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【本棚から一冊】図書館ねこデューイ 町を幸せにしたトラねこの物語


『図書館ねこデューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』
著:ヴィッキー・マイロン 訳:羽田詩津子
出版:早川書房(2008年10月15日)


少し前の本なのだが、ねこのことについて少し書いてみたいと思い、本棚の奥から引っ張り出してきた。

* * *

1988年、アメリカのアイオワ州のスペンサーという小さな町、凍えるような冬の朝、図書館に勤めるヴィッキーは、出勤時に本の返却ボックスに子ねこがいるのを見つけた。

ヴィッキーが震える子ねこを手当てすると、子ねこはビッキーに手や足をすりつけ、ゴロコロと喉をならした。ヴィッキーは子ねこがこの図書館にとっても自分の人生にとっても必要な存在であることを直感した。

子ねこは図書の整理分類法であるデューイ十進分類法にちなんで「デューイ」と名づけられ、たちまち図書館のスタッフ、利用者、そして町の人々を魅了し、図書館と町にとってなくてはならない存在となった。

1980年代、このスペンサーという町はひどい不況の真っ只中にあり、町中の銀行が倒産し、多くの人が失業に喘いでいた。そのため、図書館では職業紹介コーナーを設け、町中の仕事を紹介したり、仕事に必要な技能を身につけるための本を紹介したりした。当時普及し始めたパソコンを設置して、パソコンで履歴書が書けるよう指導するなど、再就職のサポートの場となっていた。

そんなときに、デューイが図書館に現れ、町の人々の心のよりどころとなり、希望となった。その感慨をヴィッキーは次のように語る。

 そこにデューイが登場したのだ。それがターニングポイントだったと、ことさら強調はしたくはない。というのも、デューイは誰かを飢えから救ったわけではないからだ。仕事を提供したわけでもない。経済状況を変えたわけでもなかった。だが、つらい時代で最悪のことは、精神に及ぼす影響だ。つらい時代はエネルギーを奪いとってしまう。思考を占領してしまう。生活のすべてに影響力をふるう。悪いニュースはかびたパンと同じぐらい毒だ。少なくとも、デューイは気晴らしになった。
 だが、彼はそれ以上の存在だった。デューイの物語はスペンサーの人々の心を揺さぶった。みんなが共感を覚えた。
みんなが銀行によって、図書館の返却ボックスに放りこまれたようなものではないだろうか?・・・中略・・・
 そこに、凍えるような返却ボックスに放り込まれた野良猫が登場する。おびえ、一人ぼっちで、必死で生きようとしている。暗い夜を生き延びると、その恐ろしいできごとは彼にとっても生涯最高のできごとに転じた。どんな状況にあっても、彼は信頼を失ったことも、人生に対する感謝を忘れたこともなかった。彼は謙虚だった。いや、謙虚というのはふさわしい言葉ではないかもしれない−−なんといっても猫なのだから−−だが、傲慢ではなかった。自信は持っていた。死に直面した者ならではの自信だろう。生の終わりに近づき、希望を捨て、そしてまた生還したときにみいだす静穏さ。デューイと出会った瞬間にわかったのは、彼がどういうことであれ、うまくいくと信じていることだった。
 そして彼がそばにいると、他の人間もそう信じる気になった。

『図書館ねこデューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』37〜38ページ

この文中にある「生の終わりに近づき、希望を捨て、そしてまた生還したときにみいだす静穏さ」というのは、まさに苦難多い著者ヴィッキー自身の人生と経験そのものともいえる。ヴィッキーがそういう人生を経て、デューイと出会った瞬間もなお、その苦難の中にあったからこそ、デューイの境遇に死と再生を、それにまつわる希望と静穏とをみいだすことができたのではないか。

ハイスクール卒業後は兄と同じ大学への入学を希望していたヴィッキーだったが、保守的な田舎町の価値観から、女性は大学に行く必要はないと言われた。22歳で結婚し娘を授かったものの、医療ミスで、二度と子どもが産めないからだとなってしまう。そんな彼女に追い打ちをかけるように、夫がアルコール依存症となり、離婚を経験する。身も心も筆舌には尽くしがたい悲しみと苦しみを背負いながらも、生活を立て直し、娘ジョディを育てるために、福祉的な援助を得て大学に入学する。そこでの専攻の一つが図書館学だった。

大学卒業後、心理学者になることを希望しながらも学位が足りず、秘書の仕事をしたが、その退屈な仕事に倦んでいた。妹が住むスペンサーで図書館が開館することを知らされ、面接を受けに行く。当初は図書館の仕事も退屈なものだろうと思っていたが、町全体の知的、教育活動、文化的な活動に寄与するやりがいを見出し、副館長の職を得た。

その後のキャリアアップとして、図書館長に就任するには図書館学の修士号が必要だったことから、遠隔地学習課程の大学院の授業を受けることになる。仕事、子育て、大学院の授業と忙しい生活を送っていたため、思春期を迎えた娘との仲がギクシャクしてくる。

そんなときに現れたデューイは、ヴィッキーにもなくてはならない存在となっていった。特に、仕事、大学院の課題、娘とのすれ違いの会話で行き詰まっていたとき、デューイが誘ってくれる深夜の図書館でのかくれんぼやかけっこが、ヴィッキーをそれらから解放した。

 そうしたデューイとのかくれんぼのおかげで、いっしょに過ごしたひとときのおかげで、どうにか切り抜けられたといってもいいだろう。今だったら、わたしが泣いているあいだ、デューイが頭をわたしのひざに埋めて哀れっぽく鼻を鳴らしていたとか、わたしの顔の涙をなめてくれたと話したほうが簡単だろう。それなら誰にでも理解できる。それにほぼ正しかった。ときどき天井がわたしの上に落ちてくるような気がして、目に涙をためてぼんやりとひざをみつめていると、デューイがひざにのってきた。彼はまさに、わたしが必要としている場所にいてくれたのだ。
・・・中略・・・なぜかデューイは、いつちょんと鼻でつついたらいいか、いつわたしが暖かい体を必要としているか、あるいはいつ頭を空っぽにできるばかばかしいかくれんぼがいちばん効果があるか、ちゃんとわきまえていたのだ。それに何であろうとわたしがほしいものを、彼は躊躇せず、お返しも期待せず、質問もせずに与えてくれた。それはただの愛ではなかった。それ以上のもの。尊敬だった。共感だった。しかもそれは双方向のものだった。出会ったときに、その火花をわたしもデューイも感じたのではないだろうか? 図書館で二人きりで過ごした夜は火花が炎になった。

『図書館ねこデューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』122〜123ページ

その後もヴィッキーには、自身の病、兄弟、母親の死と試練が続いたが、いつもかたわらにはデューイがいた。

そんなデューイの存在は、さまざまなメディアに取り上げられ、スペンサーの町だけではなく、アメリカ中、世界中に知られるようになり、さらに多くの人々を魅了した。日本からもNHKの取材クルーが訪れ、その番組をみた人の中には、デューイのいる図書館まで足を運んだという。

図書館と町の人々の希望であり続けたデューイは、2006年、大好きなヴィッキーママの腕の中で、18年の天寿を全うした。

* * *

わたしはこの本を10年前に読んだとき、たしかに忘れがたい内容ではあったが、動物と触れ合う生活をしたことがなかったため、どこか他人事で読んでいた。

ところが昨年、ある事情で1ヶ月だけ、ねこをあずかる機会があった。たった1ヶ月ではあったけれども、ねこと一緒に暮らした後に再度この物語を読んでみると、デューイの行動の意味やヴィッキーの心情が手に取るようにわかった。

ヴィッキーがデスクワークをしていると、デューイはパソコンのモニターの上でしっぽをゆったりとふったが、私があずかったねこは、私の座る椅子の下に入って、手をなめながらゆっくりと待ってくれた。

朝一番に起きていく父には、「よる、ずっとさびしかったーよー」といって、グーグーと喉を鳴らしながら体をこすりつけていた。オスだったせいか、男性の父には普段甘えることはないのに、朝だけは甘えた。

その後、私が起きていくと、エサがでてくること、トイレを掃除することを知っていて、「にゃーーー」と少し長い鳴き声で、あれやれこれやれと催促した。

ひとなつっこいねこで、我が家に到着したばかりのときでも、「シャーッ」といってどこかに籠城することなく、「なでなでしてーーー」とばかりに、体をこすりつけてきた。

私が仕事で昼間いないときは、母にべったりだったらしく、ソファーの母が座る隣を陣取って、我が物顔で寝ていた。

私が夜遅く仕事から帰ると、遊び相手が帰ってきたことがわかるらしく、待ってましたとばかりに家中を走り回る。カーテンの後ろへのかくれんぼ、獲物(おもちゃ)を捕まえるゲーム、ヒモをガブガブする遊びなどをした。

かくれんぼしたときに、ねこがどこにいるかがわからなくなってしまった私は、ダイニングテーブルの椅子に立って、上の方からねこをさがしていると、「おねえちゃん、ぼく、ここだよ」といって、私の足にそっとふれた。

ひとなつっこいけど臆病、大きな音が苦手で(ねこはみんなそう!)、電話や雷がなると、いちもくさんに机の下に隠れた。もう大丈夫だよと迎えにいくと、「こわかったよー」と甘えるのかと思いきや、「ぼく、こわくないもんね」といった様子で私を迂回して、皆のいるリビングへひとりで堂々と出て行った。

ねこは高いところや狭いところが好きと聞いていたけど、どういうわけか、高いところにも登らなかったし、せっかく用意した箱に入ることは一度もなかった。いつも広々としたリビングの床の皆が見える場所で座ったり、寝たりした。

それまで動物を飼ったことがなかった私は、ねことの暮らしのなにもかもが新鮮だった。

とうとうねこを返す日の朝、キャリーに入れなくてはならないため、何も気取られないように気をつけながら、普段どおりのエサの準備とトイレの掃除をした。

朝ごはんのあと、自動掃除機による掃除が始まると、ねこはダイニングテーブルの下に隠れるため、その日も掃除がはじまるタイミングを見はからって、隠れていた。その姿をみて、何も気づかれていないと私は思っていた。

朝ごはんのエサを少なめにしておいたため、お腹が満たされていないねこは、キャリーの中にまいてあったエサを求めてキャリーに入った。そこで扉を閉めた。

それからマンションの外でタクシーを待っている間、「わあーだせーだせー」と鳴き続けたが、タクシーが来たところでピタリとおさまった。我が家に車で運ばれてきたときは、「だせーだせー」の大騒ぎだったので、タクシーの中でも騒ぐかと心配していたのだが、そろそろ目的地に到着しようというときに、一度だけ小さく「にゃー」といった。

ヴィッキーの心情をなんでも理解していたデューイ。一ヶ月の間、どんな箱を用意しても決して入ろうとしなかったねこが、あのときキャリーにまかれたエサを求めて入ったのは、今になって思うと、あの日の私の企みを察知し、そこに入らなければならないことを知っていたのではないか。

タクシーの中で一度だけ小さく「にゃー」といったのは、デューイとヴィッキーの物語を読んだ今となっては、こんな言葉に思えてならない。

「おねえちゃん、ぼく、だいじょうぶだよ、ありがとね」



※引用に使用した本は、2008年10月に出版されたものだが、現在は以下の文庫に切り替わっている。



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