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『沖晴くんの涙を殺して』 (額賀澪 作) 2 #読書 #感想文

第三話 死神は命を刈る。志津川沖晴は怒る。

この章では沖晴は《怒り》の感情を取り戻す。そして京香を必要とする。彼女には君が悪いと思われたくない、彼女には離れていってほしくない。そんな沖晴の感情が暴れまくるこの章は、なんだかとても印象に残る。

自分の感情の変化についていけない沖晴を京香が世話をする。彼が全ての感情を取り戻して平和に生きていくことを、心から願っている。
彼の未来には、彼女はいないのに。
彼の人生を、彼女は見届けることができないのに。
この時の彼女は、それでも"しあわせ"だったのではないかと思う。

134ページより  京香は笑みを浮かべながら考える。

死から生還した彼と一緒にいると、自分の死を忘れずにいられる。でも、恐怖や空しさや寂しさを遠ざけることができる。
そうだ。ただ、自分が生きていることを全身で感じていたいだけだ



第四話 死神は連れてくる。志津川沖晴は泣く。

164ページより 京香と共に暮らす祖母が、京香に話したこと。

「沖晴、あんたに似てるんだ。にこにこしてるのに、心のどこかでここじゃない別の世界を覗き込んでるみたいな子だから。だから世話を焼きたくなるんだよ。あんたの居場所はこっちでしょ、って」

彼と彼女は似ている。なぜだろうか。境遇が同じというわけではないのに。
心のどこかでシンパシーを感じているのか。この人は自分と同じだ....と誰かに対して感じるタイミングは突然やってくる。気づかないうちにやってきていたこともある。そんな気持ちが、私にはよく分かる。


死神にいわゆる「負の感情」と引き換えに命を助けると言われたとして、私は「生きる」道を選ぶだろうか。自分はヘラヘラ笑うことしかできない。大切な家族はもういない。それでも、「生きたい」と思えるのだろうか。そう思えるだけの理由が、今この世界にあるのだろうか。
沖晴でさえも、自問自答している。

沖晴は考える。
どうして助けられたのが僕だったのか。もっと人の役に立てる人間は他にいたのに。守らなきゃいけないものがあるから生きなければならないと思っていた人がいたはずなのに。復興を手助けできる人が、いたはずなのに...と。

京香の叫びは、とどまることはなかった。もう彼女は、「死ぬのが怖い」なんて感情を、飛び越えていたはずだったのに。
171ページより

「人は、特に理由もなく死ぬの。むしろ生きてる方が凄いんだよ。私達って、きっと、運よく、死んでないだけなんだよ」
だから、死ぬのは怖くない。人は理由なく死ぬのだから。普段の行いがいいとか悪いとか、社会に貢献するとかしないとか、愛する人がいるとかいないとか、そんなことは死の理由にならない。
死神は、気まぐれに命を奪う。だから気まぐれに私の命を奪うし、気まぐれに沖晴を助けた。ただそれだけだ。それだけじゃないと、いけないんだ。

自分の余命を宣告された時。大切な人が死に直面した時。人は「どうして私なのか、どうして大切なこの人なのか」の問いをやめられない。ずっとずっとやめられない。
なんでなんで。犯罪者が死ねば良いのに。死にたいと思ってる人が死ねば良いのに。そう思ったことが1度もないという人は、本当に心が綺麗な人なのではないかと思ったこともある。

「死ぬこと」に、「死神に選ばれること」に、理由なんて欲しくない。
"どうして" を、やめることができないから。



この章で沖晴は《悲しみ》の感情を取り戻す。震災の時に流せなかった涙を、叫びを、京香の前でとどろかせる。
慰められても悲しみの量は変わらない。試練を乗り越えるのもそこから前に進むのも、結局最後は自分でやらなきゃいけない。
《辛さ》《苦しさ》《怒り》《絶望》、軽くできなくても、そばにいて寄り添ってくれるだけで救われることがある。
沖晴に寄り添う京香が抱いていた感情は、どんなものだったのだろう。




なんとなく相手に寄り添う時は、そばにいる時は「救わなければならない」と思っている人が少なからずいるように思うが、そんな義務感は必要ないように思う。救われたかいなかを判断するのは相手側だ。「自分じゃないと救ってあげられない」なんていう感情は、正直おこがましいとさえ思う。
そこに必要なのは「救い」ではなく、ただ"そこに存在すること"だと思っている。相手のために、ただ相手の側にいる。
結果的に相手が「救われた」と感じてくれて初めて、「あぁ自分はここに寄り添っていても良かったんだな」と、そのくらいに思えば良いのではないだろうか。

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