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3オルコット招聘運動顛末|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

オルコット招聘運動と平井金三

ヘンリー・スティール・オルコット著『仏教徒教理問答集ザ・ブッディスト・カテキズム』日本語版の出版によって、インド神智学協会と日本仏教徒の通信はがぜん活発化した。明治十六(一八八三)年に建てられた鹿鳴館に象徴される欧化主義は、この頃ようやく反動期を迎えつつあった。折しも明治二十一年には三宅雪嶺、志賀重昂らによって雑誌『日本人』が創刊され、国粋主義の旗が論壇にも翻る。キリスト教徒の攻勢に汲々としていた日本仏教徒はそのとき、釈迦の故国インドに、力強い援軍を見出していたのである。

ほどなく「白い仏教徒」オルコット大佐をなんとかして日本に招聘せんという気運が、関西仏教徒の間で盛り上がる。この招聘運動は当時京都で新島襄の同志社英学校に対抗して英語塾『オリエンタル・ホール』を経営していた在家仏教徒の平井金三と、真宗大谷派僧侶の佐野正道が旗振り役となって進められた。

佐野正道について詳しい履歴は分からない。平井金三については次章で詳しく述べるが、彼は明治十八(一八八五)年一月に創設した英語私塾『オリエンタル・ホール』から優秀な人材を次々と輩出する京都における仏教系知識人のリーダーであった。平井は持ち前の英語力と行動力をもって、オルコット招聘運動の中心を担うことになった。

平井たちは明治二十(一八八七)年の十月にオルコットから『神智学協会日本支部』の委任状を取りつけた。翌年二月にはオルコットのもう一冊の著書『仏教金規則(The Golden Rules of Buddhism)』を翻訳(佐野正道)し、出版した。そしてほどなく、京都に『オルコット氏招聘事務所』が開設された。

平井・佐野による盛んな運動の結果、同年末インド・マドラス近郊の神智学協会本部にて開催される神智学協会創立十三周年大会に野口復堂(善四郎)を日本代表として参加させ、その足でオルコットを日本に招くこととあいなった。しかし、当事者の野口が語るところによれば、彼のインド行きはかなり泥縄的に決まったようだ。

オルコット来ないなら寄付金返せ

「(オルコット氏招聘運動は)広く義捐を全国に求めしに、時運のせしむるところか忽ちに金は集まる。ところが佐野氏の不取締りから、大に不足を生じ、平井氏は自分の金側の時計まで売って、仏国メサジリ会社の汽船にてマドラス神戸間の二等片道切符を買いこれに招聘状を添えてオルコット氏へ差出し置き、一方佐野氏の穴埋めと、オ氏の接待費帰国の汽船費を要する事なれば、一層募金に努めて居ったが、印度よりは一向返事が来ない、世間の寄付者より 「いつオルコットは来るか、もし来ないならば寄付金返せ」との催促、そこで再度の案内状を出したが、これに対しても返事がない。平井氏はほとんど印度と日本の板挟みとなった苦しみである。」(野口復堂「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」より)

そこで平井から白羽の矢を立てられたのが野口善四郎(のちの復堂)青年である。オルコット招聘運動の当時は、大阪府下の真宗大谷派茨木別院の三徳学校で英語教師をしていた。彼は婿入り前の旧姓「貫名善四郎」時代から、平井の同志として神智学協会との連絡を引き受けており、セイロン(スリランカ)神智学協会の幹部だったアナガーリカ・ダルマパーラとも文通を続けていた。

義兄金三の窮地に復堂起つ

さて、オルコット招聘にまつわる騒動で進退窮まった平井金三は、ある日京都から摂州に野口の養家を訪ねて曰く、

「『平井の一命を助けると思って君、渡天してオルコットを連れて来て下さい。幸いに印度には霊智会創立後第十三回紀念大会が催される筈で、既に開き了ったか、未だ開かずにあるか、ともかく日本代表で御出席下さい。そしてオルコットを同道して来て頂きたい。そのうえ虫のえゝ話だが、旅費は君のお手にて一時お立換え置き下さい』とあったので、予は驚いた。

それもその筈予が此家へ養子に来てから未だ半歳たつやたゝず、それに教職を辞し、郡役所、町役場、警察署への出教授も廃し、収入の道を杜絶した上、母に旅費の支出を請う事であるから断られるは当然と思ったから、ことを事後承諾法に託し、予は母にも相談せず、独断を以て承認し、平井氏の帰りし後に此事を義母に告げしに、義母は「あなたは平井を義兄として、当家へ貰い受けしものなれば、兄の難を助くるは当然なり」とさすが大塩平八郎の筋を引くもの、忽ち快く承諾して、三百年の家産たる田地を抵当に金を借入れ旅費を便じてくれた。」(同前)

野口はただちに大阪府庁で旅行免状を取ると、祇園の栂の尾で送別の宴を受け、同年九月九日、神戸発のフランス郵船デショミナ号*6に乗り込んで単身インドへと旅立った。その時の心境を回想して曰く、

「甲板の上より母に伴われ岩田帯の腹抱えて見返り見返りつゝ帰り行く妻の姿を見下ろした時は、さすがの復堂も落涙した。」(同前)

野口善四郎青年明治二十一年のインド旅行はこうして始まったのである。


註釈

*6 フランス郵船の当時の運賃については資料が見当たらず不明だが、日本郵船の航路が開いた明治二十九(一八九六)年の横浜〜コロンボ(野口の最初の目的地)片道渡航運賃は一等百五十五円、二等百十円、三等四十五円(日本郵船横浜歴史資料館・山田仁美さんの御教示)。当時の物価:米十キロが一円十二銭(明治三十年)、大工の手間賃が五十四銭(同二十八年)、薄給で知られた巡査の初任給が九円(同三十年)、松山中学に赴任した夏目漱石の月給が八十円(同二十八年)。

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