあげたまま十年間も放置している建設予定地は所有者の国に返還し本来の公園として使うべきだ」と決議し、近く同公園管理者の浜井広島市長に申入れることを決めた。
 建設予定地は、広島市比治山公園内の約二千七百平方メートル。「社団法人・世界平和仏舎利建設ママ奉安会」(肥田広司代表理事)が建設にかかることになっていたが、同公園は国有地のため、三十一年に中国財務局と四十三年三月までの賃貸契約を結んだ。
 ところが、同予定地は三十一年に起工式をあげたまま、現在工事用の鉄塔と大穴が残っているだけ。寄付金も使途不明のままなくなっているため、工事をつづける見通しがたたず、この決議となった。

全国紙での続報は確認できなかったが、同日の『中国新聞』の記事によって補足すると、比治山の予定地は昭和二十七(一九五二)年にはすでに奉安会の前身である「世界平和仏舎利塔建設会」に貸与され、それを引き継いだ奉安会に四十三年三月まで貸与されていた。仏舎利塔建立の総予算は当初一億五千万円とされていたが、とても資金が集まらず、規模を縮小して七千二百八十万円としたが、それも調達することができず、予定地に昭和三十一(一九五六)年に建てた一本の鉄塔を十年も放置したまま、ついに広島市から破綻宣告を受けるに至ったのである。

比治山の仏舎利塔建設問題は、二葉山に日本山妙法寺発起の仏舎利塔がいよいよ落成するという段になって仏教系新聞『中外日報』で大きく報じられた。八月五日付同紙記事「どこへ行く? 仏舎利 きょう落成の双葉山仏舎利塔へ合祀話 広島 世界平和仏舎利奉安会 理事会で意見まっ二つ」では、同会をめぐって「ゴタゴタがあいつぎ、当初の中心人物の自殺さわぎまでおこって、まだ“建設予定地”に鉄骨一本が建てられているだけ」という惨状を生々しく伝えている。

奉安会では三月二十三日に理事会を開き、当時市内の日蓮宗妙風寺にあった仏舎利を一時、二葉山平和塔へ「お預け」すること、つまり合祀することを多数意見で決定した。二十六日の緊急役員総会でも五日の二葉山仏舎利塔落成式当日に預けることには固執しないものの、理事会の決定に沿うことを確認したという。

しかし、この理事会の決定に反対する同じ奉安会理事(死亡した前会長の遺族)が、私有地を担保にするか、売却してでも、当初計画どおり比治山々頂も仏舎利塔を建設すると表明し、奉安会は内部分裂状態となった。それまでの経緯について、奉安会代表理事の肥田は「中外日報」の取材にこう答えている。

 私が代表理事になったのは、前会長が三十八年一月に逝くなってからだが、いま直面している問題は①県教委が社団法人格の不適格を勧告してきた。②建設予定地の比治山々頂(三千三百平方メートル)の借地料の年間十万円を、来年度から大蔵省が、これ以上の延期は認められないという理由で、受け取らなくなる。こうした事情から一段階、見通しのつくまで双葉山の仏舎利塔に仏舎利をおあずけするのがいいと結論が出されていた。あるいは全日仏にお返ししようかという意見もあった。

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そうした矢先に、前会長の遺族である理事から、私有地を担保にしてでも二葉山より立派な仏舎利塔を建てたいという意思表示があった。同じく「中外日報」の取材に答えた前会長の遺族は、二葉山への仏舎利合祀にはあくまで反対し、故人の遺志を実現したいと前置きしたうえで、次のように述べている。

 死んだ親父は、さる三十一年に、当時の渡辺広島から奉讃会長をうけついだが、当時すでに一千万円ちかくあった募財も殆んど費い果たされていた。そうした中で、なんとか初期計画どおりにと奔走したが、実現せぬまま死亡した。ところが最近仏舎利を全日仏にお返しするとか、双葉山に合祀するという話が出た。私は納得できない。私財をなげうってでも来年の花まつり頃には着工にこぎつけたい。

*11

広島を去った仏舎利

しかし、比治山の仏舎利塔計画が、これ以後前進することはついになかった。二葉山平和塔への合祀という最後の機会を逃した仏舎利は、ついに「永久安置」の地、広島から離れることになる。

昭和四十三(一九六八)年、日本中でベトナム反戦と大学紛争の嵐が吹き荒れるなか、社団法人「世界平和仏舎利奉安会」はついに解散した。同会は解散するにあたって、将来広島市に仏舎利塔を建設した際には改めて寄贈してもらうことを条件に、同年十二月十八日、仏舎利と外国からの寄付金残額百四十万円を、全日本仏教会に「返納」する覚書を交わした。

仏舎利は広島の地を離れ、東京の全日仏事務総局に奉安されることになった。それが第三回WFB会議の決議を通じて世界仏教徒の称賛と期待を集めた、広島「世界平和仏舎利塔」計画のあまりにもさみしい結末であった*12。

広島市比治山公園のかつての仏舎利塔予定地付近。いまは現代美術館が建つ。

註釈

*1 ここまで『中国新聞』一九六六年八月六日広島版、『中外日報』八月十日による。双葉山平和塔には仏舎利の他、広く県、市民から平和の願いを込めて寄せられた祈念石数万個が収められた。

*2 『中国新聞』一九五二年十月十四日。ちなみに「二葉山平和塔」のある二葉山は広島城の鬼門に位置し、周囲には大小数々の神社仏閣が建ち並んでおり、現在「二葉の里歴史の散歩道」として整備されている。

*3 『佛教タイムス』一九五五年二月十五日

*4 『財団創立四十周年記念 全日本仏教会の歩み 1988−1998』財団法人全日本仏教会、一九九八、四十頁。ちなみに同誌では第三回WFB会議の決議には触れていない。

*5 『中外日報』一九六六年八月五日記事「どこへ行く? 仏舎利」によれば、当初日本山妙法寺が百万円の基金を投げ出して呼びかけた、とある。二葉山平和塔の地鎮祭が行われた一九五九年四月、日達は日本山妙法寺呼びかけによる「第二回 世界平和者日本会議」を各地で開催しており、仏舎利塔地鎮祭は会議の広島における行事の一環でもあったと思われる(既存の宗教界の協力を得にくかったため、各界の人士を結集して行われた「第二回 世界平和者日本会議」では、その辺の線引きがあいまいだったようだ)。広島での仏舎利塔地鎮祭の直前には、敗戦後に仏舎利塔建立を発願した日達が最初に手がけた、熊本の花岡山仏舎利塔の落慶供養が執り行われており、こちらは文字どおり「第二回 世界平和者日本会議」のメインイベントであった。藤井日達の自伝『わが非暴力』(山折哲雄・編、春秋社、一九七二年)には、二葉山平和塔に関する記述が一切ない。『藤井日達全集』第十巻書簡集5、隆文館、一九九九年、三三四頁の年表に一九六六年八月の出来事として「広島仏舎利塔落慶」とだけ記してある。

*6 『中国新聞』一九五四年四月八日。記事には「十二日の地鎮祭には中国動物園の象をかり出して仏舎利を背負わせ山に登らせることになっている」と書かれているが、さすがにこれは実現しなかったようだ。それにしても、中国地方の記事で中華圏(中華人民共和国、中華民国)が絡むとややこしいことこの上ないね。

*7 中国新聞一九五四年四月十三日夕刊(十二日発行)。ちなみに徳川義親(一八八六〜一九七六)は尾張徳川家第十九代当主で植物学者、侯爵、貴族院議員。徳川農場でヒグマの害を減らすために毎年熊狩りを行い、「熊狩りの殿様」として有名になったこと。現在は北海道土産の代名詞となった「木彫りの熊」を洋行先のスイスから持ち帰り、農民やアイヌに広めたこと。一九二五年の治安維持法採決では貴族院議員で唯一の反対票を投じたこと。一九四二年、軍政顧問としてシンガポールに赴任すると、田中舘秀三、郡場寛らと協力してイギリスから接収した植物園や博物館や図書館を略奪・破壊から守り抜いて、敗戦後にほぼ無傷で返還したこと。右翼のパトロンになって金をばらまき、政党政治を無茶苦茶にしたこと。などなど各方面に逸話の多い殿様である。

*8 『中国新聞』一九六六年八月六日広島版

*9 『中外日報』一九六六年九月二十二日

*10 藤井日達は朝鮮布教のために赴いた、金剛山中の日本山妙法寺で敗戦を迎えた。帰国後は故郷の阿蘇山に入り、「日本国の前途に思いをひそめ、いったいどうすれば宗教家としての役目がはたせるのか」と考え続けたという。

 日本の歴史をふり返って、日本国が平和だった時代はいつかと考えた、すると聖徳太子以降奈良平安までが平和な時代だったという答えがすぐにでてきた。そしてあの時代に平和を定着させた原動力は疑いもなく仏教である、そのために平和な文化国家が形成され、道義と秩序の保たれた社会が生まれた、ということが自然に胸のうちで納得できたのです。そういう平和な社会を生みだした仏教信仰の中心は、聖徳太子の建てられた伽藍によってもわかるように、お仏舎利塔なのですね。その後、日本仏教は絢爛豪華な発展をとげて、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来などの壮麗雄大な仏像が作られるようになりますが、しかしそれらの仏教信仰の中心になっていたのは、いつでもお仏舎利塔にたいする崇拝、信仰心だったと私は思ったのです。
 戦前戦後を通じて私はセイロンの各地を巡っておりますが、この仏教国の人々はその信仰の中心をお仏舎利塔を礼拝し供養することのなかにおいておりますね。日本の仏教とは何宗の場合でも、ややもすると自己の宗派のすぐれた点を誇称したりしますが、未知の異邦人や隣人にたいしてその信仰がどれほど役立っているかどうかは大変疑問です。日蓮宗の中から出た創価学会などは無茶苦茶なもので、政党かなんかのように勢力を作り、我執で押していく。そこから対立抗争が生れるわけで、あげくのはてには仏教徒が犬と猿みたいな関係になって、自己の信仰を確立するという大事な仕事がお留守になっている。そういうことはセイロンの仏教ではない。私のような外国から訪れたものが、金もなんにもなくて生活条件の整わないものが、命をつないでご修行することができたのも、これはひとえにセイロン仏教徒の信仰によって支えられたおかげだと思っています。
 私がお仏舎利塔の礼拝供養を重視するのも、宗派の対立抗争をのりこえて仏教統一の中心であるお釈迦さまに帰っていくための方法なんですね。そのためにはやはり絵像とか木像ではなく、お釈迦さまのご遺骨として伝えられてきたものをお祀りする。これにはどの宗派も異存はないはずですし、そのことでことさらに争う必要もない。たとえばお釈迦さまが世界の平和のためにどれほど尊い存在であるかは、これは共産党といえども否定することはできないのではないか。歴史的にみれば、日本の仏教は聖徳太子以来平和の方針をつらぬいてきた、そしてまた同時代的にみれば、現在仏教国として平和で柔和な信仰生活を送っているビルマやセイロンのような国々がある。そしてそれらはすべて、お仏舎利塔を中心にした敬虔な信仰を生活の中心においてきたし、現にそうしているわけです。私が終戦後になってとくにお仏舎利塔建立の発願を立てたのには、以上のような意味がこめられていたのであります。

『わが非暴力 藤井日達自伝』藤井日達、山折哲雄・編、春秋社、一九七二年、一八一〜一八二頁

ダルマパーラが逝った一九三三(昭和八)年、スリランカを巡錫した日達が残した日記に頻出する現地僧侶への激しい批判、生命を殺さず戦争を厭うテーラワーダ仏教の戒律理解は「小乗戒」の持戒に過ぎず、殺すべき時(殺したい時?)は殺して戦争すべき時(したい時?)は堂々と戦争するのが「大乗戒」の持戒である云々と強弁する大乗仏教至上主義と引き比べるとまこと微苦笑せざるを得ない。とにかく日達は、未曽有の敗戦という事態を受けて日本仏教史を総体的に反省したうえで、仏舎利塔の建立という信仰実践の形を選び取った。仏舎利塔の礼拝こそが、「宗派の対立抗争をのりこえて仏教統一の中心であるお釈迦さまに帰っていくための方法」であるというテーゼは、彼の長い晩年を支え続けた。一方、比治山の仏舎利塔建設に携わった仏教徒たちは、仏舎利塔奉安を自らの仏教思想にいかように位置付けたのだろうか。

*11 『中外日報』一九六一年八月五日。ちなみに全日本仏教会の機関誌的な役割を果たしていた『佛教タイムス』では、八月六日号で二葉山平和塔の落成をベタ記事で報じたのみで、比治山仏舎利塔問題については何も報じていない。

*12 『財団創立四十周年記念 全日本仏教会の歩み 1988−1998』財団法人全日本仏教会、一九九八年、四十〜四十一頁。奉安会の解散後、広島ではあらたに「世話人会」を中心として市内の「仏教関係者や地元財界人との協議や協力要請、さらには縁ある国会議員などへの協力要請等などが行われた。しかし、建設用地の確保や建設資金の目処がたたず」、昭和六十三(一九八八)年八月十二日、世話人会は全日仏の事務総局を訪れ、仏舎利塔の建立が不可能になったために、全日仏で奉安してほしいという申し入れを行った。全日仏ではその申し出を受けて協議熟考の結果、平成五(一九九三)年七月に、広島仏舎利塔建設世話人会から寄進状を受けて、正式に仏舎利を受け取った。

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