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32 ダルマパーラと田中智学の会見(上)二人の 「獅子」の出会い|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇

二人の「獅子」の出会い

明治三十五(一九〇二)年六月二十三日、来日中のアナガーリカ・ダルマパーラは鎌倉に田中智学(一八六一〜一九三九)を訪ねた。田中智学は在家の仏教活動家として日蓮主義に基づく近代日本の国体思想を確立し、昭和初期に台頭した右翼革命運動にも大きな影響を与えた一代のカリスマである。ダルマパーラと智学の出会いは一度だけのものだったが、智学は晩年までこの邂逅を記憶し続けた。ダルマパーラもまた、智学を「日本の宗教上の偉人」として称えた。幸いにもほぼ完全な形で残された当時の会見録には、二十世紀の初頭、仏陀の旗のもとアジアの両端で活躍した二人の獅子の火花飛ぶやりとりが記されている。

本稿では、田中智学の履歴に簡単に触れたうえで、六月の鎌倉で繰り広げられたダルマパーラと智学の会見を再現してみたいと思う。引用ばかり長くなって恐縮だが、近代アジアの精神史を考えるうえで、精読する価値は充分にあるものだと確信する次第だ。

田中智学とはいかなる人か?

田中智学は明治維新まで七年という幕末、文久元(一八六一)年十一月十七日、日本橋本石町に生まれた生粋の江戸っ子である。父は医者の多田玄龍で法華講(日蓮宗の在家組織)の熱心な信者。三男坊の智学は側室(凛子)の子で、幼名を秀丸のちに巴之助といった。父玄龍は酒で機嫌がよくなると秀丸を膝に乗せ、「俳諧は詠むべし、俳諧師とはなるべからず。仏法は学ぶべし、坊主とはなるべからず。味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と口癖のように語り聞かせた。この幼少期の原体験は、僧籍に入った智学を在家仏教へと向かわせるうえで尻押しになったようだ。

田中智學(1891年)

両親に愛されて育った智学だが、明治二(一八六九)年九月に母を、翌年二月には父を相次いで亡くし、幼くして天涯孤独の身となった。行く末を心配した周囲の法華信者たちは、浅草土ど富ぶ店だなの長遠寺に赴き、当時日蓮宗の説教の大家として知られた智境院日進に彼を託す。同年七月には日進の手で得度式を受け「智学」の僧名を授けられた。これは十歳の頃の出来事である。

のち下総の飯高壇林、東京芝二本榎の大教院に学んだ智学は、院長の新居日薩からも一目置かれ、才気渙発の青年僧へと成長していった。しかし彼の心中には他宗派との闘争、すなわち「折伏」の意義を否定し、江戸時代の妥協的教学を踏襲する宗門への違和感が募るばかりであった。明治十(一八七七)年、重い肺炎を患ったことを機会に大教院を離れた智学は東一之江村(現江戸川区一之江)妙覚寺に居を定め、独自に日蓮教学の研鑽を続けた。

「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ、速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ。然ラバ則チ三界ハ皆仏国ナリ」(立正安国論)

同年は西南戦争が勃発した年。江戸っ子にも人気があった西郷南洲は城山の露と消え、智学の肉体には「立正安国」を叫ぶ法華経行者の魂が受肉しつつあった。

田中智学の活動

日夜の研鑚の結果、日蓮主義の宣揚に一身を捧げる安心を得た智学。彼は明治十二(一八七九)年、新居日薩の熱心な諌止を振り切って僧籍を返上。在家信徒による日蓮主義運動を激烈な勢いで展開する。明治十八(一八八五)年、智学は数年間の活動の蓄積をもとに「立正安国会」(のちの国柱会)を設立、それまで寺檀制度に縛られてきた仏教徒の意識を覚醒させるべく、信者の主体的自覚で運営される「教会同盟制度」を打ち出した。また仏教結婚式や新生児への頂経式などの儀典を通して在家信者の世俗生活を仏教的に意義付けしたほか、印刷メディアや幻灯上映を用いた積極的な教化運動を繰り広げた。日本仏教の世俗化は近代化によりなし崩しに進んだが、智学は日本仏教が在家仏教として進む道を理論的に意義付け、近代という時代に対応した〝生きた仏教〟のあり方を創出・実践したのである。

あまたの心酔者を生み、近代日本の〝宗教改革者〟として、常に世間を賑わせた智学の生涯(『師子王全集』にまとめられた自伝だけで十巻に及ぶ)を貫く一本の柱は、一種の仏教ナショナリズム、「国体運動」である。日蓮主義による国家改造こそ「日本国体開顕」の道だと確信していた智学。彼は明治三十四(一九〇一)年、激烈な日蓮ナショナリズムの書『宗門之維新』を著し「夫れ本化の妙宗は宗門の為の宗門に非ずして、天下国家の為の宗門也、即ち日本国家の応さに護持すべき宗旨」であると宣言する。さらには法華経信仰による世界統一教「大日本国教」の制定を唱え「日蓮を大元帥とし、法華経を剣として、破邪顕正の侵略的折伏に向け進軍せよ」と叫んだ。気宇壮大な智学のアジテーションは、当時の憂国青年たちに熱狂的に受け入れられ、のちの右翼革命運動にも強い思想的影響を及ぼす。満州事変を引き起こす石原莞爾や血盟団の井上日昭、ユートピア文学者の宮沢賢治も智学の薫陶を受けた人脈に連なっている*32。大東亜戦争期に連呼された「八紘一宇(はっこういちう)」のスローガンも彼が提唱した成語だが、智学本人は晩年、日本を含め「世界がことごとくアメリカ化」することを予見してもいた。

ダルマパーラと智学の出会い

アナガーリカ・ダルマパーラが三度目の来日を果たした明治三十五(一九〇二)年頃、智学は鎌倉扇ヶ谷に土地を購入し、周囲を要山と称し『師子王文庫』を建設。そこを拠点に全国の伝道運動を指導していた。二人の出会いは、智学の高弟である山川智応(一八七九〜一九五六)がインド史にまつわる疑問をダルマパーラに問い合わせたことがきっかけとなった。智応から日蓮の事跡や田中智学の活躍を聞いたダルマパーラは「鎌倉なる聖祖の御霊地を拝し、且つ田中先生に面謁したし」と打診して両者の会見が決まった。

仏教の祖国たる印度国民が始めて日本誕応の聖祖御霊跡に詣ずるにつき、聖祖の御門下に紹介せられて正当の結縁を為すという清淨の会見として迎接すべし

智学はインドからの客人をVIP待遇でもてなした。六月二十三日、ダルマパーラは随員の工藤恵達とともに鎌倉入りし、師子王文庫を訪う。出迎えた人々のなかには文学博士・高山樗牛(一八七一〜一九〇二)もいた。ニーチェの紹介者として知られる樗牛だが、彼は『宗門之維新』を読んだことを契機に智学と出会う。ほどなく日蓮主義へ帰依した彼は、長谷に居を移し、智学のもとで日蓮研究に没頭していた。ダルマパーラの通訳は桑原智郁が行い、前述の山川智応が筆記した。以下智応の筆による『達磨波羅氏の来訪』(『妙宗』明治三十五年八月号)*33によって、当日の会見を再現してみたい。記録がどれだけ正確かは定かではないし文語体で読みにくいが、現代の読者も両名のテンションの高さに引き込まれてしまうのではないか。

要山師子王文庫での会談

達磨「予は立正安国会の教長田中先生及び高山(樗牛)博士に面会して多大なる歓喜を得たり。予は深く日本仏教に嘱望する処あるが故に、之を海外に伝播するに就いて肝要なる注意を致したく、また仏教上有益なる高論を承わらんことを熱望す。」

智学「然り、予も希望する所なり。貴下はこれまで日本へ幾度来給いしや。」

達磨「今度にて三度なり。予はこの国に来る毎に、初度の時よりは再度、再度の時よりは今度、この国の文明は駸々として進歩しつつあり。予はこの進歩と共にこの国の仏教者が目覚ましき活動を起して世界に向って仏陀の霊光を伝播せんことを切望するものなり。」

智学「貴意了せり。従来貴下と会見せる日本仏教徒は、我邦の仏教に就きて深き談話をなせし事あらざりしや。」

達磨「然り、貴下、予は不幸にして仏教上必要なる深き談話は何人よりも聴き得ざりしなり。」

三回目の来日を果たし、インドの仏教活動家としてそれなりに歓待されたダルマパーラ。しかし彼を「歓迎」した日本の仏教徒も、肝心の仏教について彼と議論を交わそうとはしなかった。要するにただのお客さん扱いだったのである。それに対して智学は挨拶もそこそこに、自らの信じる日蓮主義をもってダルマパーラの「通仏教主義」に挑みかかった。

智学「通途仏教と汎爾に云えども、日本仏教はインド支那隆昌の後を受けて、諸宗諸家の教理複雑を極わめ、特に日本に於いて発揮せられたる深重なる大教法の如き、西洋人も未だ着目せず、インドの人も未だ知らざる処なるべし。察するに貴下がこれまで応接せし人は、斯る義につきて深厚なる考察を持たざる人なるらし。故に予は、その仏教中日本に発明せられたる特別の教義を唱導せし、仏滅後世界空前の偉人たる日蓮上人の話しを致したしと考うるなり。」

達磨「そは予にとりて大なる趣味を感ず。されど予の意見は、仏教全体について如何にかして之を西洋人に伝えんことを欲するにあるなり。」

智学「その仏教全体ということは甚だ漠然たる考えにして、予等よりして見れば、日蓮上人の宣いし如く真の仏教にあらずとするなり。前にいう特殊なる教義こそ今後世界に宣伝を要する教えなり。」

達磨「然らばその日本特殊の仏教というものを、如何にして説き如何にして弘めんか、詳細を知らんことを欲す。」

智学「諾、されど時午に近し。願わくは席を改め昼飯を喫して後之を語らん。其前に於いて、かの日本特別なる仏教を唱導せし日蓮上人が、その弘教の為常に道路に立ちて法を説き、刀杖瓦石を受け流罪死罪を惹起せる小町辻説法の霊跡に詣して後、昼餐とせん。」

小町霊跡でのやりとり

ここで智学は客人を日蓮ゆかりの地、小町の辻説法霊跡へと誘った。ダルマパーラは南方の作法に従って「何か香芳しき華一枝を得たし、自らお供え致したし」と希望し、庭園に咲く白百合の一茎を手渡された。一行は人力車を連ねて辻説法霊跡に向かい、その門前にしばし佇んだ。

達磨「予は今日、日蓮上人の弘教の為に困難を嘗められたるこの霊蹟に来たりて上人化導の古えを追懐し、一茎の好華を捧げて一生の記念となし得るは予にとりて甚大なる喜悦なり(とて、左手に持てる百合を指していう)。今この華を見るに、一茎に華二つあり。一は開き一は未だ開かず。この一蕾こそ世界の人の未だ知らざる日蓮大偉聖の教義が、世界に向ってその光を放つべき希望を表せるものにあらずや。予はかく信じてますます歓喜に堪えざる所なり。」

智学「然り、日蓮上人の教義は、まさに未来に於いて世界を統一すべし。上人は宣まへり、……月は西より東に向う、月氏の仏法日本に来る瑞相なり、日は東より西へ行く、日本の仏法月氏に還る瑞相なり……と。予は今、貴下がこの御霊跡に拝詣せらるる事は、決して貴下一人の私詣なりとは思わず、貴下をして一般インド国民を代表せしめ、仏教祖国民の初めて本化大聖に稽首(けいしゅ)するの好記念とせんと欲す。」

正面の門が開かれると、ダルマパーラは白百合を御腰掛石の前に供え、正面にある題目の宝塔に拝礼した。このとき智学は南無妙法蓮華経と三唱し、神妙にしているダルマパーラに向かって「今身より仏身に至るまで能く持ち奉る南無妙法蓮華経」と称え、本門の大戒を授け終わったのである。そういえばダルマパーラはかつて釈雲照からも、十善戒を押し売り的に授けられた経験がある。日本仏教の授戒攻勢に、彼の心中は如何なものだったろうか。授けたほうの智学は往時を回想し、「まァその効果如何に拘らず、運びが大変いゝ、如何にも痛快である。」と豪放に笑うばかりだったが*34。

さて、このとき智学・樗牛・ダルマパーラらが小町の辻説法之霊蹟で撮った写真が残っている。例の黄色いローブをまとったダルマパーラは石碑の横で神妙に手を組んでおり、少し離れて智学の禿首と肩痩せした樗牛とが並んでカメラを見つめている。続いて一行は、八幡社前の対鶴館に席を移し、昼食を挟んで語り合った。ここからいよいよ智学とダルマパーラの熱のこもったやりとりが始まる。まずは智学の独壇場である日蓮上人談から……。

日蓮伝記と英訳法華経──対鶴館における談話

達磨「日蓮上人の教義に関し有益なる談話を拝承致したし。」

智学「上人の主張は一般仏教家の主張と大いに異る。そは一代仏教中、妙法蓮華経を以て仏教の骨髄なりとなすなり。一般の仏教家は法華経を一般仏教中の一経なりと考う。これ誤りなり。一代仏経中に法華経なくんば宛かも精神なき骸骨のみ。故に一代仏教が家の法華経に非ずして、法華経が家の一代仏教なりとして、一切の仏法を法華経よりして統一するが上人の主義なり。」

達磨「日蓮上人は今より幾年前の人にして、その教義を説ける処はいずこなりや。」

智学「今より六百八十一年前に生れて、六百二十年前に入滅し給えり。その説法の処は、鎌倉、佐渡、身延その他諸処あれども、その弘通の長くして盛んなりしは鎌倉なり。即ち先刻の辻説法の霊跡は、二十二年在鎌倉の化導中尤も活動盛んなりし芳跡なり。」

達磨「最初は如何なる教えを説き給いしや。」

智学「最初よりして妙法蓮華経なり。法華経を閑却して他の一切の教義によるは、悪道の因なりということを説き給えり。」

達磨「妙法蓮華経の根本の議論は何なりや。」

智学「妙法蓮華経を解釈するに通仏教主義によりて考えたるが他の仏教家なり。然るに、妙法蓮華経の根本義たる如来寿量品によりて、一切の仏教を論じ給うが日蓮上人の教義なり。」

達磨「日蓮上人は漢訳の妙法蓮華経に依られたるならん。その漢訳法華経の英語に重訳せられたるありや。」

智学「未だ無し。」

達磨「予おもうにカーレスの英訳法華経は未だ充分の信を置くを得ずと考う。予は故に、漢訳法華経の速やかに英語に重訳せられて、世界に示されんことを望む。」

天竺に仏法なし──対鶴館における談話

続いて智学は『天竺に仏法なし』という日蓮のテーゼをダルマパーラに突きつける。「月は西より東に向う、月氏の仏法日本に来る瑞相なり、日は東より西へ行く、日本の仏法月氏に還る瑞相なり」つまり日本で説かれた日蓮宗こそが、インドに再び仏教を伝え、ゆくゆくは仏陀の教えで「世界を統一」するのであると。なんだか頭の痛くなる大風呂敷の啖呵だが、智応の記事を読む限りでは、ダルマパーラも智学の言葉に感銘を受けた様子だ。

智学「日蓮上人が寿量品の見地よりせる法華経の解釈はもと独発なれども、その学問の系統は、大体支那の天台大師智顗(ちぎ)という人に出でたり。この天台大師には摩訶止観という大法門あり、当時インドの学匠等も、遠く天台の教迹を伝聞し、仏陀の本懐之に過ぎずと論じたり。後、妙楽大師湛然という人、之を聞きて、「中国法を失うて之を四維に求むるに非ずや」と曰われたり。日蓮上人はこの語を引證して、「天竺に仏法なき證文なり」と断じたまえり。上人はその学系に於いて天台未発の大玄旨を、法華経寿量品によりて発揮せられたるなり。」

達磨「インドの仏教は、今日殆ど七百年以前に於いてその生命全く衰滅したり。今日インドの仏教なるものはこれ残骸のみ。」

智学「否、啻ただに七百年のみならんや、千数百年以前天台大師の時すでに、真実深固なる仏教はなかりしなり。日蓮上人は一たびもその地を履み給わねども、インドに仏教の衰滅せることを識ろしめして……、日本の仏法月氏に還る……、と予言し給えり。」

達磨「インドに於いて殆ど仏教が全滅したる七百年前に於いて、日蓮上人がこの国に出でて、さる予言をしたまいしは、予等頗る注意すべきことなり。インドの仏教は、インド教の為にその菓を奪われたるに、早く種を徙したる日本は、美しき花咲けり。」

智学「我等の理想即ち日蓮上人門下の理想は、妙法蓮華経即ち日蓮上人によりて開発せられたる特殊なる妙を以てまず支那インドを開導し、進んで西洋諸国に宣伝して、教法上に世界を統一せんことを期するに在り。」

達磨「釈迦牟尼仏は妙法蓮華経を説きて、我等の心を蓮華に譬えたまえり。或る人は、仏性の蓮華半ば開けるあり、或る人は少しも開かざるあり、蓮華が日光によりて華を開くは、これ我等凡夫、仏陀の慈智によりて仏性を開くが如し。」

智学「然なり。天台大師はその譬喩の蓮華に就いて六重の釈あり。更に進んでは我等衆生の心及びこの物質的世界をも、要するに法界全体の実相を以て直ちに蓮華なりとし、これを当体蓮華の法門とす。この時は、艸くさにして実相の当体に似たるあり蓮華と名づく、と云うなり。また蓮華が日によりてその華を開くは、法華経の理想にして、日蓮上人は即ち太陽と蓮華とを以て自らの名としたまえり。大いなる注意を要す。」

達磨「その目出度き御名は、誰によりて授かり給いしや。」

智学「そは上人自ら名乗り給えり。御歳三十二歳の時、法華経寿量品よりせる特殊なる教義を始めて唱導したまい、法華経涌出品に出現せる上行菩薩の垂迹として、末法の大導師として立ち給う時、始めて名乗り給えり。(中略)」

達磨「予は日蓮上人の伝は、アーサー・ロイド氏の英文によりてその一斑を知りて、大なる尊敬を抱持し、且つ上人研究の志を起せり。惟うに多くの外国人は、未だ上人の真価を知らざるべし。また予は今日の談話によりて、愈々上人の深く研究すべきことを知る。切望する所は、英文によりて上人の完全なる伝記を作られたきことなり。予はこの絶大なる偉人が早く世に紹介せられんことを楽しむ。」

智学「予は未だロイド氏の伝記が如何なるものなりしか知らねど、上人の真相はただに外国人のみならず、日本人にさえ大いに誤解せられて、種々の悪名を附するものすらあり。偶々称賛するものも、日本のルーテルとし、サボナローラに擬し、マホメットに比するに止まる、洪嘆すべし。予は将来外国文によりて上人の真相を紹介せんことを期す。」

アーサー・ロイドの英文日蓮伝の話題が出たところで、たまらず高山樗牛博士も談話に加わった。彼は自ら流暢な英語でダルマパーラに語りかけたという。

高山樗牛

樗牛「ロイド氏の上人伝は、往年或る雑誌に出でたる短文章にして、上人一代の梗概を叙説せるものなり。ダ氏の言の如く、上人を世界に紹介する事は、日本人の栄誉ある事業なり。予を以て見れば、上人は決して単に日本に於ける大偉人なりしのみならず、世界に於ける大偉人なり。ルーテルや、サボナローラや、マホメットを以て比するは、その比倫を失す。その大はまさにキリストと相比すべし。」

達磨「予はおもうに、日蓮上人はキリスト已上の人なり。その理由は多言を要せず。例えその弘教の熱誠相若しくとするも、キリストは他人の手に殺されたるに非ずや。他殺せらるるが如きは、決して聖賢の上乗なるものに非ず。日蓮上人を見ずや、彼には迫害の刀もその効を奏せざりしに非ずや。日蓮上人程の気魄と熱信を以て布教すれば、今日世界を化度することもまた易々たるべきのみ。」

智学「日蓮上人は、未来に於いて一天四海皆帰妙法の理想を有して、世界中を化度し尽すの遺命をなせり。故に、上人の高弟に六人の偉人物ありしが、その一人たる日持上人は、六百年前交通不便にして、海外事情の不明なる時、すでに海をこえて北方に進み、シベリアより北方アジアに布教したる形迹ありという。以て上人の規模を見るべし。(中略)」

皇室の信仰・インドの虐政──対鶴館における談話

談話が弾むなか、ダルマパーラはふと日本の皇室にまつわる質問を投げかけた。

達磨「日本天皇皇后両陛下は、如何なる宗教を信じさせ給うや。」

智学「宗教としては何の宗をも奉じ給わず。然れども建国の大精神は、真実なる仏教々義と契合せる所なり。現今日本の皇室が仏教中の何宗をも信じさせ給わぬは、大いに注意すべき事なり。仏陀の真実義は必ず一ならざるべからず。現今の異宗異派多きは決して仏意に非ず。随って将来統一せらるるの時あるべきは、決定して疑う所なし。皇室が何宗をも信じさせ給わざるは、おのずから未来統一の時を待たせたもう天籌に出ず。」

この時の様子を、智応は「ダ氏感動の色あり、しきりに日本皇室の尊貴神聖を説く」と記している。リップサービスも入っていたかもしれぬが、英国の侵略によって王権を奪われたランカーの末裔にとって、西欧の圧迫をなお跳ね返し、国民に慕われる極東の皇室の姿は憧れにも似た感情を覚えさせらるものだったろう。談義は英国の植民地統治に踏みしだかれたインド情勢へと進む。インド大飢饉の惨禍が記憶に生々しいだけに、「他人種を人間と考えざる」白色人種への怒りが次第に激昂してゆくさまは興味深い。そして我らには仏陀の教えがある! 近代の超克は、ずっと昔からインテリ茶飲み話のテーマだった。

智学「聞く所によれば、貴下はインド人の為に英国の虐政を忿慨し、万国宗教大会の時にもさかんに之を痛撃せりと。予惟うに、英国のインド人を虐待するは、重に人種問題なるべし。伝聞によれば、彼等英人がインドに於ける施政はまことに強慾非道の仕方なり。」

樗牛「彼等白人種は、他人種を人間と考えざるなり。」

智学「キリスト教の教理が、その通りに偏狭なるものなりしなり。即ち彼等の愛は、自分より遠きものを愛せざる私愛なり。」

樗牛「キリスト彼れ自身にはその事なし。後世ユダヤ教の趣味がキリスト教にまじわれるにより此に至れるなり。」

智学「否、独り然るのみに非ず、全くキリスト教の根本思想が、人間を知って動物を知らず、彼の愛は動物に遍せず、下等の動物は殺して以て人間の食うべきものなりと考え居れり。これ私愛なり。予はインドにてかつて塩に重税を課するというを聞き、憤慨に堪えず。十七、八年前東京厚生館に於いて、〝公愛と私愛〟と題して演説したることあり。」

達磨「英国政府のインドに対する施政は、実に慨嘆に堪えざるなり。彼等の政府は人民を教育せず堕落せしむ。文明に導かずして野蛮ならしむ。過去十四年間に於いて、この虐政の下に惨死せる人民凡そ三千四百万人あり。殆ど仏国(フランス)人民の数に近し。実にこれをおもえば、インド人の為に悲痛の情を堪えず。」

智学「これ彼れ英国の如き文明を誇称するも、その文明の根底そのものが深厚なる理想なき、極めて薄弱のものなればなり。」

達磨「然り、実に彼等の残忍酷薄なること悪魔の政府なり。」

智学「彼等がインドに対して虐政をとれるは、これキリスト教主義の道徳より発せるに非ざるか。キリスト教は彼れの国教にして、しかも国人一般にインドの虐政を怪しまざるは、これ少なくもキリスト教の道徳がその非を咎めざるに非ざるか。」

樗牛「予惟うに、キリスト教の道徳は欧州文明の根底をなさず、むしろギリシャ・ローマの文明がその根底となれるを見る。」

智応「グラッドストンの如き善き政事家にして、キリスト教の誠実なる信者なりしと聞く。彼れがインドに対する、またその虐政を云々したることなし。之を以ておもうに、トルストイ等を除くの外、今日一般にキリスト教と名くるものの根底には偏狭なる私愛を含むことは、否むべからざるの非ずかと考う。」

智学「予は嘗てそれに就いて、自らインドへ渡りて仏教を以てインド民を結合し、英国政府を放逐し、インド大帝国を建設せんことを理想したることさえありき。」

達磨「英国は傲慢にして人民を虐待するを以て、その政策とせり。予は彼れ英国を以て悪魔なりと考う。憐れなるインド人は、今や悪魔の手に支配せられて、その汗血を搾られつつあるなり。」

智学「然り然り。日本国民はその根本の性質に於いて、さる残忍なる虐待を悪む処の公憤を有する国民なり。殊に日蓮上人の主義は、この国民性を宏大にして深厚にしたる活発なる事観的教義なり。」

達磨「田中先生の語によりて考うれば、日本の仏教が次第西漸してインドへ還るべしという日蓮上人の言は、或いは地上に仏陀の恵光を抱有せる一大帝国を建立するの意に非ずや。」

智学「大帝国にもあれ小帝国にもあれ、上人の本意は妙法の民を造るにあるのみ。この為には、戦争でも刀杖でも決して厭う所にあらず。道の為には、或いは之を受け或いは之も執るべし、と教え給えり。日本国民は未だこの警呼の声に目醒むる能わず、何等の不幸ぞ。インド人もまた早くこの警想に蘇生し来たらざるべからず。」

達磨「日蓮上人は日本に出現して、妙法は宇宙の大法なり、之を以て世界を統一すべしと説き給えり、と聴く。げに妙法の蓮華は、吾人精神の実相なり。人の精神はまことに宇宙程大なるものなり。人よく自ら妙法蓮華の当体なるを知らば、何ぞ自らの小を憂えん、上人の警呼の声は直ちに仏陀のみ声なりと信ず。」


註釈

*32 ここまでの記述は主に『田中智学』田中香浦(真世界社、一九七七年)、『明治の仏教者』(下)常光浩然(春秋社、一九六九年)を参考にした。

*33 『田中智学先生の思い出』田中香浦編、真世界社、一九八八年、五四六頁から収録。一部の地名等をカタカナに改め、文意を損ねない範囲で難読字・旧字を改め、または平仮名とした。

*34 『田中智學自伝 第四巻』師子王文庫、一九三六年を参照。


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