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11 野口復堂 コロンボでの出会い~幽閉されたエジプトの英雄|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

コロンボ上陸まで

インド・スリランカの近代史を概観しているうちに、野口復堂先生の漫談からずいぶんと遠ざかってしまった。ここからは心機一転、楽しく教談ぶりにゆきたいと思う。

さて、オルコット大佐を日本に招聘すべく決死の覚悟でインド行きを決意した復堂センセイ。明治二十一(一八八八)年九月九日神戸港での涙の別れから、船は香港・サイゴンと来て暑気はますます加わって、さすがの復堂センセイも船室には居れず、甲板で夜を過ごした。同船の外人は日本から仕入れし赤い金魚にみな死なれて青い顔せしも気の毒。シンガポールでは外人客相手の日本遊郭を通り、純情な彼は「恋しい様な、懐かしい様な、賑やかな様な、淋しい様な、情けない様な、恥かしい様な感じが出て」(「四十年前の印度旅行」より)なんとなく涙もこぼれてくるのだった。

明治二十一年、すでに多くの「からゆきさん」が、異国の地に渡っていたのだ。涙の埋め合わせに「土人の棒踊り」を見学し、腹をよじって笑い転げた復堂センセイ、日本を発って三週間ののち、セイロン島に到着した。コロンボ到着の様子を本人の証言に頼むと次のとおり。

ダルマパーラとの出会い

「(シンガポールを)離れて一週間位だと思うが、雲端幽かに認めしはアダムス・ピーク即ち錫蘭島の楞伽山である。三千年前の釈尊に始めて会った心持ちがして、思わず起って之を拝した。さて間もなく着いたのが崑崙埔コロンボ港である。」

スリーパーダ(アダムスピーク)

波止場で同船の友らにさようならと別れを告げて、復堂センセイは牛車(当時は唯一の乗り物だった)を雇ってズック鞄を放り込み、ペッターはマリバン通の神智学協会支部へと急がせた。

「牛車と言えば遅々緩々たるものかと思えば、然うでない。トツ〳〵〳〵と牛が走るので、併し歩調が緩むと馭者は鞭を用いず、体を前屈みにして牛の臀りに噛り付くのである。」*31

まもなく牛車は目的地に到着。神戸を発ったときからこれ一本の、羽織袴姿で名刺を受付に差し出したが、先方は復堂の異様な風体に驚いて中に飛び込む。やがて奥から現れたのは色の黒い丈高き痩せ形の跛足、求める人はこの人かと、復堂が前に歩み出せば……。

「ユウ、ミスタァヌキナ、ノウ、ノグチ、アイ、ダルマパラ」両手を拡げて抱擁の時。しばらくは言葉もなくて、双方とも両眼に熱き涙を催すのみだった。この人こそ、

「梵名ザ・アナガリキャア・ダルマパラア・ヘヴアヴィテレナと云う長い名前の人で、此名を訳すれば護法居士となる。此人の戸籍上の洋名はエッチ・ドン・デヴィッドである。亡国の民となると此の煩がある。吾人大に心に銘じ置くべきである。予は此人とは初対面であるが、豫て文通だけは為し置きたれば、『此船とは思わなかった、此の次ぎか又その次ぎ位と思ったから、御迎えにも出ず甚だ相済みません』と一見旧の如く、色こそ黒けれ実に温乎玉の如き君子人である。」

ダルマパーラと復堂はちょうど同年代だったこともあり、たちまち意気投合したようだ。二人は結局、復堂がオルコットを伴って日本に帰国するまで、行動を共にした。

アナガーリカ・ダルマパーラ(1893年)

神智学協会の客人として

復堂はダルマパーラの紹介で、J・R・デ・シルヴァ、C・W・リードビーター(レッドビーター)ら神智学協会の幹部連に迎えられた。協会二階の一室を当てがわれた復堂は、それからセイロンに約一カ月滞在した。隣室はこれまでも何度か登場してきたリードビーター。ブラヴァツキー亡き後「オカルト・サイエンス」を大成し、ベサント夫人の片腕となって神智学協会を差配した霊能者である。『神智学入門』(宮崎直樹訳、たま出版、一九九〇年)などが邦訳されており、日本のニューエイジ界隈にも読者を得ていた。

しかしその一方で、前述のクリシュナムルティを貧しいバラモンの親から拉し去り、世界教師ワールド・ティーチャーに仕立て上げようとしたり、周囲にはべらせた少年たちへの同性愛疑惑を絶えず糾弾されたりと、スキャンダルの絶えぬ男でもあった。まぁこのときは、三食ともバナナばかりというベジタリアンぶりが復堂には珍しく映ったぐらいなものだったが……。

C・W・リードビーター(1885年)

ところでオルコット大佐はこのときロンドンに居て。ダルマパーラが復堂の到着を電報すると「凡そ一ヶ月コロンボに滞在を願う、其中に帰路につきボンベイより打合わせすべし」との返信。「ヤレ〳〵安心で以て、予は同島に滞在此間殆んど虚日なく、講演に次ぐ講演、訪問の交換に次ぐ訪問の交換、旧跡の歴訪に次ぐ新しい名所の歴訪……」の忙しい日々を過ごしていた。セイロンが日本からヨーロッパへの航路の途中に位置していたことは先にも記した。コロンボに滞在する日本人とて珍しくはなかったはずだが、復堂センセイは島で最高の知的サークルでもあった神智学協会のゲスト。別格扱いの大切なお客様であった。

アフマド・オラービーとの会見

およそ一カ月余りのセイロン滞在を通じて、野口復堂が最も印象深かった出会いとして回想しているのは、エジプトの英傑アフマド・オラービー(アフマド=ウラービー=パシャ、アラービー・パシャ 一八四一〜一九一一)との会見である。はて南アジアの島国に、何ゆえ遠く離れた砂漠の国、アラブの軍人がいたのだろうか……。

アフマド・オラービーは下エジプト地方シャルキーヤ県にある豪農の息子として生まれた。一八五四年エジプト軍に入隊して頭角を現し、一八七九年には大佐に昇格する。ヨーロッパ列強への従属を深める祖国を憂いたオラービーは、エジプト人将校による秘密軍人グループを組織し、立憲制の確立と外国支配の排除を目指した。その潮流はオラービー運動と呼ばれる民族運動にまで展開した。一八八一年、オラービー大佐はついに武力蜂起を決行。陸軍大臣に就任し、翌年にはエジプト支配を目論むイギリスを相手にタッル・アルカビールの戦に挑んだ。戈ほこ折れ矢尽き英軍の捕虜となったオラービー大佐は、いったん死刑判決を受けたのち減刑され、一族もろとも英領セイロンに幽閉の憂き目に遭っていたのである。

復堂との会見は、オラービー大佐の幽閉場所であるシネマン公園内の邸宅で行われた。英国政府要員の厳重な監視のもと、政治談議は厳禁され、宗教と文学の範囲内での窮屈な話し合いに終始した*32。復堂の見たオラービーは、あたかも西南の役に散った維新の英雄、西郷南州(隆盛)を髣髴とさせる偉丈夫。そして「此時エジプト埃及人の女中が予に捧げしは、珈琲のエッセンスで小さきコップに入れあり、実に結構な香味であった」

その翌年、オルコット招聘の大任を無事果たし帰国した復堂のもとに、セイロンよりオラービーの肖像写真が送られてきた。ヨーロッパ列強による植民地支配がアジア全域で猛威を振るった時代。極東の独立国より来った客人との談話は、アラブの志士にとっても印象深いものだったのだろう。アフマド・オラービーのセイロン流刑は一九〇一年まで続く。まだ遠いアジアの夜明けを待ち望みつつ。

アフマド・オラービー(1882年)

註釈

*31 「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」

*32 セイロンで幽閉中のオラービーと会った日本人は復堂ひとりではない。横浜税関官吏の野村才二は明治二十年十二月、アメリカ欧州視察の帰路コロンボに立ち寄り、やはり官憲の監視下、オラービーと会見した。その記録は翌二十一年四月の「日々新聞」に掲載された後、小冊子『アラビー・パシャの談話』野村才二(明治二十四年七月 神奈川県戸太村)にまとめられた。オラービーは監視の目を盗み、日本がエジプトの轍を踏まぬようにと、亡国の惨状とその教訓を野村に伝えたという。

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