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みょうがの苦味は・・・の味

スーパーの野菜売り場でみょうがを見かけるようになった。

我が家では、春先から夏の終わりまでみょうがが食卓に並ばない日はない。主に汁ものやサラダなどの薬味に使われるのだが、ねぎや大葉、パセリなどよりも頻繁に使われる。

とくにスライスしたみょうがをみそ汁に入れるのが好きなのだが、あの草いきれのような香りや独特の苦味が、食欲の落ちる夏の食事にさわやかさと涼しさを添えてくれる。

でも子供のころは、みょうがはウドのおひたし、生姜の味噌漬けに続いて、なんで食べるのかがわからない三大食材の一つだった。

* * *

学生時代、ある研究会の顔合わせの飲み会に参加した。

乾杯後には自己紹介がはじまるのだが、国内の大学、大学院から留学生を含む多くの学生が集まる大きな研究会だったこともあり、参加者たちの出身地はさまざまだった。

私自身は東京の出身で、東京近郊の在住者しかいない高校や女子大学を出ていて、親戚縁者も関東圏内に限れられていたため、九州や四国、東北、北陸、関西など馴染みのない地域、あるいは中国、韓国などの海外から親元を離れて出てきた人たちとの交流が珍しくもあり、楽しみでもあった。

宴もたけなわになってくると、それぞれのお国自慢がはじまる。その光景は、私にとっては、今でいう「ケンミンショー」というテレビ番組を観ているような感覚だったのだけれど、東京出身の先輩参加者が「これがはじまると、東京もんは話すことがなくて、肩身がせまいんだよ」と苦笑いしていた。

同じ席にいた15人ほどの中で東京近郊出身者は私も含めて2〜3名いたような気がするが、たしかに、その状況は生まれて初めてのものだった。

アウェーってこんな感じ?

サッカーで相手チームのホームグランドで試合することを「アウェー」というのが流行っていたころで、それをこんな場所で実感するとは思ってもみなかった。

あらためて同席した人たちの顔ぶれを眺めてみると、大学生かもしくは大学を出てそのまま大学院に進学してきた人たちだったが、私はいくつかの事情から社会人を2年ほど経験してから進学した。今でこそ、大学院の社会人学生は珍しくもないが、当時はそんな言葉もなくて、普通は大学卒業後に進学するものだったから、自分ひとりだけが年上のような気がした。

文学の研究会なのだが、文学に関することや文章を書くことの猛者が集まっていた。大学入学までに、全国的な新聞社が主催する作文、小論文コンクール、全国の読書感想文コンクールにおける県の代表に選ばれた人や入賞した人がゴロゴロいた。

読んでいる本も何やら難しそうで、それまでに一度も聞いたことない文芸評論家の名前や、海外からきた文学批評理論の用語が出てきたとき、アウェー感はさらに強まった。

なんか、えらいところに来てしまった・・・

いつも似たような地域の、似たような家庭環境の、似たような価値観を持つ友人たちに囲まれていた私にとっては、彼らの人柄も感性もこれまでになく個性的なものに思えた。

追加の料理や飲み物を注文するとき、好きな食べ物の話しになって、「みょうが」と答えた人がいた。

「みょうが?って、あの苦いみょうが?」

「そう。でもあの苦味というかエグミがいいんだよね。あのおくーーーのほうから出てくる苦味やエグミが、なんていうのかな・・・人生そのものだと思わない?」

完全にノックアウトされた。お国自慢も、作文コンクールの入賞も、聞いたこともない評論家も批評理論の用語も吹き飛んだ。

みょうがの苦味を人生の苦味にたとえるなんて・・・そんな人、初めてだ・・・

そもそもみょうがなんて、美味しいとか好きとかいう対象にもならないものだった。夏場の食卓にのぼるみょうがをよけていたくらいだ。母の実家にいくと、祖母が散歩しながら野原で見つけてきてみょうがを、天ぷらにするとおいしいよといって持たせてくれたが、そんなものが美味しいとか好きとか思えなかった自分がひどく幼稚に思えた。

彼女は雪国の出身で、雪が上から降ってくるだけでなく地面からも舞い上がってくるとことを教えてくれた。また、雪が口の中に入ってくるので、あまり口を開かずにしゃべるその土地の言葉は、東京もんの私には理解できないといった。

休み前に「田舎に帰るの?」ときくと、「田舎っていわないで。ふるさと、もしくは、実家といって」と言われた。

その後、私はあるグローバル企業の南アジアやアフリカ諸国の販売会社を統括する部署に勤務していた。当時、日本国内や欧米諸国とはメールでやりとりしていたが、まだこのあたりの国々とは、電話やFAXが主流だった。

海外とのやりとりは英語を使うのだが、各国現地語のアクセントや発音のくせが強くて、最初のうちは電話がかかってきても、それが英語かどうかさえもわからなかった。しばらくすると耳が慣れてきて、「これはタイだな」「これはフィリピンだな」「南アフリカだな」と見当がつくようになり、担当者に電話を回すことができるようになった。

ところがある日、何度「Pardon?」と聞き返しても、何を言っているのかさっぱりわからない言語があり、先輩に受話器を渡した。その人はじっと受話器の向こう側の言葉に耳を傾けたのち、急に日本語で話し出した。

「????」

電話を切った先輩は、「◯◯の販社からだったわよ。でも、なんでここに◯◯の販社から電話がかかってくるのかしら」と不思議がった。

「◯◯」とは、日本国内のまさに彼女の出身地、あの雪国の地名だった。

そこの部署の電話は、統括している国々の販社か社内の内線だけしかかかってくることはなかった。だから外線電話がかかってくるときは、基本、相手の言語は英語だと思い込んでいるので、まさか日本語の電話がかかってくるとは思ってもみなかった。

そんな思い込みがブロックとなって、あの地域特有の口をあまり開かずにしゃべる日本語が頭に入ってこなかったのだが、いずれにしても、彼女の予言どおり、私は彼女の出身地の言葉を理解することができなかった。

そんなことを彼女に話すと、「◯◯をバカにしてるの?」と半分怒りながら、半分笑いながら聞いてくれた。

ちょうどこの勤務の前後の年月、私は少々人生の袋小路にはまり込んでいて、ずいぶん、彼女にも心配をかけていた。なんとかそこから抜け出そうと、私は一人暮らしをはじめた。

一人暮らしをしてやりたかったことの一つが、友人たちを食事に招待することだった。早速彼女を招待した。

そのときのメニューはたしか、何かの炊き込みご飯、鳥のササミの南蛮漬け、関東風のお煮しめ、炙りガツオと玉ねぎのスライスサラダ、ハマグリのすまし汁だった。ハマグリのすまし汁には、彼女の好きなみょうがを薬味として添えた。

彼女は私がそんな料理ができるとは思っていなかったらしく、かなり驚いていたが、それ以上に、みょうがが用意されていることに驚いていた。

「みょうが好きでしょ?」

「え?なんで知ってんの?」

「あの最初の飲み会で、そう言ってたよ。みょうがの苦味は人生の苦味だって」

「え?私、そんなこといった?全然、覚えていないなあ・・・。きっと酔ったいきおいで、適当なこと、言ったんだね」

「うーん、でもこの年になって、その意味がよくわかったよ」

人生の苦味を味わって、ようやくみょうがの苦味がわかりかけていた。美味しいとか好きというのとはちがうけれど、でも、必要な味。隠し味のように料理そのものの味に奥行きを与えるものでもあれば、ほかの食材の毒を解する役割もある。

今味わっている苦味が、私の人生にとってもそうなることを祈りながら、彼女と食卓を囲んだ。

数年かけて袋小路を行きつ戻りつしながらなんとか光明をみいだしたころ、彼女は仕事の都合で西の地に引っ越していった。

仏典をベースとした文学作品の研究をしていた彼女らしく、ザ・ドリフターズがアフレコしていた人形劇「飛べ!孫悟空」の挿入歌、「ゴー・ウエスト GO WEST」を歌いながら。



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