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41 仏教とアジア近代史再考|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇


日本とスリランカ・それぞれの近代仏教

一九九九年の一月、筆者は北インドのサールナートを訪れていた。根本香室精舎ムーラガンダクティー・ヴィハーラの周囲に拡がる、よく手入れされた庭園の一角には、アナガーリカ・ダルマパーラの、否デーヴァミッタ・ダンマパーラ比丘の赤茶けたストゥーパが、巡礼を呼び止めるほどの威儀もなく、ぽつねんと建っていた。

サールナート根本香室精舎の境内にあるダルマパーラのストゥーパ

アナガーリカ・ダルマパーラの日本での発言を振り返ると、スリランカやインドにおける彼自身の立場の変化にかかわらず、日本に対する信仰のような期待は生涯を通じて一貫していたことが分かる。彼は「日本の仏教に大きな期待をかけていた」というよりは、仏教をその指導原理とした(と彼は考えた)「仏教国日本」の発達にこそ、キリスト教国イギリスによる植民地支配に喘ぐ故国スリランカの未来のモデルを見出そうとしていた。

しかし、彼は時流に乗り遅れた日本仏教の停滞に失望を隠すことができなかった。日本は「仏教国」であるにもかかわらず、その仏教はついに近代日本をリードすることはなかったからだ。

ダルマパーラは日本が仏教国であると信じていた。その認識は必ずしも間違いではない。しかし国民の多数が(形式的にであれ)仏教を信仰していることと、仏教を指導原理として、あるいは国民統合のシンボルとして、国家が形成されることとはイコールではない。近代日本における仏教の地位はもっと限られたものだった。

スリランカ(英領セイロン)では一八七三年のパーナドゥラ論戦を先駆とした「宗教復興」のうねりがのちにシンハラ人の民族的自覚に繋がったように、多数派シンハラ人のナショナル・アイデンティテイの確立と、テーラワーダ仏教のリバイバルとが不可分の関係にあった。

それとは対照的に、近代日本ナショナリズムの母胎となった国学思想は、仏教批判を媒介として成長した。実際の政策上でも、天皇の権威を軸として近代化を目論んだ明治維新の過程で、旧幕藩体制に組み込まれていた仏教はいわば精神的な生贄にされた(廃仏毀釈)。その後の歴史においても、日本仏教は国家至上主義の熱狂のなかで身の証しを立てることに必死であった。日本の仏教指導者たちは、自らの懐に溜め込んだ観念体系のストックを国体イデオロギー形成の素材として捧げることで支配思想形成のプレーヤーとして一定の地位を維持しながら、かえって己のアイデンティティを掘り崩すという際どいアクロバットを演じてきた。その綱渡りは大東亜戦争が始まるまでには国体イデオロギーへの完全な屈服・従属・奉仕という形で収束し、昭和二十(一九四五)年の大東亜戦争敗戦によって破綻した。同じ「アジアの仏教国」といっても、日本とスリランカには、まったく異なる経緯があったのだ。

オルコット日本ミッション送別式の記念撮影

ダルマパーラの日本礼賛と「アーリア主義」

とかく日本仏教の近代化は世俗社会の近代化のペースからは取り残され、主体性を失いがちに傍流に追いやられていた。傍流ゆえにユニークな思想史的な遺産を残しはしたが、客観的に見て、日本社会のなかで仏教が精神的イニシアティブを取ることなどついになかった。その矛盾に苛立ちながらも、ダルマパーラの日本国への信仰にも似た期待は終生変わらなかった。そしてその背景には、ダルマパーラがインドを中心とした仏教復興運動のバックボーンとして鼓舞していた「汎アーリア主義的仏教復興思想」があった。曰く、

 私に代表されるようなインドのアーリア人種は、古代のアーリア文明が多くの恵まれた国の子孫たちによって保存されたことを喜んでいます。インドを故国とする偉大なアーリア化されたファミリーは日本人・朝鮮人・モンゴル人・中国人・タイ人・カンボジア人・ビルマ人・チベット人・シンハラ人に属し、八億人を数えます。偉大なアジアの兄弟関係(Brother Hood)は日本のリーダーシップの下で世界史のなかに再び失われた地位を回復することが可能なのです。

Japan's Duty to The World

ダルマパーラにとって仏教とは同時に「アーリア精神」でもあった。ダルマパーラは日本とインドを、共に偉大なアーリア文明の伝統を継承した同胞と考えていた。日本はインド発祥の仏陀の教えによって「アーリア化」された国であり、偉大なるアーリア精神(=仏教)に導かれていると信じたがゆえに、彼は日本への熱狂的とも取れる賛美を繰り返した。しかし、ダルマパーラと交流を持った日本人、とりわけ日本人仏教者のなかで、いったいどれだけの人々が、彼とこのようなビジョンを共有し得たであろうか。

彼が鼓舞した仏教復興運動はスリランカの内に向かってはシンハラ民族主義に精神的根拠を与え、その牽引車として役割を果たした。彼は第二の故郷インドにおいても、西欧列強によるアジア支配を打破する精神的な根拠として仏教復興を唱えた。

アナガーリカ・ダルマパーラ

そしてその文脈で彼が語る仏教とは「アーリア文明のエートス」であった。彼の仏教復興運動は汎アーリア主義運動でもあり、その汎アーリア主義は「普遍性の論理」としてスリランカという小島を超え、長く停滞していた仏教の世界伝道を促した。同時に彼の足跡は排外的な「血の論理」としてシンハラ民族の意識を駆り立てた。それが時代の必然であったとしても、ダルマパーラの一部の言説は、現代のシンハラ・タミル紛争にまで繋がる暗い轍わだちとして記憶され続けるだろう。

日本仏教への挑発者

ダルマパーラは彼自身の汎アーリア主義的な日本への思い入れから、実際の日本の国家政策・植民地政策に対してはまったく無批判だった。彼の目に映っていたのは箇々の政策ではなく、歴史のただなかで発現・展開すべき「日本の業カルマ」のごときものだったから、これは当然だろう。にもかかわらず、彼は日本の「仏教」に対して、ある時期から幻滅に近い厳しい意見を持つようになる。

ダルマパーラの仏教運動は後世から「プロテスタント仏教」と呼ばれる。その師オルコットが、キリスト教の宣教システムをもとにスリランカ仏教を再編成したのを受け、彼は旧態依然とした仏教界を刷新し、アジア諸国の近代化の精神的支柱として復興させることを目指した。そのために彼は「アナガーリカ」という変則的な仏教実践のスタイルを発明することも辞さなかった。

ダルマパーラが思想形成の過程で大乗仏教、とりわけ「菩薩道」の理想に影響を受けたことは事実だ。しかし実際に日本に現存する「大乗仏教」なるものを礼賛していたわけではない。彼の人生を貫く十波羅蜜の実践にしても、大乗仏教の刺激を受けつつ、自らのバックグラウンドである上座仏教の伝統から引き出して再生したものだ。彼は大乗・テーラワーダといった仏教の形態よりも、その精神と運動の如何を問うた。ダルマパーラは、むしろ日本仏教に対する外部からの辛辣な批判者であり挑発者だった。日本仏教にとって、彼は仏教徒同志であるとともに、扱いにくく疎ましい「他者」でもあり続けたのだ。

彼のミッションは、ブッダガヤ復興運動をかすがいに、実際に全世界の仏教徒の心をひとつに結びつけようとした。釈尊の聖地の危機を叫ぶ激しいアジテーションは日本の仏教徒青年の宗教的情熱を大いに刺激し、いくつかの新たな運動体の結成につながったこともあったが、それらは必ずしも満足できる成果を残さなかった。少なくとも日本人の「記憶に残る」成果はなかった。

仏教国日本に多大な期待をかけていたダルマパーラにとって、「総て事物が太陽の登る国としての日本にあるに拘わらず、仏教のみが日の西山に没する様にだんだん衰えて行く」姿はなんとも歯がゆいものだったに違いない。

近代仏教史という問い

一九三三(昭和八)年四月二十九日、ダルマパーラは比丘デーヴァミッタ・ダンマパーラとしてインド・サールナートで死んだ。日本で彼の追悼手記を書いた野口復堂と高楠順次郎は、若き日々に「仏教世界の連合ユナイテッド・ブッディスト・ワールド」という理想をダルマパーラと共有した二人であった。

剃髪受戒して「ダンマパーラ比丘」となった晩年のダルマパーラ

ダルマパーラの死の前後から、日本の仏教は高楠順次郎や鈴木大拙のイニシアティブで世界的な展開を遂げた。一九三〇年代の一時期、確かに仏教は、環太平洋世界を結びつける平和の紐帯にまでなりかけたのである。

本書でもラフなスケッチ程度にしか取り上げなかったが、戦前日本仏教の海外活動とその戦後への影響に関しては、そのディテールもまだあまり知られていない。南進政策をとった日本は、その進路に広がるテーラワーダ仏教圏に対してはあくまで、アジア全域に広がる普遍宗教を奉じる「仏教国日本」という顔で接し続けたかに見える。大東亜戦争のさなかも、実態はともかく言葉のうえでは、一部の日本の仏教徒はかつて小乗仏教と呼んで観念的に蔑んできたテーラワーダ仏教を「大東亜共栄圈」のパートナーとして、文化的差異を認めたうえで理解し連帯しようと努力していた。

日本に深い関わりを持ったダルマパーラは、独立後にはスリランカ建国の父という称号を一応与えられている。当然ながら、その事績への評価は両極に分かれる。実際、彼には彼自身が語ったさまざまなベクトルを持った言葉と同じく、光と影を伴った顔が存在していた。そして彼の接した近代日本もまた、観察者の眼差しというフィルターを通して屈折し、多様な像を結んで私たちの前に立ちのぼってくる。その意外な横顔は時に私たちを幻惑と微かな興奮へと導いてくれる。

約一千六百年の長きにわたって日本人の精神を導いた仏教は、時代と状況によって違った顔を覗かせながら、私たちを幻惑と興奮へといざなっていった。近代という時代においても、それは変らなかった。むしろ激動の時代ゆえに、仏教には過剰なまでさまざまな意匠が求められたのだった。

近代日本仏教は時に主体的に、時に強いられながらも、アイデンティティ喪失すれすれの思想的アクロバットを演じてきた。その試行錯誤の軌跡を丹念に捉え直す試みは、大東亜戦争の敗戦から六十年以上を経て、いまようやく始まりつつある。

私たちは「仏教国日本」を生きている

そんな「近代日本仏教史」のややこしさの一方で、「仏教世界の連合ユナイテッド・ブッディスト・ワールド」という大らかなスローガンは、日本仏教が広大な世界へと自ら開いてゆくための後押しをし続けた。ダルマパーラら諸外国の仏教徒たちは、日本において「思想的立脚地の確定し居らぬこと」に悩み続けてきた仏教徒に、「同じ釈尊の教えを奉じる仏教徒」という確固たる立場を提供し続けていたのだ。

近代を通じて、世界の共通認識となっていた「仏教国日本」というブランド・イメージは、大東亜戦争の破綻を経てもなお、引き剥がされることはなかった。。当面の悪者は「国家神道(国体神道)」に押しつけておけばよく、日本仏教そのものが国体イデオロギー形成に果たした役割は戦後長い間不問にされてきた。

Na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ;
実に、この世においては、怨みによって、どんな怨みも決して静まらない。
Averena ca sammanti, esa dhammo sanantano.
怨みなき(慈しみ)によって静まる。これは、永遠の真理である。

法句経(Dhammapada)第五偈

ブッダその人の言葉とともに、スリランカから差し伸べられた弁明は、戦後日本を世界的な孤立から救ったとして語り継がれている。じっさい、パーリ経典『法句経』の偈頌とともに述べられた「仏教国日本」への同情と励ましの言葉の背後には、前年のウェーサーカにスリランカのコロンボで世界仏教徒連盟(the World Fellowship of Buddhists WFB)が結成されたその熱気が渦巻いていた。

そして一九五二(昭和二十七)年に日本で開かれた第二回WFB会議こそが、解体した日本仏教を絶望の淵から救ったのである。仏教世界が一体となって取り組んだ「日本仏教の復興」は、WFBの初期における最も偉大なる事業のひとつとして評価される日もくるかもしれない。

一九五〇年のWFB結成から南伝伝承の「仏滅二千五百年」を祝した一九五六年のブッダ・ジャヤンティ(Buddha Jayanti)に到る一九五〇年代は、スリランカ仏教が新しい世界仏教の盟主として、ひととき体験した大きな高揚期であった。アジア仏教圈、とりわけテーラワーダ仏教諸国における西欧植民地主義の終焉を待って、オルコット大佐やダルマパーラが唱えた仏教世界の連合という理想は曲がりなりにも具現化したのである。その結けつ集じゅうがマララセーケーラを中心とするスリランカのテーラワーダ在家仏教徒によって組織されたことも、、十九世紀後半から南アジアを震源に展開していった仏教復興運動のひとつの到達点として、受け止めることができるだろう。

ひとつになった仏教世界は、決して日本の存在を忘れなかった。ひとつになった仏教世界の力で、日本は、少なくとも日本仏教は救われたのである。

それは単に、極東の「仏教国」への無知が育んだ片思いの僥倖ではなかった。いまから百十八年前に単身インドへ旅立ち、落語に練り込まれたサンスクリット語で現地のインド人から喝采を浴びた野口復堂。海外仏教事情に注意深くアンテナを張り、いち早く世界に日本仏教の思想を発信した高楠順次郎ら『反省会』の俊英たち。そして彼がスリランカで出会った愚直なる留学僧・釈興然。シカゴ万国宗教大会において、抜群の英語力で独善的なキリスト教宣教の非を訴えた平井金三。弟子の鈴木大拙を通して禅仏教を欧米社会に宣揚した釈宗演。数多くの日本の仏教徒が、東方の叡智を受け継ぐ「仏教国日本」という強烈なイメージを他の仏教世界そして西欧列強諸国にまで広めていったのだ。

日本が国際的孤立を深めて大東亜戦争に突入する過程で、生き残りのための思想的アクロバットに行き詰まった日本仏教は国体イデオロギーの渦に完全に呑み込まれ、主体性を喪失したかに見えた。しかし帰依の対象たる大日本帝国の崩壊も、仏教を道連れにすることはなかった。過去に世界の隅々まで浸透していた「仏教国日本」というイメージの持つ復元力によって、日本仏教はさしたる問題もなく、仏教世界への復帰をすんなり果たすことができたのである。

いまに続く「仏教国日本」というイメージは、決して中世に完成したとされる日本仏教の惰性でも余韻でもなかった。近代という時代のただなかで、社会の圧力と向き合い、アジアに拡がる仏教世界と出会い、対話し、連帯し、時に反目し合って自己形成された「近代日本仏教」の賜物だった。

それだけではない。一九五〇年スリランカで結集を果たした仏教世界の連合ユナイテッド・ブッディスト・ワールドは、佛紀二五〇〇年のブッダ・ジャヤンティに向けて、日本の国際社会への復帰を積極的に後押しした。敗戦の痛手にあえぐ日本仏教徒の求めに応じて極東の地まで大挙して足を運び、仏教世界の一員たる「極東の小島」の未来を祝福した。アナガーリカ・ダルマパーラが四度の日本訪問を含む世界宣教を通じて広めた「仏教世界の連合ユナイテッド・ブッディスト・ワールド」という思想は、WFBの結集理念に注ぎ込みながら、日本が仏教を捨てること、つまり大アジアの仏教世界から離脱することを決して許さなかった。

そんな諸々のおかげで、私たちはいまも「仏教国日本」を生きている。

私たちは五十年ほど前にようやくスタートした、日本もそのただなかにある「仏教世界共通の歴史」を歩み始めたばかりなのだ。

そして『大アジア思想活劇』とはつまり、「離散した南北の仏教徒が出会い、交流し、ついに仏教世界共通の歴史を歩み始めるまでの物語」だったのである。 

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