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水玉消防団ヒストリー最終回 天鼓1988年—現在 

取材・文◎吉岡洋美

 
  
 水玉消防団活動休止後、ヴォイス・パフォーマーとしてヨーロッパはじめ海外でのライブ活動が多くなっていった天鼓。常に自分の直感と興味にブレることなく歩み続け、表現の可能性を広げてきた彼女だが、連載最終回は天鼓の水玉消防団休止以降から、ここ最近目を見張るほどライブ活動を行っている現在までを話してもらった。

 
日本の即興ミュージシャンたちの台頭


 
——‘88年に水玉消防団が活動休止になった頃は、子育てと海外ツアーで多忙を極めていたと話されていました。
天鼓「その頃はヨーロッパのツアーでNYのメンバーばかりとライブしていて、NYに行ったら行ったで、たまたま出くわす友人のミュージシャンに『テンコ、NYに来てるんだったら明日レコーディングするから、ちょっと1曲やってくれ』とか、そんなのはお互いしょっちゅう。そうした、ちょっとだけ参加している作品も私には結構あるんですね。皆、いいものを作りたいから、自分が『この人は気になる』と思うアーティストとは出来るだけ一緒にやりたい。そんな感じで全く一緒にやったことのない人からもレコーディング参加を頼まれたりして。NYは道やカフェでばったり知り合いのアーティストたちと会う確率がやたらと高いんです。でも、自分のユニットを作ってみたいという気持ちもあって、日本のミュージシャンと組んでヨーロッパのツアーも始めるようになる」
——日本のアーティストで面白そうな人たちと出会いはじめたということでしょうか?
天鼓「そうですね、80年代後半あたりから一緒にやってみたい日本の即興アーティストを知りはじめるんですよ。大友良英、今堀恒雄、灰野敬二、吉田達也等々……。大友くんは最初、私のところへインタビューしに来て知り合って、そのとき自作のテープをもらったのが出会い。当時はインテレクチャルな印象が強かったんだけど、ターンテーブルで即興を始めるようになって、もともと私はクリスチャン(・マークレー)とライブしてたから、これは面白いなって。それに大友氏はすごくノイズのセンスがいいっていうか、ダイナミクスもすごく思い切りがいい。90年前後ぐらいから灰野敬二や大友くん、内橋(和久)くんたちはヨーロッパでぐんぐん注目されていくんですけどね」
——そうか、天鼓さんからしてみたら大友さんたちは下の世代になるわけですものね。
天鼓「そうなんですよ。今じゃ皆さん大御所、巨匠だし、この間、内橋くんに“くん”付けじゃなくて『さん付けで呼ぼうか?』って言ったら『気持ち悪いから、いい』って(笑)。でも、演奏が面白いか面白くないかは、性格も人種も性別も国籍も関係なく、一緒にやればすぐにわかること。すごいですよ、彼らは。で、面白ければまた一緒にどんどんやりたいし。そこまで思える人は当時は少なかった。皆、ライブ演奏はもちろんだけど、CDやバンドをつくったりするときも本当に頼りになる」
——まさに、‘92年にリリースされたソロのセカンドアルバム(『At The Top of Mt.Brocken 魔女山の頂上で』)は1枚目と打って代わって、ほとんど日本人ミュージシャンと共演されてます。
天鼓「NYの連中とやってるのも良かったんだけど、日本のなかにもいいミュージシャンがいるのがどんどん見えてきて、日本の色んな分野の人たちにお願いしたんですよ。黒田京子さんのようなジャズ・ピアノの人や一噌幸弘さんといった能楽の笛方の伝統芸能の人にも参加してもらって、全て即興から曲を作っていった。レコーディングはGOKサウンドの近藤祥昭さんが担当してくれて、あまり焦らずに結構時間もかけて、セルフプロデュースで’90年~’91年頃にかけてレコーディングしたんですね。即興したものをそのままアルバムにするやり方もありますが、私にとっては“即興しながら曲をつくりあげる”というのが結構楽しいことなんです。せーの、で1発録りというより、次々イメージや音を重ねてまるで最初から曲だった、みたいにつくりあげる。歌詞も入れてみたりね」

●天鼓「There Play Children In The Flowering Meadow」

(from『At The Top of Mt.Brocken 』)

 
天鼓「このアルバム共演をきっかけにベーシストの吉沢元治さんとはその後一緒にライブするようになって、’98年に惜しくも亡くなられたんですが、吉沢さんは本当に熱心で凄いインプロヴァイザーで、インプロしかやらない。‘’こんな人がいたのか‘’と驚きましたよね。このセカンドソロアルバムで“これだけ日本には面白い人がいるんだ”と確信したので、今度は日本のミュージシャンと即興のバンドを作りたくて、’92年に大友良英(tt.)、吉田達也(d)、今堀恒雄(g)、加藤英樹(b)というメンバーでドラゴン・ブルーというバンドを組むんです」
——そのメンツで天鼓さんのリーダーバンドを。どんなバンドだったのでしょう?
天鼓「1曲づつコンセプトに従って、でも即興演奏をする。バンドだけど、ターンテーブルの大友くんしかり、ギターやベースのノイズももちろん入っている。水玉のようなバンド然としたきっちりした曲じゃなくて、フリーな部分もあるバンドをやりたかったんですよ。ドラゴン・ブルーは割と自分のイメージが形になったバンドで、未だに『あのバンドはもうやらないんですか?』って言われることがあります。このバンドでカナダやヨーロッパ・ツアーにも行ったけど、大友くんたちが海外に演奏で行ったのはあれが初めてじゃなかったかな。今思うと、あの時代にあのコンセプトはちょっと早かったかもしれない」

1993年にリリースされたDragonBlueのアルバム。「香港の小さなレーベルから“何かアルバムを作れないか”と話が来たとき、原宿のクロコダイルでライブレコーディングしたものがあったので、CDに。ジョン(・ゾーン)にライナーを書いてもらったんですよ」(天鼓)

●Dragon Blue「Storm」(1993)


‘95年、カナダ・ビクトリアビルの「ミュージック・アクチュエル・フェスティバル」でのDragon Blue。左から今堀恒雄、外山明、天鼓、加藤英樹、大友良英


 
——確かその頃、イクエ・モリさんともデュオのユニットを作ってますよね。
天鼓「ドラゴン・ブルーのちょっと後、’93年くらいから一緒にやってますね。イクエさんとは知り合ったのは古くて、NYに行き始めた最初の頃だったから、’80年代最初ぐらいなんですよ。その頃は、まだNYに住んでる日本人は少なくて『音楽をやってる日本人の女の人がいるよ』って誰かが紹介してくれたんです。で、当時彼女が働いてた古着屋さんに会いに行って一緒にご飯食べて。『NO NEWYORK』はもうリリースされていたときですね。当時、イクエさんから、“音楽で新しいことをやろうとしてる女の人が多くなってきて、状況が変わってきた”という話を聞いて、世界で同時多発的にシンクロしてるんだと思ったりね。それからNYに行けば会ったり泊めてもらったりするようになるんだけど、ミュージシャンとして一緒に演奏したのは、’93年にCDリリースされたデュオが初めてなんですよ。アメリカの小さなレコード会社からイクエちゃんのところにオファーがあったのかな。で、彼女から“一緒にやらない?”って誘われて、ふたりきりのデュオアルバムにしたら評判がよかった。CDができてからヨーロッパのフェスに次々に呼ばれて二人で随分ツアーしましたね。フランス、スイス、オーストリア、オランダ、イタリア、スペイン等々……。ちょうど私はその頃、日本を離れてイギリスにいたときで、デュオだとバンドと違って交通費もあまりかからないのでオーガナイザーが呼びやすい。それに静と動の対照的な二人だからすごく面白がられましたね。私がヴォイスで彼女はコンピュータとリズムマシン。当時はコンピュータがまだ重い頃で、機材のない私はイクエちゃんの荷物持ちしたり。イクエちゃんは面白いですよ、なんて気安く言ってはいけないんだけど凄い人ですよ。もともと独特な不思議な太鼓を叩く人だったけど、今はパソコンを前に技術者みたいに音をつくり出す。最近、“天才賞”とも言われるマッカーサー賞を取ったことでも有名ですが、感情とか見せずにうつむいて操作して、奇想天外な音をつくり、私はその横で叫ぶ。観ている人たちはその対比を面白がっていたかな」

実は旧知の仲だった、NY在住のイクエ・モリと当時ロンドン在住の天鼓で結成された即興デュオ

●Tenko & Ikue Mori「I know you」(’93 from『Death Praxis』)


 

息子と7年間のイギリス留学に



 
——“その頃、イギリスにいた”というのは、どういうきっかけだったんですか?
天鼓「息子が喘息になったの。東京のど真ん中に住んでたから、休みを見つけては息子を郊外に連れて行ってたんだけど、次第に住む場所を変えたほうがいいと思うようになったんですね。当時、ロンドンに仲のいい友達がいたのと、ツアーで色々な国に行ったなかでもイギリスが一番好きで、外国に住むなら英国がいいなと思ってた。それにフランスあたりの言語が全くわからないところより、まだ英語圏のほうがいいだろうし。息子の学校もロンドンの友達が“いい学校があるよ”って、シュタイナー学校を勧めてくれて、下見に行ったら環境的にもすごく良い。私も一般的なシュタイナー教育の本は読んでいたから『これはいい』と、’92年から息子とイギリスに住むことにしたんです。で、息子は当時小学校入学前だったからシュタイナー学校附属の幼稚園に通って、私もその学校からそれほど遠くないシュタイナー理論を学ぶカレッジで英語や彫刻、空間での体のムーヴメントを勉強してたんです」
——天鼓さんも学生だったんですか。
天鼓「“留学生”してたんですよ。息子の小学6年が終わるまでイギリスだったから、その間の40~47歳の7年間は学生だったんです。最初は単純に自分が英語を勉強できるところを探してて、息子の学校に尋ねたらシュタイナーのカレッジを紹介されたんですね。行ってみたら、また場の雰囲気がすごくいい。私はそういう居心地がいいと思った場所には居着いちゃうの(笑)。カレッジも18歳以上から入学できて、でも、実際は30代~40代の人が多かったんですよ」
——7年間、息子さんともどもイギリスで学生とはまた豊かな時期でしたね。
天鼓「そうなの。本当にあの時期は神様からもらった大きいプレゼントだと思ってる。まあ、子どもを産んだのは、私の人生のなかでも一番大きな出来事だったけど、それ以外ではシュタイナーのカレッジに行って、シュタイナーの人智学、アントロポゾフィーを学んだことは大きかった。深いし広い。自分が今までいかに表面的に物事を見たり考えていたか、思い知らされましたね。以前は好き嫌いで物事を決めていたのが、何故それが好きなのか、好きじゃないのかを自分のなかで説明していくと、好き嫌いというものは単なる表層的なことで、そこで判断すること自体、意味がない、と思うようになった。それに、自分が好きなことについて、それはなぜなのか、説明できるようになったのも大きな変化。それまでは“なんとなく”ですませていた」
——ヴォイス・パフォーマンスにも影響は?
 天鼓「多分、具体的な、例えば声の出し方などの技術的なパフォーマンスに影響はないんだけど、そもそもヴォイスは楽器ではなくて、しかもヴォイス・パフォーマンスとなると、声楽やヴォーカルと違って反復に意味がない。だから、練習も意味がなくて、練習不可だと思うんです。では、何が必要なのかと言うと、常に自分の興味や好奇心を深く掘り下げていくことなんですね。何を職業にしている人でも、自分はどんな人間なのか、何を感じているのか、何をするべきか、要はどう生きていくのかは常に考えていかなきゃいけない。だけどアーティストはこの世界のありように敏感じゃないと面白いものはつくれない。そういう意味では、シュタイナーの勉強をしたことでとても助けられたと思っています」
——パフォーマンス自体に直接影響はないけど、その前段に影響があったと。
 天鼓「そうですね。以前は“嫌なものは嫌”っていうのがあったんだけど、好き嫌いを言い始めると考えはストップして、向こうに何があるのか考えなくなる。それまで自分がいかに浅くしか、ものを考えてなかったかを思い知らされた。シュタイナー教育基盤のボートマ体操のトレーニングは5年やって、なので、一応シュタイナー学校の体育を教えられる資格があるんです。例えばいろんなエクササイズやゲームをやっていくんですが、技術やテクニックを学ぶのではなくて、からだと動き、空間の意味を考える。私は一歩足を踏み出すにはどうしたらいいか、納得いくまでに4年くらいかかった。以前とはそういった思考の道順の違いが大きいと思いますね。そこは一番自分が変わった部分だと思うし、あの時期に勉強した意味があった。同じように学んでも若いときの自分ではわからなかったと思うし、あの歳で学んでよかったと思いましたね」
——カレッジに通いながら、ヨーロッパ各地でライブ活動もやってたわけですか。
天鼓「授業が忙しいときは勉強するのも大変だったけど、ヨーロッパで色々なフェスには行ってましたね。イギリスにいるから呼ぶほうも声をかけやすいってのもあったし、収入を得ることも必要だし、やっぱり音楽を続けていく楽しさがあった。イギリスを離れる’99年の最後のツアーは確か大友くんとのデュオだったと思いますね」

大友良英(Turntable etc.)とのデュオではヨーロッパでのツアーの他、アルバム「PILGRIMAGE」をロンドンでレコーディングし、’98年にTZADIKからリリースしている

●天鼓・大友良英「Ashura」(from『PILGRIMAGE』’98)

 

——カムラさんも当時、ロンドンにいたわけですけど一緒にやろうとかは?
天鼓「カムラはロンドンに行って、フランク・チキンズに入った時点で“カムラらしいな、それもいいだろう”って、水玉のメンバーも皆、理解してたんですね。彼女はポップなもの大好きだし、イギリスで私は学生として忙しかったし、結局何か一緒にやることはなかったんだけど、あの頃はそれぞれの道を行くときが来た、というときだったんでしょうね」
 

帰国、東京を離れ伊豆へ


 
——そして、’99年にイギリスから日本に戻るわけですね。
天鼓「シュタイナーって7年周期という考え方があるんだけど、たまたま私も7年目に“もう学生でいる必要はないな、あとはもう自分自身で勉強していこう”と思ったのと、息子もちょうど小学6年の節目だったこと、実家の父親の病気、という3つが重なったんですね。シュタイナーのカレッジでも彫刻科の自主学生という立場でアートの個展をやったりして、自分の収拾もついて『ああ、やっぱり7年なんだな』と思いながら日本に帰った。で、帰ってからは定期的にヴォイスとシュタイナー関係の体操のワークショップをしばらくやっていたんです。ライブはちょっと自分が落ち着かなきゃ、ってのもあったし、その前に自分がイギリスで学んだことを再確認したいという気持ちもあったんですね。ワークショップで人に教えると、割とそういうことがクリアになる。ヴォイスワークショップも回を重ねるうちにグループになって、最終的には参加者だけでCDを作ったりとかね。そのうち、大胆だったとは思うけど、世田谷区のホールを借りてヴォイスのソロコンサートをやったり。ゲストで一楽儀光(ドラびでお)くんにドラム、巻上(公一)くんにヴォイスをやってもらって、そんなことをしながら、これから日本でどう動いていこうか探っていた時期かもしれない」
——今は伊豆にお住まいですが、住みはじめたのは日本に戻ってすぐに?
天鼓「帰って3年は東京にいて、伊豆に来たのは2003年だから、もう20年。長いですね。イギリスの田舎に7年いたら、東京の人の多さに環境的な限界を感じて“東京じゃもう住めないな”と思ったんですよ。息子は中学は東京で通い、高校生になるときアメリカでバスケをしたいと言うので、バスケの強いシュタイナー学校をサクラメントに見つけて留学することになったんですね。“私はNY以外のアメリカには住みたくないから、一緒には行かないよ”って。以前から伊豆は住むのにいいところだと話を聞いてて、行ってみたら“あ、いいかも”と、ほぼ直感で引っ越した。でも、ただ空気がよくて環境のいいところに住んでます、ってノリで田舎にいるのも気持ち悪いし、いつも買い物する度に売られてるものに文句をつけるばかりで、それも不公平だから、ここで自分も何か作ってみようと、富山の友人が作っていた無農薬大豆を使った手作りの豆腐屋を始めたんです。そして、最初の10年は毎日豆腐を作って近隣で販売したり、全国発送してたんですね。ミュージシャンの人たちも噂を聞いて注文してくれたり買いに来てくれたりもして。そんな暮らしを伊豆で送りながら、ときにヨーロッパツアーをしたり、震災があった次の年ぐらいまではフランスでワークショップをしたり。でも、実家の母の面倒を見ることにもなり、東京と九州を行ったり来たりするうちに毎日の豆腐作りは無理になり、その後は月2回、ほぼ会員制豆腐店になったんですね。母のケアやその後のコロナも重なって、ライブ活動もすごく減ってましたよね。で、豆腐は今年、2023年の夏に、惜しまれつつも完全に廃業。今や完全に幻のお豆腐。大友くん、巻上くん、内橋くん、灰野さんにはありがたいことに、たびたびのご注文をいただいてたんですよ」
——そう言えば、2011年の震災後の大友良英さん、遠藤ミチロウさん主催の「プロジェクトFUKUSHIMA!」に出演されてましたよね。当時配信で観てましたが、とても印象に残ってます。
天鼓「あのときは、もともと5月に宮城でシュタイナー系のボランティアとして、子どもたちのケアをしに行ったりしてたんですね。で、大友くんたちが福島でフェスをやるって聞いて『出来ることがあるなら何かしたい』って、何かの手伝いでも、と大友くんに連絡したら『それなら演奏してください』と言われて出演したんですよ。YOUTUBEに今もあがってるの? 今は何でもネットに残るからな(笑)。自分では過去のライブ映像とか見ないんですよ。ステージはそのときの空気でやっていて、あとに残すためにやっているわけじゃないから」
——当時現地に行った人から、あの福島の「天鼓さんは感動的だった」と話を聞きました。
天鼓「内心、めっちゃ恥ずかしいです。私は歌が“上手い”とか声が“良い”とかじゃないからこそ、このヴォイスパーフォーマーのスタイルに行き着いたわけですね。感動してくれる人がいるのは、嬉しいけど恥ずかしくもある。ヴォイスをやるって、丸裸で自分をさらけ出してる感があるじゃないですか。なのに、感動する、っていう感想があるのは凄いことですよね。普通の基準で“上手い”や “美しく”じゃなくても人は感動できる。あなたが何かやるときも人が決めつける世の中の基準に合わせなくていいんだ、ってことですよね。やりたいことをやって、それが面白いこととして出来上がっていく可能性がある、という。きれいに完成しているものばかりが揃ったら、きっと世界は退屈になる。そもそも、即興だけじゃなくて『生きているもの』って未完成だしね。即興の場合の面白さは、凄いもの、完成したものを見せるよりも、どう完成させていこうとしたかが見えてしまうのも大きな魅力だと思うんですね。本来、そこが一番面白いところで、そこにはストレスのかたまりのような部分もあるかもしれないんだけど、だからこそ嘘のない面白さがある。それを飛びこして単純に出来上がったものを見て“そう作ればいいんだ”となっちゃうと、もう本質的なところが全然違ってきますよね。お金や技術や知識で、ある程度完成されたかのようなものは作れちゃうでしょうけど、『そういうものばかりで世界ができあがってもつまらないじゃない?』って、私は思ってしまう」

●天鼓 - LIVE @ 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!(2011)

 

間違いなく、死ぬまでパフォーマンスしてる


 

——ここ最近はライヴ活動もとてもアクティヴですよね。
天鼓「そうそう。時間もできたし、また、もうちょっとやっておこうと思い始めている。というか、歳も重ねて今のうちに今しかできないことはちゃんとパフォーマンスしておかなきゃマズイでしょ、って気持ちもあって。今、世界が変わってきてるでしょ。そういうなかで自分が何を考えてやっていくか、生身の私が何を表現するのか、自分でも見てみたいという気持ちもあるんですね。それに、なんだかんだ言って、まだ自分がライヴして面白いと思えるっていうか、まだ私のパフォーマンスを見て驚く人がいてくれているようだし。即興の場合、結局は人がやるものだから、音楽性だけが進んだりは出来ないんだよね。その人の生き方が凝縮して成り立ってるだけに、まだまだ自分もやってもいいかな、と思えている。今、若い女の子で即興をやる人たちもどんどん出てきてるじゃない?『一緒に(セッション)やりませんか』って声をかけたら『やります!』って喜んでくれる。活動をあまりしてない時期も長かったから、私のことを知らないかもしれないじゃない? だから『すみません、ヴォイスをやってる天鼓と申します』って、自己紹介して(笑)。だって、いきなり即興を始めたのは30〜40年前とか言われたらびっくりするよね」
——そうした若い世代にエールは?
天鼓「うーん、新しい世代の子たちが見ているものは私が見ているものと絶対違うから、私から言えることはあまりないのね。それにみんなもうバリバリやってるし。今度、2024年の4月に女性のインプロバイザーばかりのライブを、小さなフェスみたいな感じで、第1回としてやってみようと考えているんですよ。その時期にNYからイクエさんが来日することもあって。出演者は10数人の予定で、女性ばかり。もっとたくさんの人にも出てほしいんだけど、ゆっくり進めていって、秋には第2回もやるつもりなんです」
——それはまた、楽しみな企画ですね。
天鼓「男の人たちには非常に分かりにくいところで女は大変な目にあってたり、いろんな抵抗を感じて生きている。特に日本では。そんななかでアートや音楽は自分を自由にしてくれる。即興の世界でもこれからを変えるのは若い女性たちじゃないかと思うんだよね。若い子たちには精一杯自分の可能性を広げて生きていって欲しいし、色んなものを見て、もっともっと勝手にやればいい。若い人たちへの私からのエールというのは、私がこれからもできる限りライブを続けていくということかな。私のライブを観て、そこで何かを感じてもらえれば、それが言葉より一番意味があって強いことだと思うし」

最近は若い女性インプロヴァイザーとの共演も多い。写真は2023年11/5に秋葉原クラブ・グッドマンで行われた「GIGA NOISE」でのレオナ(tap、全身打楽器)、加藤綾子(vi) とのライブ[撮影:田中悠美子]


——まさに昨年、秋葉原クラブグッドマンの水玉スーパーユニットで、天鼓さんとカムラさんの30年ぶりの水玉消防団のライブを呆然と観ていた若い女の子たちがいて、印象に残ってます。
天鼓「水玉はエネルギーの放出に関してはリミッターがないから。そういう女たちを見て、これで大丈夫なの? ここまでアリのまんまでいいの? って、ちょっと引きながらびっくりするってことはあるでしょうね。でも、そこから『これもアリなんだ』と思って次に進む人が出てくればいい。結局、そうやって見せていくことで伝えていくしかないよね」
——ということは、もっと天鼓さんにはライブしてもらわなければ。
天鼓「まあ、死ぬまでやると思うよ(笑)。大友(良英)くんは覚えてないかもしれないけど、あるとき、彼と『耳が遠くなったり、目が見えなくなったって即興だったらやれるもんね、私たち』って笑いながら話し合ったことがあるんですよ。だって、私たちはその場の空気を感じることでやってるだけなんだから、別に楽器じゃなくてもその場で手にしたもの、動ける体の部分で十分やれるよね、って(笑)。だから、間違いなく私たちはこの先までどこまでもやれる。舞踏の大野一雄さんみたいに、歩けなくなっても車椅子に乗って片手をそっと持ち上げるだけのパフォーマンスで、観る人を納得させられるような、ね」
——まだまだ、その伸びしろがあると。いや、素晴らしいですね。最後に、水玉消防団の時期は、改めてふりかえってどんな時期でしたか。
天鼓「今、陳腐な言葉が浮かんだ(笑)。“青春”だったのかな、あれは、と。やっぱり、自分の好きなことを好きな仲間とやれる喜びでいっぱいだったんですよ。あの水玉の楽しさって、女子校で皆が好きなことをして一緒に楽しんでいるような自由さというかね。特に日本の場合、大人になっていくと色々な制限が働いて、お互いが突っつき合って表に出ないように、出っ張りのないようにするじゃないですか。それが水玉の仲間は、どれだけ好きなことをやろうが、お互いが許してそこにまた乗っかって遊んでしまう。それをメンバーたちが30~40歳代まで出来ていたというのは本当にラッキーなことで、だから誰ひとりやめようと言い出さなかったんだと思う。普通なら音楽的な行き違いや色んな理由で崩れたり解散したりするじゃない。ミック・ジャガーとキース・リチャーズが未だにストーンズをやってるのは、お互いが増長して楽しんでる若いときのまま、やってるからだと思うんだよね。水玉消防団を10年もやれたのも、それと同じだったと思うんですよ。女で、しかも若くもない女たちでロックをやること自体、色々と言われる時代に『何やってもいいのよ、私たち』という仲間がいることは最高で、しかも、それが皆、もうしっかりした大人のとき。そして名前が広まって全国からライブに呼ばれて、ある程度評価された。こういう音楽をつくりたいという気持ちを抑えることなく、他の人もあんなに許してくれていた。そんな、ラッキーで幸せな時期。でも、正直言うと、私はずっとそうなんだよね。面白いと思うことには思い切りのめり込む。嫌だったら嫌だと言えばいいし、本当に嫌なら逃げちゃえばいい。そうやって自分を生きる。それが生きていくことだって思っているから」

2023年11/ 3、 練馬区立美術館で開催された「宇川直宏展 FINAL MEDIA THERAPIST @DOMMUNE」での特別ライブに参加した天鼓


 
 
●天鼓  1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、85年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
 

◆天鼓ライブ情報

 
2024年1月9日(火)@神保町《試聴室》
開場19:00 / 開演19:30
出演/天鼓(Voice) レオナ(Tap Dance,全身打楽器) 
MIYA(Flute,能管,Modular) 一噌幸弘(能管,能楽,田楽笛,篠笛,リコーダー,つの笛)
予約¥3500 / 当日¥3800 / Under22 ¥2000 (1Drink, snack込)
東京都千代田区西神田3-8-5 ビル西神田1階

 
2024年1月27日(土)@公園通りクラシックス
開場18:30 / 開演19:00
出演/天鼓(Voice)、マクイーン時田深山(箏)、吉田達也(Dr.)
予約¥3500 / 当日¥4000 / Under22 ¥2000 (1Drink)

 
2024年4月6日(土)@秋葉原 CLUB GOODMAN
『女の即興 』(詳細未定)
出演/イクエ・モリ、田中悠美子、武田理沙、かわいしのぶ、レオナ、向島ゆり子、妖精マリチェル、纐纈雅代、香村かをり、天鼓 ほか
 
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
 

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー



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