8白い仏教徒の闘い~プロテスタント仏教の創生|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇
神智学協会インド上陸
「旅の始まりはひどかった。船酔いに熱気と、それからアリア・サマジのボンベイ支部長から届いた多額の請求書──それがHPBを爆発させ、暴涜の言辞を吐かせた。にもかかわらず、協会の選んだ道は正しいものだった。」*19
一八七八年十二月十七日、ニューヨークを発った二人の神智学徒は、ロンドンを経て翌一八七九年二月十六日、インド西海岸の大都市ボンベイに到着し、積極的な講演活動を開始する。同年十月には、英文機関誌『神智学徒(The Theosophist)』を創刊し、大英帝国インド支配の協力者として育成されながら、のちには独立運動の中核を担う英語を話すインド人知識層、またインド在住の白人層にも信奉者を獲得した。西欧の科学技術の独善を批判し、インドの精神文明を称賛するオルコットの主張は、イギリス植民地支配のもとで鬱屈していたインド人士のプライドに強く訴えたのである。
同年十二月、ヒンドゥー教最大の聖地ベナレス(ヴァーラーナシー)にある『ベナレス・サンスクリット学者(Pandit)文学協会』はオルコットを名誉会員に選出した。「異国で生まれたにもかかわらず、彼はすでに紛れもなくインドの国民である!」古来よりヒンドゥー聖典の知識を守り続けてきた頑固なサンスクリット学者たちは、アメリカ生まれのオルコットを、最大限の称賛をもって迎え入れた。かくしてオルコットはひとまず「白いヒンドゥー教徒(The White Hindu)」となった。
アーリア・サマージとの会見
ボンベイ上陸からまもなく、神智学徒一行はアーリア・サマージのスワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー、オルコットをして「インドのルター」とまで言わしめたヒンドゥー教改革運動家との会見を果たす*20。しかし不幸なことに、白いヒンドゥー教徒とアーリア・サマージの間には最初から微妙な思い違いが存在していた。
サラスヴァティーは、神智学協会にヴェーダ聖典への無条件の帰依とアーリア・サマージのパトロン的な役割を期待していた。そしてサラスヴァティーは神智学徒たちがあまりにも無邪気に「オカルト現象」への好奇心を表明するさまに眉をひそめてもいた。対してオルコットらはヒンドゥー教に限らず、仏教・ゾロアスター教・イスラム教といった、西洋人から見れば物珍しいあらゆる太古の叡知へ門戸を開いた諸宗教融合主義シンクレティズム……というか神秘現象への飽くなき興味に支えられた八方美人主義を保ったままサラスヴァティーに接したのである。なにせ神智学協会のモットーは「真理より尊い宗教ドグマは無い」であったから。
しかし、「ヴェーダに登場する神々は名称が異なるだけで、神はただひとつである」と説いて神智学徒を感動させたサラスヴァティーは、同時に「ヴェーダに帰れ」と叫ぶヒンドゥー原理主義者でもあった。言葉の壁と、調子のよい仲介者の弁舌で取り繕われていた同床異夢はやがて覚め、アーリア・サマージと神智学協会との間には次第にすきま風が吹き始める。インドに幻滅を感じつつあったオルコットは、ゾロアスター教の失われた教典を発掘するため、イランへ渡って探検隊を組織する構想を練っていたという。
仏教徒となった神智学徒
ちょうどその頃、パーナドゥラ論戦の主役グナーナンダから、神智学協会幹部のセイロン入りを求める矢の催促が飛び込んでいた。気をよくした白人神秘主義者一行は、翌一八八〇年五月十七日、セイロン島への最初のツアーに赴く。彼らは島南部、ポルトガル支配以来の堅牢な城壁がそびえるゴール港に上陸。待ち構えていた僧侶連・仏教徒の群衆から熱狂的な歓迎を受けた。数日後、オルコットとブラヴァツキーは市内のウィジャヤナンダ・マハー・ヴィハーラ寺院で僧侶から三帰五戒を授けられ、晴れて仏教の在家信者とあいなった。
「数世紀にわたり加えられたキリスト教による迫害と弾圧の後に、……長老風のグレイのあごひげをたたえ、高い額に鉤鼻、鋭く青い瞳を持ったこの貫録あるアメリカ人大佐と、指輪をはめた指、ふくれ上った頬、そして夢みるような催眠的な眼差しの、扱いにくいロシア婦人(彼らの支配者である白色人種)が、数千のキリスト教宣教師がなした如くダルマを攻撃するためでなく、それを防ぎ仏教をサポートするためにやって来た。……潮流は遂に変った。そしてグナーナンダは自分のすべての努力が無駄ではなかったと感じた。」(〝Flame in Darkness〟p35)
オカルティストの仏教理解
ウィジャヤナンダ寺院は、ピリヴェナと呼ばれる仏教学校(寺子屋)の伝統を誇り、現在もゴール地区の仏教教育の拠点である。大講堂にはオルコットの胸像が残されている。かつてはオルコットが受戒した際の直筆のレリーフがあったというが、寺の修理の際に失われたという。しかし、敬愛するダヤーナンダ・サラスヴァティーと論争してまで、諸教融和的な立場を貫いた神智学徒が、なぜいとも簡単に在家仏教徒となったのだろう。オルコットは受戒の当時を回想して曰く、
「……もしもブッディズムに単一のドグマを承認することを強いることが含まれたなら、我々はパンシル(五戒つまりパーリ語「パンチャ・シーラ」のシンハラ訛り)を受けなかったし、また十分間であっても仏教徒として留まらなかったろう。我々のブッディズム〜マスター・アデプト、ゴータマ・ブッダの仏教〜は、アーリアン・ウパニシャッドの叡智教や凡ての古代世界信仰のソウルと全く同様のものだ。我々の仏教は一言でいえば、哲学であって、主義・信条ではない。」(〝ODL〟 2nd, p168,169)
オカルティストはオカルティストなりの流儀で、「ブッディスト」たることを受け入れたのに過ぎない。しかし幸いなことに、神智学とシンハラ仏教との蜜月は次の世紀に入るまで続いた。そしてオルコットとブラヴァツキーの来島によって、スリランカ仏教はリバイバルに向けた輝かしいスタートを切った。
アディヤールへの本部移転
オルコットの仏教への傾倒は、表向き良好だったアーリア・サマージとの関係を決定的に悪化させてしまう。一八八二年、サラスヴァティーは公然と神智学協会への非難の論陣を張り、ブラヴァツキーとオルコットを「一対のいかさま師」と切って捨てた。当然、オルコットも果敢に応戦する。同じ年、神智学協会はアーリア・サマージの根拠地でもあったボンベイから、南インドの大都市マドラス(現チェンナイ)近郊アディヤールに本部を移した*21。
一九九九年の一月、筆者はこのアディヤール神智学協会本部を幾度か訪れた。南アジア第一の都市マドラスから海岸沿いをしばらくバスで揺られると、バニヤン樹の巨木が生い茂る広大な庭園に囲まれた神智学協会の本部に辿り着く。コロニアル風の白亜のホールには仏陀・キリスト・クリシュナといったごった煮のレリーフと並んで二人の創設者(ブラヴァツキーとオルコット)の像が祀られていた。ロッジの点在する庭園のなか、壮年の白人神智学徒たちがゆったりと休暇を楽しんでいる様子からは、インドの宗教ルネッサンスを牽引した往時の活気を想像することは難しかった。敷地にはオルコットによって創設された小奇麗で管理の行き届いた図書館と、こぢんまりした神智学書店があり、筆者はそこで本稿を書き進めるための資料のいくばくかを得たのだった。
セイロン仏教の救世主
さて、神智学協会を迎え入れた一八八〇年代のスリランカは、「白い仏教徒」オルコット大佐の独壇場と化した。口やかましいブラヴァツキーの束縛から解き放たれたオルコットは、この南アジアの小島で八面六臂の大活躍を見せたのである。
オルコットがスリランカで推進した事業のなかで、仏教復興に最も強力な効果を持ったものは、仏教学校の創設である。オルコット来島当時、セイロンには政府に認められた仏教学校はわずか三校しか存在せず、多くの仏教徒子弟はキリスト教会の経営する学校に通わざるを得なかった。そこでオルコットは上陸からまもなく、仏教徒の教育を援助する目的で『仏教徒神智学協会(The Buddhist Theosophical Society)』を設立した。仏教徒神智学協会のネットワークによって、十二年後の一八九七年には合わせて四十六校にも及ぶ仏教学校が開かれた。一九〇三年には協会管理下にある学校は百七十四校にまで増え、三万人もの児童が仏教学校の教育を享受するまでに至った*22。
一八八一年七月、オルコットは簡潔な仏教入門書、『仏教徒教理問答集ザ・ブッディスト・カテキズム』を執筆する。クリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集カテキズムに目をつけ、その仏教版を自ら執筆したのである。同書は当時スリランカ仏教界の指導的地位にあったスマンガラ大長老のお墨付きを得、シンハラ語をはじめ二十カ国以上で翻訳された。その邦訳『佛教問答』が廃仏毀釈で意気消沈した日本の仏教徒を発憤させ、平井金三らによるオルコット日本招聘運動を巻き起こしたのは前述したとおりだ。
ウェサックの祝日化・仏教旗の制定
スリランカをはじめとする上座仏教圏の、最も大切な年中行事にウェサック(Vesak, Wesak)の祭りがある。インド暦二月にあたるウェーサーカ(vesāka)月(新暦四〜五月)の満月を中心に数日間にわたり繰り広げられる大祭だが、南伝上座仏教の伝承ではこの満月の日に釈尊が降誕、成道、般涅槃したと伝えられている。日本では三つに分かれている釈尊の慶事を一度に祝うのだから盛大にならないわけがない。このウェサックを近代的な祝祭として再生させたのも、オルコットの働きである。
一八八四年四月、仏教徒の祭礼行列を巡って前年三月に起きたコタヘーナの暴動事件(仏教徒とカトリック教徒の衝突)を解決すべく、オルコット大佐はセイロン仏教徒の代理人の任を受けてロンドンに赴いた。彼は英国当局に対峙して仏教徒の利益を擁護し、信仰と祭礼の自由を強く訴えかけた。オルコットのネゴシエーションのお陰をもって、植民地支配下で逼塞ひっそくさせられていたウェサックは英領セイロンの公的な祝日として認められることになった。翌年から、セイロンではウェサックは仏教復興とシンハラ人仏教徒の団結を象徴する祝祭として再生を遂げたのである。オルコットはクリスマス・キャロルをモデルにした仏教聖歌でこの日を祝うことを勧め、クリスマス・カードを模したウェサック・カードを贈る習慣まで作り上げた。
オルコットは、仏教徒の団結と社会的地位向上のためには、キリスト教の十字架に相当する仏教徒共通のシンボルが必要だと考えていた。コロンボの仏教徒たちは委員会を組織してシンボルのデザインに取り組み、一八八五年四月十七日にはシンハラ語週刊新聞『サンダレーサ』紙上にて、新しい「仏教旗」が発表された。同年五月、植民地体制下で初の公式行事とされたウェサックで掲揚されたその旗はまだ長い幟の形だったが、オルコットの助言によって国旗のデザインに整えられ、翌一八八六年からは、現在のような仏教旗に確定するに至った。
仏教旗はブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いた釈迦牟尼の身体から発したとされる後光の色、左から青・黄・赤・白・橙を縦に並べ、六列目に五色を合わせた縞模様を配した、覚えやすく明るいデザインだ。現在も世界中の仏教圏で祝祭等に用いられ、日本にも一八八九年のオルコット来日の際もたらされた。
この仏教旗は、一九五〇年にコロンボで開催された世界仏教徒連盟(WFB)の第一回世界仏教徒会議において、正式に「国際仏教旗」として認定されたのだが、日本仏教界ではイマイチ普及していない。それでも、国際交流の盛んな寺院では掲げられていることがあるので、お寺参りの際にぜひチェックしてみてほしい。
プロテスタント仏教
オルコットが組織した仏教復興運動は、ことごとくキリスト教宣教師のノウハウを換骨奪胎したものだった。オルコットが指導した近代スリランカ仏教復興運動は、のちに「プロテスタント仏教」*23と呼ばれた。そこには「植民地支配へのプロテスト(抵抗)としての仏教」という明快な意味とともに、オルコットの仏教は、「プロテスタント的語法によって解釈された仏教」だったのではないか?との問題提起も含まれる。
アメリカの厳格なピューリタン家庭に育ったオルコットは、心霊主義・オカルト・仏教という精神の遍歴を通じて、伝統的なキリスト教信仰を捨てた「背教者」の烙印を押されることをなんら恐れなかった。しかし本当は、オルコットは生涯、自らのルーツである「ピューリタン精神」から脱することはなかったのではなかろうか? オルコットは近代科学の攻勢に耐えきれないキリスト教に見切りをつけたが、そこから自らのルーツであるピューリタン・スピリッツを救い出すことを忘れなかった。オルコットはアメリカから持ち出した生来のストイシズムを、無意識のうちに、アジアに残る太古の叡知とやらに投影していたのではないか。
プロテスタント仏教とか、クレオール仏教*24といったオルコットにまつわるいささか過激なレッテルは、「白い仏教徒」と近代仏教の来歴を語る際に必ずつきまとう、座りの悪さを物語っている。しかし視点をセイロン仏教の側に転ずるならば、伝統的な「シンハラ王権による保護」を失った仏教が近代社会でサバイバルするためには、宗教倫理を内面化し、(マックス・ヴェーバー流にいえば)世俗内禁欲を遂行する「自覚的な仏教徒」の成立が不可欠だったことに変わりはない。たとえオルコットの到来を待たずとも。
スリランカ仏教を、近代という時代に適応した「あるべき宗教」へと再編成すること。善かれ悪しかれ、それが彼の担った歴史的役回りであった。アメリカで世俗的な成功を収めつつ、西欧社会の価値観そのものには安住しきれなかったオルコット。西洋文明を自家薬籠中のものにしかつ相対化できるだけの社会的エリートが育っていなかった当時のセイロンにあって、彼は確かに歓迎に値する人物であった。
先回りすればオルコット大佐が念入りにフォーマットした「シンハラ仏教復興運動」は、この島の仏教がナショナリズムという近代の魔物と結びつくに至る、スリリングでやがて憂鬱な物語へ展開する。かくも広範囲に及んだ「白い仏教徒」の遺徳。どうりでコロンボ駅前ど真ん中に銅像が建つはずだ。一九六七年にはオルコット記念切手も刷られている(逓信総合博物館などで見られます)。しかし彼が後世に残した最大の功績は、のちに「ランカーの獅子」と呼ばれるひとりのシンハラ人少年を、見出したことにあるかもしれない。
註釈
*19 『オカルト』下巻、コリン・ウィルソン、河出文庫、一九九五年、四十一頁
*20 ブラヴァツキー夫人は、一八七九年の段階でダヤーナンダについてこのように絶賛している。
「最も身近な弟子たちさえ、師が何者か、どこからきたかを知りません。ダヤーナンダという名前さえ本名ではなく、ヨーガ行者として秘儀参入を認められたとき与えられたものだ、と公に認めています。しかし一つはっきりしているのは、インドにおいて、ダヤーナンダほどサンスクリット学に優れ、哲学が深遠で、説得力に秀で、しかも諸悪を糾弾することに仮借ない人物は極めて稀であり、唯一の前例は、ヴェーダンタ哲学の著名な創立者で多神教教理の帝王、シャンカラチャーリヤのみ、ということです。
その外見も劣らず魁偉です。背が高く、肌は、日焼けにもかかわらず白く(インド人というよりヨーロッパ人のようであり)、目が大きく光り、長く伸びた髪は半白です。声は明瞭でよく通り、どんな感情の綾をも的確に表現してのけます。たとえば、甘美で女性的な囁きで諭すかと思えば、僧侶たちの軽蔑すべき不行跡や過ちに対しては怒号の雷鳴を落す、といった具合です。結果として、感じやすく瞑想的なヒンドゥー教徒たちに、圧倒的な影響を及ぼしつつあります。
ダヤーナンダが行くところ、どこでも民衆はその足下にひれ伏します。……新宗教を説くでなく、新しいドグマを説くでもありません。今やほとんど忘れられたサンスクリット語へ戻れ、とだけ言うのです。……この五年間、ダヤーナンダは主に上級カーストの間で二百万人の改宗者を獲得しました。改宗者の表情を見ると、師のためには、命も心も、場合によっては、ヒンドゥーにとって通常命より大切な財産さえも、いつなりと師にささげる覚悟ができているように見受けます。
しかしダヤーナンダは、純粹のヨーガ行者であり、お金に手を触れず、金銭問題を軽蔑し、一日に手の平二、三杯の米があれば満足しています。」(『インド幻想紀行 上』H・P・ブラヴァツキー、加藤大典訳、ちくま学芸文庫、二〇〇三年、四十八頁)
*21 ブラヴァツキー夫人はダヤーナンダとの訣別についてこう述べている。
「(ダヤーナンダは)神智学協会と攻守同盟を結ぶことで、その会員、クリスチャン、バラモン、仏教徒を含めた会員がすべてスワーミを最高指導者兼教師として認めるだろう、そしてアーリア・サマージのメンバーになるだろう、と考えたのでしょう。言うまでもなく、それは不可能でした。
神智学協会は、会員の宗教信条へは干渉しない原則を厳格に守っています。協会は、カーストや信条や皮膚の色(すなわち国籍)に関わりなく、全人類の「友愛」を説く純粹に哲学的な目的を擁し、また個人の宗教的関心とも無関係なので、最高度の寛容が維持されています。この点がスワーミには不都合だったのです。全メンバーについて、スワーミに従うか、協会から脱会するかを求めました。会長も理事たちもそのような要求を飲むはずはありません。イギリス人たちが、なかでもクリスチャン、自由思想家、仏教徒、とくにバラモン教徒のイギリス人がこれに反対し、同盟の解消を頑固に主張しました。権力が自分の手から離れていくのを見たスワーミは、神智学協会を「アナテマ(破門)」と宣言したのです。そしてその配下は街角という街角で、中傷罵倒を始めました。結果はどうかというと、アーリア・サマージの会員のうち「知識階層」は全員神智学協会に加盟し、協会を「不信心な外国人」と貶めたスワーミ狂信者とすべての関係を絶ったのでした。」(『インド幻想紀行 上』、六十六頁)
*22 〝BUDDHIST IN SRI LANKA〟A SHORT HISTORY, H. R. Perera, p.80その成果として最も有名なものはコロンボのアーナンダ・カレッジであり、同校はスリランカ最初の仏教英語学校となった。あえて日本の同類を探すならば、平井金三のオリエンタル・ホールが値するだろうか。
*23 スリランカ出身の文化人類学者ガナナート・オーベーセーラカによる。『スリランカの仏教』リチャード・ゴンブリッチ,ガナナート・オベーセーカラ著、島岩訳、法蔵館、二〇〇八年(Buddhism Transformed: Religious Change in Sri Lanka 1989の邦訳)三〇五頁以降に詳しい。
*24 オルコットに関する研究書、〝The White Buddhist -The Asian Odyssey of Henry Steel Olcott-〟(Delhi 1997)の著者Stephan Protheroによる。Protheroは、オルコットの「仏教」とはあくまで西欧のキリスト教的な文法構造の上にブッディズムの単語を配したごとき「仏教なまりのキリスト教」だと喝破する。あたかも、植民地において用いられる混淆語(しかもその文法構造はあくまでも支配者の言語に依る)のような宗教。あるいは「アジアに転移したプロテスタンティズム」だと。
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