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水玉消防団ヒストリー

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吉岡洋美(@ysokhrm)の取材による、日本の⼥性パンクバンドの草分け、水玉消防団のヒストリーをメンバーの天鼓、カムラの証言で追う。
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記事一覧

水玉消防団ヒストリー最終回 天鼓1988年—現在 

取材・文◎吉岡洋美  水玉消防団活動休止後、ヴォイス・パフォーマーとしてヨーロッパ…

水玉消防団ヒストリー第17回 カムラ1988年—現在 

取材・文◎吉岡洋美  それぞれメンバー個々の仕事や活動が活発になるなか、1988年のライブ…

水玉消防団ヒストリー第16回 1986—1988年 カムラ山猫、天鼓ソロアルバム、水玉活動…

取材・文◎吉岡洋美 協力◎糸川耀史、松永もうこ  水玉消防団はセカンドアルバムを発表し…

水玉消防団ヒストリー第15回 1985年『満天に赤い花びら』、天鼓メールス・フェスティ…

取材・文◎吉岡洋美 協力◎松永もうこ 2ndアルバム『満天に赤い花びら』  演奏も活動も「…

水玉消防団ヒストリー第14回 1983-1984年「筋美連通信」、天鼓NYソロデビュー

取材・文◎吉岡洋美  ‘81年5月末にJORAは閉店したものの、水玉消防団はパンク、ニューウ…

水玉消防団ヒストリー第13回 1981年 全国ツアー、すぺーすJORA閉店

取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 ハイエースに機材を積み、26箇所のライブツアー  …

水玉消防団ヒストリー第12回 1981年「乙女の祈りはダッダッダッ!」

取材・文◎吉岡洋美 「いいときも目もあてられないほど悪いときも、ライブのアップダウンは激しかったけど、気づけばそんな1年を乗り切った」と、カムラも言うように、ライブハウスとパンクシーンへの参入、相次ぐオファーに地方ツアー、ハネムーンズ結成と、怒涛の’80年をバンドはひと通りくぐりぬけ、翌’81年。ライブの場数をハードにこなしていくなか、「ライブハウスでも、“足元の黒い箱はモニターって言うんだ”とか、”ステージ上と観客側では聴こえる音が違うんだ”とか、少しずつわかってきて

水玉消防団ヒストリー第11回 1980 年ハネムーンズ

取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 「これは“声”で私がやれること」天鼓NYでの出会い …

水玉消防団ヒストリー第10回 1980年 神奈川大学、京大西部講堂

取材・文◎吉岡洋美 協力◎モモヨ、地引雄一  78年秋にバンド結成して3か月足らずで初ラ…

水玉消防団ヒストリー第9回 1980年 ジークフリードはジッパーさげて

取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 いつも、何かがそこで起きている  バンド結成から約…

水玉消防団ヒストリー第8回 1980年1月 新宿ロフト

取材・文◎吉岡洋美 協力◎地引雄一 女性パンクバンドとの邂逅  楽器未経験のバンド結…

水玉消防団ヒストリー第7回 1979―田島ヶ原フリーコンサート

取材・文◎吉岡洋美 協力◎高沢正樹  フリースペース「JORA」の昼間、借り手のない場所と時…

水玉消防団ヒストリー第6回 1978年 12月 水玉消防団誕生

取材・文◎吉岡洋美 協力◎高沢正樹 「人に貸すばかりで、何も面白くない」  1978年6…

水玉消防団ヒストリー第5回 1978年 早稲田・すぺーすJORA

取材・文◎吉岡洋美 協力◎松本路子写真事務所、竹田賢一、地引雄⼀ 「この4人なら面白いことができる」 「まずは自分たちだけでやってみる」 これを起点にして、「やれない」と思っていたことも実際「やれる」と分かれば、新しい何かを始めることは恐くなくなる。魔女コンサートはじめ、そうした経験値が積み上がっていく天鼓、カムラたちに、ある物件の話が持ち上がったのは’77年末~’78年初頭頃のことだ。 天鼓「エスペラント語を普及させようというエスペラント学会(現・エスペラント