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37 その後のダルマパーラ 1915年セイロン暴動、サールナートでの出家と死|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


セイロン暴動

ダルマパーラの最後の来日から二年後の一九一五(大正四)年は、一八一五年にセイロン最後のキャンディ王朝がイギリスによって滅ぼされてから百周年にあたり、仏教雑誌である『大菩提雑誌』誌上にも獅子をあしらったランカーの国旗、民族意識の覚醒を呼びかける論説や詩が掲載された*68。この年のウェーサーカ祭の最中に起きたイスラム教徒とシンハラ仏教徒の衝突事件(後述)を発端として勃発した大暴動は、それを反英運動の一環とみなした英国官憲の介入を招くに到った。植民地当局は六月二日から三カ月間にわたり戒厳令を敷き、島に軍隊を派遣。ダルマパーラが育て上げたシンハラ・ナショナリズム勢力に徹底的な弾圧を加えた。

 (シンハラ人に)影響力を持つ人々は当局に反抗したみじんの証拠もなく逮捕された。公務員は解雇され、市民は暴動の治まったあと軍事裁判所で審問された。……当時もしダルマパーラが幸いにインドにいなかったなら、彼は間違いなく、捕えられ射殺されたはずだ。彼の度重なる日本訪問やブッダガヤ大菩提寺を取り返すための活動は、すでに彼を嫌疑の対象としていた。

*69

一九一二年の鉄道ストライキ以来、シンハラ・ナショナリズムは高揚期を迎えていた。しかし、この「セイロン暴動」によって、急進的な活動家や労働運動の指導者はほとんどが処刑されるか国外追放の憂き目に遭った。セイロンで弾圧の嵐が吹き荒れていたとき、ダルマパーラはカルカッタの大菩提会本部にいた。当局による捜査のさなか書き記された日記の断片(六月九日)が残る。

 四時に起きて、パンニャーンダ宛ての手紙をタイプ。ボダージュが、警察が私を捕まえに来たと告げた。五時に三人の捜査員が来て、私の書類を取り調べた。彼らは日記帳や外の書類を持ち去った。不快になって落ち込んだが、午後には気分が落ち着いた。ナレシュは私と一緒に部屋にいたが、彼はすぐ(また)家宅捜査が始まるのではと恐れていた。

*70

同月十六日、当局はシンハラ人指導者の拘束に抗議する論陣を張った『シンハラ・バウッダヤー(Sinhala Bauddhayā)』(ダルマパーラが一九〇六年に創刊したシンハラ語新聞)の印刷を差し止め、新聞のバックナンバーを押収した。次いで当時の編集人も逮捕された。『シンハラ・バウッダヤー』は、イギリス統治下で発売禁止になった最初のシンハラ語新聞という〝栄誉〟を受けた。

Edmund Hewavitarne

官憲の弾圧はダルマパーラの親族をも標的とした。弟エドムンドは、反乱罪で逮捕され、半年後にジャフナの監獄で腸チフスを発病し獄死した。彼は野口復堂に宛てた書簡のなかで、「弟は当局によって毒殺された」と訴えた。そして、ダルマパーラ自身も暴動から五年間カルカッタに軟禁され、当局の監視下に置かれた。

日英同盟下のインド支援

ちなみにそのほんの三カ月前には、シンガポールで起きたインド兵の反乱に対して、日本の軍隊が日英同盟に基づき鎮圧にひと役買うという一幕があった。植民地支配者の側に立った日本軍の行動に対して、日本国内でも大川周明らによる批判が起こった*71。

大川周明

また同年末から翌年にかけて、英国の横やりによって在日インド人活動家、ラース・ビハーリー・ボース(1886-1945)とヘーランバ・ラール・グプタ( C.1884-1950)の追放騒動が起こった。この際に大川周明らは『道』誌上などで、激烈なインド革命擁護の論説、日本は英国の走狗になるなかれ、というキャンペーンを展開し、グプタらの救援活動に奔走する。日露戦争後、日本が西欧列強に伍する強国としての地歩を固めたその象徴であった日英同盟。しかし日本の東アジアにおける権益を英国に認めさせたのと引き換えに、日本は英国のインド植民地支配を追認し、独立運動弾圧への片棒担ぎを余儀なくされた。この冷徹なパワーポリティクスの行使は、日本の心ある人士にとってはアジア同胞に対する許しがたい背信行為に映った。そして、大川や頭山満ら「日本の志士」たちによるインド独立運動家支援が、日英同盟下の民間の補完外交として、広い共感をかち得ていたのである。

ボースを囲む日本の支援者(1916年4月)

野口復堂もまた同じ時期、『道』に「印度を憶ふ」という手記を寄せ、自分が三十年前に訪れたインド・スリランカでの出会いを振り返り、幽囚のダルマパーラを気遣いつつ、南アジアの抑圧に深い同情を寄せていた。

 何ぞ料はからん余が旧友ダンマパラは、カルカッタに在りし爲め、奇禍を免れしと云う大危険に遭い、弟二人は不孝にも捕われ其中一人は死刑に所せられたりと、嗚呼何等の惨事ぞ、余が曾そ遊ゆうの時、右の二弟は小学時代なりき、余は二弟の頭を撫ぶし『兒じ等の将来は多望なり、自国の爲めに努力する事を忘るべからず』と訓誡せしに、幼少ながらも『盟ちかって貴客の垂訓に背かじ』と答えしが、果せる哉自国の爲めに死せり、余たる者豈に一滴の涙無からざるを得んや。

『道』九十三号 大正五年一月

一九一五年セイロン暴動の背景について

二十世紀初頭のアジアで起きた悲劇、または屈辱に悲憤慷慨したついでに、少々冷静になって事件の背景を観察してみたい。

 一九一四年、ヨーロッパで戦争が勃発し、翌年の中頃、ハンバヤ(イスラム教徒)がますます尊大となり、ついにキャンディ近郊のガンポラで仏教徒の行進を攻撃するに到った。そして冷淡な警官の目前で、シンハラ人青年が殺害され、ムスリムと仏教徒との暴動をさらに促進した。興奮した群集が、聖なる仏歯寺を暴力から守るために、周囲の村々からキャンディにおしかけてきた。そしてこの騒動は直ちにこの島の他の部分にもひろまった。これを英国の支配に反対する暴動であると解釈して驚いた英国官憲は、六月二日に戒厳令をしいた。

Flame in Darkness p99-100

一九一五年のセイロン暴動の原因を、ダルマパーラの伝記はかくも感情的な記述で説明している。もう少しクールにコメントすると、この大暴動の背景には、スリランカ海岸や内陸の商業を掌握していたイスラム教徒(Moors)と、新たに力をつけてきた低地シンハラ人プチ・ブルジョアジー階級との対立があった。

後者の理論的支柱となったのは、ダルマパーラが宣揚したシンハラ仏教ナショナリズムであった。ダルマパーラが牛車に乗ってセイロンの村々を巡杓し、熱狂的な「バーナ」を通じて排撃した二つの悪習、飲酒習慣と肉食(牛肉食)のうち、前者はヨーロッパ植民地支配への抵抗の隠れ蓑となったし、後者はセイロンにおいて精肉業を引き受けていたイスラム教徒たちへの民族的憎悪として増幅された。シンハラ人民族主義者が敵視したイスラム教徒は、「我々の宿怨の敵、ムーア人」とまで罵られ、高揚するシンハラ仏教ナショナリズムの格好の捌け口として絞り込まれていったのだ。

 ダルマパーラは回教徒の商人を シンハラ仏教徒に対する非倫理的な搾取者として描写した。たいてい回教徒によって経営されていた食肉店や、アヌラーダプラのような神聖な仏教都市の中のモスクの存在は、民族復興主義者によれば〝仏教とシンハラ仏教文化への侮辱〟と見なされた。この種の敵意はクリスチャンの教会に向かって同じく延長された。 禁酒主義の動きと食肉店に対する反対、教会と アヌラーダプラのような都市の周りにあるモスクは強い反少数派感情によって狙い撃ちされた。

"Communalisation of Muslims in Sri Lanka, An Historical Perspective" By F. Zackariya and N. Shanmugaratnam *72

ダルマパーラが運営するシンハラ語新聞、『シンハラ・バウッダヤー』は反ムーア人感情を煽り立てる論説をたびたび掲載していた。植民地政府から発行停止処分を受けたのも、バウッダヤー紙がシンハラ人に対して暴動を扇動したとみなされたからである。当のダルマパーラは、セイロンで戒厳令が布告されてから約二週間後の六月十五日、英国の植民地担当大臣に宛てた書簡のなかで、自らの言説の正当性をこう述べている。

 イスラム教徒(十九世紀の初頭には一般的な貿易業者であった異邦人たち)はシャイロック的な方法によってユダヤ教徒のごとく繁栄しました。 シンハラ人(その先祖が二千三百五十八年間に渡って、祖国を外国の侵略者から守るために血の川を流し、何百万もの地所を灌漑するため巨大な溜池を造成し、現代の古美術愛好者や研究者が賞賛を寄せる芸術的な寺院を建設してきた)『大地の子』らは、今日、イギリス人の目にはただの放浪者(vagabonds)としか映っていない……。
 (シンハラ人同朋の)産業は破壊され、農業はおろそかにされました。先祖伝来の土地は政府によって隔離され、英国のシンジケートに売られました。二千四百年のあいだ小作農所有者として独立し、決して年季奉公の日雇い人夫クーリーとして働くことなど知らなかった『大地の子』も、いまでは紅茶農場の日雇い人夫なのです。
 セイロンに上陸した南インドの異邦人、イスラム教徒は、そこで貿易の経験もなく、どんな種類の専門的な産業の知識も持たず、彼の言語、宗教と人種のために、アジアの全体から孤立した、怠惰で文盲の村人たちに出会う。その結果としてイスラム教徒は繁栄し、『大地の子』らは追い詰められているのです。
 植民地政府であるところの政府は、もっぱら植民地の英国本国人の利害を注視しており、ネイティブはただの原住民(only an aborigine)扱いです。

Return to Righteousness, p540

ダルマパーラはこの書簡で、「(戦争中の)イギリス人にとってドイツ人が異邦人であるのと同じように」、セイロンのイスラム教徒はスリランカの「大地の子」であるシンハラ人にとって、民族的ルーツも宗教も異なる、決して相容れない異邦人なのだと喝破した。

もちろん一九一五年、セイロン島で吹き荒れた悲劇的な暴力の原因を、宗教間の緊張にのみ帰する見方には異論もある。大英帝国による植民地支配体制と分断統治、二十世紀初頭の世相を支配した人種思想、といった歴史的な背景も充分勘案しなければならない。しかし、ダルマパーラが「大地の子」の生存権を訴えたアジテーションの残響は、スリランカ現代史を繰り返し揺さぶり続けているのだ*73。

晩年──サールナートに拠る

カルカッタでの五年間の抑留生活の後は、病に伏せることが多かったとはいえ、ダルマパーラが植民地当局者にとって危険人物であることに変わりはなかった。

 私はあなた方みなの助力を欲している。恐れを抱くな。我々が獅子の種族(the lion race)であることを忘れてはならない。

*74

一九二二(大正十一)年六月、セイロンに渡ったダルマパーラは、七年前の暴動以来、発行禁止にされていた『シンハラ・バウッダヤー』の復活をシンハラ人聴衆に強く訴えた。同紙はダルマパーラの尽力によってほどなく再刊される。

老い傷ついたライオンは、なおも吼え続け、シンハラ同胞の民族意識を駆り立てていった。しかしその彼も、あえてもう一度日本に渡ろうとはしなかった。それどころか、彼はその晩年を故国スリランカで過ごすことさえめったになかった。一九二五年の初頭から、彼は持病の治療のため、ヨーロッパとアメリカに赴いたが、現地では常に当局の監視の目が光っていた。彼らは満身創痍のダルマパーラが、インド共産党の重鎮M・N・ロイ やアイルランド独立活動家たちと連携を計ることを警戒していたのである。

名前のとおりのアナガーリカ(放浪者)として、彼は残された人生を欧州での仏教の普及、そして第二の故国インドでの仏教再生に捧げた。故国での反植民地運動は、彼が設立に携わった仏教学校から巣立った若者たちによる、政治運動や労働運動へと引き継がれていった。

晩年のダルマパーラ

一九二八年、ダルマパーラはブッダ初転法輪の聖地・鹿野苑サールナートに仏教寺院の建築を始めた。一九三〇年十二月二十二日、パトロンとしてダルマパーラを支え続けたフォスター夫人が死去。翌年には鹿野苑に念願の『根本香室精舎ムーラガンダクティー・ヴィハーラ(Mūlagandhakuṭī Vihāra)』が落慶したが、その建設資金の大部分は、フォスター夫人の個人的な寄付に拠っていた。

 私は独力で働き続けたが、ビルマ、シャムや他の国々の仏教徒からは何の助けも得られなかった。メアリー・フォスター夫人の並びなき寛大さのお陰で、仏教徒はいま百フィートの塔が見下ろす美しい殿堂を手にしている。私に協力するため進み出てくれたのはシンハラ人仏教徒ではなく、タイ人でも日本人でもシナ人でもチベット人でもなかった。はるか遠くのホノルルからのフォスター夫人の援助が、インドに教えを復興させ、新たにイギリスに教えを確立したのである。仏教徒の世界で、彼女の地位に替りうる者はあり得ない。裕福な仏教徒はすべて死んでしまった。自らを犠牲にできる比丘はまれである。しかしインドは再び、アヒンサー(不殺生)・カルナー(憐れみ)・マイトリー(慈しみ)の教えを説く、黄衣をまとった若いヒーローたちを送りだすだろう。
 一八九一年からインドのために働いてきた。そしていまの私は、ムーラガンダクティー・ヴィハーラの建つこの神聖な土地で死ぬことを、心からの唯ひとつの望みとして抱いているひとりの病人にすぎない。

*75

ダルマパーラの死

ダルマパーラは一九三一年の七月十三日に受戒し、「シュリ・デーヴァミッタ・ダンマパーラ」という僧名を受けた*76。近代アジアが生んだ「異形の仏教者」は、ありふれたひとりの比丘・仏弟子としてその生を終えることを選んだ。一九三三年四月、比丘ダンマパーラは肺炎を発し、四月二十九日、客地インドでその生涯を閉じた。六十九歳であった*77。彼の死に臨んで、日本では『現代仏教』誌上にその葬儀の模様を写真で報道するとともに、高楠順次郎と野口復堂がそれぞれ追悼記事を寄せた*78。

居士の最終の大事業は、仏教発祥の地たる鹿野苑に根本香殿初転法輪寺を創建することであった。……その落慶入仏の公式には日本は仏教連合会から大梵鐘を送った。今またその大壁画を畫く為に野生司香雪画伯を送った。その正面の第一壁は完成したとのことである。ダンマパーラ居士は果たしてその新壁画を見たか否か……

*79
ダルマパーラのストゥーパ

高楠が案じていたその頃、はるかインドの鹿野苑では、ひとりの日本人画家が、初転法輪寺の壁面に向かって黙々と絵筆を動かしていた。


註釈

*68 MBJ Vol.23.No.3. March,1915, No.4. April,1915.

*69 〝Flame in Darkness〟p100

*70 MBJ. 1897-1991 Centenary Volume, p105

*71 『日本とインド 交流の歴史』七十二頁を参照。

*72 http://www.mnet.fr/aiindex/SL_communal.html
近代スリランカにおけるイスラム教徒のアイデンティティ形成プロセスについて詳述されている。シンハラ仏教ナショナリズムの勃興と機を同じくして、スリランカのイスラームの間でも人種的・宗教的アイデンティティの明確化を促す運動が起きる。同稿によれば一九一五年のセイロン暴動は、スリランカ社会の〝Communalisation〟を決定付けた事件でもあった。

*73 ダルマパーラのナショナリスティックな言説は、現在のシンハラ・タミル紛争の淵源として取り上げられることがしばしばある。しかし独立前のシンハラ仏教ナショナリズムのひとつのピークとされるコロンボ暴動の際には当時のスリランカ・タミル人政治家P・ラーマナータンはシンハラ人を擁護し、一種のシンハラ・タミル連合が形成されていた。(『スリランカ近・現代史の諸問題』末永洋一 アクセス21出版、一九九六年、第25章参照)一九一九年にセイロン国民会議(Ceylon National Congress)が結成された際の議長もタミル人のポンナムパラム・アルナーチャラムであった。ダルマパーラが創刊した『シンハラ・バウッダヤー』は常に民族・宗教間の論争を挑発したが、シンハラ仏教徒以外の主張を排除することはなかった。「シンハラ仏教ナショナリズム」といっても、当初からタミル人をスリランカの「国民形成」から排除しようとしたわけではないのだ。
前述のように、ダルマパーラはつねづね、仏教をその精華とする「アーリア文明」を称賛していた。その場合、対立概念として彼が持ち出したのは「セム族の文明(The semitic civilization)」に属する「破壊的」なイスラム教やキリスト教だった。これは十九世紀末から二十世紀初頭にかけて力をつけてきたスリランカ沿岸部の仏教徒たちにとって、直接の競争相手として立ちふさがったシンハラ系カトリック教徒やイスラム教徒(ムーア人)と重なる。ダルマパーラはスリランカの仏教文明の光輝を讃え、インドを「堕落」させたブラーミン主義を排撃したが、それはタミル人への攻撃を意味していない。むしろタミル社会を含む全インドに仏教を復活させることが汎アーリア主義者たるダルマパーラの理想であった。
タミル分離派系のウェブサイトに「シンハラ仏教ショーヴィニズム」発言集として挙げつらわれているダルマパーラの過激な語録を見ても、そこにはスリランカ・タミル人を直接排斥するような言説は見出せない。また、著者がシンハラ仏教徒との「仏教徒同士」の会話でしばしば耳にするのは、「タミル人への差別意識」というよりは、「LTTEの幹部はみなカトリック教徒である」とか、「西欧諸国の政府やNGOはキリスト教徒が実権を握るLTTEを陰で支援している」とか「○○党の大統領候補は隠れクリスチャンだ」とか、「イスラム教徒の商人が異教徒であるシンハラ人仏教徒にドラッグを蔓延させている」といったステレオタイプの言説である。ダルマパーラが説き続けた「破壊的」なイスラム教やキリスト教への反発はいまだに多くのシンハラ人仏教徒にある種の生々しい「実感」をもって継承されているようだ。
ダルマパーラ自身の言説とシンハラ・タミル紛争をリンクさせる言説を無批判に受け入れることは、シンハラ仏教ナショナリズムの「大王統史史観」に基づいた国家観形成に対抗したタミル分離派による「対抗神話」創出の働きを見失うことになる。また、スリランカ国内におけるシンハラ・タミル以外のより根深いかもしれない対立構造を隠蔽してしまう効果もあることは、充分留意しておく必要があるだろう。

*74 〝Return to Righteousness〟LXVIII

*75 〝Flame in Darkness The Life and Saying of Anagarika Dharmapala〟SANGHARAKSHITA, Triratna Granthamala, 1995, p128 同じ時期、病床のダルマパーラが仏教青年会連盟の立花俊道に宛てて送った書簡の要約が『中外日報』昭和五(一九三〇)年十二月二日、三日と二日続けて「印度佛教徒現状」という見出しで掲載された。スリランカの仏教徒が滔々と物質主義の風潮に流されつつあること、長年の仏教教育運動にもかかわらず、ミッション系の学校で教育を受ける子供のほうがはるかに多いこと、自身の四十五年の仏教伝道活動を資金面で支えてくれたのはほとんどフォスター夫人ひとりであったこと、インド在住の日本商人は金儲けと享楽にしか興味がなく一銭たりとも大菩提会や正法普及のために喜捨をしないこと、高楠順次郎が『ヤング・イースト』を廃刊したことを遺憾に思うことなどが切々と綴られ、「クリスト教徒は全亜細亜にクリストの教を拡めるために、数百万円を費し、これに反し仏教徒は正法を広めるために、一ルピーを投ずることさへも思ひ付かざる次第に候。仏教徒には、進歩といふものは無之、彼等は死せるものと思做す外は無之候」とこぼしている。晩年のダルマパーラは病も得てかなり悲観的になっていたようだ。

*76 一九三一年七月十三日にサールナートで得度し沙弥に成り、Devamitta Dhammapalaの僧名を受け、死の三カ月前、一九三三年一月十六日に具足戒の儀式(ウパサンパダー)を受けて正式な比丘となった。

*77 一九一六年、前年のセイロン暴動の煽りを食ってダルマパーラがいまだカルカッタに抑留されていた頃、ブラヴァツキー&オルコットの後継者として神智学協会を率いていたベサント夫人は、インド国民会議派指導者のティラクとともにインド自治連盟(Home Rule League)を設立する。ベサントは翌年、インド国民会議派の議長にも選出され、その後しばらくインド自治権運動をリードすることになる。第一次世界大戦を通じて、植民地インドは大英帝国に多大な貢献をなした。この戦禍の後、インド独立を求める国民運動が勢いを増したことは周知の事実である。その過程で、国民会議派の主導権はベサントからガンディーへと移った。

一九三三年四月二十九日、アナガーリカ・ダルマパーラ没。同年九月二十日、アニー・ベサント没。一九三四年三月一日、C・W・リードビーター没。偶然であろうが、一八八〇年五月、オルコットとブラヴァツキーのセイロン入りから始まった神智学協会とシンハラ仏教復興運動との関係史を語るうえでの重要人物が、この時期相次いで亡くなった。ひとつの時代が、約半世紀で幕を閉じたことになる。合掌。

*78 野口復堂「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」、高楠順次郎「ダンマパーラ居士の訃音」(共に『現代仏教』第一〇六号、一九三三年八月)ほかには『中外日報』五月七日、九日に、翻訳記事「ダムマパーラ追憶」B・L・ブロートンが掲載された。

*79 高楠順次郎「ダンマパーラ居士の訃音」

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