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32 人に何かを教えるというのは

小学5・6年生の時、“日曜スポーツ”という枠で外部の監督やコーチの指導のもとバレーボールをしていた。監督とコーチからキャプテンに任命され、背番号は「1」、エースアタッカー。
試合ではサーブ権を決めるジャンケンにいつも負けるキャプテンだった😅
この頃の運動神経は人生におけるピークで、それ以降は徐々に下降していき今や無惨・・・現状、筋力はアリん子🐜並み(- -lll) ←アリん子に失礼。

どーしてもバレーボールでなければ!!ということでもなかったけど、私の周りで見つけた運動部の中で自分なりに検討した結果だった。
バスケは数名が右往左往して誰が敵が味方か分からないしカラダ同士が近いのがイヤだった。

お願いっ!離れて!!😱

目が悪かったから卓球とかテニスは「あんなちっちゃい球なんて見えない😥」と却下。

急にボールが目の前に!!😵

アメフトとかラグビーとか相撲とか柔道とか、、私は絶対にできない😱カラダがピタッとくっつく…😓
絶対にイヤだ!!!
その点、バレーボールはコートが仕切られているしカラダ同士が基本離れててモミクチャにならずに済む。他人とある程度距離が保てて、ボール以外カラダに触れてこないスポーツがバレーだったからこれに決めた。案の定、快適だった😌
スポーツをやると「あの人の波動が…」とか「パーソナルスペースが…」とか言えない。ある程度、そーゆー感覚は麻痺させないとスポーツすら楽しめないということ。

触れずに“一本!”とか不可能??

実は私がスポーツを楽しめないのも、そーゆーことが含まれる。他には「争うことが超キライ」「勝ち負けに興味がない」とゆーこともある。だから大人になってもスポーツはあまり見ない。見たとしても、お得意の「ヒト観察&エネルギー読み」をしてしまうだけ。昔はまーまー生きづらかったけど、なんか近頃はそんな自分がおもしろくなった。

ぼーっとするのが好き。

***

小学6年生、バレーボールの練習中。
ある日、コーチから指摘された。

「アユミ、アタック打つ時のステップ
 おかしくない?踏み切りの足が逆!」

言葉で説明が難しいので細かいことは割愛するけど、どーやら私は他の人のそれとは違ってジャンプする時、踏み切る足が逆らしい。でも、今までアタックを打てていた。エースだったし。

その日から、私の意識に邪念が入り込んだ。
セッターからトスをもらう瞬間「右…、左…、右左、ジャンプ…」とコーチから言われたステップの順番を頭の中で唱えるようになってしまった。

すると、今まではカラダが勝手に反応できてたのに、ベストなタイミングでスタートできなくなった。カラダが固まってしまってトスを見送ったり、タイミングが合わずアンダーで相手コートに返すことが多くなってしまったのだ。
さすがにコーチもそんな私の変化に気づき責任を感じたのか、
「ごめんごめん。もとに戻してええよ。」と言ったけど、時すでに遅し。ステップはもとに戻したけど、目に見えない鎖(くさり)がカラダを支配し、違和感が芽生え、それと共にヤル気が無くなってしまった。うまく言えないけど、楽しくなくなってしまったのだ。

子どもの私でもなんとなく分かった。
私の“繊細な感覚”がコーチのひと言によって歪んだ。そしてコーチへの信頼感まで損なわれた。
私にはそのくらい大きな出来事だったのだ。
当時は、今みたいに言語化できなかったから、自分に何が起こったのかを説明できなかった。
だけど湧き上がったのに処理できなかった感情は、今やっと昇華できた。


自分の中の「エゴ」に向き合ったり、「思い込み」や「観念」の手放しを行っていくと気づくことがある。
良かれと思って人に何かを教えるということは本当に慎重にならなければいけないということ。
自分の“観念”を押しつけるだけになる場合が少なくない。
人の意識は不思議。
何かを知る前と後では、まったく世界が異なる。
ほんのちょっと足した絵の具でも、途端に濁った色合いに変化することはある。もう元の繊細で鮮やかな色には戻らないこともあるのだ。

うさ子のパレット🎨は、うさ子だけの色♡

人は“じぶん色(いろ)”のメガネでモノを見、それによって潜在意識を創り現実を映し出している。あらゆる現実は、自分の“観念”で出来上がったものだから他人にはほぼ適応しない。

“指導”、“教育”、“矯正”、“洗脳”…、なんとなく私にとっては同義に思える。つまり「向かわせたい方向に誘導する」ことを潜在的に喚起させていく行為に思う。悪意があっても、無くても結局同じこと。
それを受けて、“違和感”を持ったり、“モヤモヤ”したりするならまだ良いほうで、何も気づかず「眠り」や「闇」の意識に着地させられていることも少なくない。だからこそいつも自分軸で思考し、意識を外側に持っていかれてはいけない。

「社会」「学校教育」「スポーツ」「会社」「家庭」…
あらゆる場所で、私たちは外側から麻酔💉を注入されている。「覚者」と言われるような人でも気を抜くと、すぐこうなる→😪

だからといって、“教わる”“知る”“学ぶ”ということをやめたほうがいいというわけではない。むしろその逆だ。必要な知識を「知る」ことは重要。
地球ならではの環境で“違和感”に気づき、自分なりに分析し、不要なものを手放していく。
子どもの当時に、こんなに言語化出来ることはあまり無いけど、気をしっかり持って大人になってからそれが可能なように子どものうちに「材料」を集めたと思えばいい。
つまり覚醒への道は一生続く。

人生、楽ありゃ苦もあるさ。

Ayumi☽

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