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「生とは想像である#人生論ノート」幸せの感じ方は人それぞれでも他人や社会が認めたものでなければ幸せではないのか

「幸せって何?」

昔は考えたことなかったのに、年を重ねるに連れて考えるようになった。

よく漫画やドラマ、本や友達との会話で「幸せだな」と言っているのを見て、
「ああ、これが幸せってやつなのか」と学んでいったが、なぜ幸せだと感じるのかがわからなかった。

特に幸せというものを実感せず、そのくせ他人には「幸せそうだね〜」とか言っちゃって。


ある時から学校や仕事、私生活、人間関係とかいろんなことが落ち着き、自分について集中する時間が増えていった時、
冒頭の「幸せって何?」と考えることが増えていった。


「幸せ」に定義はあるのか

幸せがわからず、とりあえず言葉そのもの自体を調べたことがあった。

幸せ・・・心が満ち足りていること。満ち足りていて不満なく、望ましい状態のこと。

なるほど。「心が満たされていること」が「幸せ」なのか。


体ではなく、心が満たされていること。

でも、心が満たされることってよくあることなのだろうか。


美味しいものが食べれた時。
お腹がいっぱいになる程食べれた時。
よく寝れた時。
仕事がうまくいった時。
欲しいものが手に入った時。
好きな人と付き合えた時。
結婚した時。
新しい発見に出会えた時。
旅行した時。
友達や家族といる時。
趣味に没頭できる時。
健康で元気に過ごせている時。
何事もなく平穏な日々を過ごせる時…。


”よく”皆が言う「幸せ」は想像できるし、それを言葉として表に出しているから分かるが、言われなきゃわからなかった。

それに、それが「幸せ」だよと決め付けられた時、欲深いとか充分満たされているからとか言われるかもしれないが、
「幸せってこんなもんか」と思ってしまった。

私の過去に感じた「幸せ」

じゃあ、私にとって「心が満たされた!」と思った時はいつ、何をした時だったのだろうか。

記憶上3つ(インパクトあったもの)
忘れていることもあるだろうけど…………やっぱり3つ。

①高校のクラスメイトとの交流
幼い頃から、自分の考えや感情はずれていると思うことが何度かあって、基本的に本音や相談なんかはしなかった。
言えば変な雰囲気になるし、相談して返ってくる内容は大体想像ついていたから、言うだけ無駄かなと期待もしてなく。

でも、ある時。文化祭か何かの準備で友達と先生と他生徒1人と私の4人で話し合っている時、初めて自分の考えと一致かつ同じペースで話せたことに感動した時があった。

また球技大会(全学年通してのバスケ試合)で、自分が体力なく動けなくなった時にここぞと動いてくれたり、シュートしてくれたり、自分に自信がない時に代わりにやってくれたり…。
初めて「他人を通して」心が満たされたのがこの時だったと思う…。

②夢から覚めた時
大学生の時、初めて心が満たされることがあった。
というより、「これが満たされるということか!!!」と初めて実感しすごい感動した。
心がじんわりとあったかく、心地よく、ずっとこの感覚を味わっていたいと思った。

夢の内容は、一本道をオープンカーの後部座席に乗っていて、隣には帽子かつ肩ぐらいまで伸びた髪の毛で下を向いていたのもあってか顔が見えない男性がいて。
私は、この人のことがものすごく好きだけど、愛しちゃいけないことを知っていて。
「今はまだダメなんだよね」とか泣きそうな顔しながらも、笑っている自分。

私は多分物心ついた時から毎日夢を見て覚えていて、何回も見る夢や印象に残る夢はずっと覚えているが(1日2〜3回くらいストーリーが変わる)
今は、あの時感じた感覚はなくなているが、シチュエーションはまだ覚えている。

またあの時の感覚を、もう一度味わいたい…。

③相手と一体になった時
この一体となったというのは、相手の過去やその時何を思ったのかとか聞いて、
一心同体の一心になった時の感覚。

きっかけは「幽麗塔」という漫画を読んだ時。
この漫画は医龍や夏目アラタの結婚などで有名な乃木坂太郎先生の漫画で、原作は「灰色の女」という昔のアメリカの小説で、黒岩涙香という方が「幽霊塔」として翻案した。その後、江戸川乱歩版が出たり、宮崎駿さんもこれをモチーフにカリオストロの城にその要素を入れたりと、とりあえず結構面白い作品。

ネタバレになるから詳しくは言わないが、最後、クライマックスで
ある登場人物の考えを全て理解できた感じた時、感動とともに心が満たされるという感覚が溢れてきた。

漫画に書かれていることから彼の過去や心情、考え全てを想像し、なぜ今に至ったのかを理解できた時、言葉にはできないが、穏やかになる、静かになる心。だけど熱い何かが心を満たしている…。

それからも他人の話、話というよりストーリーを聞くことが好きになった。

もうこれはほぼ自分の想像力に任せたところもあるし
人を全て知ることなんてできないとか傲慢だとか、話の触りを聞いただけで知った気になるなんて浅はかだとか
いろいろ批判的な声が出てくるとは思うが…。

でも、これが「私の心」を満たしてくれることなんだ。

ちなみに今は、日常に集中というか、ゆったり過ごすことで
美味しいものを食べるとか、好きな空間に行くとか、美しいものを見るとか、近くに良いお店あったとか、猫可愛いとか、空綺麗とか風気持ちいいとか
そういうことが今の私の心を満たしていることだ。

「心が満たされる時」は人それぞれ。でも他人や社会に認められないこともある。

一般的な「幸せ」とされるものでも、人によってどこに重きを置くか偏りがある。
だから世の中たくさん心を満たそうとするものが多種多様にあると思う。

が、ここで思うのは、人に害ある「心の満たされ方」も世の中にはあると考えてしまう。
害はなくても、認められないというか、理解されないことも多いと思う。

最近の世の中は別に自分1人が良ければ「個性なんだから」という流行ワードで片づけられるが、それで通せることだったら良いが…。

それに罪になってしまうものもあるし…。

人生論ノートから「幸福について」

幸せについて綴られた本はたくさんあるが、最近読んで心に残ったので、ここで記そうと思う。

前述で幸せは心が満たされる時で、でも自分1人で完結できれば良いが、他人に害ある場合はどうすれば良いのかと疑問に思った。

しかし、三木清さんの人生論ノートの幸福についてで、下記のように書かれている。

人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。

人生論ノートp21 三木清 

今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している。そしてこの事実は逆に幸福が人格であるという命題をいわば世界史的規模において証明するものである。

人生論ノートp21 三木清 

上記は最後のまとめの方に書かれているものだが、「幸福は人格だ」とここでは書かれている。
他にもいろいろ面白い内容が書かれているが、

生は想像で、生は結合的で、個性は多様の統一で、いろんな個性は構想力でまとめられていく。

また幸福は肉体的快楽にあるか、精神的快楽になるか、それとも活動にあるかという問いに関して「全てにある」と書かれている。
それらは全て「人格の形成」に含まれると。

人格の分解の時代だからこそ、人格の統一が大事だということなのか…。

ここまではなるほど、納得。そういう考え方もあるのかと思った。けど、

幸福は、外に現れるとも書かれていた。
表現的で、それを他人も幸福にすると…。

結局、自分が心満たされることが表に出た時、相手も幸福にさせるってこと…?

幸せそうな人は見れば分かるというのは、人格が表に出ているからかなとも思ったが、想像力を膨らませれば「わたし」という存在自体がもう既に「幸せ」というものなのかとも思った。


実際に読んでもらった方がいいし、人それぞれ感じ方や思うことは違うとは思うが、
私は「生は想像だ」という言葉と「幸福は人格だ」という言葉が好きで今回noteで紹介した。
ちなみに映画は見てないが、ダイナーという映画で「想像力の無い奴は死ね!」という言葉もなるほど納得、共感だと思ってずっと覚えているが、「生は想像だ」という言葉が出てきて、やっぱりそうだよなとも思った。

多分また、いつか読んだ時は解釈が違うのだろう…。

まとめ

「幸せ」について思うことはもっとあるので、論文なみに書きたいことはたくさんあるが、今回無理矢理結論付けたところもある。

だから自分でも「これだ!」という結論がないまま終わらせることになるが、
考える事自体好きなので、今後も模索していこうと思う。
現在進行形で今私は、「私の心を満たすこと」を探しているんです!

けど、本当に「幸せってなんだろう」で。
いろんなことが許されていっているようで、幸せが何かなんてもっと複雑になっているような気がする昨今。

定義づけられても、それを幸せと実感できないこともあるだろうし、
実感できないことが「経験不足だ」とか「既に満たされているからそう思わないんだ」とか、「心が病んでいるからだ」とか、やっぱり
「幸せってこうあるべきだよね」という方向に持っていってる気もするし…。

難しいとも思うけど、確か複雑なように見えて実はシンプルで、
複雑にさせてるのは自分だという言葉もある。

拝読ありがとうございました。

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