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カメリア、それはシャネルの戦友

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第12回 シャネルのカメリア

卒論を提出した大学4年の冬、同級生たちとヨーロッパへ卒業旅行に出かけた。今の大学生たちに卒業旅行なるものがあるのかどうかはわからないが、社会人になると長い休みはとれなくなるという理由から、学生最後の休みを利用して、アメリカやヨーロッパを2週間ほど旅行する学生が多かった。

私たちもロンドン、ローマ、パリを旅した。初めての海外旅行で観るもの、聞くもの、食べるものすべてが日本の何かとは違っていて、新鮮だった。

私たちが参加したツアーは比較的観光が充実していて、ロンドンのバッキンガム宮殿、ローマのコロッセオ、パリ郊外のベルサイユ宮殿など各都市の有名な観光地はおおかた巡った。また、自由行動の時間も多く設けられていたので、自分たちの興味のあるところへ、冒険のような気持ちであちらこちらに出かけた。異国の地で初めて乗るバスや電車、タクシー、初めての英語、フランス語、イタリア語で交渉する買い物、注文する食べ物。そのすべてにどきどきした。今思えば、そのどきどきはなんと輝かしいものだったか。

そして、各都市のブランド店や免税店を巡る時間もたっぷり取られていた。今では信じられないが、バブル経済が終わっていた当時でもまだ円高は続き、日本で5万円もしたフェラガモのパンプスが、各地では15,000円程度(日本円換算)で買えた。友人たちはそのときのためにずっとアルバイト代を貯金していて、ローマでそのパンプスを3足購入した人もいれば、ロンドンのバーバリーでトレンチコートやロングコートを購入した人もいた。

私はバブル経済崩壊直後の就職活動が難航し、卒論も提出期限ギリギリまでかかってしまったことで、アルバイトがそれほどできなかった。また、そんな経済状況の中で父が失職したり、弟が大学の入学を控えていたりで、旅行代を親に頼ることができず、旅行会社のローンを組んで行った。そんな理由から、友人たちのように、買い物のための十分な資金を用意することができなかった。友人たちが高価なものをどんどん購入していくのを横目に見ながら、ずっと欲しかった香水をわずかばかり購入するのが精一杯だった。

2つ目の訪問地ローマを訪れたとき、ツアーの添乗員さんから、三都市のうちローマのCHANELが一番安いから(当時はユーロではなくて、イタリアはリラ、イギリスはポンド、フランスはフランといったように、各国の通貨だった)、CHANELを買うならローマがいいわよという情報が入った。

CHANELの黒のキルティングのバッグの購入を、この旅のメインイベントと決めてきた友人がいて、彼女もアルバイト代をコツコツと貯めてきた。さっそく友人たちと連れ立って、スペイン広場の向いのブランド店が並ぶ通りのCHANELに足を運んだ。

どのブランド店もそれぞれが語る“ストーリー”を体現する店内だったが、当時のCHANELは比較的明るく華やかで、壁一面に鏡が張り巡らされ、白の毛足の長い絨毯が引き詰められていた。こちらは何しろ学生の旅行者で、一着だけの防寒用のコートとスニーカーという出立ちが、まったくの場違いであることは一目瞭然だったが、スタッフたちは嫌な顔をするでもなく、接客用のソファーに案内してくれた。

友人が黒のキルティングのバッグを見せて欲しいと頼むと、数個の黒いバッグがスウェードに覆われたトレーに載せられて恭しく運ばれてきた。白の手袋をしたスタッフの話しでは、キルティングのバッグには2通りあって、ミシンでキルティング加工されたものと、職人が一針一針手で縫ったものがあり、もちろん後者の方が倍近く高価なものだった。 

皆、息を飲んで友人の買い物を見守った。友人の予算としてはミシンでキルティング加工したものの方で、おそらくそちらを購入するだろうと思われた。その瞬間、

「私、パリのホテルリッツの向かいにあるCHANELで、買いたい」と言い出した。

ローマでも決して安いとはいえないCHANELの黒のバッグ。パリは私たちが訪れた3都市の中でも最も物価の高い都市で、そこで買おうとすれば、さらに1.5倍くらいの値がすることは予想された。友人のこだわりがどこから来たのか私たちにはわからなかったけれど、値段の問題ではないことはすぐにわかった。

ローマでの短い滞在を終えて列車でパリに入った。島国の住人には列車で他国に入るという感覚がよくわからなかったが、夜行列車の窓から見えた乾燥した地肌の山々、その果てに続く荒涼とした大地を、今でも忘れたことはない。

 * * *

 子供のころから皮膚が弱くて貴金属類があまり得意ではない私は、手芸好きだった母の影響もあり、ブローチやコサージュを身につけることが多い。ある時期からシャネルのカメリアのコサージュにはひとからならぬ興味を寄せていたのだが、ずっと疑問に思っていたことがある。それは、なぜシャネルはカメリアつまり椿を選んだのかということだった。

ヨーロッパの伝統的な意匠には、キリスト教の聖母マリアを象徴するバラやユリが多いというイメージがあるけれど、椿が描かれている絵画や椿をモチーフとした何かをあまり見たり聞いたりしたことがない。

椿は日本原産といわれ、古来、常緑のしっかりした葉が神の呪力を表すとして『古事記』や『日本書紀』などにも登場する。また「木」に「春」と書くとおり、春を待つ花、春を告げる花として『万葉集』などでも詠われていた。室町時代にはすでに観賞用として多くの品種改良が重ねられたという。 

日本の文化にとっては馴染み深い椿であるが、ヨーロッパのカメリアとはどのような関係にあるのかを調べてみると、17世紀に初めて日本からヨーロッパに渡ったとか、18世紀長崎の出島から、スウェーデンの植物学者(の弟子)が4株持ち帰り各国宮殿に贈ったとか、G. J. Kamelというイエズス会の宣教師が持ち帰り、その名をとって「カメリア」という名前になったなど、諸説あった。

また受け入れられ方もそれぞれで、ヨーロッパの寒さの中でアジア原産の植物を育てるのは難しく、苦労が多かったというものもあれば、日向でも日陰でも咲く常緑の花木として重宝され、庭木や園芸用として普及したといった説があった。

いずれにせよ、ヨーロッパ、シャネルのいたフランスのパリでは、比較的新しい花であり、それ以前の意匠に登場するはずもなく、そんな新しい花をシャネルは選んだということになる。

CHANELの公式サイトを見てみると、創業者シャネルにまつわる伝説の数々を動画化し、その全てが集められたページ(※1)がある。その中に「カメリア」という動画がある。カメリアそのものが、シャネルの人生の中で自分がどのような存在であったのかを回想をとおして語るという、2分少々のストーリーだ。 

そのなかでもっとも興味をそそられたのが、カメリアを選んだ理由についてシャネルは名言することはなかったが、「13歳の若きココが、サラ・ベルナール演じる『椿姫』に深く感動した」いうことだ。

いくら芝居や舞台に感動したからといって、それを象徴する花を安易にブランドを象徴する花に選ぶとも考えにくく、その間には、直接語らない何かがあり、それを暗に示そうとしたのではないか。それはシャネルの人生観や価値観と照らし合わせることで見えくるのかもしれない・・・そんな予感がした。

女優サラ・ベルナールへの敬意を表すカメリア

19世紀、フランスの作家アレクサンドル・デュマ・フィスの“La Dame aux camélias”(『椿姫』)はもっとも人気のある作品の一つで、多くの劇場で舞台化され、多くの女優たちによって上演されたが、サラ・ベルナールが演じる『椿姫』を超えるものはいなかったと言われている。

サラ・ベルナールは、19世紀末から20世紀初頭のパリ、産業革命で花開いた大衆による消費文化がベルエポック(美しき時代)と呼ばれていたころ、自立した女性の先駆的な存在として活躍した女優だ。改めてその生涯を調べてみる(※2)と、サラとシャネル、ふたりの生き方にはどことなく通じるものがある。

もしかしたら40年ほど後に生まれたシャネルが、自分自身の見せ方、ビジネスの考え方など、サラのやり方を意識的に取り入れていたのではないか、とさえ思えてくる。

サラは幼いころから母親の愛情に薄く、何度か里子に出され、修道院系の寄宿学校で学ぶ。16歳で国立音楽演劇学校(コンセルバトワール)に入学し、18歳で劇団コメディ・フランセーズに入団する。その後も何かと困難に見舞われながらも、“quand-même”(カンメーム それでもなお)の精神で乗り切り、1880年、36歳のときには、自分の考える演劇を実現したいとサラ・ベルナール劇団を設立した。

しかし、それまで所属していた劇団から契約違反だと訴えられて、莫大な違約金と損害補償金を支払うことになる。そこからヨーロッパ巡業を経てアメリカ大陸へ渡り、カナダも含めた15の都市を巡業し、大成功を納めた。巡業の最後のニューヨークで上演したのが『椿姫』だった。多くの賞賛と喝采を浴び、サラの代表作となったわけだが、この巡業によって、莫大な違約金と損害賠償金を支払うことができたという。

また、古典(歴史もの)を題材とした演劇を古典まま上演するのではなく、大衆にもわかりやすく受けやすい脚本、演出を意識し、大衆が喜ぶ風刺劇や社会劇も取り入れた。

一方シャネルはといえば、1895年12歳のとき母親が亡くなり、オバジーヌの修道院にあずけられたのち、17歳でムーランの寄宿舎に入っている。25歳のときにはすでに、パリのマルセルブ通り160番地に帽子店を開店し、2年後の1910年にはカンボン通り21番地に2店舗目を開店、翌年には避暑地のドーヴィルに出店するなど、精力的にビジネスを展開した。

ご存知のようにシャネルが提供したファッションは、王侯貴族の御用達クチュリエ(パリの高級服飾店の服飾工程を統括するデザイナー)による一点もののデコラティブな大きな帽子や裾を引くドレス、窮屈なコルセット、重い宝石から女性を解放したもので、シンプルでミニマムであることを信条とした。

そのようなファッションにいち早く目をつけたのが、海を渡ってアメリカからやってくるバイヤーたちだった。彼女が打ち出した一切の装飾を排除したシンプルなブラックドレスは、アメリカ版の『ヴォーグ』誌で「シャネルという名のフォードだ」「フォードドレス」と評された。

フォードといえばアメリカを代表する自動車会社で、当時、特権階級からの注文によって一台一台受注生産していた自動車を、大衆化し大量生産することをめざした。大量生産するためには、デザインを極力シンプルにしてパターン化し、生産コストを下げる必要があった。さまざまな試行錯誤の結果、1908年にT型フォードと呼ばれる大衆車を発売し、爆発的なヒットとなった。

ビジネスによる経済面から国際的な存在感を増してきたアメリカでは、ヨーロッパの貴族階級が好んだ芸術的、装飾的、一点ものであるよりも、実用的で大量生産が可能で、大衆向けであることが重視された。そのような点において、T型フォードとシャネルのファッションには共通点があり、熱狂的に受け入れられた。

サラが女優の恋物語『アドリエンヌ』や高級娼婦の恋物語『椿姫』といった大衆向けの演目で、アメリカ巡業を成功させ、莫大な違約金と損害賠償金を支払い、なおあり余るほどの収入が得られたように、シャネルもアメリカでのビジネスで一財産を築くことができた。

またふたりとも、ハリウッド映画にも協力的だった。サラはまだ映画が珍しかった時代、ハリウッド映画にも積極的に出演し、最晩年、ハリウッド映画の撮影中に倒れている。シャネルは1930年代、ハリウッド映画が不振に陥ったとき、プロデューサーから起死回生の切り札として破格の契約金で呼び寄せられ、映画衣装をデザインした。 

サラもシャネルも、フランス、パリという文化圏、消費文化を超えて、大衆の国アメリカで成功した女性初の実業家(起業家)であった。

このほかにも、ふたりには多くの共通点がある。

ふたりとも、今の言葉でいえば、セルフプロデュースに長けていた。テレビやラジオもないこの時代、新聞・雑誌・各種広告(写真や絵画、イラストを含む)といったメディアで虚像として取り上げられることに、意識的だった。著名な写真家にポートレイトを撮影させ、シンプルで本質を突く言葉で人生の信条や価値観、社会批評を語り、自身をブランド(劇団やメゾン)のアイコンとすることにも熱心だった。

ある程度の経済力を得てからは、芸術家の経済的支援などにも力を入れた。サラはアール・ヌーボーの駆け出しの芸術家たちを経済的に支援し、新人画家だったアルフォンス・ミュシャに、公演の宣伝用ポスターを描かせている。一方シャネルも、恋仲になった芸術家を経済的に支援した。作曲家ストラヴィンスキーが一家でシャネルから支援を受けていたことはあまりにも有名だ。

この時代、貴族階級の女性が芸術家のパトロンとなることはよくあり、その資金の出どころは親や夫の財産であった(※3)が、サラもシャネルも自身が働いて稼いだ金で支援した。

いずれにせよシャネルは、自分とも重なる、手本でもあったサラの生き方に敬意を払って、「サラ・ベルナール演じる『椿姫』に深く感動した」という言葉を、サラへの献辞として残したのではないだろうか。

しかしこれだけでは、椿(カメリア)を用いたことには、結びつかないようにも思われる。そこでサラが演じた『椿姫』そのものとシャネルの関係に、目を向けてみたい。

「働く女」であろうと決意させたカメリア

『椿姫』はこんなストーリー(※8)だ。

貴族階級の男性の愛人として生計を立てている(いわゆる高級娼婦)マルグリット。贅沢ながらも空虚な暮らしに倦んでいたところ、貴族の青年アルマンから求愛により、真実の愛に生きようとする。ところがアルマンの父親から、娼婦と結婚させるわけにはいかないと、別れを迫られる。マルグリットはアルマンの前途を思い、身を引く決心をする。

彼を裏切ったかのように見せかけて別れを告げたマルグリットは、また貴族たちの愛人として生きる生活に戻っていく。そんな事情を知らないアルマンは、裏切られたと思い、恨んでオリエントへと旅立つ。しばらくするとマルグリットは以前からあった胸の病が悪化し、アルマンにことの真実を知らせる手記を友人に託して死ぬ。アルマンはその手紙を読んで戻ってくるものの、すでに彼女は葬られた後だった。

マルグリットは1ヶ月の3/4は胸に白い椿を、1/4は赤い椿を挿していたことから、椿姫と呼ばれていた。赤い椿は月の障りによって、性的な関係は持てないことを意味したと考えられている。また死後、アルマンは墓を管理する業者に、マルグリットの墓を尋常ではない量の椿で覆い尽くさせた。

シャネルも、マルグリットを演じたサラも、貴族階級の出身ではない。ビジネスや女優をしていなければ、マルグリットと同じような生活をしていた可能性がある。この時代、貴族ではなく定収入のない階級の親を持ち、その庇護も受けられない女性が生きていく術など、結婚以外は皆無だったと考えられる。結婚ですら相手の境遇や収入に依存する不確かなものだ。 

『シャネル その言葉と仕事の秘密』(※4)の巻末にある年譜を見ると、シャネルには、17歳でムーランの寄宿舎に入ってから25歳で帽子店を開店するまで、空白の期間がある。CHANELの協力を得てつくられた映画『ココ・アヴァン・シャネル』(※5)では、昼はお針子、夜は姉とともに酒場で歌をうたいチップをもらうことで生計を立てていた。

姉はそこで知り合った男爵の愛人となり、シャネルはバルザンという公爵と出会い、その広大な屋敷で居候生活をはじめる。その代償として性的な関係を迫られるといった場面もあった。これはあくまでも映画のストーリーなので、実際のところはどうなのか何ともいえないが、そのような境遇にあったことはたしかだ。

サラの境遇も似ていて、母親は貴族や経済的に豊かな男性の愛人であり、叔母もナポレオン三世の父親違いの弟の恋人(おそらく愛人)であった。サラ自身も新人女優のころに出会ったベルギーの王子と恋に落ちるが、サラの妊娠がわかると音信不通になったという。 

『椿姫』を読み進めていくと、愛人でいられるのは容色が美しい若い時分のほんの一瞬であり、年齢を重ねて続けられるものではなかったとある。容色が衰えて、貴族男性たちから相手にされなくなれば、それは路頭に迷うこと、すなわち死を意味した。まれになじみの男性をパトロンにして、あるいは運がよければ手切れ金をもらって愛人稼業から足を洗い、帽子店をはじめるものもいた、というくだりがある。サラの母親も帽子店を営んでいた。 

ベル・エポック時代の女性のファッションには、大きくてデコラティブな帽子は必須アイテムであり、愛人の貴族男性の人脈を生かせれば、それなりに商売になったと考えられる。同時に、そのような境遇にあった女性たちは、幼い頃、孤児や捨て子を収容する寄宿舎で育ち、裁縫の技術を必須で身につけたこと(※6)から、それが得意であれば、手に職を持つことができたのではないか。

シャネルが帽子店を開業した経緯や開店資金の出どころは、年譜から察するに、バルザンかもしくはその交友関係の人脈によるのかもしれない。いずれにせよ、居候(愛人)生活から抜け出すためには、シャネルは働く必要があった。

店舗数を増やし、自身の才覚によってビジネスを成功させたシャネルは、『椿姫』のマルグリットとは違う人生を歩みはじめる。さらには、アメリカでの成功によって莫大な財産を築く一方で、ロシア皇帝の弟や英国一の財産家ウエストミンスター公といったヨーロッパ各国の王侯貴族たちと恋愛関係にあったが、終生結婚することなく、経済的には独立していた。というより、今度はシャネルの方が、自身の名声と財産に釣り合う男性を得る必要があった。

ときには恋仲になった芸術家を経済的に支援することもあったことは、先にも書いたとおりだ。またビジネスに有利な情報を得るために、顧客が出入りする社交会の動向を探るために、貴族を金で雇うようなこともあった。

つまりシャネルは、単に居候(愛人)生活から抜け出せただけではなく、貴族男性との関係を逆転させたのである。

シャネル自身は死の前日まで「働く女」だった。それは経済的な自立だけでなく、あらゆることから自由であることを意味した。次のようなシャネルの言葉が残っている。

・・・略・・・わたしは小さいときから、人間はお金がなければダメ、お金があれば何でもできるということがわかっていた。そうでなければ、夫に依存するしかない。金がなければ、誰かがわたしをもらいにやって来るのをじっと待っていなければならない。だが、もしその人が嫌いな人だったら?ほかの娘ならそれでも我慢したかもしれない。だけど私は嫌いだった。誇り高いわたしは苦しんだ。そんなのは地獄だ。だからいつも自分に言い聞かせていた。お金、それこそ自由への鍵なんだと。

『シャネル その言葉と仕事の秘密』180〜181ページ

はじめはお金が欲しいと思って始める。それから、仕事が面白くなっていく。働く楽しみはお金の楽しみよりずっと大きい。要するにお金は独立のシンボルに過ぎない。私がお金に執着したのはプライドが高かったからで、物を買うためではなかった。物なんて何一つ欲しいと思ったことはない。欲しかったのは愛情だけ。自由を買い取り、何が何でも自由を手にしたいと思っていた。 

同183ページ

成功しようとすれば、人間、働かなければならない。天からマナが降ってきたりはしない。わたしは自活するために自分でパンを稼いだ。友達は、「ココの手が触れると、すべてが金に変わってしまう」と言うけれど、わたしの成功の秘密は猛烈に働いたということよ。私は50年間、どこの誰よりもよく働いた。肩書きでも、運でも、チャンスでもなくて、ひたすら働いて得たものだ。

同184ページ

サラ・ベルナールの『椿姫』を観たのが13歳。12歳のとき母親が亡くなり、父親に連れられてオバジーヌの修道院にあずけられた翌年のことである。経済的な不安が幼いころから常につきまとっていたシャネルにとって、『椿姫』のマルグリットの人生はショックだったのではないか。 

経済力がないがゆえに貴族男性の愛人となり、贅沢とひきかえの退屈な暮らし、社会からは蔑まれ、心から愛する人とは引き離され、借金まみれで終える人生。そんな人生を決して送るまいと思ったとしても、不思議ではない。むしろ13歳という多感な時期に、そのような人生に触れたことが原体験となって、彼女を「椿姫」ではなく「働く女」へと駆り立てたのではないか。

シャネルにとって椿(カメリア)は、サラ・ベルナールという先達と同じように、「働く女」であろうと決意した花であり、それを思い出させる花でもあった。私はそう思うのだ。

シンプル、ミニマムを体現するカメリア

装飾のない黒のドレス、ショートカット、黒のショルダーバッグなど、シャネルが生み出したシンプルでミニマムなファッションは、今日の私たちの生活では、どれも当たり前のものであるが、当時としては衝撃的なものであった。

シャネルはそれまでの貴族社会の価値観を、ファッションという面から否定し覆したことで、「皆殺しの天使」と呼ばれる。当時(ベル・エポック時代)の女性が身につける、大きくデコラティブな帽子や裾を引くドレス、窮屈なコルセット、重い宝石を嫌った。それらは男性貴族たちの富や財力の見せびらかしであり、女性を真の意味で美しく、エレガントに、そして自由にするものではないとシャネルは考えたからだ。

シャネルにとってファッションとは、その人が本来持つ美しさを引き出し、心身ともに自由であることが重要で、金銭にまかせてつくったものをその金額がわかるような形で身につけることを最も嫌悪した。

そこでシャネルはまず帽子に着手した。シャネルが最初に開店した帽子店では、従来の大きな羽飾りやリボンがあるデコラティブなものではなく、男性がかぶる麦わらのカンカン帽子を女性用にアレンジして売った(※5)。

次に洋服。1913年に避暑地ドーヴィルに出店すると、翌年に勃発した第一次世界大戦によって、貴夫人たちが着の身着のままで疎開してきた。その夫人たちを相手に、服を売る必要に迫られた。戦時下で布地が手に入らないこともあり、ビーズや刺繍、レースなどがふんだんに盛り込まれた高価な布地を、惜しげもなく使う時代でもなくなっていたことを敏感に察知したシャネルは、自身が愛用してきた着心地のよい、伸縮性のあるジャージーで服をつくり、売った。

ジャージーは厩舎で働く男性の下着に使われていた素材で、バルザンの屋敷に居候していた頃から愛用していたものだった。その成功により、それまで単なる帽子屋だったシャネルが、本格的なクチュリエとしての道を歩みはじめる。1926年、あのブラックドレスがアメリカ版『ヴォーグ』に掲載された。

そしてアクセサリー。シンプルなブラックドレスを引き立てるアクセサリーをつくり出す。それまで装飾品といえば宝石だったが、シャネルは購入者や贈り主(貴族男性)の財力が見え隠れする「金持ちのための宝石」(同63ページ)を嫌悪し、「首のまわりに小切手をぶらさげるのも同じだ」(同64ページ)「宝石で人の目をくらまそうだなんて執念は、胸がむかつく」(どう65ページ)と言い放った。そこでもあえて貴金属を使わないイミテーション・ジュエリーをつくり出した。

なかでもパールの模造品をつくらせ、本物のパールと混ぜて身につけたことは有名だが、ファッションは金目ではなく、偽物を本物のようにみせられるセンスそのものに価値があることを示した。

このようなシャネルの価値観にふれたとき、椿はバラのイミテーションなのではないかという考えが頭に浮かんだ。ヨーロッパのキリスト教の文化圏では一時期、バラはキリスト教の世界の完全性や高い精神性を表し、聖母マリアの純潔やキリストの殉教を象徴した。しかし19世紀以降のナポレオン帝政下では、ナポレオンの妻ジョセフィーヌが権力と財力にまかせてバラの収集に熱を入れたように、富と権力の象徴だったのではないか。

しかも、ばらの花びらをいくつも重ねたデコラティブな姿形や濃厚な香りは、シャネルの嫌悪の対象だったとも考えられる。一方、椿は姿形から「日本のバラ」と呼ばれてヨーロッパ文化に受け入れられたことから、バラのようであってバラでないことが、シャネルにとってはイミテーションとして格好の花だったと考えられないか。

日本では冬から春までの茶花として用いられる椿は、はっきりした色目の花びらと花芯、濃い常緑の葉が、シンプルでありながらも存在感がある。だからこそ、それだけで床の間を飾ることができるのだが、実は生けるのがとても難しい。どの花を生かすのか、どこの葉や枝を落とすのか、ほかの花に比べて生ける者のセンスと技量が格段に問われる花木なのだ。

シャネルがそんなことを知っていたとは言わないが、彼女の鋭い感覚、感性なら、そんな椿の本質を見抜いていたとしてもおかしくない。シノワズリーの影響で漆屏風を収集し、ブラックドレスの黒は漆黒もを発想の源泉としているではないかという説(※7)があることを考えると、ジャポニズムの折、金ピカを嫌い、よけいなものをすべて削ぎ落とした茶の湯の思想にどこかで出逢って、幼少時の修道院の寄宿生活で培われたシンプル、ミニマムなシャネルの価値観が共鳴したのではないか、と想像の翼をひろげてみるのは無謀なことだろうか。

「No.5」の香りを託されたカメリア

例のCHANELの公式サイトの「カメリア」の動画では、椿(カメリア)は香りのない花であったが、むしろシャネルはそれを尊び、女性が自分の香りを纏う自由を象徴する花とし、香水「No.5」がその香りを担ったかのように描かれている。

それまでの香水が、バラやジャスミンといった香りの強い花から抽出された精油(エッセンシャルオイル)でつくられ、よくもわるくも生々しい花の香りがしたものだった。ところが「No.5」は、多種多様な芳香を合成香料のアルデヒドがまとめあげる調香で、それぞれの芳香がそれぞれを引き立て合う抽象的な香りだった。

当時としては斬新で画期的な調香であり、服やアクセサリーと同様に、過剰を排して、必要最小限のものを生かすというシャネルの価値観が貫かれている。結局、香水も芳香が過ぎれば悪臭となることを、シャネルは知っていたのだ。 

ちなみに、動画ではシャネルがはじめてカメリアを身につけたのが1923年、その後商品化され、さまざまな布や宝石で象られ、指輪やネックレス、ブローチ、イヤリングなどの装飾品となったとされる。一方、『シャネル その言葉と仕事の秘密』の年譜では、「No.5」の調合の完成が1920年、その翌年の1921年に発表され、1924年に香水会社を設立していて、正直なところ、椿(カメリア)と「No.5」の前後関係や因果関係がよくわからない。

しかしこの順番が正しければ、むしろ先にあった「No.5」を体現する花として、固有の香りを持たず、特定のイメージにまみれていない椿(カメリア)が見出されたともいえる。

  

最後にもう一度、例の動画に立ち返ってみる。 

椿(カメリア)とシャネルは似ているという。厳しい冬の先陣を切って咲く常緑樹でもあることから、「いくつになっても魅力的」という意味がこめられた。

シャネルは朝食に何を食べるかと聞かれて、「一本のカメリア」と答えたという。シャネルにとっては、椿(カメリア)は彼女自身の生命の源であり、彼女そのものだった。 

そして、椿(カメリア)はただの花ではなく、シャネルの椿(カメリア)だという。

もはや私はこれに異論を挟むことはない。

シャネルの生涯やビジネスにおいて、ブラックドレスや香水「No.5」などについて言及されることは多いが、椿(カメリア)が注目されることはほとんどない。CHANELブランドを象徴する花という当たり前すぎる暗黙の了解があり、改めて考えるほどのことではないのかもしれない。

しかし改めて椿(カメリア)からシャネルの人生を眺めてみると、その関わりは意外にも長く、彼女が「働く女」であろうとした原点の花であり、その後、彼女の人生観、価値観を体現する花となり、それがブランドを象徴する花へと変化していった。まさにシャネルは、椿(カメリア)とともにあった人生であり、心の戦友ともいえる存在だったのではないか。

* * *

シャルトルの大聖堂やルーブル美術館、ベルサイユ宮殿などの有名な観光地を訪れたあと、友人に付き添って、ホテルリッツの向かいにあるカンボン通り31番地にあるCHANELを訪れた。道すがら、就職が決まったら、シャネルが晩年、ホテルリッツを住まいとしながら通勤したその店で黒のバッグを買うと決めていたと、友人は話してくれた。

店の中の内装はローマの店と大きくは変わらなかったが、本店であることの風格が旅行者の装いである私たちをさらに萎縮させた。それでも友人は気力をふりしぼって、定番の黒のバッグを見せてほしいとスタッフに伝えた。5分くらいして、ローマの店で見たのと同じ、ミシン縫いと職人による手縫いの両方の黒のバッグが運ばれてきた。

案内された接客用のソファーで友人が厳粛な顔で二つの黒のバッグを見比べているとき、ふと視線を店内の奥に移すと、シャネル・スーツとよばれる上着とスカートのアンサンブルがかけられていた。

気がつくとスーツの前に立っていた。ふいに引き寄せられ、自分がいつ立ち上がったのかも覚えていないくらい・・・。

目の前にあるのは真っ白なツイードのサマースーツだった。ツイードにはラメ加工された糸が織り込まれているのか、表面がきらきらと光っていた。思った以上に肩周りがゆったりとしたつくりになっていた。そのいるせいか、気品がありながらも肩肘を張ることのない、ゆとりというか余裕のようなものが漂っていた。 

すると店の扉からこれに似たようなスーツに、長いフェイクのパールのネックレスとカメリアのコサージュをつけ、黒のバッグを持った年配の女性が入ってきて、鏡ばりの螺旋階段をあがっていくのが見えた。

あれは・・・・・・いや・・・まさかね・・・

ソファに戻ると、友人が包装と会計を待っているところだった。

職人さんが手縫いした方のバッグの購入を決めたわ。

そういう友人の佇まいは、いつになく凛とした大人に見えた。



※1 CHANEL公式サイト インサイドシャネル

上記サイト内の動画は英語版。本note執筆にはフランス語で日本語字幕がついた以下の動画を参考とした。


※2 サラ・ベルナールの生涯については、主に以下の書籍を参考とした。本書は小学生向けに書かれた漫画だが、サラ・ベルナールの研究者による監修、確かな参考文献、時代背景の詳細な解説などがあり、大人が読んでもとても参考になる内容であった。ご興味を持たれた方は、ぜひ、手にとっていただきたい。


※3 「新時代と旧時代のメセナ ココ・シャネルとミシア・セール」(青柳いずみこ『ユリイカ 2021年7月号 特集=ココ・シャネル』181ページ)


※4  シャネルについては、主に※3の『ユリイカ』と以下の書籍を参考とした。特に「※◯」の注が付されていないものはこちらによる。


※5 映画『ココ・アヴァン・シャネル』


※6 「修道院時代とその影響をめぐって」(山田由賀『ユリイカ 2021年7月号 特集=ココ・シャネル』224ページ)


※7 「リトル・ブラックドレス再考」(朝倉三枝『ユリイカ 2021年7月号 特集=ココ・シャネル』224ページ)


※8  『椿姫』のストーリーについては、以下の書籍を参考とした。


2021年はシャネル没後50年ということで、上記の『ユリイカ』では特集が組まれ、同時に『ココ・シャネル 時代と闘った女』(ドキュメンタリー映画)が日本でも話題となった。すでに劇場上映、オンライン配信は終わっているようだが、機会があればご覧いただきたい。


第11回 女の生き難さを物語る花 『源氏物語』 朝顔の巻

第13回 少女と女王をつなぐ花 
    『森は生きている』(サムイル・マルシャーク)


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