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4平井金三と野口復堂~日本仏教を世界へ開いたパイオニア|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

ここまで駆け足で、オルコット招聘運動の経緯を述べたが、重要な人物が二人登場した。平井金三と野口復堂である。この後も何度か繰り返して触れることになると思うが、いま分かっている範囲で「列伝」風に解説してみたい。


平井金三の生い立ち

平井金三(ひらい きんざ)は明治大正時代の英学者。安政六年十月二十五日、京都に生まれる。父は儒者で書家でもある平井義直(春江)、母は山科の西宗寺の出身。幼名は鱗三郎で、のちに金三郎と改めた。外国人と交際するようになってから、呼びやすい金三(きんざ)で通すことが多かった。

明治十七年二月、太政官文書局に翻訳官として出仕するが、約半年で辞職した。病気を理由にしていたものの、井上馨によるキリスト教優遇政策を嫌って、建白書を突きつけてのことであった。野に下った平井は明治十八(一八八五)年一月、京都の室町御池に英語私塾『オリエンタル・ホール』を創設して新島襄の同志社に拮抗した。門下からは仏教学者の姉崎正治、加藤咄堂、歌人の甲斐和里子、雷淵大道和一(京都日の出新聞の主筆)、松山忠二郎(読売新聞社長)らが出ている。京都の知識人の領袖的な地位にあった平井は、持ち前の英語力と行動力をもって、オルコット招聘運動の中心を担った。

アメリカでの仏教講演・ユニテリアン・道会への参加

同年十一月、新島襄が「同志社大学校設立の旨意」を出すと、すかさず対抗して仏教大学校の設立(オリエンタル・ホールの大学化)を構想したが、これは結局実現しなかった。その後平井は明治二十四(一八九一)年、臨済宗妙心寺管長今川貞山について出家得度し、龍華と称す。二十五(一八九二)年三月には単身渡米して合衆国・カナダの各地を巡錫、日本や仏教に関する講演活動を続けた。日本人による西欧への仏教布教活動(仏教東漸)は、この平井のアメリカ行脚に始まると謂っても過言ではあるまい。

明治二十六(一八九三)年、渡米中の平井はその足でシカゴ万国宗教会議に出席し、キリスト教会の日本伝道を激烈に批判する演説を残した。翌年五月には自由宗教会議にも参加して、六月に帰国。各本山よりの依頼を断って、野口復堂とともにしばらく大阪で氷売りをしたそうだ。ほどなくして京都市内でオリエンタル・ホールを再開。このとき、岡倉天心やフェノロサもたびたび来校して盛況だった。明治三十二(一八九九)年十月、野口復堂らの勧めで東京に移住し、ユニテリアン教会の活動に加わる。ユニテリアンとは三位一体説を否定し、キリストの神性も否定したリベラルなキリスト教宗派である。十八世紀から十九世紀にかけアメリカで流行し、日本にも明治十九(一八八六)年に伝えられた。日本ではキリスト教徒のほか、仏教徒や社会主義者も数多く参加しており、新進思想のサロン的役割を果たしていた。

明治三十三(一九〇〇)年に再び渡米し、ボストンの世界ユニテリアン会議、シカゴの自由宗教会議にも参加した。東京ではインドからの留学生やインド独立運動の活動家を支援、明治三十五(一九〇二)年のダルマパーラ三度目の来日に際しては日本とインドの関係強化を図り『日印協会』創設に尽力、大隈重信を会長に担いだ。その後ユニテリアン教会を離脱し、明治四十(一九〇七)年、松村介石(後述)や野口復堂と道会(日本教会)結成に加わった。

日本語はアーリア系と主張

平井はユニークな言語学者としても知られていた。東京外語大、東京高等師範学校、早稲田大学、慶応大学、第一高等学校で教鞭をとり、『ローマ字ひろめ会』に加わった。「大和民族の言語はインド系(アーリア語)である」と主張して、田口卯吉と研究会を起こしたこともあるという*7。彼は自説をパンフレットにまとめて各国に郵送し、大英百科事典の第十版にはその研究が明記されたという。インドの代表的な宗教詩『バガヴァッド・ギーター』翻訳にも取り組んだが、これは未完に終わった。

心霊研究のパイオニア

心霊研究家としても、福来友吉らと並ぶパイオニアのひとりに挙げられる。平井は明治四十一(一九〇八)年、松村介石(一八五九〜一九三九 キリスト教を儒教思想、ことに陽明学の影響のもと再解釈した道会[日本教会]の創始者)と協同で『心象会(心象研究会)』を創設した。『心象会』には、野口復堂・加藤咄堂・高嶋米峰・高木壬太郎らが参加し、テーブルターニングや火渡り、催眠術・念写など超常現象の実験を繰り返したが、

「心象会も大に其種に困って居る色々奔走して其人ありと聞くや否や、直ちに交渉を試みてみると大底は法螺吹きであったり偽物であったり、偶々真実のものがあったとすれば心象会の連中の不思議の実より劣って居るので、物にならぬ。実のところ心象会の会員は已に怪物其物であるから、大低の怪物は怖れて近よらぬのである。」

という具合であった。渡米時に加わった心霊サークルでの体験を記した著書『心霊の現象』(明治四十三年)も残している。

大正五年三月十三日に死去。葬儀では、大隈重信が弔辞を寄せた。遺骨は京都市上京区上品十二坊蓮台寺及び大谷墓地(西大谷)に眠る。ほかに著作は『大英文典』『宗教と政治』、沙門龍華として出版した四百頁にものぼる本格的な禅定修道マニュアル『心身修養 三摩地』などがある*8。

平井金三の宗教観

「宗教は宇宙に充満する偉大なる何ものかを信ずるので、此ものゝ本体もと霊妙不可思議、理論で解釈の出来ぬものです、而して吾等人間も其他万物も此霊妙なるものと同一体で、其中に抱合せられて居るのです、世界に色々種類の異なる宗教は有れども何れも此霊妙(敢て霊妙体とも霊の力とも言わず)を中心として居ます、其異なるは唯被服の相違です、之に依り私の宿論として居る総合宗教と云うも此点より申すので、有らゆる宗教の善い処を折衷すると云う意では無い、又人は宗教の名の下に在るにもせよ、名を嫌うて無宗教と公言するにもせよ、其人の心中何等か偉大なる霊を信ずる人なれば私は此人を宗教ある人と申ます。」(「道」第三号 明治四十一年七月より)

野口復堂の生い立ち

野口復堂(のぐち ふくどう 元治元年生まれ。没年は不明。一八六四?〜?)本名は善四郎で、婿養子に入る前の旧姓は貫名である。復堂の父は京都の商人で、幕末期には薩摩屋敷・彦根屋敷と取引があり、維新の志士との交友を持っていた。善四郎の学生時代に出家(日蓮宗)して貫名無着日信と名乗り、上京二組の戸長と愛宕郡小山村の村長を務めた人物である。ちなみに復堂の自伝的な教談集『珍々團』(大正二年)には、京都の商家に育った彼の複雑な家庭環境や、テロと戦争に明け暮れていた幕末京都の風俗が生々しく語られている。維新後に「新平民」となったエタ村の衆のはりきった様子、大塩平八郎の血筋を引く復堂の養母がそのタブーを維新後もずっと引きずっていたというエピソードなども興味深い。

さて、無着がもうけた十三人の子供はみな病弱で、不幸にもほとんど早世したのだが、残った善四郎は丈夫で利発だった。明治十年、西南の役に伴い京都に移った明治天皇より学業天覧を賜り、学業俊秀のかどで官費英学校に進学したという。その後の学歴などは不明だが、成人後は英語教師をして生計を立て、平井金三のオリエンタル・ホール幹事にも名を連ねており、同校の「雄弁会」の会長格であった。

インド旅行・万国宗教大会出席

のちにやはり平井の斡旋で、摂津の野口家へ入り婿し、大阪府下の真宗大谷派茨木別院の三徳学校で英語教師を務めた。

明治二十一(一八八八)年、「西洋人でも仏教を信じている人士がいることを証明するため」神智学協会会長のヘンリー・スティール・オルコット大佐を日本に呼ぶためにインドに渡る。

翌年スリランカ仏教の青年指導者アナガーリカ・ダルマパーラとオルコット大佐を連れて帰国。オルコットらは日本で熱狂的な歓迎を受けた。同二十六(一八九三)年には、「長名話」(のちに詳述)の縁でシカゴ万国宗教大会にも参加し、自ら演説したほか日本仏教訪米団(釈宗演・土宜法竜ら)の通訳を務めている。

教談の誕生

その後、東京に住居を移して、ユニテリアン教会にも関わりを持つ。本人の弁によれば、サミュエル商会番頭につく等、語学の才を活かして職業をいくつか転じたようだ。明治四十(一九〇七)年頃、平井金三を通じて「日本教会」の松村介石と出会い、意気投合する。野口は遊芸出稼人の鑑札を受け、「教きょう談だん」と銘打ち、本格的に噺屋稼業として打って出たのだ。

本家の講談はといえばトウの昔に黄金期を過ぎ、内紛や浪曲の流行にも押され衰退の一途を辿っていた時代である。復堂曰く、

「教談とは読んで字の如く教化を旨とせる講談にして兼てより松村介石先生は之れが必要を感じ門下生をして講談師眞龍齋貞水に就き講談の秘訣を学ばしめつゝある際余は偶然にも先生と平井金三先生宅にて相知り先生面前にて一二講を試みしに「大に面白し大に遣るべし」と余も元より之れが必要を感じ居ることゝて直に先生の勧めを容れ真面目に扇子を取って社界に向うことゝなれり余が友人中にも余を以て狂せるもの堕落せるもの友の名を辱かしむるものと切論するものあれども余は一切之等の諸評諸論は御預りとなし恥も慮外も顧みず猛然進んで我所信を貫かんと欲するものなり……」(「教談の必要と来歴」『道』四号 明治四十一年四月掲載)

それから彼は日本教会(のちの道会)に幹部として関わりつつ、「根が喋りの天職」を自任して話芸による民衆教化に半生を過ごした。ちなみに上に出てくる眞龍齋貞水は、四代目(早川)貞水であろう。貞水は内務省嘱託となって地方講演に巡回して「御用講談師」と呼ばれた。復堂先生もまた大正年間には「内務省嘱託」の肩書きでしばしば登場するので、貞水とは「御用仲間」だったかもしれない。

教談全盛時代

翌年には、松村介石によって日本教会の機関誌『道』が創刊されたが、野口復堂は平井金三とともに常連寄稿者となっている。前述のように、野口は「教談」と称する教育講談の高座を受け持っていた。これがかなり盛況を博して、日本教会の重要な事業となった。初期の『道』(道会の雑誌)の紙面からは、復堂の驚異的な博識と話術が織りなす「教談」が、一時は熱狂的に大衆に受け入れられた様子が伝わってくる。

明治四十四(一九一一)年には道会周辺の人士によって「明治の心学道話」を銘打った大衆教化団体「道の会」が結成され、全国に支部をつくり教育講演会を催した。『道』の姉妹紙として『道話』も創刊。野口の教談はもちろんここでも人気連載である。野口は日本各地から満州まで、請われるまま教談行脚に駆けずりまわった。古今東西の偉人伝は彼の十八番だったが、その土地の埋もれた偉人を発掘する取材にも長けていた。群馬の義民、杉木茂左衛門(磔茂左衛門)の伝説を広く全国に知らしめたのは復堂の教談『磔茂左衛門』(大正四年)であったという。後述する釈興然の活動についても、その伝記的資料は彼の教談に多くを拠っている。

大正二(一九一三)年九月の『道』には四たび来日中のアナガーリカ・ダルマパーラが寄稿しているが、これも野口復堂とのコネクションによるものだろう。このダルマパーラの記事は、初期道会と関わりの深かった大川周明(戦前の大アジア主義思想のイデオローグ)が、インドに関心を抱くきっかけのひとつになったと思われる。

多く口述記録だが、『通俗教談集』『忠孝の鑑』『教談嗚呼松陰』『大鼎呂』『えらい人』『大楠公夫人』など著書も多数残されている。なかには偽書『シオンの議定書』を真に受けて反ユダヤ主義を講じたおっちょこちょいな作品もあるが、「教談」のリズム感あふれる語り口は、いま読んでも、まるで声が聞こえてくるようで楽しい。往時はさぞファンも多かったことだろう。道会時代の同志、松村介石は復堂を称えて曰く、

「教談の名は野口復堂兄の名聲と相待って已に都下に聞ゆるに至れり。本書収むるところのもは辯に成らずして文になるもの其間多少の相違ありと雖ども、野口兄が我國の頽風壊俗に發憤し、狂瀾を既倒に回さんと欲する赤誠と自任とは、一字一句の間に活躍するものあるを覺へずんばあらず。野口兄は嘗て米国に赴き印度に臻り、萬國の形勢に通じ、古今の史傳に明かなるもの、其海外の人物を紹介するも、悉く皆泰西の書を繙き而後に成る、吾人は我教談が野口兄を得て、講談上一新軌軸を出し、永く我が社會教育に貢献するところあるを信じて疑はざるなり。」(『忠孝の鑑』明治四十二年九月 序文より)

晩年の野口復堂

野口の道会における肩書きは一貫して幹事であり、重鎮のひとりだった。しかし大正年間に松村が純化路線を取るようになると、娯楽担当の野口は喋りすぎの舌禍も災いして道会から離れた。『道』の教談記事は弟子の三浦樂堂が引き継いだが、師のごとき精彩に欠く。復堂自身、関東大震災前後はかなり不遇をかこっていたらしく、畸人ぶりも常軌を逸し始める。昭和十(一九三五)年の『中央仏教』四月号記事には、子息の野口龜之助が陸軍大尉に昇進し、陸軍大学に入学とある。昭和十二(一九三七)年頃までの仏教系雑誌などに名前が散見されるが、その後の消息は確かではない*9。

復堂には前出の三浦樂堂・中岡黙堂の二人の弟子がいたが、「教談」の系譜がどうなったかは分らない。講談関係の書籍に名前が上がることもなく、『講談五百年』(佐野孝 昭和十八年)の大正・昭和講談史を概説したくだりに「この他野口復堂、天野鴙彦なども、ある意味では記憶さるべき人物だが講談師ではない。」とそっけなく記されている程度だ。

前述の平井金三にもおおむねいえることだが、野口復堂のような人物を近代日本の思想史・仏教史・宗教史などの文脈に載せて正当に評価することは難しい。好奇心旺盛で英語にも長けた復堂は、仏教の新思潮や自由キリスト教派を日本に紹介し、アジア仏教徒の交流を促すなど近代日本の宗教文化形成に大きな役割を果たした。一方で「根が喋りの天職」を離れることなく、知のエンターテイナーとして人々を楽しませつつ、道徳ある人生へと導き続けた。教団や組織に安住することはなかったゆえに、復堂についての記録は乏しい。彼が創始した「教談」もまた、一代限りの看板に留まった。復堂は長く忘れられた人物だった。本書がその再評価の契機になれば、というのが筆者の秘かな願いである。

野口復堂の宗教観

「「釈迦といふいたづらものが世にいでゝ世間の人を迷わしにけり」迷わす者は釈迦のみか「モセス」「ジイザス」「ゾロスタア」「モハメツド」には「コンフシアス」御負けに添えて「ソクラテス」其の「ソクラテス」は美を説いて罪みとがなきに毒せられ「ジイザス」とても同じこと十字架上に愛を説き「コンフシアス」は野に飢えて忠恕の声を絶たざりき「ゼンド、アヴエスタ」は「ゾロスタア」の声劔伐と共に閃くは「モハメツド」の手の「コウラン」「モセス」は「ヘブリエ」の「ロウ、ギヴア」釈迦は八万四千の「ロウ、ギヴア」无明の闇をうち破り真如の月は空高くと喜び合いしも束の間の古き婆羅門又興り菩提樹をこそ斃しける斃し斃され迷い迷わされ抑も世人は何処に帰着すべきぞ咄世間迷執の徒よ伏して静に眠れる膝上愛兒の面を見よ仰いで木の間洩る夏の夜の月を看よ之れ我宗教観となす。」(「道」第四号明治四十一年八月より)


註釈

*7 平井金三氏略歴、『英語青年』第三十五巻第一号、英語青年社、大正五年四月一日、二十九頁

*8 平井金三の詳細な伝記とその事績については、赤井敏夫、橋本貴、橋本順光、野崎晃市、Jeff Shore、Judith Snodgrass、吉永進一による共同研究報告書科学研究費課題番号(一六五二〇〇六〇)『平井金三における明治仏教の国際化に関する宗教史・文化史的研究』(二〇〇七年三月)によって初めて全貌が明らかにされた。

*9 筆者が把握している復堂の最も晩年の記録は、『中央仏教』第二十四巻九号、十号(昭和十五年八月、九月印刷)に掲載された、満州から引き揚げて世田谷区北澤に閑住、との消息記事である。後者には「満州で骨にはならず喜宇となりまたもや娑婆を長期となしたり」との短文が載せられている。

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