マガジンのカバー画像

日々のつぶやき

65
1行日記みたいなもの。
運営しているクリエイター

#映画

アメリカンコミックとディズニー・ピクサー映画はしばらく必要ないと割り切ると、映画を気楽に見られると気がついたので、しばらくはいい気分でいられそうな予感。個人的にはスターウォーズももう要らない。

製作者の方には心から祝福したい気持ちはあるのだけれども、アメリカ映画業界のお祭りで「外国映画」が賞を獲得するのはいかがなものかと思うのは、自分がたぶんにハリウッド映画に感化されてきたからなのだろう。アメリカ映画、特に娯楽映画はなお一層奮闘努力せよ。

映画館を年4回利用したら「映画ファン」に認定されると聞いたが、同じ映画を4回見た人も同様なのか気になるところではある。「私、映画ファンなんですよ」と一本の映画を滔々と語る、それはそれで面白いとは思うが何かが違うとも思うわけで。

「アバター2」の不振をもって洋画の低調を嘆く論調には、それだけではないという反論も可能ではないか。「泣ける」「推し」目当てに劇場へ行く観客に多様な価値観を受け入れる土壌が育っているかどうか、そのことを一度真剣に考えてみるべきではないだろうか。

21世紀の3D映画は「アバター」(2009)に始まって終わるという結論を残して収束しそうな感じである。画面内に入れないという映画の「お約束」に真っ向から異議を唱えた試みは残念ながら定着しそうもないことは、同業他社の作品を見れば明らかであり、ごく自然な結末のように見える。

同じ映画を複数のスクリーンで公開するシネコンの飽和攻撃?により、映画館で見る映画が無くなる現象に見舞われている。ベルトコンベアー式で運ばれてくる話題作、人気作など一回見ればたいてい「十分」なのだから、もっと他の作品を満遍なくプログラムに組み込むべきだ。「作品」はコンテンツではない

インド映画の過剰なサービス精神が「余計な回り道」に思えるようになったら、たぶん感性が鈍ったということでそれはそれでいいとして、3時間あったら「コマンドー」(1985)が2回見られると考えるとコマンドーより中身がないインド映画にそれだけ時間を取られるのも全くもって本意ではないので。

「映画の倍速再生」で稼いだ時間を別の動画再生に注ぎ込む現代人が「音楽」でも同じことをしているかどうは寡聞にして知らないが、理屈としては十分あり得るはず。倍速再生の是非を論じるならこの点を明確にした上で行なうべきであると思うが如何なものか。

「倍速で映画を見る」くらいなら、何も見ないで映画を語るくらいの努力はしてほしい。「時間の芸術」である映像作品で「速度を変えて見る」行為がどれほど野蛮で的外れなことなのか、なぜ最後まで見なければならないのか。学校で教えてくれないことは自分で考えるしかないということだ。考えて、悩め。

安心して泣ける映画と聞いて、やはり映画を見て「泣く」のは恥ずかしいことなのだと再認識したところで、あなたにとって「泣ける映画」とは何なのか?と問いかけた時にどんな答えが返ってくるか。なかなか興味深いタイトル名が上がってくると思うのだがどうか。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(2021)は、通過儀礼の物語。引き返すことは今なら可能なので鑑賞はあくまで自己責任で。「大人になれよ」という旧作からの宿題に真っ向から取り組んだ、全てのエヴァファン必見の映画ではある。

「風の谷のナウシカ」(1984)のリバイバル上映は「マスクをつけて鑑賞する」という映画館のルールが、期せずして劇中設定(腐海の掟うんぬん)と合致する臨場感と緊張感を生むユニークな体験となっている。文字通りお金を払ってでも味わいたい劇場の経験としてひろくお勧めしたいところである。

「ランボー:ラスト・ブラッド」(2019)は同タイトルの5作目にあたるアクション映画である。常に強大で巨大な敵に闘志を燃やす孤独の戦士ランボー氏の最後の戦いが、私怨の復讐劇などで良いはずはなく見ていて違和感だけがつきまとう。タイトルを間違えたのではないかというくらい残念な作品だ。

「ドクター・ドリトル」(2020)は典型的なハリウッド大作映画で、語るべき何物もない空虚な内容だが現実逃避が切実な状況下ではむしろ好ましい作品のように思える。クライマックスがまさかの下ネタ(うんこチンチンの類)なのでファミリー向けとは言い難いが気軽に見る分には問題ないだろう。